2021年10月25日月曜日

なぜキリスト信仰者は祈るのか ― 祈りの原理とテクニック (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日

 

エレミア書31章7-9節

ヘブライの信徒への手紙7章23-28節

マルコによる福音書10章46-52節

 

説教題 「なぜキリスト信仰者は祈るのか  祈りの原理とテクニック」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中エリコという町に立ち寄り、そこで盲人の男バルティマイの目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。本日の説教では次の2つの事柄について考えてみたく思います。

 

 一つめは、イエス様がバルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったことです。よく考えるとこれは変です。というのは、癒す前にこの言葉が言われたからです。もし癒しが起きた後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてご褒美に目を見えるようにしてあげたことになるからです。ところがイエス様は目が見えるようになる前にそう言ったのです。どういうことでしょうか?一つの考え方として、イエス様は癒す前に「君はもう治ってるよ」と、治ることを先回りして言ってみせた、というのがあるかもしれません。つまり、治ることを預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになります。もし治らなければ立派な信仰がないということになります。イエス様は病気が治る治らないは信仰の優劣で決まると言っているのでしょうか?実はそうではないのです。このことは、救われるとは何を意味するかわかれば明らかになります。これは以前の説教でもお教えしたことですが、大事なことなので今回もお話しします。

 

 本日の説教でもう一つ考えることは、祈ったことが起こる起こらないというのは信仰に優劣があるからではない、とすると、じゃ、起こる起こらないの決め手は何なのか?これはもう誰もが知りたいことでしょう。キリスト信仰者は経験上、祈ったことが起こらないことがあるということを知っています。祈ったことと全然違うことが起こるとか、また起こってもすごく時間がかかったとか、よくあります。バルティマイは望んだことがすぐ起こりました。羨ましいです。天地創造の神は何か気まぐれな方なのでしょうか?

 

 キリスト信仰では、祈りは結果はどうあれしなければならないことです。そう言うと、じゃ何のために祈るの?と言われてしまうでしょう。それは十戒の第一の掟、神以外を崇拝してはならない、というのがあるからです。それが意味することは、何か嬉しいこと悲しいことがあれば必ずこの神に報告する、願い事があればこの神に打ち明ける、他にはしないという位に創造主の神に信頼を置くということです。その信頼する神が祈ったことをしてくれなかったら普通だったらもう信頼なんかしない、ということになるでしょう。それでも祈るのがキリスト信仰者なのです。このことも後ほど見ていきましょう。

 

2.「救われる」とは?

 

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉について。以前の説教でもお教えしましたが、「救ったのだ」と言っているギリシャ語原文の動詞の用法が日本語の訳では伝えきれていません。正確に訳すと「過去のある時点から現在まであなたの信仰があなたを救っていたのだ」ということです。過去のある時点と言うのはイエス様を救い主と信じた時です。それでここの意味は、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまでその人は救われた状態にあった、ということです。しかし、これは変です。だって、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うのです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずなのに、イエス様ときたら治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?

 

 それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救われるとは一体何なのでしょう?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんてあり得るでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあり得ます。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

 

 聖書の観点では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた筈の人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んで、造り主との結びつきが失われてしまった状態のことを言います。それで、この罪の問題を解決して神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきを回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時、それこそ順境の時だけでなく逆境の時にも、神との結びつきは何ら変わらないので常に神から助けと導きを受けながら歩めるようになります。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という朽ちない、神の栄光に輝く体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられます。

 

 そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間の内にある罪をどうにかしなければなりません。人間は自分の力で罪を除去することが出来るでしょうか?マルコ7章でイエス様は、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の悪い性向である、それらはどんな宗教的な清めの儀式をしても除去できない位に染みついてしまっている、と教えます。それならば、十戒の掟をしっかり守れば人間は神に義とされて結びつきを回復できるでしょうか?これもイエス様は十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしたら神の目から見て破ったも同然と教えました。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら神の目から見て破ったも同然と教えました。十戒の掟というのはそれくらい外面的な行いだけでなく、内面の心の有り様まで問うているのだと教えるのです。そこまで言われると神の目に適う人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロが教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がるためにあるのではない、内面までも問われることで自分はどれだけ神の意思から遠い存在であることを映し出す鏡なのです。

 

 そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することは出来ません。しかしながら、天の父なるみ神はこれを放置することはしませんでした。神の切実な願いは、人間が自分との結びつきを早く回復して今の世と次に到来する世の双方を生きられるようになってほしいということだったからです。それで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、本当だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。このように神が取った解決策は、人間が神罰を受けないで済むようにとひとり子を身代わりの犠牲にして、それに免じて人間を赦すということだったのです。

 

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、今度は死を超える復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで今度は人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この神のひとり子の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになるのです。このようにして神から罪の赦しを受けられると神との結びつきが回復し、今のこの世と次に到来する世の双方を合わせた大きな人生を生きることが始まります。これが救いです。

 

 この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために成し遂げたものです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってこの救いを受け取ることが出来ます。この信仰と罪の赦しというお恵みの中に留まれば受け取った救いはなくなりません。これは、受け取る人が健康であっても病気であってもそうです。それなので救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄誉を病気の時とは違った形で現すことになります。まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

 

 ところで、バルティマイが癒された時はまだ十字架と復活の出来事の前でした。それなので「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にある」などと言われても、直ぐにはピンとこないでしょう。なんだかただの口先言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。同じことがマルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きていました。イエス様はその人とその人を必死の思いで担いできた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男はなんと大それたことを言うのか、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判します。これに対してイエス様は自分の口から出る言葉は単なる音声ではないことを示すために男の人に立ちあがって行きなさいと命じます。するとその人の麻痺状態はふっと消えて本当に歩いて行ってしまったのです。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

 

3.祈りの原理とテクニック

 

 バルティマイに起きた奇跡は、人間が健康であろうがなかろうがイエス様を救い主と信じる信仰で救われる、つまり神との結びつきを持って生きられる、このことを十字架と復活の出来事の前の段階で奇跡の業をもって実証した出来事でした。十字架と復活の出来事の後は、信仰で救われるというのは別に奇跡の業をしてもらわなくても十字架と復活の出来事があるのでその通りになりました。

 

 それでは奇跡はもう必要ないのでしょうか?神との結びつきを持って生きられることに関しては信仰と洗礼があるので奇跡が必要になることはありません。しかしながら、病気を治したい、痛みから解放されたい、苦しみや困難から脱したい、という願いに関してはどうでしょうか?神がキリスト信仰者に祈ることを命じているというのは、癒しや解決を祈り求めなければならないということです。

 

 それでは祈り求めよと言っている神は、言う通りにしたらちゃんと癒しや解決をしてくれるでしょうか?冒頭で申したように、祈ったことが起こらないということが往々にしてあります。起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、そういうことがよくあります。祈り求めよと言っているのに話が違うじゃないか、と文句の一つでも言いたくなります。これについて宗教改革のルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決められる。そういうわけで祈り求めたことには必ず答えが返って来る。ただし、それが祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなのである。人間の救いのためにひとり子をこの世に贈り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた答えの方がよいものとして受け取らなければならないということです。

 

 それじゃ、神が上に立って自分の切実な願いは下ということなのか、という不満が出てきますが、残念ながらそういうことなのです。このことに納得できる人はいいですが、出来ない人のために次のことを申し上げようと思います。納得できている人もどうして自分は納得しているか確認する意味で聞いてよいかと思います。神が人間に望んでいることは、人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるということでした。それで神がキリスト信仰者の祈りを聞いて願いを叶えるというのは、この神の願いに結びついているのです。神との結びつきを回復してもらったキリスト信仰者がせっかく復活の日を目指して人生の道を歩んでいるのに、痛みや苦しみや困難が起きてまた自分の悪い心があって歩みを難しくしてしまった時、信仰者が祈れば神は癒しや解決、正しい心を与えて下さるということです。なぜなら神の願いは人間が復活の日に自分の御許に永遠に迎え入れられるようになることだからです。祈り求めるというのは、私たちが本気で道を歩もうとしていることを神に知らせることになります。そうなれば神としても障害物を取り除かないわけにはいかなくなるのです。

 

 このように神がどう祈りに応えるかということには、キリスト信仰者が復活の日に向かって歩めるかどうかということが神の判断基準にあるのです。そのため場合によっては、神はこれは障害物にあたらないと判断するかもしれないということです。これは聞きようによっては残酷に聞こえるかもしれません。しかし、これは心に大きな平安を与えることでもあります。これがキリスト信仰の祈りの原理です。キリスト信仰者は復活の日に向かって歩む以上、祈るのは必然的なことなのです。キリスト信仰者が他者のために祈る時もこの原理に基づくのです。

 

 こういう祈りの原理に基づいて祈る時の祈りのテクニックにはいろいろあります。その一つを最後に紹介したく思います。それは、神に障害物を取り除いてもらいたいのなら、本気でそれをあたかも粗大ゴミのように神に投げ捨てるように祈るということです。そのことが「ペトロの第一の手紙」57節にあります。新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」ですが、この訳は少し弱いです。原文のギリシャ語はもっと強くて「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。新共同訳の「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。フィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者はどの聖句を贈り言葉にするでしょうか?この聖句をもとにルターが祈りのテクニックを教えているので最後にそれを引用して本説教の締めにしたいと思います。

 

「君たちは抱えている課題を自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、君たちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてそれに押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せるのだ。そして次のように祈るべきである。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げよ、と言ってこの課題を私に与えて下さいました。しかし、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』

 この祈りは真に神の御心に沿う祈りである。神が私たちにせよと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば取り組みがどんな結果をもたらすかの心配は君たちのところではなく神のところにあればよいのだ。

 このように祈ることが出来るキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は他の者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰者は次の聖句を手に握りしめている。『思い煩いは何もかも神に投げ捨てよ。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからだ。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年10月18日月曜日

神の国の一員として ― 君はなぜイエス・キリストの言うことを聞くのか? (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日

 

イザヤ書53章4-12節

ヘブライの信徒への手紙5章1-10節

マルコによる福音書10章35-45節

 

説教題 「神の国の一員として  君はなぜイエス・キリストの言うことを聞くのか?」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は読み通すと一見わかったような気がします。ああ、イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に、あなたが王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いした、この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言う、大いなる者になりたい者は仕える者になれ、上に立ちたい者は全ての人の召使い(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んで大抵の人は、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人はそれを振りかざしてはいけない、謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。日本は今衆院選の真っ最中です。候補者は当選したら選挙運動中に見せた謙虚さを忘れないでほしいと思います。

 

 ところで、謙虚になれとか、人に仕えよということは別にキリスト信仰者でなくても美徳だとわかります。イエス・キリストが言ったから謙虚になる、人に仕える者になるという人はイエス様を尊敬し権威を感じるから従ってそうします。もし尊敬する人、権威を感じる人が別にある人はそれに従ってそうします。ひょっとしたら、自分は権威を感じる者などない、自分は自由意志でそうするのだという究極の美徳追及者もいるかもしれません。いずれにしても、誰かを尊敬して権威を感じるからその人の教えに従うというのは、キリスト教にも見られることです。しかし、大事なことは、なぜイエス様を尊敬し権威を感じるか、その答えをはっきり持っているかということです。それがはっきりしないまま尊敬したり権威を感じるというのはわけがわからないでそうすることになります。これは他の尊敬者、権威者の場合も同じです。

 

 イエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方なのか、その答えは本日の三つの聖書の個所でも教えられています。要約して述べると、イエス様は私たち人間が今のこの世と次に到来する世の双方にまたがって生きられるようにして下さった方、それを自分の身を投げうってして下さった、だから尊敬に値し権威を感じる方なのです。今日はこのことを確認していきましょう。

 

2.現世的なメシアと王国、終末論的なメシアと王国

 

 まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について預言しました。これは本日の日課には含まれていませんが、この預言の直後に二人がお願いしたというタイミングが重要です。このタイミングが何を意味するかわかればイエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方かわかる出発点に立てます。二人の弟子は、イエス様が死と復活を預言した時、いよいよイエス様を王に抱く神の国が実現すると直感したのでした。それで閣僚ポストを要求したのです。イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのか?ことは聖書の歴史に立ち入ることなので現代日本にいる私たちには縁遠く感じられるかもしれません。しかし、これを見ることでかえってイエス様の権威が身近に感じられるようになります。

 

 イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデ王のような王が登場して、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された者になる、つまりこれがメシアと呼ばれる者ですが、その新しい王が民族を支配しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに彼は諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれていたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。

 

 こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王が出て外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場します。これは占領者ローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者と思ったのでしょう。しかし、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまっては、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

 

 このような、ダビデ家系の王が現れて民族自決国家を実現するという考えは、この現世に実現するものです。現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもあったのです。今存在するこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神により新しい天と地に再創造される、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。終末論的なメシアと神の国の考えです。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。このような考えを示す書物が、紀元前23世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。

 

 どうしてこのような終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書60章、65章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、これまで現世的な王の下で現世的な王国復興を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するものと理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり取り込めていないことになります。

 

 こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかしながら、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのです。お前たちの間で大いなる者になりたい者は互いに仕える者になりなさい、お前たちの間で第一の者になりたい者は全ての者の僕になりなさい、人の子は仕えられるために来たのではない、仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである、と。つまり、神の国の一員になる者は誰かが他の人の上に立って支配するのでなく、お互いが仕え合っているというものである。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、その王に従う者はみなそれに倣うのが当然というのです。

 

 ヤコブとヨハネが示したような終末論的な神の国の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考えよりも旧約の預言を深く理解しているように見えます。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書53章には、神の僕が人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。この預言はイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前はあまり有名ではなかったと思われます。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど理解不能だからです。使徒言行録8章に出てくるエチオピアの高官はイザヤ書53章は一体誰のことを言っているのか途方に暮れていました。しかし、十字架と復活の後は不可解でもなんでもなくなりました。もちろん、イエス様は最初から全てをご存知でした。言うまでもなく、彼は創造主の神のひとり子なので神の意思をよく知り得る立場にあったからです。それで旧約聖書を正確に理解し人々に教えたのでした。さらに彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思、神が望んでいたことを実現することもやってのけたのです。

 

3.キリスト信仰者はイエス様の言われることが当然になる

 

 イエス様は神が望んでいたことをやってのけた、その神の望んでいたこととは何だったのでしょうか?人間は神の意思に反しようとする罪を持ってしまったために神との結びつきを失ってしまった状態にある、その状態を変えて人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしよう、ということでした。この結びつきは、逆境の中にいようが順境だろうが何ら変わらない結びつきなので、いつも神から守られ導いてもらえることになります。どこに導いてくれるのかというと、この世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体、朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて神の国に迎え入れられるところにです。そのような結びつきを持てるように、それを持てなくしてしまっている罪の問題を解決するために神はイエス様はこの世に贈られたのでした。人間の罪を全てこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせたのでした。

 

 そこで人間がこのイエス様の犠牲の死は自分のためになされたのだとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると神との結びつきを持てて生きられるようになります。まさに本日の旧約の日課イザヤ書53章で預言されていたこと、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、これがその通り起こったのです。与えられた平和とは、新約聖書では「神との平和」と言われます。まさに神との変わることのない結びつきです。新共同訳では「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますが、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼と一緒になることで私たちは癒された」です。彼と一緒になるというのは、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられるということです。癒されたというのは、罪という霊的な病から癒され、神罰を受けないで済むようになったということです。

 

 イエス様は十字架で死なれてそれで終わったのではありませんでした。三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれたのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、その道に置かれてそれを歩むようになったのです。その道は変わることのない神との結びつきを持てて歩む道です。

 

 イザヤ書5310節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。」原文を直訳すると「主は彼を打ち砕くことを良しとし、彼を病める者にした。」つまり罪のない神のひとり子に人間の罪を背負わせて、あたかも彼が罪の病に冒された者にしたということです。それで神罰を受けるに相応しい状態にしたのです。

 

 「彼は子孫が末永く続くのを見る。」原文を直訳すると「彼は後に続く者が長く生きるのを見る。」つまり、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が神の国に迎え入れられて永遠の命を生きるということです。

 

 「主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」原文を直訳すると「主の望まれることは彼を通して成功する」または「主の喜びは彼を通して強められる」とも訳せます。まさにイエス様の十字架と復活の業を通して神が望んでいたことが成功裏に実現したということです。その神が望んでいたこととは人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにすることです。それが実現したので神は大いに喜んだということです。

 

 キリスト信仰者がイエス様の言われることを聞いて従うのは、このように神に喜ばれる状態にして下さった方なので聞き従うのが当然という心になっているからです。もちろん、自分は神の目から見て至らないことだらけでとても喜ばれる状態になどない、と思ってしまうのですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼がある以上は、神との結びつきを持てて二つの世にまたがって生きるということはその通りです。神に喜ばれる状態にいることに変わりはありません。至らないことがあれば、罪の赦しに戻ってそこに留まればいいのです。

 

4.互いに仕え合い、重荷を背負い合うということ

 

