2023年5月22日月曜日

我ら、使徒言行録の続編を生くる者 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)



スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「我ら、使徒言行録の続編を生くる者」

  

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

 さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。

 

2.昇天とはいかなる現象か?

 

 新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(19節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。

 

 ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。

 

 そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ1462節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

 

 これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

 

 ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国というところについて

 

 イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?

 

 毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

 

 なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

 

 ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

 

 それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。

 

 どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。

 

4.我ら、使徒言行録の続編を生くる者

 

 以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。

 

 ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?

 

 ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙414節、ティモテへの第二の手紙411節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。

 

 ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。

 

 ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録1610節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。

 

 このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?

 

 ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ2447節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。

 

 続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。

 

 ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。

 

 しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。

 

 それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。

 

 人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。

 

 使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

2023年5月11日木曜日

神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会

 

使徒言行録7章55-60節

ペトロの第一の手紙2章2-10節

ヨハネによる福音書14章1-14節

 

説教題 「神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

 

 弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

 

 ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ133336節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

 

2.道の決定版、真理の決定版、命の決定版

 

 イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

 

 そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。

 

 しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 

 イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。 

 

 このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。

 

 話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そういうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。

 

 しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

 

 道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。

 

 真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。

 

 次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.父なるみ神と御子は一体

 

 7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。

 

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

 

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

 

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ167節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

 

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

 

 自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。

 

4.おわりに

 

 イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。

 

 しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。

 

 ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年5月2日火曜日

罪の赦しというお恵みに生きる者の覚悟と心構え (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2023年4月30日 復活後第四主日

 

使徒言行録2章42-47節

ペトロの第一の手紙2章19-25節

ヨハネによる福音書10章1-10節

 

説教題 「罪の赦しというお恵みに生きる者の覚悟と心構え」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の個所はイエス様のたとえの教えです。日課は10節までですが、本当は16節までがひとくくりのところです。どういう流れかというと、最初15節までイエス様は羊の囲いについて話をします。羊飼いや羊を盗む泥棒のこと、羊飼いが羊の群れを囲いから出して牧草地に連れて行くことを話します。これを聞いた人たちは、何のたとえかわかりませんでした(6節)。それでイエス様は7節から説き明かしをします。まず、自分は羊の囲いの門であると明かします。7節から10節までです。その次に自分は良い羊飼いであると言います。11節から16節までです。

 

 これらを聞くと、ああ、イエス様は私たちを守って下さるお方なんだ、何とありがたいお方なんだという気分になります。しかし、具体的にわかろうとすると難しくなります。イエス様が良い羊飼いのように私たちを危険から守り導いてくれると言っているのはわかりますが、イエス様が囲いの門というのはわかりにくいと思います。それに、囲いの門は何を意味しているのか?牧草地は何を意味しているのか?皆さんは直ぐわかるでしょうか?

 

 実を言うと、これらのたとえの正確な意味は、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活と結びつけないでイエス様の教えを理解しようとすると、自分に都合の良い解釈がどんどん生まれていき、イエス様が言いたいことはこれだなどと言ってしまう危険があります。注意しないといけません。

 

 本日の日課は、イエス様が自分を羊の囲いの門であると言うところまでです。本当は良い羊飼いと言っているところまであった方がいいのになと思ったのですが、囲いの門のたとえは本日の使徒書の日課、ペトロの第一の手紙の箇所と合わせてみると、より深く理解できることに気づきました。それで日課が囲いの門どまりであったことに感謝した次第です。

 

2.日常的な出来事をもとに

 

1節から5節はたとえそのものです。イエス様は本当に当時の社会の日常的なことを話します。

 

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 

 羊の飼育が盛んなところでは、木材や石材で塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。泥棒が「乗り越える」というから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方から、囲いの中には、複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられる、別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がる、イエス様は羊飼いと羊のそんな理想的な関係について言われます。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

 

 以上の話は、当時の人には日常的な当たり前な話でした。イエス様が日常的な事柄を話していることは、ギリシャ語の原文を見ると、ここの動詞のほとんどが現在形であることからわかります(後注)。しかし、これを聞いた人たちは、話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになりました。それで、イエス様は自分は囲いの門である、自分は良い羊飼いであると明かしたのです。しかし、それでも、まだ十字架と復活の出来事の前ですので、イエス様がどういうふうに囲いの門なのか、良い羊飼いなのかはわかりません。しかし、私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているのでわかる立場にあります。以下それについて見ていきましょう。

 

3.イエス様は羊の囲いの門

 

 イエス様は、自分は羊の囲いの門である(7節)と言って、たとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ギリシャ語原文を見ると、ここの動詞は全部現在形ではなく未来形になっています。救われることも牧草地を見つけることも未来の意味になっていて、日常を超える話をしているのだというシグナルを出しているのです。ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったりする日常的な放牧の営みのイメージを出しています。ところが、原文ではそうは言っていません。「囲いの中に入って、外に出ていく」と未来形で言っていて、その結果、牧草地を見つけると未来形で言っています。囲いの中に入ることも、外に出ていくことも、牧草地を見つけることも全て日常を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?答えのカギは、囲いの中に入る際にイエス様という門を通らなければならないということがあります。さあ、ここで、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

 

 イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。どんな群れかというと、創造主の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を進む者たちの群れです。この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども、結局はそれらに聞き従わず、イエス様の声に聞き従った者たちです。

 

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

 

 このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世の人生を生きることを意味します。

 

 それでは、二つの世のまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、そのためには神と結びつきを持てることが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。どうして持てないかと言うと、もともと人間は天地創造の時に造られた時はそれなりに良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。贈って何をしたかと言うと、あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたのです。

 

 そこで今度は人間の方が、このことは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになったのです。

 

 このように、私たちが造り主の神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の両方を生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。それがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ146節で宣言します。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

 ギリシャ語原文では、道、真理、命、それぞれに定冠詞ヘーηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんご存知のtheです。イエス様は天の父なるみ神のみもとというゴールに至る唯一の道、真理、命であると自分で言っているのです。いろいろ沢山ある道、真理、命の中の一つではなく、自分が決定版であると、他でもないイエス様が言っているのです。

 

4.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その1

 

 こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?良い羊飼いがついているから何も心配いらない、いつも安心安全な進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。ここで、主が共にいるから確かに心配はいらない、しかし、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

 

 それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に留まっています。もちろん、罪の赦しを頂いたので、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと恐れたり、そういう至らない自分に失望します。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者はまた神の意思に沿うようにしなければと心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

 

 キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、罪の赦しの確認ということを繰り返してこの世を進んでいきます。これこそが罪の赦しに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き裂こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。ある時は、お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、別の時には、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとします。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書の神を嘘つき扱いします。そういう声は特に苦難や困難に陥った時には耳に響いてきます。しかし、それらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向ける、罪の赦しに留まります。そうすることが、自分は罪に逆らっている、罪を憎んでいることを証しします。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

 

5.罪の赦しというお恵みに生きる生き方 その2

 

 このように罪の赦しに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことが罪の赦しに留まって生きることになります。

 

 罪の赦しに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。または、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

 

 この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」この訳ではダメです。「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神から見れば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。確かにギリシャ語のカリスは「恵み」以外にもいろんな意味があります。しかし、「御心に適うこと」は少し離れてしまっていると思います。「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、訳した人は、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えて、それで「神の御心に適うこと」にしたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。それでは、善を行って苦しみを受けることがどうして神からすれば恵みになるのか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。そのことを見る前にもう一節見てみます。

 

 19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」ここも「御心にかなうことなのです」と言っていますが、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。これに関連してもうひとつ訳の問題点があります。「神がそうお望みだとわきまえて」とあります。ギリシャ語原文を直訳すると「神に関わる良心のゆえに」です。「神に関わる良心のゆえに不当な苦しみを受ける」です。「神に関わる良心のゆえに」とは一体何でしょうか?これはもう、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています。

 

 この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

 

 さあ、大変なことになりました。善を行うことで苦しみを受け、それを耐えることは神からすれば恵みである、良心が神に縛られているゆえに不当な苦しみを耐えるのは恵みであるという。どういうことでしょうか?

 

 ここで「善を行う」と言う時の善とは何かについて確認します。これは20節の「罪を犯す」の正反対のこととして言われています。それなので、「善を行う」とは神の意思に沿うように生きることです。罪を犯すことは神の意思に背くことだからです。神の意思に沿う生き方とは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛し、その愛の上に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。もっと具体的には十戒を見ればわかります。人を傷つけることはしてはいけない、不倫してはいけない、偽証してはいけない、妬んだりしてはいけない等々、いけない尽くめです。これをルターの小教理問答書風に言えば、これらの逆のこともしなければいけないということです。困っている人を助け、夫婦関係を大事にして守り、陰口をたたかない、悪く言われる人に良い面があることを見つけてあげる等々をしなければならないということです。

 

 そう言うと、あれっ、キリスト教って、神から罪の赦しがお恵みのように与えられるのを福音と言っていたんじゃなかったっけ?律法を行うことで救われるという考えは取らないんだから、人間に善いことをしろと命じたら恵みは意味がなくなってしまうのでは?そんな疑問が出てくると思います。本当にその通りです。キリスト信仰では罪の赦しは神のお恵みなので、人間がいくら善い業を行っても赦しを得られることにも、確実にすることにもなりません。だから、ペトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせずご褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることや救われることと何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えられる律法とは異っています。善い業を行っても裏目に出たら嫌だな、褒められたり褒美をもらえるほうがいいなと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなるような教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

 

 もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。それから、わざわざ不当な扱いを受けることを目的にして善い業をする必要はありません。善い業は神の命令であって、何かの目的の手段ではないからです。

 

 これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

 

 以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

(後注)ただし、「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」のところは未来形です。これは、他の者が近づくことが通常のことではなく例外的なことを表すためにその形にしたと考えられます。