2020年3月23日月曜日

事実を曲げずに真実を守る者が受ける報い (吉村博明)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年3月22日 四旬節第四主日

サムエル記上16章1-13節
エフェソの信徒への手紙5章8-14節
ヨハネによる福音書9章1-41節

説教題 「事実を曲げずに真実を守る者が受ける報い」




 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事ですが、実は多くのことを私たちに教えています。それがわかるようにこの個所を注意深く見ていきましょう。

イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰なのか、という質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰の観点では、人間は母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいます。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれてきたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けないで済んだことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく別の者、例えば親が犯した罪がそれなのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何か?本日の個所を読めば、ああ、それはイエス様がその人の目が見えるようにする奇跡の業を行ったことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?本日の個所は実は、そうではないことを教えています。本日のテキストのギリシャ語の原文を見ると「神の業」は複数形(τα εργα)です。なので、癒しの他にも「神の業」がいろいろあることを示唆しています。人間誰でも、病気や障害が治ることに関心が集中してしまい、それが「神の業」に値するものと思ってしまうでしょう。しかし、男の人にとって神の業とは、目が見えるようになるという癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。それを本日の説教で明らかにしていこうと思います。

2.男の人の事実と曲げず真実を守る態度

イエス様はどのようにして癒しの奇跡を行ったでしょうか?まず、地面に唾を吐いて土を混ぜて粘土状にしたものを男の人の目に塗りつけました。ちょっと汚い感じがしますが、イエス様は今度は、それを池で洗いなさいと命じます。男の人が言うとおりにすると、目が見えるようになりました。イエス様は既に無数の癒しの奇跡を行っています。そんな彼なら一声、「目よ、開け!」と言えば開いたはずです。なぜそんなまわりくどいやり方をしたのでしょうか?それは、その日はちょうど安息日で、ユダヤ教の戒律では仕事をすることが禁じられていた日でした。癒しを行うために粘土状のものを作ってそれを洗わせたことが仕事をしたことになって安息日を破ったことになるのかどうか、そういう議論が宗教エリートのファリサイ派の人たちの間で起こりました。これでイエス様はなぜ粘土状のものを作ったかがわかります。議論を引き起こすことで、この出来事を単に癒しの奇跡の出来事にとどめないで、もっと大きなことを引き出すためだったのです。その大きなことが神の現わす業だったのです。それを本説教で明らかにしていきます。

男の人が見えるようになったことは、周囲にセンセーションを沸き起こしました。どのようにして見えるようになったのかと聞かれて、イエスという名の男が粘土状のものを作って目に塗って、それを洗うように言った、それでその通りにしたら見えるようになったと説明しました。これを聞いた人たちは、この出来事をどう考えたらいいのか、神の良い意志が働いたのか、それとも安息日を破ったことになるのか、宗教エリートの判断を仰ごうと男の人をファリサイ派のもとに連れて行きました。そこでも男の人はどのようにして目が見えるようになったのかと聞かれて、群衆に答えたのと同じことを話しました。

ファリサイ派の間で意見が分かれました。彼らの中には、イエスが罪びとならば神の力が働くはずはなく、こんな奇跡を起こせないはずだ、とイエス様が神から送られた方であることを信じられるという感じになった人もいました。しかし、大勢は、安息日を破った以上は神から送られたなどはありえない、という否定的な意見が支配的になったようです。イエス様のことをなんとしてでも神と何の関係もない、安息日を破った罪びとの烙印を押したい。しかし、目の見えない人の目を見えるようにするという奇跡を行ったのは、どう説明できるのか?神の力が働かないでそんなことは起こるはずがない。そこで、彼らにとって大事なポイントになったのは、そんな奇跡は本当はなかったのだ、あの男は見えるようになったと主張しているが実は見えなかったということはなかったのだ、それを確認すればよいということになりました。それで両親が呼び出されました。

 「あの男はお前たちの息子で本当に生まれつき目が見えなかったのか?」「はい、その通りです。あれは私たちの息子で生まれつき目が見えませんでした。」ファリサイ派はがっくりきたでしょう。そうなれば次のことを聞くしかありません。「それならば、どのようにして目が見えるようになったのか?」両親はイエス様が奇跡の業を行ったことは知っていました。しかし、それを言ったら、宗教エリートたちは自分たちをシナゴーグつまりユダヤ教の会堂から追放してしまいます。そうならないために両親は、誰の力で見えるようになったか全然知らない、とウソをつきました。その点については息子に直接聞いて下さい、成人年齢に達しているので彼の発言は有効です、私たちが彼に代わって申し上げる筋のものではありません。両親はこのように自己保身に努め、息子のために弁護の証言をすることを拒否しました。

さて、ファリサイ派はなんとしてでも、イエス様が神の意思に反する罪びとであり、神由来の者なんかではない、ということを確定しなければなりません。そこでもう一度男の人を呼び出して尋問します。彼の両親は思ったことでしょう、息子よ、いい加減なことを言ってしまいなさい、そうすれば共同体から追い出されないで済むんだから、と。しかし、息子は両親とは異なる道を行きました。ファリサイ派が彼に聞きます。「神に栄光を帰せよ、我々はあの男が罪びとだとわかっている。」「罪びと」というのは、イエス様が神から送られた者ではありえないということです。「神に栄光を帰せよ」と言うのは、我々の見解に従え、それが神を名を汚さないことであり神に栄光を帰することだ、ということです。神を引き合いに出してそんなことを言うのは、もう脅迫です。それに対して男の人はどう応じたでしょうか?ここからが大事です。注意して見ていきましょう。

ファリサイ派はイエス様をなんとしてでも罪びとに仕立て上げたい。彼らに対して男の人は次のように応じました。自分はイエスが罪びとかどうか知らない。ただ、確実に知っていることがある、それは以前目が見えなかったのが今見えるようになったということだ。「イエスが罪びとかどうか知らない」というのは、イエス様を弁護していないみたいで頼りない答えに聞こえます。しかし、これは、男の人が癒されたのはイエス様を信じて癒されたのではなかったことによります。どういうことかと言うと、多くの人たちの場合は、まずイエス様が奇跡を起こせる方と信じて彼のもとに出かけて行ったり連れて行ってもらったりして癒してもらいました。みな癒しの後でイエス様を賛美したでしょう。ところが、この男の人の場合は、見も知らぬ男から湿った土を目に塗られて洗いに行けと言われて洗ったら見えるようになったのでした。一体この方は何者なのだ?最初頭に浮かんだのは「預言者」でした(17節)。しかし、それ以上のことはこの段階ではわかりません。この段階でわかっているのは、以前は目が見えなかったが今は見えるようになったという否定できない事実だけでした。ところが、イエス様についてわからなかったことがこの後で次第にわかるようになっていきます。どのようにしてそうなったのかを見てみましょう。

目が見えるようになったのはイエス様が行った奇跡のおかげだとファリサイ派は言われてしまいました。そうなるとまた同じ質問を繰り返す他ありません。「その男はお前に何をしたのだ?どのようにしてお前の目を開けたのか?」それに対して男の人は呆れかえってしまいました。真実を語っているのにそれを受け入れようとせず何か別のものに仕立てようとしていることを見て取りました。男の人は言い返します。「それについて私は最初の尋問の時にもうお話ししたではありませんか。なのに私の言ったことはあなたたちの左の耳から右の耳に素通りしてしまったようです。」男の人のテンションが少し上がります。「聞き入れなかったのに、なぜまた同じことを聞くのですか?あの方がどんな方法で目を開けられたのか、そんなに知りたがっているというのは、まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?(後注1)。これには当然、ファリサイ派は激怒します。「お前がそいつの弟子だ!我々はモーセの弟子だ!」「神はモーセ律法を通して教えているのだ(後注2)。その律法を破るあの男は神と何の関係もない。我々の知らないところから来たのだ。」 

 ここでファリサイ派は自分たちの旧約聖書の理解には不足があることを暴露してしまいました。というのは、旧約聖書のイザヤ書を繙くと、神の僕と呼ばれる者が人間の目を開ける業を行うという預言があります(427節)。それに照らせば、目を開ける業は神のお墨付きの業であり、それを行うのは神由来の者であるのは明白です。それをファリサイ派は否定するのです。これに男の人が驚いてしまったことは次の言葉から見て取れます。「私の目を開けたというのに、その方が何に由来するのかわからないなどとは驚きです(ヨハネ930節)。」男の人はシナゴーグの共同体の一員だったので、その礼拝に出ていれば、イザヤ書の預言は聞いて知っていたはずです。見えない目を開ける業を行う者は神由来であるということが旧約聖書の預言から明らかである以上、イエス様のことをそうではないと言い張って、それを認めさせようとするファリサイ派にもうついていけません。激しい応酬の後で彼は見事、共同体から追放されてしまいます。最初、男の人はイエス様が罪びとかどうか知らないと言っていたのですが、ファリサイ派とのやり取りのおかげで、イエス様が神由来の方であるという理解に近づくことができました。

その後でイエス様が近づいてきました。男の人は今は目が見えているのでイエス様を目の前にしています。声は覚えていたでしょうから、男の人は心臓をどきどきさせていたでしょう。どんなやり取りがなされたでしょうか?イエス様は、男の人の目を開けてやったということには一切触れずに、少し唐突な質問をします。「お前は『人の子』を信じるか?」「人の子」とは、ダニエル書に出てくる、終末の時にこの世に現れる救世主を指します。唐突な質問でしたが、男の人は素直に聞き入れて自分の思いを述べます。「人の子」を信じられるためにはそれが具体的に誰なのか知りたい、と。イエス様は自分がそれであると証しします。男の人は目の前におられる方が自分の目を開けた方だと知っています。そして、旧約聖書には神が遣わす僕が人の目を開けるという預言があります。男の人はイエス様自身の証しを受け入れました。それを受け入れられたのは、もちろん目を開くという預言が自分自身に起きたことがあります。しかしもう一つ忘れてはならないのは、ファリサイ派とのやり取りを通して、事実を曲げず真実を守ろうとする心が強められたことです。

3.肉眼の目だけでなく霊的な目も開かれるということ

男の人の信仰告白の後で、イエス様は周りにいる人たちに聞こえる声で驚くべきことを言います。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが見えなかったのであれば罪はなかったのだが、お前たちは「見える」と言うので、罪がお前たちに留まっていることになるのだ、と。これはどういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それがわからないといけません。少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。ユダ王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰を委ねます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、ということでした(イザヤ6910節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚の器官を不調にするということではありません。そうではなくて、神のことが見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目、耳が塞がれてしまい、神が遠い存在になってしまうことを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きました。「主よ、いつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(611節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々が連れ去られ、残った者も大木のように倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(1113節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない耳が聞こえない状態になるのだ、と。逆に言えば、その切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生となります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

まず、紀元前700年代にユダ王国の兄弟国イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残ったユダ王国はすんでのところで帝国の攻撃を退けますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となったペルシャ帝国の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書を見ると、祖国帰還を果たす民に対して神が遣わす僕がその目を開き耳を開くという預言が出るのです(イザヤ書427節、5045節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後も他民族が支配するという状況が続きました。国内を見渡しても、神の意思に従った生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそうした状況があったことを表わしています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(6317節)」祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。イザヤ書の真ん中へんでは、民の目と耳が開かれる預言が祖国帰還の実現と結びつけられて言われているように見えたのが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。そんな時、イエス様が登場しました。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!旧約聖書を繙いていた人たちは、目や耳を開ける預言はもちろん霊的な目と耳のことだとわかっていたでしょうが、ここまで具体的にやられて自分たちもそれを見てしまったら、これはもう受け入れるしかありません。イエス様の目や耳を開ける奇跡は後に起こる霊的な目と耳を開けることの前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしました。イエス様は、人間が神の意思に反する罪を人間に代わって背負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けられて死なれました。それは、人間が罪の重荷を背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。一度死なれたイエス様は今度は神の力で復活させられました。これにより死を超えた永遠の命があることが示されました。そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを得られて神の子とされます。そして、神との結びつきを持てて復活を目指してこの世を生きることになります。万が一この世から死ぬことになっても、復活の時に今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠にいることができるようになります。この世でその人は、十字架に架けられたイエス様と、彼が葬られた墓が空っぽになっていたことが肉眼ではない、別の目で見えているのです。その人は、聖書を繙く時、神が語りかけているのが別の耳に響くのです。このように霊的な目と耳はイエス様の十字架と復活によって開かれたのです。

