説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日
イザヤ書53章4-12節
ヘブライの信徒への手紙5章1-10節
マルコによる福音書10章35-45節
説教題 「神の国の一員として ― 君はなぜイエス・キリストの言うことを聞くのか?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所は読み通すと一見わかったような気がします。ああ、イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に、あなたが王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いした、この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言う、大いなる者になりたい者は仕える者になれ、上に立ちたい者は全ての人の召使い(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んで大抵の人は、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人はそれを振りかざしてはいけない、謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。日本は今衆院選の真っ最中です。候補者は当選したら選挙運動中に見せた謙虚さを忘れないでほしいと思います。
ところで、謙虚になれとか、人に仕えよということは別にキリスト信仰者でなくても美徳だとわかります。イエス・キリストが言ったから謙虚になる、人に仕える者になるという人はイエス様を尊敬し権威を感じるから従ってそうします。もし尊敬する人、権威を感じる人が別にある人はそれに従ってそうします。ひょっとしたら、自分は権威を感じる者などない、自分は自由意志でそうするのだという究極の美徳追及者もいるかもしれません。いずれにしても、誰かを尊敬して権威を感じるからその人の教えに従うというのは、キリスト教にも見られることです。しかし、大事なことは、なぜイエス様を尊敬し権威を感じるか、その答えをはっきり持っているかということです。それがはっきりしないまま尊敬したり権威を感じるというのはわけがわからないでそうすることになります。これは他の尊敬者、権威者の場合も同じです。
イエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方なのか、その答えは本日の三つの聖書の個所でも教えられています。要約して述べると、イエス様は私たち人間が今のこの世と次に到来する世の双方にまたがって生きられるようにして下さった方、それを自分の身を投げうってして下さった、だから尊敬に値し権威を感じる方なのです。今日はこのことを確認していきましょう。
2.現世的なメシアと王国、終末論的なメシアと王国
まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について預言しました。これは本日の日課には含まれていませんが、この預言の直後に二人がお願いしたというタイミングが重要です。このタイミングが何を意味するかわかればイエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方かわかる出発点に立てます。二人の弟子は、イエス様が死と復活を預言した時、いよいよイエス様を王に抱く神の国が実現すると直感したのでした。それで閣僚ポストを要求したのです。イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのか?ことは聖書の歴史に立ち入ることなので現代日本にいる私たちには縁遠く感じられるかもしれません。しかし、これを見ることでかえってイエス様の権威が身近に感じられるようになります。
イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデ王のような王が登場して、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された者になる、つまりこれがメシアと呼ばれる者ですが、その新しい王が民族を支配しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに彼は諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれていたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。
こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王が出て外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場します。これは占領者ローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者と思ったのでしょう。しかし、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまっては、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。
このような、ダビデ家系の王が現れて民族自決国家を実現するという考えは、この現世に実現するものです。現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもあったのです。今存在するこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神により新しい天と地に再創造される、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。終末論的なメシアと神の国の考えです。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。
どうしてこのような終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書60章、65章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、これまで現世的な王の下で現世的な王国復興を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するものと理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり取り込めていないことになります。
こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかしながら、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのです。お前たちの間で大いなる者になりたい者は互いに仕える者になりなさい、お前たちの間で第一の者になりたい者は全ての者の僕になりなさい、人の子は仕えられるために来たのではない、仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである、と。つまり、神の国の一員になる者は誰かが他の人の上に立って支配するのでなく、お互いが仕え合っているというものである。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、その王に従う者はみなそれに倣うのが当然というのです。
ヤコブとヨハネが示したような終末論的な神の国の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考えよりも旧約の預言を深く理解しているように見えます。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書53章には、神の僕が人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。この預言はイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前はあまり有名ではなかったと思われます。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど理解不能だからです。使徒言行録8章に出てくるエチオピアの高官はイザヤ書53章は一体誰のことを言っているのか途方に暮れていました。しかし、十字架と復活の後は不可解でもなんでもなくなりました。もちろん、イエス様は最初から全てをご存知でした。言うまでもなく、彼は創造主の神のひとり子なので神の意思をよく知り得る立場にあったからです。それで旧約聖書を正確に理解し人々に教えたのでした。さらに彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思、神が望んでいたことを実現することもやってのけたのです。
3.キリスト信仰者はイエス様の言われることが当然になる
イエス様は神が望んでいたことをやってのけた、その神の望んでいたこととは何だったのでしょうか?人間は神の意思に反しようとする罪を持ってしまったために神との結びつきを失ってしまった状態にある、その状態を変えて人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしよう、ということでした。この結びつきは、逆境の中にいようが順境だろうが何ら変わらない結びつきなので、いつも神から守られ導いてもらえることになります。どこに導いてくれるのかというと、この世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体、朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて神の国に迎え入れられるところにです。そのような結びつきを持てるように、それを持てなくしてしまっている罪の問題を解決するために神はイエス様はこの世に贈られたのでした。人間の罪を全てこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせたのでした。
そこで人間がこのイエス様の犠牲の死は自分のためになされたのだとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると神との結びつきを持てて生きられるようになります。まさに本日の旧約の日課イザヤ書53章で預言されていたこと、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、これがその通り起こったのです。与えられた平和とは、新約聖書では「神との平和」と言われます。まさに神との変わることのない結びつきです。新共同訳では「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますが、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼と一緒になることで私たちは癒された」です。彼と一緒になるというのは、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられるということです。癒されたというのは、罪という霊的な病から癒され、神罰を受けないで済むようになったということです。
イエス様は十字架で死なれてそれで終わったのではありませんでした。三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれたのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、その道に置かれてそれを歩むようになったのです。その道は変わることのない神との結びつきを持てて歩む道です。
イザヤ書53章10節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。」原文を直訳すると「主は彼を打ち砕くことを良しとし、彼を病める者にした。」つまり罪のない神のひとり子に人間の罪を背負わせて、あたかも彼が罪の病に冒された者にしたということです。それで神罰を受けるに相応しい状態にしたのです。
「彼は子孫が末永く続くのを見る。」原文を直訳すると「彼は後に続く者が長く生きるのを見る。」つまり、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が神の国に迎え入れられて永遠の命を生きるということです。
「主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」原文を直訳すると「主の望まれることは彼を通して成功する」または「主の喜びは彼を通して強められる」とも訳せます。まさにイエス様の十字架と復活の業を通して神が望んでいたことが成功裏に実現したということです。その神が望んでいたこととは人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにすることです。それが実現したので神は大いに喜んだということです。
キリスト信仰者がイエス様の言われることを聞いて従うのは、このように神に喜ばれる状態にして下さった方なので聞き従うのが当然という心になっているからです。もちろん、自分は神の目から見て至らないことだらけでとても喜ばれる状態になどない、と思ってしまうのですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼がある以上は、神との結びつきを持てて二つの世にまたがって生きるということはその通りです。神に喜ばれる状態にいることに変わりはありません。至らないことがあれば、罪の赦しに戻ってそこに留まればいいのです。
4.互いに仕え合い、重荷を背負い合うということ
そこで仕える者になれというイエス様の命令について見てみます。神の国への迎え入れというのは復活の日まで待たなければなりません。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人はそこに至る道に置かれて今それを歩んでいます。その意味で神の国の一員としての人生が始まっています。今のこの世にあって見えない形での一員ですが、復活の日にそれが見える形になるのです。
今この世にあって見えない形ではあるが既に神の国の一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられるのです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を歩むことを旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言っています。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛の欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さる、と教えています。
この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。
信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国への迎え入れに向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、祈りをもって支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない、きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そのように考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのがいいです。それ位、イエス様に背負ってもらった者が他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。
以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への迎え入れの道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかになります。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるように、とひとり子を贈られたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン