説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日
使徒言行録1章1-11節
エフェソの信徒への手紙1章15-23節
ルカによる福音書24章44-53節
説教題 「我ら、使徒言行録の続編を生くる者」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。
2.昇天とはいかなる現象か?
新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。
ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。
そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。
これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。
ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
3.天の御国というところについて
イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?
毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。
なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。
ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。
それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。
どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。
4.我ら、使徒言行録の続編を生くる者
以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。
ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?
ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。
ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。
ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。
このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?
ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。
続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。
ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。
しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。
それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。
人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。
使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。