そこでファリサイ派の問題点は何かと言うと、霊的な目を持っていないのにそれがあると思っていることでした。そうなると、イエス様によって目を開けてもらう必要がなくなってしまい、それでは罪の赦しも得られなくなってしまいます。逆に霊的な目を持っていないと認めることが出来れば、すぐイエス様に開けてもらう道が開けます。霊的な目を開けてもらえれば、罪の赦しの中で人生を歩めるようになります。ないのにそれを持っていると思っていることが問題だったのです。このことをイエス様とファリサイ派のやり取りは言っています。

4.おわりに - 三つのポイント

以上、生まれつき目の見えない男の人の癒しの出来事には本当に大事なポイントがいろいろあります。以下まとめとして三つのものをあげてみます。

まず、人が何か病気や障害を背負って生まれてきても、キリスト信仰はそれを何かの罰とかたたりとか見なさず、神の業が現れるためのものにしてしまうということ。その業とは癒しの奇跡の場合もあるが、それが唯一のものではない。イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで霊的な目と耳を持つこともある。それは癒しの奇跡に比べたらあまり意味がないことに見えるかもしれないが、実は復活の日に朽ちない体と永遠の命を与えられるという、まさに癒しの癒しに与れるのである。

次に、イエス様をまだ救い主と信じていない時でも、男の人の肉眼が開かれるような信じられないことが起きる。その後で男の人は出来事の意味をファリサイ派とのやり取りを通して深めていきました。そもそも神は私たち人間の造り主なのですから、全ての人間を導いて下さろうとしているのです。そのことに気づけるようにすることが大事です。

三つ目、男の人が事実を曲げずに真実を守る態度を貫いたことが何を意味するか?ヨハネ12章を見ると、最高法院の議員たちの中にもイエス様を信じる者が多かったが、ファリサイ派を恐れて信仰を公けに言い表さなかったとあります。どうしてかと言うと、神が与える名誉よりも人間が与える名誉の方を大事にしたからだ、と。キリスト信仰の観点では、神が与える名誉の方が価値があるので、事実を曲げたり真実を汚したりしてまで人間的な名誉や利害にしがみつく必要がなくなります。そもそも十戒の第8の掟は「偽証するな」です。加えて、キリスト信仰は罪の自覚を持つ信仰です。自分の不都合なことも神の前で包み隠さず認めることが基本なので、事実を曲げても無駄だとわかります。本日の旧約の日課でも言われているように、人間は外見を見るが神は心を見るのです(サムエル上167節)。事実や真実の下に自分を位置づけていると言っても過言ではありません。男の人は共同体を追放されてしまいましたが、事実を曲げて真実を汚す共同体なんかに留まっても不健康で救いがありません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注1新共同訳では27節は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」ですが、このμηで始まる否定疑問文は否定の答えを導く疑問文です。「なりたくなんかない!」という答えを期待する疑問文ですので、それで「まさかあなたがたも彼の弟子になりたいんじゃないんですか?」がよいと思います。
(後注229節のΜωυσει λελαληκεν ο θεοςは直訳すれば「神がモーセに語られた」ですが、動詞は現在完了なので、神は過去の時点から現在までモーセに語っていることになります。現在も語っている状態があります。でも、モーセはこの世にいないのでそれは少し変です。これは、1)今モーセは復活の日を待たずにして天のみ神のもとにいて、そこで神が彼に語っているという、モーセが天にいることを言い表しているのか、それとも、2)「モーセ」というのは「モーセ律法」のことで、神が律法に語っている、つまり律法は神の声を今も反映しているということが考えられます。本説教では2)にしました。