 そこで仕える者になれというイエス様の命令について見てみます。神の国への迎え入れというのは復活の日まで待たなければなりません。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人はそこに至る道に置かれて今それを歩んでいます。その意味で神の国の一員としての人生が始まっています。今のこの世にあって見えない形での一員ですが、復活の日にそれが見える形になるのです。

 

 今この世にあって見えない形ではあるが既に神の国の一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられるのです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を歩むことを旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言っています。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛の欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さる、と教えています。

 

 この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。

 

 信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国への迎え入れに向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、祈りをもって支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない、きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そのように考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのがいいです。それ位、イエス様に背負ってもらった者が他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。

 

 以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への迎え入れの道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかになります。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるように、とひとり子を贈られたのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年10月11日月曜日

人間には不可能でも神には不可能ではないこと (吉村博明)

  説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月10日 聖霊降臨後第20主日

 

アモス書5章6-7,10-15節

ヘブライの信徒への手紙4章1216節

マルコによる福音書10章17-31節

 

説教題 「人間には不可能でも神には不可能ではないこと」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが少なくとも二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならそうできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちがダメだから貧乏人は大丈夫なんだ!よかった!という反応はありません。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と言っています。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。ここには金持ちこそ神の国に入りやすいという考え方が見え隠れしています。その辺のところを注意すると、イエス様の教えがよく分かるようになります。後ほど見てまいりましょう。

 

 もう一つの難しい教えは、親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないと言っていることです。そこまでしないと永遠の命が得られないと言うのなら、十戒の第四の掟で「汝、父母を敬え」と言っているのはどうなるのか?イエス様だって「隣人を自分を愛するがごとく愛せよ」と教えていたではないか?家財ならともかく親兄弟を捨てよ、とは矛盾も甚だしいのではないか?そういう疑問が起きます。ここは、新約聖書が書かれたギリシャ語の原文とルターが説き明かししていることを視野に入れて見直すと矛盾がないことがわかります。このことも後ほど見ていきましょう。

 

2.「神の国」、「永遠の命」について

 

 まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何か、確認する必要があります。聖書、特に新約聖書によく出てくる言葉です。意味をあいまいにしたまま話をすると議論はいろんな方向に飛び散って収拾がつかなくなります。男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。どこかで読んだのですが、グーグルには研究所があって不死の研究をしているとのことです。果たしてそれは良い研究でしょうか?

 

 聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。それは、一度この世で死ぬことを前提としています。それじゃ、不死ではないではないかと言われてしまいますが、不死ではないのです。キリスト信仰では、将来いつか今あるこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んでいて眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)とされた者は復活の体という朽ちない体、神の栄光を映し出す体を着せられて、創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて造り主である神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。それなので、この世を離れてから復活の日までの間は神のみぞ知る場所にいて眠っていることになります。イエス様は死んだ人を蘇らせる奇跡を起こされましたが、それは将来死者を復活させる力があることを人々にわからせるためでした。奇跡を起こす時イエス様は、この人は死んではいない、眠っているだけだ、と言っていたことを思い出しましょう。

 

 復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われています(黙示録214節、717節、イザヤ258節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ1219節、イザヤ354節、箴言2521節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも味わなくてすむところです。もう一つ、聖書には直接そう言われてはいませんが、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。フィンランドの教会の葬式ではいつも「復活の日の再会の希望」ということが言われます。

 

 そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは復活させられて永遠の「神の国」に迎え入れられるということです。

 

3.「永遠の命」は人間の力や努力で獲得できるものではない

 

 さて、男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって所有できる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、全ては永遠の命を得るためですから、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と答えました。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上における富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、というどこにでもある教訓話に見えます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。

 

 この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

 

 それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。

 

 ここで参考に詩篇1篇を見てみます。「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。

 

 ところが、この詩篇の理解の仕方について、聖書の研究者たちからは、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者は、この箇所は、人間が自分の造り主の定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育ち方や実の結び方がある、と言っています。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。

 

 しかしながら、そういう理解を教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美と考えてしまうのは人情でしょう。それで弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと考えられていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。

 

4.人間が永遠の命を持てるようにしてくれたのは神、人間はただ信じて受け取るのみ

 

 それならば、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能なことでも神には不可能ではない、と。人間の力で永遠の命を得ることが出来ないのなら、神が出来るようにしてやろうということなのです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?

 

 神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしたのでした。イエス様は人間の力の限界をわらかせた上で、自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そういうことをされたのです。イエス様は、人間が持つ神の意志に反すること全て、行い、考え、言葉すべてにおいて神の意志に反すること、そういう人間が永遠の命を持てなくなって神の国に迎え入れられなくなるようにしている壁を打ち破ろうと身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けられて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、この身代わりの犠牲の死は自分のためになされたとわかって、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると神から罪を赦された者としてみてもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると今度は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この神との結びつきは、人間が罪の赦しの中にとどまっている限りなくなることはありません。この結びつきのおかげで逆境の時も順境の時もいつも変わらない神の守りと導きのもとで生きることができます。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。そういう結びつきを持てるようになったのです。この大いなる救いは人間が成し遂げるものなんかではなく、神がひとり子を用いて成し遂げた業になったのです。人間はそれを信じて受け取るだけになったのです。

 

5.親兄弟家財を心で捨てるということ

 

 そうすると一つ疑問が起きます。永遠の命を持てて神の国に迎え入れられることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで果たされる、つまり、信仰と洗礼があれば天に宝を持つことになるというのなら、親兄弟家財を捨てることはどうなるの?という疑問です。イエス様は捨てないと持てないと言っているのではないのか?ここは、ギリシャ語の原文の難しさがあるところですが、そこには立ち入らないでルターが恐らくそれを踏まえて教えているので、それに沿って見ていきます(後注)。

 

 ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を人々のために役立てよ、と教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならないという局面に立たされたら、親兄弟家財を捨てよ、と教えます。そういう心構えでいることは、衝突がない時でも既に「心で捨てている」のだと言います。「捨てる」とは「心で捨てている」ということです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがしてしまいます。しかし、そうではないのです。先週の説教でも申し上げたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守る。大事なことは贈り主が贈り物よりも上にあるということです。もし、贈り物が贈り主を捨てろ、と言ってきたら、信仰者は贈り主ではなく贈り物の方を捨てなければならないということです。

 

 信仰と洗礼によって神との結びつきを持てるようになった、この世と次に来る世の双方を生きられるようになった、永遠の命、神の国、復活の日の再会が待っているんだと希望に燃えていれば、贈り物は贈り物にとどまります。贈り主を超えることはありません。イエス様が十戒の10の掟を2つの大原則にまとめた時、一番目に来るのが「神を全身全霊で愛せよ」でした。「隣人を自分を愛するがごとく愛せよ」は二番目に来ると教えました。これはまさに、贈り物を贈った方が上に立つことを言っているのです。

 

 ここで一つ難しい問題は親がキリスト信仰に反対して捨てよと言ってきた場合です。この場合、「心で捨てる」はどうなるでしょうか?贈り物と贈り主が衝突したから贈り物を捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する親を心で捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがしますが、少なくとも信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

 

 これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、果ては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」ということでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)マルコ102930節は二つの解釈が可能です。

まず、ギリシャ語原文

 ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου, 

 εαν με λαβε εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω και ζωην αιωνιον.

 

1εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてοςαφηκεν ...εαω μη λαβη (…) と見なす解釈

「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」

 つまり、親兄弟家財を捨てたらこうしたものを得られるのだということで、 これはスタンダードな解釈です。これだと、捨てないと得られないということになり捨てろというプレッシャーがかかります。

 

2)主節文をουδεις εστιν του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考える解釈

 「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」

 この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、あとはそれを失わないように生きようとするので親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。

2021年10月6日水曜日

神の創造の秩序と結婚 (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日

 

創世記 2章18-24節

ヘブライの信徒への手紙 1章1-4節、2章5-12節

マルコによる福音書 10章1-16節

 

説教題 「神の創造の秩序と結婚」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 

 またファリサイ派の人たちがイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回は旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて追い出してもよいという規定についてです。これもモーセの律法集の中にある規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。また、離縁状についても伴侶が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒をとても厳しく解釈して人々を驚かせているだけではないか。あいつを公衆の面前で立ち往生させてやるのにちょうどいい規定だ、そういう魂胆でした。

 

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対してイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のひとり子として父の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮した上でそうしたのだ、と。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か頑固おやじみたいな感じがしてしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδια「心がかたくなな状態」という意味です。「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どう深刻かと言うと、イザヤ書610節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時に、民の心を一層「かたくなに」するということがありました。それは、神の意思や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。

 

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心かというと、神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。それでは、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。つまり結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の意思ならば、そういう神の意思に基づいて一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

 

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は明らかにします。神に対して心がかたくななため、神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、この相手にはもう飽き飽きした、とか、あっちの方がよさそうだ、という自分の都合で書いていいものではないと言うのです。離縁状はやむを得ないものとして認可されてはいるが、その発動は創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時であるというものです。創造の秩序を損なうことには、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、神の創造の秩序を損なうことになるので離婚はしてはいけないということなのです。

 

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れたら、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?

 

ここで創造主の神がひとり子をこの世に送って私たち人間に何をして下さったかを思い返しましょう。ひとり子は十字架の死を遂げることで、神の意思に反する人間の罪を神に対して償って下さいました。人間は、この身代わりの犠牲の死は自分にためになされたとわかって、だからイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると神から罪を赦された者としてみてもらえるようになります。神からそう見てもらえるということは、神との間に平和な関係が築かれたことになります。この平和な関係は、人間が罪の赦しの中にとどまっていれば揺らぐことがなく、人間は逆境の時も順境の時も変わらぬ神の導きと守りの内に生きていきます。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を与えられて、永遠の神の御許に帰ります。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

 

自分はこんな大いなる人生を歩んでいるのだとわかった人は、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、イエス様の十字架を覚えているので赦しを与えることが自分にとっても相手にとっても大事なのだとわかります。自分が受けた大いなる赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。では、自分への言い聞かせはどうやってするのか?それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞くこと(ちょうど今みなさんされているように)、また自分で聖書を繙くことです。

 

ここで少し脱線しますが、フィンランドでは夫婦関係のセミナーが合宿形式でよく開催されます。女性も各界で男性と対等ないしそれ以上の立場で渡り合う社会で、女性が男性のために我慢するとか一歩も二歩も譲るということがないので夫婦関係は摩擦が顕在化しやすいと思います。それで夫婦関係セミナーということなのですが、週末とか夏休みの期間、自然の中の研修所にて、専門家の講義があったり参加者みんなでゲーム形式でコミュニケーション能力高めたり、お互いが経験や悩みを分かち合ったりします。私は参加したことはないのですが、ただ知的障がい者の親のためのセミナー合宿には2回ほど参加したことがあります。子供は子供のプログラムがあり、親のプログラムには夫婦関係のこともありました。これらの合宿セミナーは教会が主催するものもあれば、それ以外の団体が主催するものもあります。教会が主催するものであれば、もちろん赦しの実践ということが大事なテーマになります。夫婦関係というものは無意識にしきたり任せで保たれるという考え方ではなく、両者が意識して自覚して保っていくという考え方なのではと思います。

 

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

 

イエス様は、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉ですが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の言葉はとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、その意味は英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語の姦淫とか姦通は、最近の日本でもよく耳にする「不倫」ということになります。

 

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと思わされます。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序から見てそうなるからです。

 

男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを出て神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚ということになります。姦淫とは、外部のものが入ってきて一つの肉を引き裂いてしまうこと、せっかく神が結びつけたものを壊してしまうことです。そうすると、離婚の場合は違うのではないか、離婚したらもう結びつきを解消したのだから再婚は姦淫にならないのでは、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、イエス様はそうなるのだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は人間の目では別々になって解消したとしても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則上消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録にそうと記されます。人間が解消できたぞと思ったら、それは自分は神の結びつけの力よりも強いのだということになります。これは神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効には出来ないということの裏返しです。

 

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと文句を言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にするものかという気持ちを起こすかもしれません。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいいお方だ、という考えになってしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対して心をかたくなにすることです。

 

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様はどうしたでしょうか?他にも心の中で描いただけでも同罪だと言いました。そこまで厳しいことを沢山言って、人々に後ろめたい気持ちを持たせたり不愉快にさせて、自分は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との平和な関係を持てなくなっている状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けられて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。

 

イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しが注がれます。何も知らないで新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神の罪の赦しの中に留まって生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神の守りと導きの中で生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて神の方を向いて、背を向けないで考えるようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変わっていくでしょう。

 

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

 

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ1912節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

 

使徒パウロは第一コリントの7章で未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならないなどとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる日がやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ2414節など)。

 

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ2444節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。与えられる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは口で言うほど簡単なことではなく失うときは相当な痛みを伴います。しかし、その時こそ、キリスト信仰者は、私たちの信仰は「復活の再会の希望」がある信仰であることを思い起こします。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン