2020年3月30日月曜日

復活の再会の希望は、死の別離の悲しみよりも深い (吉村博明)

聖書の解き明かし 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

本日の聖書の日課に基づく教え 2020年3月29日(四旬節第五主日)

エゼキエル書37章1-14節
ローマの信徒への手紙8章6-11節
ヨハネによる福音書11章1-45節


題 「復活の再会の希望は、死の別離の悲しみよりも深い」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の日課はヨハネ11章のイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡を行ったことについてです。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあり、例えば、シナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ71117節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大抵は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神ということになります。

キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」というものがあるからです。

復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの日に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったものである、それが神に再び新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途轍もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

ここで注意しなければならないのは、イエス様が生き返らせた人たちは本当の意味での「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。イエス様が行った生き返らせの奇跡は、みんなまだ肉体がそのままなので「復活の体」ではありません。「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われてました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、みんな生き返らせてもらったけれども、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

ここで一つ脱線します。本日の個所で「4日経っている」とか「2日滞在された」と時間の経過が言われています。それが、本日の個所で難しい9節と10節の説きあかしに関係すると思いました。イエス様はどんな時間配分を考えて動かれたのか?まず、イエス様がおられた所とマリアとマルタがいた所はどれくらい離れていたか考えます。イエス様がおられてところはガリラヤ地方と考えられますが、どの町かわかりません。同地方でイエス様が本拠地にしていたカペルナウムとします。マリアとマルタがいたベタニアはエルサレムの近くとありますので、カペルナウムからエルサレムまでの距離をみてみます。グーグルマップで163キロと出ました。電車で3時間4分、車で2時間8分だそうです。徒歩だと35時間。イエス様は9節で、日中に歩くことが大事であることを言います。それが12時間分あるとも言います。そうすると、ガリラヤ地方からユダヤ地方まで歩いて3日かかったことになります。ラザロが死んで葬られてから4日経ったときに到着したので、イエス様は埋葬の翌日に出発したことになります。そうすると、ラザロの病気の知らせを聞いたのはその2日前となり、マリアとマルタの使いがベタニアを出発したのはその3日前となります。

大体、以上のような時間的地理的な状況が浮かび上がります。9節と10節でイエス様が日中歩くことを言って、埋葬後4日を超えないように出発を決めたということがわかります。9節と10節を見ると、そういう具体的な事柄に関してだけでなく、「この世の光」とか「人の内の光」という別次元の事柄も含まれています。イエス様はよく、具体的な事象に結びつけて霊的、信仰的なことを教えました。たとえの教えです。9節と10節もたとえの教えであることがわかります。そこで言われている霊的、信仰的な教えは何かということは、また別の機会に譲ることとします。

イエス様のこのラザロの生き返らせの奇跡についてわかりにくいことがあります。イエス様がこの奇跡を行ったそもそもの動機は何かよく見えてこないのではないでしょうか?4節で、ラザロの病気は死で終わらない、神の栄光が現れるため、イエス様が神の子としての栄光を現わすため、などと言います。15節では、「私は、ラザロが死んだとき彼のところにいなかったことを喜ぶ。そうしたのはお前たちのためだったのだ。つまりお前たちが信じるようになるためにそうしたのだ」と。42節でも、周りにいる人たちがイエス様のことを神に遣わされた者と信じるため、などと言います。他方で、イエス様はラザロが重病で死にそうだとの知らせを聞いた時、すぐ助けに行きませんでした。イエス様は無数の難病を癒す奇跡を行った方です。ラザロの病気も治せたでしょう。それなのに2日間もどこかで油を売って、まるで死ぬのを待っていたみたいです。人々がイエス様のことを神の子と信じられるようにするために、ラザロにちょっと死んでもらったということなのでしょうか?そんなのありかと思われるかもしれません。逆に、どうせ生き返らせてもらったんだから、よかったんじゃないかと言う人もいるかもしれません。イエス様はなんのためにこの奇跡をこのようなやり方で行ったのか?本説教では少し検証してみようと思います。

2.

ここではイエス様とマルタの対話がカギになると思われます。そこには驚くべきことがいろいろ言われているからです。そこで、対話の内容を注意深くみてみます。

イエス様がやって来たと聞いてマルタはマリアを家に残して会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?生き返らせの奇跡をするためにイエス様はわざと到着を遅らせてやって来たのです。果たして、「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言いました(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」で今すぐ再会できるのと比べると実感が沸きません。

そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。

「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、真の復活や永遠の命は私のところにあって他のところにはない、それゆえ真の復活や永遠の命を与えることが出来るのは私しかいないという意味です。

それではイエス様は誰に真の復活と永遠の命を与えるのでしょうか?次にその答えが来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる者は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりを失わず、復活の日に永遠の命そのものを手にすることが出来ます。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのはどういうことでしょうか?イエス様の何を信じることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そういうことが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにして聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

これに対するマルタの答えは驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず第一にマルタはイエス様がメシアであることを復活や永遠の命と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の軛から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。そのため、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと言わんばかりに背をむけてしまったのでした。しかし、メシアの本当の意味は特定の民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もされるようになっていました。そうした理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に埋もれがちでした。そのような中でも、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

もう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることをマルタが「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここの動詞は現在完了形πεπιστευκαなので、「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとっても大事なことです。どういうことかと言うと、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えで、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の縁遠い話にしか聞こえません。

しかしながら、復活には、死が持つ引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとするものがあって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということを見据えます。その神の意思に反しようとするものが罪ということになります。人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。その意味でもイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからはイエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを頂くことになります。頂いた罪の赦しに人生を方向づけられて歩んでいくことになります。その時、目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵にしかすぎません。この世で罪の償いと赦しから離れずにしっかりとどまっていれば神との結びつきは保たれます。この結びつきを持って生きていけば、死は私たちの復活到達を妨害できません。

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてはイエス様を救い主と信じる信仰にしっかり留まることだけです。

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

イエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせたので、それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎず、復活の日が来たら、タリタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

以上、ラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、イエス様は復活であり永遠の命であることを示したのでした。

3.

最後に、イエス様はこの目的のためにラザロを死なせて姉妹に悲しい思いをさせたことを何とも思わなかったのか?もちろん、これをすることで私たちが死を超えた強い希望を持てるようになったとわかるし、ラザロも生き返らせてもらったので文句なしと思われるかもしれません。でも、イエス様という方は目的遂行のためなら誰かを泣かせてもいいという方なのか?本日の個所をよく見ると、そういうことではなさそうです。

マルタとの対話が終わるとイエス様は今度はマリアを呼んできなさいと言います(28節)。マリアがやってきました。大勢の人たちも一緒にきました。イエス様の周りをマリアを中心に多くの人が取り巻いています。みんな泣いています。これに対してイエス様はどう反応されたでしょうか?新共同訳では「心に憤りを覚えて」とありますが、何を怒ってしまったのでしょうか?実は、ギリシャ語の原文ではこの部分は「心が動揺した」とか「心が揺り動かされた」とか「気が動転した」とか「感動した」などとも訳せるところです。実際、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書もそのような訳をしています。どこもイエス様が怒ってしまったとは訳していません。私もそっちの方がいいと思います。どうして「憤りを覚えた」などと訳したのか?おそらく、イエス様はこの時、人々が復活も彼の力も信じないことに呆れかえってしまったのだと受け取ったのかもしれません。でも、人々が悲しみに打ちひしがれて泣いている様子を見て、イエス様も泣いてしまうのです(35節)。これは、信じてくれないことに対する悔し涙なんかではないでしょう。本当に人々の悲しみを間近にして、心が動揺して共感して泣いたのです。ヘブライ415節の聖句と照らし合わせて見ても、そのように受け取るのがピッタリだと思います。

「この大祭司(イエス様のこと)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

私たちに死を超えた復活と永遠の命を与えることが出来る途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2020年3月23日月曜日

事実を曲げずに真実を守る者が受ける報い (吉村博明)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年3月22日 四旬節第四主日

サムエル記上16章1-13節
エフェソの信徒への手紙5章8-14節
ヨハネによる福音書9章1-41節

説教題 「事実を曲げずに真実を守る者が受ける報い」




 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事ですが、実は多くのことを私たちに教えています。それがわかるようにこの個所を注意深く見ていきましょう。

イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰なのか、という質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰の観点では、人間は母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいます。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれてきたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けないで済んだことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく別の者、例えば親が犯した罪がそれなのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何か?本日の個所を読めば、ああ、それはイエス様がその人の目が見えるようにする奇跡の業を行ったことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?本日の個所は実は、そうではないことを教えています。本日のテキストのギリシャ語の原文を見ると「神の業」は複数形(τα εργα)です。なので、癒しの他にも「神の業」がいろいろあることを示唆しています。人間誰でも、病気や障害が治ることに関心が集中してしまい、それが「神の業」に値するものと思ってしまうでしょう。しかし、男の人にとって神の業とは、目が見えるようになるという癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。それを本日の説教で明らかにしていこうと思います。

2.男の人の事実と曲げず真実を守る態度

イエス様はどのようにして癒しの奇跡を行ったでしょうか?まず、地面に唾を吐いて土を混ぜて粘土状にしたものを男の人の目に塗りつけました。ちょっと汚い感じがしますが、イエス様は今度は、それを池で洗いなさいと命じます。男の人が言うとおりにすると、目が見えるようになりました。イエス様は既に無数の癒しの奇跡を行っています。そんな彼なら一声、「目よ、開け!」と言えば開いたはずです。なぜそんなまわりくどいやり方をしたのでしょうか?それは、その日はちょうど安息日で、ユダヤ教の戒律では仕事をすることが禁じられていた日でした。癒しを行うために粘土状のものを作ってそれを洗わせたことが仕事をしたことになって安息日を破ったことになるのかどうか、そういう議論が宗教エリートのファリサイ派の人たちの間で起こりました。これでイエス様はなぜ粘土状のものを作ったかがわかります。議論を引き起こすことで、この出来事を単に癒しの奇跡の出来事にとどめないで、もっと大きなことを引き出すためだったのです。その大きなことが神の現わす業だったのです。それを本説教で明らかにしていきます。

男の人が見えるようになったことは、周囲にセンセーションを沸き起こしました。どのようにして見えるようになったのかと聞かれて、イエスという名の男が粘土状のものを作って目に塗って、それを洗うように言った、それでその通りにしたら見えるようになったと説明しました。これを聞いた人たちは、この出来事をどう考えたらいいのか、神の良い意志が働いたのか、それとも安息日を破ったことになるのか、宗教エリートの判断を仰ごうと男の人をファリサイ派のもとに連れて行きました。そこでも男の人はどのようにして目が見えるようになったのかと聞かれて、群衆に答えたのと同じことを話しました。

ファリサイ派の間で意見が分かれました。彼らの中には、イエスが罪びとならば神の力が働くはずはなく、こんな奇跡を起こせないはずだ、とイエス様が神から送られた方であることを信じられるという感じになった人もいました。しかし、大勢は、安息日を破った以上は神から送られたなどはありえない、という否定的な意見が支配的になったようです。イエス様のことをなんとしてでも神と何の関係もない、安息日を破った罪びとの烙印を押したい。しかし、目の見えない人の目を見えるようにするという奇跡を行ったのは、どう説明できるのか?神の力が働かないでそんなことは起こるはずがない。そこで、彼らにとって大事なポイントになったのは、そんな奇跡は本当はなかったのだ、あの男は見えるようになったと主張しているが実は見えなかったということはなかったのだ、それを確認すればよいということになりました。それで両親が呼び出されました。

 「あの男はお前たちの息子で本当に生まれつき目が見えなかったのか?」「はい、その通りです。あれは私たちの息子で生まれつき目が見えませんでした。」ファリサイ派はがっくりきたでしょう。そうなれば次のことを聞くしかありません。「それならば、どのようにして目が見えるようになったのか?」両親はイエス様が奇跡の業を行ったことは知っていました。しかし、それを言ったら、宗教エリートたちは自分たちをシナゴーグつまりユダヤ教の会堂から追放してしまいます。そうならないために両親は、誰の力で見えるようになったか全然知らない、とウソをつきました。その点については息子に直接聞いて下さい、成人年齢に達しているので彼の発言は有効です、私たちが彼に代わって申し上げる筋のものではありません。両親はこのように自己保身に努め、息子のために弁護の証言をすることを拒否しました。

さて、ファリサイ派はなんとしてでも、イエス様が神の意思に反する罪びとであり、神由来の者なんかではない、ということを確定しなければなりません。そこでもう一度男の人を呼び出して尋問します。彼の両親は思ったことでしょう、息子よ、いい加減なことを言ってしまいなさい、そうすれば共同体から追い出されないで済むんだから、と。しかし、息子は両親とは異なる道を行きました。ファリサイ派が彼に聞きます。「神に栄光を帰せよ、我々はあの男が罪びとだとわかっている。」「罪びと」というのは、イエス様が神から送られた者ではありえないということです。「神に栄光を帰せよ」と言うのは、我々の見解に従え、それが神を名を汚さないことであり神に栄光を帰することだ、ということです。神を引き合いに出してそんなことを言うのは、もう脅迫です。それに対して男の人はどう応じたでしょうか?ここからが大事です。注意して見ていきましょう。

ファリサイ派はイエス様をなんとしてでも罪びとに仕立て上げたい。彼らに対して男の人は次のように応じました。自分はイエスが罪びとかどうか知らない。ただ、確実に知っていることがある、それは以前目が見えなかったのが今見えるようになったということだ。「イエスが罪びとかどうか知らない」というのは、イエス様を弁護していないみたいで頼りない答えに聞こえます。しかし、これは、男の人が癒されたのはイエス様を信じて癒されたのではなかったことによります。どういうことかと言うと、多くの人たちの場合は、まずイエス様が奇跡を起こせる方と信じて彼のもとに出かけて行ったり連れて行ってもらったりして癒してもらいました。みな癒しの後でイエス様を賛美したでしょう。ところが、この男の人の場合は、見も知らぬ男から湿った土を目に塗られて洗いに行けと言われて洗ったら見えるようになったのでした。一体この方は何者なのだ?最初頭に浮かんだのは「預言者」でした(17節)。しかし、それ以上のことはこの段階ではわかりません。この段階でわかっているのは、以前は目が見えなかったが今は見えるようになったという否定できない事実だけでした。ところが、イエス様についてわからなかったことがこの後で次第にわかるようになっていきます。どのようにしてそうなったのかを見てみましょう。

目が見えるようになったのはイエス様が行った奇跡のおかげだとファリサイ派は言われてしまいました。そうなるとまた同じ質問を繰り返す他ありません。「その男はお前に何をしたのだ?どのようにしてお前の目を開けたのか?」それに対して男の人は呆れかえってしまいました。真実を語っているのにそれを受け入れようとせず何か別のものに仕立てようとしていることを見て取りました。男の人は言い返します。「それについて私は最初の尋問の時にもうお話ししたではありませんか。なのに私の言ったことはあなたたちの左の耳から右の耳に素通りしてしまったようです。」男の人のテンションが少し上がります。「聞き入れなかったのに、なぜまた同じことを聞くのですか?あの方がどんな方法で目を開けられたのか、そんなに知りたがっているというのは、まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?(後注1)。これには当然、ファリサイ派は激怒します。「お前がそいつの弟子だ!我々はモーセの弟子だ!」「神はモーセ律法を通して教えているのだ(後注2)。その律法を破るあの男は神と何の関係もない。我々の知らないところから来たのだ。」 

 ここでファリサイ派は自分たちの旧約聖書の理解には不足があることを暴露してしまいました。というのは、旧約聖書のイザヤ書を繙くと、神の僕と呼ばれる者が人間の目を開ける業を行うという預言があります(427節)。それに照らせば、目を開ける業は神のお墨付きの業であり、それを行うのは神由来の者であるのは明白です。それをファリサイ派は否定するのです。これに男の人が驚いてしまったことは次の言葉から見て取れます。「私の目を開けたというのに、その方が何に由来するのかわからないなどとは驚きです(ヨハネ930節)。」男の人はシナゴーグの共同体の一員だったので、その礼拝に出ていれば、イザヤ書の預言は聞いて知っていたはずです。見えない目を開ける業を行う者は神由来であるということが旧約聖書の預言から明らかである以上、イエス様のことをそうではないと言い張って、それを認めさせようとするファリサイ派にもうついていけません。激しい応酬の後で彼は見事、共同体から追放されてしまいます。最初、男の人はイエス様が罪びとかどうか知らないと言っていたのですが、ファリサイ派とのやり取りのおかげで、イエス様が神由来の方であるという理解に近づくことができました。

その後でイエス様が近づいてきました。男の人は今は目が見えているのでイエス様を目の前にしています。声は覚えていたでしょうから、男の人は心臓をどきどきさせていたでしょう。どんなやり取りがなされたでしょうか?イエス様は、男の人の目を開けてやったということには一切触れずに、少し唐突な質問をします。「お前は『人の子』を信じるか?」「人の子」とは、ダニエル書に出てくる、終末の時にこの世に現れる救世主を指します。唐突な質問でしたが、男の人は素直に聞き入れて自分の思いを述べます。「人の子」を信じられるためにはそれが具体的に誰なのか知りたい、と。イエス様は自分がそれであると証しします。男の人は目の前におられる方が自分の目を開けた方だと知っています。そして、旧約聖書には神が遣わす僕が人の目を開けるという預言があります。男の人はイエス様自身の証しを受け入れました。それを受け入れられたのは、もちろん目を開くという預言が自分自身に起きたことがあります。しかしもう一つ忘れてはならないのは、ファリサイ派とのやり取りを通して、事実を曲げず真実を守ろうとする心が強められたことです。

3.肉眼の目だけでなく霊的な目も開かれるということ

男の人の信仰告白の後で、イエス様は周りにいる人たちに聞こえる声で驚くべきことを言います。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが見えなかったのであれば罪はなかったのだが、お前たちは「見える」と言うので、罪がお前たちに留まっていることになるのだ、と。これはどういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それがわからないといけません。少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。ユダ王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰を委ねます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、ということでした(イザヤ6910節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚の器官を不調にするということではありません。そうではなくて、神のことが見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目、耳が塞がれてしまい、神が遠い存在になってしまうことを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きました。「主よ、いつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(611節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々が連れ去られ、残った者も大木のように倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(1113節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない耳が聞こえない状態になるのだ、と。逆に言えば、その切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生となります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

まず、紀元前700年代にユダ王国の兄弟国イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残ったユダ王国はすんでのところで帝国の攻撃を退けますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となったペルシャ帝国の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書を見ると、祖国帰還を果たす民に対して神が遣わす僕がその目を開き耳を開くという預言が出るのです(イザヤ書427節、5045節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後も他民族が支配するという状況が続きました。国内を見渡しても、神の意思に従った生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそうした状況があったことを表わしています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(6317節)」祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。イザヤ書の真ん中へんでは、民の目と耳が開かれる預言が祖国帰還の実現と結びつけられて言われているように見えたのが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。そんな時、イエス様が登場しました。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!旧約聖書を繙いていた人たちは、目や耳を開ける預言はもちろん霊的な目と耳のことだとわかっていたでしょうが、ここまで具体的にやられて自分たちもそれを見てしまったら、これはもう受け入れるしかありません。イエス様の目や耳を開ける奇跡は後に起こる霊的な目と耳を開けることの前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしました。イエス様は、人間が神の意思に反する罪を人間に代わって背負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けられて死なれました。それは、人間が罪の重荷を背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。一度死なれたイエス様は今度は神の力で復活させられました。これにより死を超えた永遠の命があることが示されました。そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを得られて神の子とされます。そして、神との結びつきを持てて復活を目指してこの世を生きることになります。万が一この世から死ぬことになっても、復活の時に今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠にいることができるようになります。この世でその人は、十字架に架けられたイエス様と、彼が葬られた墓が空っぽになっていたことが肉眼ではない、別の目で見えているのです。その人は、聖書を繙く時、神が語りかけているのが別の耳に響くのです。このように霊的な目と耳はイエス様の十字架と復活によって開かれたのです。

そこでファリサイ派の問題点は何かと言うと、霊的な目を持っていないのにそれがあると思っていることでした。そうなると、イエス様によって目を開けてもらう必要がなくなってしまい、それでは罪の赦しも得られなくなってしまいます。逆に霊的な目を持っていないと認めることが出来れば、すぐイエス様に開けてもらう道が開けます。霊的な目を開けてもらえれば、罪の赦しの中で人生を歩めるようになります。ないのにそれを持っていると思っていることが問題だったのです。このことをイエス様とファリサイ派のやり取りは言っています。

4.おわりに - 三つのポイント

以上、生まれつき目の見えない男の人の癒しの出来事には本当に大事なポイントがいろいろあります。以下まとめとして三つのものをあげてみます。

まず、人が何か病気や障害を背負って生まれてきても、キリスト信仰はそれを何かの罰とかたたりとか見なさず、神の業が現れるためのものにしてしまうということ。その業とは癒しの奇跡の場合もあるが、それが唯一のものではない。イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで霊的な目と耳を持つこともある。それは癒しの奇跡に比べたらあまり意味がないことに見えるかもしれないが、実は復活の日に朽ちない体と永遠の命を与えられるという、まさに癒しの癒しに与れるのである。

次に、イエス様をまだ救い主と信じていない時でも、男の人の肉眼が開かれるような信じられないことが起きる。その後で男の人は出来事の意味をファリサイ派とのやり取りを通して深めていきました。そもそも神は私たち人間の造り主なのですから、全ての人間を導いて下さろうとしているのです。そのことに気づけるようにすることが大事です。

三つ目、男の人が事実を曲げずに真実を守る態度を貫いたことが何を意味するか?ヨハネ12章を見ると、最高法院の議員たちの中にもイエス様を信じる者が多かったが、ファリサイ派を恐れて信仰を公けに言い表さなかったとあります。どうしてかと言うと、神が与える名誉よりも人間が与える名誉の方を大事にしたからだ、と。キリスト信仰の観点では、神が与える名誉の方が価値があるので、事実を曲げたり真実を汚したりしてまで人間的な名誉や利害にしがみつく必要がなくなります。そもそも十戒の第8の掟は「偽証するな」です。加えて、キリスト信仰は罪の自覚を持つ信仰です。自分の不都合なことも神の前で包み隠さず認めることが基本なので、事実を曲げても無駄だとわかります。本日の旧約の日課でも言われているように、人間は外見を見るが神は心を見るのです(サムエル上167節)。事実や真実の下に自分を位置づけていると言っても過言ではありません。男の人は共同体を追放されてしまいましたが、事実を曲げて真実を汚す共同体なんかに留まっても不健康で救いがありません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注1新共同訳では27節は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」ですが、このμηで始まる否定疑問文は否定の答えを導く疑問文です。「なりたくなんかない!」という答えを期待する疑問文ですので、それで「まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?」がよいと思います。
(後注229節のΜωυσει λελαληκεν ο θεοςは直訳すれば「神がモーセに語られた」ですが、動詞は現在完了なので、神は過去の時点から現在までモーセに語っていることになります。現在も語っている状態があります。でも、モーセはこの世にいないのでそれは少し変です。これは、1)今モーセは復活の日を待たずにして天のみ神のもとにいて、そこで神が彼に語っているという、モーセが天にいることを言い表しているのか、それとも、2)「モーセ」というのは「モーセ律法」のことで、神が律法に語っている、つまり律法は神の声を今も反映しているということが考えられます。本説教では2)にしました。

2020年3月16日月曜日

聖霊は試練を希望に転化する (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年3月15日 四旬節第三主日

出エジプト記17章1-7節
ローマの信徒への手紙5章1-11節
ヨハネによる福音書4章5-42節

説教題 「聖霊は試練を希望に転化する」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.      「生きた水」と「別の者の労苦」は何をたとえて言っているのか?

 本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られた話の一つではないかと思います。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の内で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の内に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪う、美しい描写ではないかと思います。

本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、その労苦を分かち合うなどと言います。もし、このたとえを家ではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」というものにたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょう?美しい描写にうっとりして、それではそれは何を指していますか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいことです。たとえにはそういうことがよくあります。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すかみてみましょう。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。


2.父とみ子の労苦を受け取る者は実を豊かに実らせる麦のようである

まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。そこの住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して、交流を避けていたのです。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。

イエス様一行は、サマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記4822節、ヨシュア記2432節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みに井戸までやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど忘れてしまいました。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が理解していた意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉はいろんな意味が込められていたからです。その辺の事情は本説教では深入りしません。(ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは注目に値します。)

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注意します。そこのところのイエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

実は、イエス様が目を上げて見よと言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。そこで井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということです。これは、将来起こるべきことを先取りしているのです。何かと言うと、使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出るということです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記載された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。

イエス様は、自分にとって食べ物とは神の意思を行い、神の御業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子である自分が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらに死から復活させられることで死も死をもたらす罪も滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことを指しています。自分にとってその使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように大事なことだと言うのです。

 それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっています。これは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いを成し遂げたことを指しています。父とみ子の労苦です。それについて弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを迫害にも屈せず命がけで証言し、記録に残し伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。


3.聖霊を注がれた者は内に泉が湧き出でて水は永遠の命を目指して流れゆく

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ここで、ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時、たいてい特別な意味が込められていることに注意します。それは、「生きる」とか「命」は今の世にあるものだけでなく、今の次に来る世の「生きる」や「命」もあって、今のものが次に来るものに繋がっているという「命」であり「生きる」です。それで、「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えた次の世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」ということになります。

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池になったりしますが、それは泉とは言えません。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。何か命の理念を感じさせます。でも、これは具体的にはどういうことでしょうか? イエス様の与える水が飲んだ人の内にこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えのカギがヨハネ73739節にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしているについて言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、がまだ降っていなかったからである。

ここで言われているとは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることを示されました。それが神の栄光を受けるということです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられるという出来事があり、それ続いて聖霊がこの世に降るという聖霊降臨の出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。サマリアの女性に言ったことと同じことを言っています。イエス様が与える水とは、十字架と復活の出来事の後この世に下って来る聖霊を意味するのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が沸き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうことが起こります。心の奥底まで、神の意思に完全に沿えることが出来ない自分に気づかされます。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けることです。まさにここで、洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来ます。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。そのことをお前は信じてわが子イエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうとします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持つことができ、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得られてこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるのです。


4.聖霊は試練を希望に転化する

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神との間に一種の戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立つことができるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。神との平和な関係をお恵みとして頂いていれば、私たちに降りかかる試練さえも誇りに思うことができるとさえ言います(3節)。どうしてそんなことが言えるのかというと、神との平和な関係に一度入った以上は、試練は忍耐をもたらすことになり、忍耐は動揺しない自分をもたらすことになり、動揺しないことは希望をもたらすことになるからだ、と言います(34節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化されてしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊が私たちの心に神の愛を注いでくれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛はかわらずしっかりあると示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は同じように神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるということをもっと自覚しましょう。人によっては、強められる希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、などと言う人がいるかもしれません。しかし、希望がこの世に関するものだけだなんて、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望を持てて、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

試練よ、来るなら来てみろ、
私は、主イエスを救い主と信じる信仰により、神から義なる者とされて神との間に平和を得ている。
だから、お前が来ても、復活の希望を強めることにしかならないのだ。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


後注1Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”
(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ52節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5111節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。
大体、以下のような感じになります。
δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην 
イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている
εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.
このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって
ου μονον δε,
誇りにしているのはこのお恵みだけではない、
αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。