説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2012年11月18日聖霊降臨後第25主日
日本福音ルーテル横須賀教会にて
列王記上17:8-16、
ヘブライの信徒への手紙9:24-28、
マルコによる福音書12:41-44
説教題 「神の目は、取るに足らないとみられる者にこそ注がれる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿が紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されて第一神殿の時代が終わります。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚から帰還して、再建する第二神殿の時代に入ります。これは初め、ソロモン王の神殿に比べてもみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が預言されるように、西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後はエルサレムには聖書の神の神殿は存在していないことは周知のとおりです。
イエス様の時代の神殿ですが、まず敷地としては、正確な長方形ではないですが、横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋があり、そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分自身と民の罪の償いとして生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。
本日の福音書の箇所の出来事は、神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や時には紙幣を丸めて投げ込むようなイメージがわきますが、正確には大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったようです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったのでしょう。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、容易に識別できたのでしょう。
そこで、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコは、この二枚の銅貨は1クァドランスに相当すると注釈しました。これは、読者であるローマ帝国市民に金額がわかるようにしたわけですが、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリということです。1デナリは当時の労働者の1日の賃金でしたので、今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値にしかすぎません。イエス様は、これがそのやもめの全財産であったと見抜きました。それで、絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対数でみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいの金ですから、やもめにとってはとてつもない価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えるものであるとみることができます。また、やもめの献身が金持ちよりも真実のものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをさらに掘り下げてみていきたいと思います。
2.
本日の箇所が教える大切なことは、まず何よりも、神の目というものは、人々の目からは取るに足らないとみられる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れた、と記されています。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもないものだったでしょう。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神もあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたと思われます。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られるのは、いい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本にいる私たちにも身近なものです。そんな時に、64分の1デナリしかないお金を入れたやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去ったかもしれません。
しかし、呆れ返るどころか、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、正反対になけなしの金であったことも見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。
天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われます。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです。(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見ていきます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。
このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知っている、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、造り主の神はそのことも知っておられるからです。苦しい困難な状況に陥った時、普通私たちは、神に忘れられたとか、見捨てられたと思いがちですが、実はそういうことではないのです。そのような状況を、まさに神と共に取り組み、一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」造り主の神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい状況、危険な状況を通らなければならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることですが、私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いのような神が同じように方向修正をしてくれる、ということであります。トントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。
このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということで、それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。その半面で、神に全てを知られている、見られている、というのは、神に対して恐れ抱いたり、場合によっては忌み嫌うことにもなります。なぜなら、私たちは最初の人間が神に対する不従順と罪に陥って以来、同じ罪と不従順を受け継いでいます。神はそれを罰せずにはいられない神聖な方であり、その神が私たちの心の中まで全て見通されているというのは恐ろしいことだからです。恐ろしさを回避しようとすれば、そんな神など存在しない、と神に背を向けていくことになります。しかし、それは、存在するものに対して、心の目をつぶって「存在しない」と言うことになり、何の解決にもなりません。
まさにこのために神は、人間からこの恐れを取り除き、心から造り主を信頼し愛することができるようにと、独り子イエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様が私たちの罪と不従順を全て引き受けて、そこからくる罰を全て十字架の上で私たちのかわりに受けて、自分をまさに犠牲の生け贄として神に捧げました。神は、イエス様の犠牲の死に免じて、人間を赦すことにしました。さらに、死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを私たちに示されました。私たちは、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この赦しの救いを全て受け取ることができます。このようにして人間は、この世において永遠の命、復活の命に至る道を歩むようになり、この世から死んだ後は、造り主のもとに永遠に戻ることができるようになりました。こうして、イエス様を通して行われた救いの業のゆえに、神はもはや単に怖れを抱く相手ではなくなり、感謝と賛美を捧げる相手になりました。そのような神が私たちの姿かたちも心の中も全てご存じで、たえず目を注いで下さっているのです。そういうわけで、私たちは、たとえ死の陰の谷を進まなければならない時が来ても、谷に対して抱く恐ろしさを超える安心と信頼を神に対して持つことができるのです。
以上、本日の福音書の箇所から、神は私たちのことを見ておられ、全ての事をご存じである、ということ、特に、この世の人々の目には留まらず、取るに足らないと見られるような者にこそ、目を注がれる、ということが明らかになりました。
3.
本日の福音書の箇所は、もう一つ大事なことを教えています。それは、何が正しい礼拝の形か、を考えさせるということです。礼拝とは、普通は教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕え、捧げものをすることです。神に仕え、捧げものをすることは、儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰者においては、生きること自体が礼拝的であることを忘れてはなりません。
本日の箇所は、やもめの献身の真実さを明らかにするということで、私たちが見習わなければならない美談として理解される可能性があります。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが気になりませんか。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた話がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。そのようであってほしいと願わずにはいられません。そういうわけで、本日の箇所は美談というより、実は悲劇と言えるのではないかと思います。神に捧げものをするのが悲劇というのではなく、金持ちの捧げ物が注目評価され、貧しい者のものは意にも介されない、そのような捧げ方になってしまったことが悲劇というのです。
本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、本日の出来事の直前で、イエス様は、律法学者たちの敬虔さは偽善であると批判します。そこで、律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めに、権力者の立場にある者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていることを、神が非難していますが、その中に「やもめを餌食にしている」、つまりやもめが戦利品のように略奪の対象になっていることが含まれています。イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失って社会的庇護を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったことが考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その直後で本日の箇所の出来事が起きます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にした、というのです。本日の箇所の直後に、イエス様はこの舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者に陥った者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の形はもう存在する意味がない、というのであります。そして、イエス様の預言は、40年程の後にローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊で実現します。
それでは、とってかわられるべき礼拝の形はどのようなものであるべきなのでしょうか?本日の第二の日課である「ヘブライ人への手紙」9章24-28節をみると、新しい礼拝の形を考える際に覚えておかねばならないことが記されています。それは何かと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて神殿内の最も神聖な場所に入って行って自分と国民の罪を贖う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自身は贖う罪などない存在でありながら、人間全ての罪を一度に全部贖うために自分自身を犠牲の生け贄として捧げた、ということ。次に、神殿内の最も神聖な場所とは、本当の神聖な場所である天の御国の写し、ないし模倣として人間の手で造られたものであるが、イエス・キリストは、その本当の天の御国自体に上げられた。そして、今、父なる神の御前で私たちのために祈ったり、私たちにたえず目を注いで守り導いて下さるようにお願いしている、ということであります。このような救い主を持つことができ、またこのような神に見守られる私たちの礼拝の形はいかにあるべきでしょうか?
その答えを、「ローマの信徒への手紙」12章の最初にあるパウロの教えにみてみましょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です(1節)。」「あなたがたのなすべき礼拝」には、一つ単語(λογικος)の訳が抜け落ちていますが、動物の生け贄を用いない理に適った礼拝という意味です。イエス様の犠牲があって、もう生け贄など不要になりました。私たちは、イエス様の犠牲の上に新しい命を与えられた以上は、今度は自分自身を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げなさい、とパウロは教えるのです。それでは、自分自身を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げるとは、どういうことか?私たちが十字架に架けられることではありません。それは、神の御子が全て成し遂げました。パウロは続けます。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(2節)。」「心を新たにして自分を変えていただき」というのは、正確には「一新された思いをもって自分をかえていきなさい(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος)」ということです。「一新された思い」は、自分はイエス様の犠牲の上に新しい命を与えられたのだと知ることから生まれます。そのような一新された思いをもって、何が神の御心か、何が善いことで、神に喜ばれ、完全なことか、これらをたえず吟味し、神の意思のもとに自分を服して、この世が誘導するようには生きない、そういう者に自分を変えていきなさい、いや、イエス様の犠牲の上に新しい命を与えられたとわかれば、そのように変わっていくのが当然なのだ、とパウロは教えているのです。そのように変わっていくことが、自分の体を神に喜ばれる神聖な生け贄として捧げることになり、それこそが正しい礼拝である、というのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン