2012年11月26日月曜日

この世を去る時も、この世が終わる時も、キリスト信仰者はひるまない (吉村博明)


  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年11月25日聖霊降臨最終主日 横浜教会
  

ダニエル書7:9-10、
ヘブライの信徒への手紙13:20-21、
マルコによる福音書13:24-31
  
 
説教題 「この世を去る時も、この世が終わる時も、キリスト信仰者はひるまない」
   
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン
  
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
  
1.
  
本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神の御子が人となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス・キリストが再び、今度は栄光に包まれて天使の軍勢を携えてやって来ること、そして、私たちの信仰告白である使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨の主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に、私たちは、主の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスの時から遠ざかっていきますが、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、天の父なる神以外には誰にも知らされていないので(32節)、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日がいつなのかは誰もわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられます(3337節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分は復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、各自、自分の信仰生活を振り返る日、もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日であります。そういうわけで、本説教でも、そのような自省の心を持って、本日の福音書の箇所の解き明かしを行っていきたいと思います。


2.

 本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。預言の内容はとても複雑で、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きるであろう出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが入り交ざっています。

 13章の最初からみていくと、まず、一人の弟子がヘロデ大王によって大増改築されたエルサレムの神殿の壮大さを感嘆し、それに対しイエス様が、神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(12節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言がとても気になったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四弟子が、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、とイエス様に聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。
  
前兆として、自分がキリストであると名乗る者が多く現れ、多くの人々を誤った道に導く。また、国同士、民族同士で戦争が起きると聞くことになったり、実際に戦争が起きたりする、さらに各地で地震も起きる。しかし、それらはただの前触れで、産みの苦しみの段階にすぎない(58節)。そういう時に、キリスト信仰者に対する大々的な迫害も起こる。イエス・キリストこそ唯一の救い主であると教え伝えていけばいくほど、その先々で支配者権力者の反感を買い、裁判にかけられて申し開きをしなければならなくなる。しかし、弁明は自分で考えるな、聖霊が教えるように話せ、とイエス様は命じられます。信仰がもとで、家族内にも不和対立が生じ、憎しみさえ受ける。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰にしっかり立つ者は必ず救われる、と約束されます(914節)。「救われる」(13節)というのは、たとえ命を落とすことがあっても、復活の日に永遠の命と復活の体をもって、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるということであります。
  
その時、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」ことが起きる。そうなったら、ユダヤの地にいる者は山地地方に逃げよ、しかも、家財もなにも取りに戻らず、着の身着のままで逃げよ、とイエス様は忠告します(1417節)。「憎むべき破壊者」というのは、旧約聖書ダニエル書に登場します(「憎むべき荒廃をもたらす者」1131節、1211節、「荒廃をもたらす者」927節)。これは、イエス様の時代の200年程前に、当時のイスラエルの支配者でアンティオコス・エピファネスという異教の王がエルサレムの神殿にギリシャ神話のゼウスの像を掲げたことを指します。それが引き金となって、マカバイの反乱が起き、イスラエルの地は大動乱に見舞われました。イエス様は、これと同じような神殿に対する冒涜が起きると預言しているのですが、実際、イエス様の十字架と復活の後で、ローマ皇帝カリギュラがエルサレムの神殿に自分の像を掲げようとする事件が起きました。これは、ユダヤ人たちの外交努力もあって、すんでのところで回避されましたが、後にローマ帝国とユダヤ人の対立が深まっていき、ついにはエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったのであります。

イエス様は、ユダヤの地にいる者たちは着の身着のままで逃げよ、と忠告した後で、その理由を述べます。なぜなら、神が天地を創造して以来一度もなかったと言えるくらいの災いが起こるからだ、と言うのです(19節)。どんな災いかは具体的には述べられていません。ノアの大洪水を上回るような自然的な大災害なのか、それとも何か人為的に引き起こされた災難なのかはわかりません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいのものである。しかし、主は、選ばれた者たちのために、すでにその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、先ほども触れました、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。

そのような非常事態の最中にもかかわらず、と言うより、そのような事態にあるがゆえに、またしても偽キリストや偽預言者が大勢現れて、何か奇跡のような業を行って、選ばれた者たちでさえも道を誤らせようとするということが起きる(2122節)。
  
そうして、そういう非常事態の大災難の後に、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きる。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(2425節)」。まさにその時にイエス・キリストの再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に移されるのであります。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言を念頭に置いていると思われますが、天体の大変動というのは、実は、今あるものが新しいものにとってかわるということであります。同じイザヤ書の6517節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、6622節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」122628節に述べられています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」
  
  
3.

以上のようにみていくと、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動は起きませんでした。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありましたが、現代においても世界の地域によっては迫害が続いているところはちゃんとあります。そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。まず、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などし始めたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。50億年待たなくても、もっと以前に、例えば大きな隕石とか彗星などが現れて地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となりましょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象による大災難に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。近年よく言われる温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、1990年代に東西冷戦が終わって後は以前ほど大きく取り上げられなくなりましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのであります。

私が中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになり、それによると、人類は1999年に滅亡するということでした。ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者で、予言したことが的中するということで注目を集め、宮廷にも出入りしていたという人で、彼の書いた詩の形の予言が、その後の世界史の大事件を見事に言い当てていると言われてきました。もちろん、1999年人類滅亡説は当たらなかったのですが、本は私も買って読みました。読んで戦慄を覚えた後、何ともいいようのない無力感に襲われました。ちょうど読んだ時期が高校受験を控えた中学三年だったので折が悪く、どうせ滅亡してしまうのなら、何を一生懸命やっても意味がないのではないか、などと思ったのでした。それでも、結局は一生懸命に戻っていったのですが、それは、やはり世の中のシステムというか歯車は頑丈にできていて、いくらベストセラーが個々人の心に動揺をもたらしても、びくともせず、自分も含めて大人も学生も皆、そのシステムや歯車に乗ることで日常の生活を続けることができたのではないかと思います。しかし、そのようなシステムや歯車があらゆる衝撃に耐えうる完璧なものであるという保証はありません。イエス様の預言は、そこを突くものであると言うことができます。

そうすると、人類や地球の存亡にかかわる危機を視野においているキリスト信仰は人々を無力感に陥れるものなのでしょうか?キリスト信仰とは、全くそうならないものである、と私が感じたのは、まだキリスト教徒になる前の大学生の時、ルターが言ったという言葉を聞いた時でした。これはルター本人が言ったかどうか議論があるようですが、仮にルター本人の言葉でなくても、ルターの信仰を見事に言い表していると言われています。ルターはある人に「明日、世界が滅亡するとわかったら、今日どうしますか?」と聞かれ、次のように答えたということです。「それでも、私は今日リンゴの木を植えて育て始める」と。私は、これを聞いた時、ひょっとしたら自分の生きている時代にこの世の終わりが来るという可能性から目をそらさずに生きているにもかかわらず、無力感に陥らないで自分の置かれた境遇にしっかりとどまり、そこでの課題に取り組むことができるというのは、なんと素晴らしいことかと感動したのを今でも覚えています。キリスト信仰の何が人をしてそのような心意気にしていくのだろうか、と興味も持ちました。今、一人のキリスト教徒として、そのことについて述べてみたいと思います。

今、日本では、エンディングノートという言葉がよく聞かれます。高齢者の方が、自分が死亡した場合とか判断能力を失う病気にかかった場合に備えて、家族の人たちにどうしてほしいかと希望を書き留めるものです。実際に書いた方の感想などを新聞で見ますと、書いた後は一日一日を自覚的に生きるようになったというようなものを見受けました。ノートを書き留めること自体、近々自分には人生の終わりが来ると自分で認めることになりますから、自分で認めることができれば、残された時間も同じように自分でかじ取りする時間となり、それが残り少ないとわかれば、もうそれは貴重なものと自覚され、無駄にはできない大切に使おうということになるのではないかと思います。

キリスト信仰にも、少し似たようなところがあると思います。この世には、はじまりがあったように終わりがある、その終わりは自分の時代かその後かいつかはわからないがいつかは来る、その意味で今生きている時間は貴重な、無駄にはできない大切な時間になるということになります。しかし、キリスト信仰の心意気が、エンディングノートの効果と違う点は、ノートの場合は、残された時間を自覚的に生きるという時に、死んだ後のことは特に視野に入れないのではないかと思います。キリスト信仰では、それが生きている時にもう視野に入っているのであります。なぜそうなるかと言うと、キリスト信仰では、まず自分には造り主がいるということが大前提にあるからです。その造り主との関係は最初の人間の罪と不従順で壊れてしまい、人間は神のもとで永遠に暮らすことができなくなってしまいました。しかし、神はそれを再興しようとして、独り子イエス様をこの世に送られ、彼に十字架の上で人間の罪と不従順の罰を全て受けさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。またイエス様を死から復活させることで、死を超える永遠の命があることを示されました。人間は、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この世の人生において復活の命、永遠の命に至る道を歩み始め、この世から死んだ後は、永遠に造り主のもとに戻れるようになりました。このように、キリスト信仰では、自分が死んだ後で自分はどこに行くかがはっきりしていて、信仰者になることでそれがその人に確定されるのです。そうなると、この世の人生というものは、この世を生きなさいと命を与えて下さった造り主である神の御心を知ろう、そしてそれに沿うように生きていこうというものになっていきます。この世の人生の終わりの時を定められたからと言って、無力感に陥ったり投げやりになったりするなどというのは思いもよらないことです。自分に与えられたこの世の人生の期間がどれくらいの長さかはわからないが、長短は問題ではない。与えられた期間を、神に対して自覚的に生きる、永遠の命に心を向けて自覚的に生きる、ということであります。このことは、先に来るのがこの世の終わりであろうが、自分の人生の終わりであろうが、同じであります。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年11月20日火曜日

神の目は、取るに足らないとみられる者にこそ注がれる (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 

主日礼拝説教 2012年11月18日聖霊降臨後第25主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
列王記上17:8-16、
ヘブライの信徒への手紙9:24-28、
マルコによる福音書12:41-44

説教題 「神の目は、取るに足らないとみられる者にこそ注がれる」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン
 
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿が紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されて第一神殿の時代が終わります。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚から帰還して、再建する第二神殿の時代に入ります。これは初め、ソロモン王の神殿に比べてもみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が預言されるように、西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後はエルサレムには聖書の神の神殿は存在していないことは周知のとおりです。
 
イエス様の時代の神殿ですが、まず敷地としては、正確な長方形ではないですが、横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋があり、そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分自身と民の罪の償いとして生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ917節)。
 
 本日の福音書の箇所の出来事は、神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や時には紙幣を丸めて投げ込むようなイメージがわきますが、正確には大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったようです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったのでしょう。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、容易に識別できたのでしょう。
 
 そこで、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコは、この二枚の銅貨は1クァドランスに相当すると注釈しました。これは、読者であるローマ帝国市民に金額がわかるようにしたわけですが、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリということです。1デナリは当時の労働者の1日の賃金でしたので、今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値にしかすぎません。イエス様は、これがそのやもめの全財産であったと見抜きました。それで、絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対数でみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいの金ですから、やもめにとってはとてつもない価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えるものであるとみることができます。また、やもめの献身が金持ちよりも真実のものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをさらに掘り下げてみていきたいと思います。
 
 
2.

 本日の箇所が教える大切なことは、まず何よりも、神の目というものは、人々の目からは取るに足らないとみられる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れた、と記されています。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもないものだったでしょう。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神もあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたと思われます。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られるのは、いい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本にいる私たちにも身近なものです。そんな時に、64分の1デナリしかないお金を入れたやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去ったかもしれません。
 
 しかし、呆れ返るどころか、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、正反対になけなしの金であったことも見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。
 
天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われます。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(1516節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです。(ルカ127節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見ていきます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(14節)」。
 
 このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知っている、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、造り主の神はそのことも知っておられるからです。苦しい困難な状況に陥った時、普通私たちは、神に忘れられたとか、見捨てられたと思いがちですが、実はそういうことではないのです。そのような状況を、まさに神と共に取り組み、一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」造り主の神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい状況、危険な状況を通らなければならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることですが、私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いのような神が同じように方向修正をしてくれる、ということであります。トントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。
 
 このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということで、それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。その半面で、神に全てを知られている、見られている、というのは、神に対して恐れ抱いたり、場合によっては忌み嫌うことにもなります。なぜなら、私たちは最初の人間が神に対する不従順と罪に陥って以来、同じ罪と不従順を受け継いでいます。神はそれを罰せずにはいられない神聖な方であり、その神が私たちの心の中まで全て見通されているというのは恐ろしいことだからです。恐ろしさを回避しようとすれば、そんな神など存在しない、と神に背を向けていくことになります。しかし、それは、存在するものに対して、心の目をつぶって「存在しない」と言うことになり、何の解決にもなりません。
 
まさにこのために神は、人間からこの恐れを取り除き、心から造り主を信頼し愛することができるようにと、独り子イエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様が私たちの罪と不従順を全て引き受けて、そこからくる罰を全て十字架の上で私たちのかわりに受けて、自分をまさに犠牲の生け贄として神に捧げました。神は、イエス様の犠牲の死に免じて、人間を赦すことにしました。さらに、死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを私たちに示されました。私たちは、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この赦しの救いを全て受け取ることができます。このようにして人間は、この世において永遠の命、復活の命に至る道を歩むようになり、この世から死んだ後は、造り主のもとに永遠に戻ることができるようになりました。こうして、イエス様を通して行われた救いの業のゆえに、神はもはや単に怖れを抱く相手ではなくなり、感謝と賛美を捧げる相手になりました。そのような神が私たちの姿かたちも心の中も全てご存じで、たえず目を注いで下さっているのです。そういうわけで、私たちは、たとえ死の陰の谷を進まなければならない時が来ても、谷に対して抱く恐ろしさを超える安心と信頼を神に対して持つことができるのです。
 
 以上、本日の福音書の箇所から、神は私たちのことを見ておられ、全ての事をご存じである、ということ、特に、この世の人々の目には留まらず、取るに足らないと見られるような者にこそ、目を注がれる、ということが明らかになりました。
 
 
3.

本日の福音書の箇所は、もう一つ大事なことを教えています。それは、何が正しい礼拝の形か、を考えさせるということです。礼拝とは、普通は教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕え、捧げものをすることです。神に仕え、捧げものをすることは、儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰者においては、生きること自体が礼拝的であることを忘れてはなりません。
 
本日の箇所は、やもめの献身の真実さを明らかにするということで、私たちが見習わなければならない美談として理解される可能性があります。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが気になりませんか。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた話がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。そのようであってほしいと願わずにはいられません。そういうわけで、本日の箇所は美談というより、実は悲劇と言えるのではないかと思います。神に捧げものをするのが悲劇というのではなく、金持ちの捧げ物が注目評価され、貧しい者のものは意にも介されない、そのような捧げ方になってしまったことが悲劇というのです。
 
本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、本日の出来事の直前で、イエス様は、律法学者たちの敬虔さは偽善であると批判します。そこで、律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(1240節)。イザヤ書10章の初めに、権力者の立場にある者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていることを、神が非難していますが、その中に「やもめを餌食にしている」、つまりやもめが戦利品のように略奪の対象になっていることが含まれています。イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失って社会的庇護を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったことが考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その直後で本日の箇所の出来事が起きます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にした、というのです。本日の箇所の直後に、イエス様はこの舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ1312節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者に陥った者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の形はもう存在する意味がない、というのであります。そして、イエス様の預言は、40年程の後にローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊で実現します。
 
それでは、とってかわられるべき礼拝の形はどのようなものであるべきなのでしょうか?本日の第二の日課である「ヘブライ人への手紙」92428節をみると、新しい礼拝の形を考える際に覚えておかねばならないことが記されています。それは何かと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて神殿内の最も神聖な場所に入って行って自分と国民の罪を贖う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自身は贖う罪などない存在でありながら、人間全ての罪を一度に全部贖うために自分自身を犠牲の生け贄として捧げた、ということ。次に、神殿内の最も神聖な場所とは、本当の神聖な場所である天の御国の写し、ないし模倣として人間の手で造られたものであるが、イエス・キリストは、その本当の天の御国自体に上げられた。そして、今、父なる神の御前で私たちのために祈ったり、私たちにたえず目を注いで守り導いて下さるようにお願いしている、ということであります。このような救い主を持つことができ、またこのような神に見守られる私たちの礼拝の形はいかにあるべきでしょうか?
 
その答えを、「ローマの信徒への手紙」12章の最初にあるパウロの教えにみてみましょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です(1節)。」「あなたがたのなすべき礼拝」には、一つ単語(λογικος)の訳が抜け落ちていますが、動物の生け贄を用いない理に適った礼拝という意味です。イエス様の犠牲があって、もう生け贄など不要になりました。私たちは、イエス様の犠牲の上に新しい命を与えられた以上は、今度は自分自身を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げなさい、とパウロは教えるのです。それでは、自分自身を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げるとは、どういうことか?私たちが十字架に架けられることではありません。それは、神の御子が全て成し遂げました。パウロは続けます。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(2節)。」「心を新たにして自分を変えていただき」というのは、正確には「一新された思いをもって自分をかえていきなさい(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος)」ということです。「一新された思い」は、自分はイエス様の犠牲の上に新しい命を与えられたのだと知ることから生まれます。そのような一新された思いをもって、何が神の御心か、何が善いことで、神に喜ばれ、完全なことか、これらをたえず吟味し、神の意思のもとに自分を服して、この世が誘導するようには生きない、そういう者に自分を変えていきなさい、いや、イエス様の犠牲の上に新しい命を与えられたとわかれば、そのように変わっていくのが当然なのだ、とパウロは教えているのです。そのように変わっていくことが、自分の体を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げることになり、それこそが正しい礼拝である、というのであります。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年11月12日月曜日

神を全身全霊で愛するとは?隣人を自分を愛するが如く愛するとは? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年11月11日聖霊降臨後第24主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
申命記6:1-9
ヘブライの信徒への手紙7:24-28
マルコによる福音書12:28-34

説教題 「神を全身全霊で愛するとは?隣人を自分を愛するが如く愛するとは?」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 本日の福音書の箇所の直前に、ユダヤ教社会のサドカイ派グループとイエス様の間で、死からの復活はあるのかという論争がありました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は打ち負かしました。その一部始終を見ていたある律法学者が、この方こそ神の御言葉を正しく理解する方だと確信して、聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」πρωτοςというのは、神の掟第1条は何ですか、と順番を聞いているのではありません。「一番重要な掟は何ですか?」と価値づけを聞いているのです。なぜ、こんな質問が出てくるのかというと、律法学者は職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を神の掟に基づいて解決する役割があり、神の掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟として、まず、私たちの旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法がありました。それだけでもずいぶんな量ですが、他にモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。(マルコ7章で、イエス様とファリサイ派グループの間で清めと汚れについての論争がありましたが、日本語訳で「先祖からの言い伝え」と訳されているものがそれです。正確には、「先祖から口承伝承された掟」です。ファリサイ派は、これを書かれた律法と同じ、ないし時にはそれ以上に重視しました。)そんなわけで、律法学者といえども、膨大な神の掟を適用したり、教えたりする時、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したでしょう。「どれが一番重要な掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきたのです。
 
 
2.

イエス様は「第一の掟は、これである」と述べて、教えていきます。「第一の掟」と言うのは、今申したように「一番重要な掟」という意味です。それは、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というものでした。これは、本日の旧約聖書の日課である申命記645節にある神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。掟というからには、命令です。すると、神が命じられていることは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛しなさい」ということになります。それでは、このように神を全身全霊で愛するということはどういうことなのでしょうか?全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいて身も心も捧げたような熱烈純愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。全知全能の神、天と地と人間を造られた神、そして御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
 
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、とは、実は、神が唯一の主であるように保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということなのであります。この神以外に願いをかけたり祈ったりしないということ。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えないこと。自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。また、もしこの神をないがしろにしたり、神の意思に反することをした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。これであります。
 
このような全身全霊を持ってする神への愛は、どのようにして私たちに生まれるのでしょうか?何もないところから自然には生まれません。それは、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれます。この神は今私たちが存在している場所である天と地を造られた。そして私たち人間を造られた。つまり、私たち一人一人に命を与えて下さった。人間が自ら引き起こした不従順と罪のために断ち切れてしまった神との繋がりを復興しようと、独り子イエスをこの世に送られ、私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その死に免じて私たちに赦しを与えて下さった。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを示され、私たち人間もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるならば、この永遠の命、復活の命に向かってこの世の人生を歩めるようになる。そして、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のものに戻ることができる。このように、私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。
 
少し脇道に逸れますが、「神」という日本語の言葉はとても紛らわしいものです。聖書には「神」と書いてあり、日本には「神々」がいると言われます。同じ言葉を使うため、両者が何かお互いに比べ合えるような気がします。そして、ここは違うがここは似ているというような議論が生まれ、聖書の神も数多くの神々の一つのようにされていきます。しかし、よく考えてみて下さい。天と地と人間を造り、人間との繋がりを取り戻すために独り子を犠牲として送られた神は聖書の神の他にいるのか。そもそも、この世に蔓延する霊的な存在はみな、造られたもの、被造物にすぎないのです(コロサイ116節)。聖書の神こそ全ての見えるものと見えないものの造り主なのであります。
  
 
3.

律法学者は、一番重要な掟についてだけ聞いたのに、イエス様は二番目に重要な掟についても付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し価値が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟はほかにない」と言われます。つまり、この二つは神の掟中の掟である、山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある、ということです。しかし、その頂点にも序列がある。まず、神を全身全霊で愛すること。これが一番重要な掟。それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてある。つまり、キリスト信仰においては、隣人愛というのは、神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないということであります。
 
隣人愛、特に苦難災難の中にある人を支援するという形の隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていたり、または無信仰者・無神論者にも出来るということは、東北の支援にも明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって、他の隣人愛にないものは、それが神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということであります。神への全身全霊の愛とは、先ほど申し上げましたように、神を唯一の主とする、それ以外にはない、と、そのように考え行動することです。それができるのは、これも申し上げたように、神がこの自分にどんなとてつもないことをして下さったか、をわかることにおいてです。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行為が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか、吟味する必要があります。もし即していない場合、例えば、別に神はいろいろあったっていいんだ、聖書の神は多数のうちの一つだ、という態度をとった場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということでは全くありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものです。このように言うと、お前は日本の社会の現実を知らないからそんなことが言えるのだと言われてしまうかも知れません。しかし、イエス様がこうおっしゃられる以上は、現実はどうあれ、そう言わざるを得ません。
 
隣人愛について、もう一言。隣人愛と聞くと、キリスト信仰者、特に余裕のある信仰者は、すぐ苦難災難にある人の支援を思い浮かべるでしょう。それは大事なことです。しかし、隣人愛は人道支援に尽きません。イエス様は、隣人愛を二番目に大事な掟だと教えた時、レビ記1918節から引用しました。皆様もお家で時間があればみていただきたいのですが、13節あたりから見ていくと、隣人愛というのは、人道支援の他にもいろんな形があるということです。隣人から悪を被っても復讐するなとか、何を言われても買い言葉になるなとか、これらは右の頬を打たれたら左を出せ、と言うイエス様の教えにつながるでしょう(マタイ539節)。また、パウロも、危害を受けたら仕返しだと騒ぎ立てるな、全てはいずれやってくる神の怒りにまかせなさい、今は自分を憎む者が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなさい、そうすることがその人の頭に燃え盛る炭火を置くことになるのだから、と教えています(ローマ121921節)。こういう隣人愛の形は、私たちには不可能に感じられるでしょう。しかし、行為に起こすのが困難でも、まず、心をそのように向けていくことはできます。ここでも、私たちの神が私たちにどんなとてつもないことをして下さったのかを思い起こし、日々心に留めて、それを日々新たにしていくことが大切です。そのために、各自がそれぞれ置かれた立場や課題にしっかり取り組み、そこでの人間関係に揉まれながらも、日々の聖書の日課、日々の祈り、そして毎週の礼拝と聖餐式を守ることは大切です。
 
神が私たちにどんなとてつもないことをして下さったか、それをわかることこそが神を全身全霊で愛する心を生み出し、その愛に基づいて隣人愛を持てるようになる、そういうことが本説教の中心的な教えになるのではないかと思います。このことに関して、ヨハネの第一の手紙4911節を朗読して本説教の締めとしたく思います。
 
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン