2017年1月30日月曜日

イエス様につき従った弟子たち、そして私たちは (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師)

主日礼拝説教 2017年1月29日(顕現節第四主日)

スオミ・キリスト教会

イザヤ書43章10-13節
コリントの信徒への第一の手紙1章26-31節
マタイによる福音書4章18-25節

説教題 「イエス様につき従った弟子たち、そして私たちは」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時イザヤ書の預言通りに聖霊が彼に降って、いよいよ天地創造の神が定めていた人間救済計画の実現に乗り出すことになります。イエス様はまず、ユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けて、最後にこれに打ち勝って、それからイザヤ書の預言通りにガリラヤ地方にて活動を開始しました。ただし、自分が育った町ナザレでは人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに活動の拠点を移しました。以上がイエス様が洗礼を受けた出来事から本日の福音書の日課までのあらすじです。本日の福音書の箇所は、カペルナウムに移った後で何が起こったかということについてです。

イエス様がガリラヤ湖畔を進んで行くと、二人の漁師が投げ網漁をしていました。二人は兄弟で名前をペトロとアンデレと言いました。彼らに向かってイエス様が言います。「私に従って来なさい。お前たちを、人間をつかまえる漁師にしよう。」「人間をつかまえる漁師」とは、エレミア書1616節にある預言の言葉です。この預言は、イエス様の時代から600年くらい前に遡った頃に与えられました。その意味ですが、預言が与えられた時代の文脈でみると、バビロン捕囚のために世界各地に散り散りになったイスラエルの民を将来、イスラエルの地に戻す、漁師が魚を捕るように集めて戻す、ということです。つまり、バビロンからの帰還を意味するという理解がされました。さて、イスラエルの民の祖国帰還はイエス様の時代から500年程前に実現しました。それでは、イエス様はどのような意味でこの古い預言の言葉を述べたのでしょうか?実は、このような預言は、イエス様の時代には、死者の復活とか最後の審判ということを考える人たちの間では、そういうこの世の終わりの時にメシア救世主を信じる者が世界中から集められて神の国に迎え入れられる、そういう理解がされていました。ただ、漁師のペトロとアンデレはそのような理解をしたでしょうか?そもそも二人はそのような預言があること自体を知っていたでしょうか?いずれにしても、二人は「すぐに網を捨てて」イエス様に従って行きました。こんなに簡単について行くというのはどういうことでしょうか?

ペトロとアンデレだけではありませんでした。さらに進んでいくと、舟の中で父親と一緒に網の手入れをしている二人の兄弟が見えました。名前はヤコブとヨハネ。イエス様が声をかけると、この二人の兄弟も「舟と父親を残して」イエス様に従って行きました。

4人の漁師たちは、ただ声をかけられただけで、そのまま「網を捨てて」、「舟と父親を残して」すっとイエス様に付き従って行ってしまいました。イエス様を一目見て、その一声を聞いて付き従って行ってしまうとは、何か不思議な力が働いているとしか言いようがありません。この段階ではイエス様は、まだ権威ある教えを大々的に述べて、奇跡の業を行うことはまだしていません。彼がガリラヤ全域の会堂で教えを宣べ始めて奇跡の業を行い出すのは、本日の福音書の日課で言われるように、4人の漁師を弟子にした後のことだったのです。この段階では、彼らにとってイエス様はまだ素性のわからない人物です。それなのに、一声かけられて生業も父親もほっぽり出して、そのまま付き従って行ってしまうとは、これはもう人間の内側の心理的なやり取りで説明できる話ではなく、人間の外側から働く力、まさに神の力によるものだったとしか言いようがありません。それはまさに、イエス様が、病気から治れと命じたら治ってしまうように、嵐よ、静まれと命じたら静まってしまうように、また、悪霊よ、この人から出て行けと命じたら出て行ってしまうように、イエス様がついて来なさいと言ったら、そうなってしまうのです。マタイ99節をみると、徴税人のマタイが座っていたところをイエス様に声をかけられるやいなや有無を言わずに立ち上がって従って行った、とありますが、これも同じことでしょう(マルコ214節とルカ52728節では徴税人の名前はレビ)。

2.イエス様につき従った弟子たち

イエス様が呼び出したらもうついて行かざるを得ないということは、本日の旧約の日課イザヤ書の預言が実現したことを意味しています。そこでは、神が自分が成す業を目撃してその証人になる者を選ぶということが預言されています。イザヤ書4313節をみると、「今よりも後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰がもとに戻しえようか」とあります。「わたしの手から救い出せる者はない」というのは、少し注釈が必要です。「救い出す」と言っているのは、ヘブライ語の動詞נצלをそう訳しているからですが、「悪から救い出す」と言うのならわかりますが、「神から救い出す」というのは意味をなさないと思います。この動詞の基本的な意味は「取り去る」です。それで、「わたしの手から取り去る者はない」の方がよいでしょう。つまり、神が証人として選んだ者はもう神の手にしっかり握られているので、何をもってしても証人をやめさせることはできない、ということです。まさに、「わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか」ということです。このイザヤ書の預言に従えば、イエス様が4人の漁師をはじめ弟子たちを呼び集めたというのは、第一にイエス様の業と教え、そして彼に起きる出来事をつぶさに目撃させて、その証人になってもらうことがありました。第二には、この呼び集めは神の力で行うものなので、一度呼び出されたら個人的な事情は関係なく、ただやるしかないことがありました。神の力でイエス様の目撃者、証人にさせられるというのが、イエス様の弟子の呼び集めの趣旨であったと言えます。

 そうすると、イエス様の教えや業や出来事の目撃者、証人になることはよいにしても、有無を言わさずにあたかも人形の駒のように呼び出しに従わせるのは、ちょっと強引すぎるのではないかと思われるかもしれません。しかしながら、天地創造の神は、人間救済計画を実現する時が来た、それを一気に実現してしまおうとしたのです。この、一気に実現してしまおう、という神の意気込みは、イエス様のこの世での活動の期間がとても短いものであったことからもうかがえます。聖書の読者には意外かもしれませんが、イエス様が神の計画の実現に携わった期間というのはとても短かいものでした。マタイ福音書を見ると、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて活動を開始してから十字架と復活の出来事までページ数は58ページあります。ところが、誕生から洗礼までは2ページしかありません。そのためイエス様の活動期間は長かったような印象が持たれるのですが、この期間は普通、大体3年位と見なされています。短く見積もる研究者は大体1年ぐらいと言う人もいます。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半を占める活動期間の出来事は、実に生涯の最後の期間、短くて1年、長くて3年位の期間に集中しているのです。神が計画されていたことを速やかに確実に成し遂げるという時に、弟子たちの呼び集めというものも完全に神主導になって有無を言わせない動員になったと言うことができます。

 イエス様がこの地上での生涯のまさに最後の期間に行ったことというのは、まさに神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済計画とは、端的に言えば、人間を神の国に迎え入れられるようにするということです。イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。先週の説教でもお教えしましたように、「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に到来する神の国とは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子イエス様を用いて人間のために罪の赦しの救いを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の身代わりの死に免じて確立した罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に迎え入れられるようにと、天の父なるみ神の意思に忠実に従って、十字架の死と死からの復活の業を成し遂げて、神の人間救済計画を実現しました。つまり、この地上での生涯の最後の13年ほどの短い期間に本当にとてつもないことを成し遂げられたのです。全ての人間の罪の罰を全部請け負って、人間が罪の赦しを受けられて神の国に迎え入れられる道を開いたのです。神の国に迎え入れられない絶望的な状況を希望ある状況に変えて下さったのです。

この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを呼び集めました。弟子たちに課せられた使命は、イエス様と共にいてその教えと業そして起きる出来事をつぶさに見聞きして目撃者になること、そしてイエス様から授かった教えと力をもって、神の国の実在を証しして罪の赦しを宣べ伝えることでした(マルコ31315節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害にも屈しない命がけの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが彼を救い主と信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、最終的に弟子たちの証言やそれに基づく教えや信仰の証しがまとめられて、聖書の新約の部分ができあがりました。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じることはできません。イエス様が門を開いて下さった神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救いが国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を果たしたのです。

イエス様が使徒と呼ばれる弟子たちを選んで呼び出したのは、このような重要な役割を担わせるためでした。この呼び出しは、神のひとり子の十字架の死とその死からの復活という、まさに人類を闇から光に方向転換させる出来事を間近にして行われました。このような大きな出来事を間近にしたイエス様の呼び出しに個人的な事情を顧みない、有無を言わせない力があったというのは当然でしょう。本当に何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気がありました。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様につき従い始めた弟子たちの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。

イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7110節、マタイ8513節)。ところが、呼び出されても自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しかったです。ある呼び出しを受けた人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死者は死んだも同然の者たちに葬らせればよい」と答えます(ルカ95960節、マタイ82122節)。神の力が及んでも、人間の自由意思がそれを押しとどめた例と言えます。その人がそのままイエス様に従って行ったかどうかはわかりませんが、神の力が及んで付き従った筈の弟子たちにも、自由意思の葛藤はもちろん起きます。「私たちは全てを捨てて従って来ました、何をいただけるのでしょうか」という情けない質問も出ました。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆逃げてしまいました。しかし、そうした、神の力と人間の自由意思の葛藤に揉まれるというプロセスを経て、イエス様の復活を目撃した後は、迫害にも屈しない文字通りの「使徒」に変えられたのでした。

3.そして、私たちは

それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されて、4人の漁師のように、生業やさらには親や家族を置いて出て行かなければならないのでしょうか?それが私たちにとってイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここでひとつ注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。実現の目撃者、証言者になって聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様の弟子になります。私たちがイエス様の弟子になるというのは、まず、実現済みの救いを受け取る者になるということを意味します。それから、「イエス様の十字架と復活の業は自分のためにもなされた、だからイエス様は私の救い主です」と言って、周りに証しできることも弟子であることの内容です。そして、周りの人もイエス様を救い主であることをわかって信じることが出来るように働きかけることも入ります。大きく言って、救済の実現に際して特別な役割を託された弟子たちとは状況と立場が少々異なっているので、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しは恐らくないのではないかと思われます。ただ、もちろん、周りに証することは弟子たちと共通しているので、それを忘れてはならないと思います。

ところで、キリスト信仰者は、堕罪の時以来、人間を神から切り離して神の国に入れないようにしようとする力が今もずっと働いているということを忘れてはいけません。そのため、その悪い力は手立てを尽くして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者からその信仰を取り去ろうとします。究極的な場合、肉親を信仰の反対者に立てて、信仰を捨てるか肉親を捨てるかどちらかを選べという苦しい選択に追い込むこともします。そのような時は、どうしたら良いでしょうか?

昔フィンランドで聖書を学んでいた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、十戒の第四の掟『父母を敬え』はどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てたり取り乱したりせず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。」

 信仰に反対する者に対して敬意をもって自分の立場を明らかにするというのは、ダニエルがバビロン帝国のネブカドネツァル王に言った言葉を思い出します。ネブカドネツァルは、ダニエルに対して、王が作った金の像を拝むか火の炉に投げ入れられるか、どちらかを選べと言われて、次のように答えました。

「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ずや救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル31618節)

 キリスト信仰者においては、捨てる、捨てない、と言っている信仰とは一体何なのかということをしっかり明らかにしておかなければなりません。それがはっきりしないのに、捨てるとか捨てないとか言っても、話になりません。信仰とは、本説教で申し上げてきたことに関連して言えば、大体次のようなことになります。イエス様が自分のために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで、私は神聖な神の前に立ってもやましいところがない、潔癖な者であると見なしてもらえるようになった、ということを本当にその通りだとしていることです。

本当ならば神聖な神の前でやましいところがない、潔癖だなどとは言えない身なのですが、イエス様が神聖な神のひとり子でありながら私の身代わりになって十字架の上で死なれた、それでイエス様こそ救い主です、と信じて告白すれば、神は彼の身代わりの犠牲の死に免じて私にはやましいところがない、潔癖な者として見なして下さるのです。このことは、人間がこの世の人生を終えて、次の未知なる大いなる世界に足を踏み入れる時にとても大事なことになります。なぜなら、この全く未知の恐るべき世界に足を踏み入れる時、自分には手を取って御許に引き上げて下さる方がおられるとわかることができるからです。私のことをやましいところがない、潔癖であると認めて下さる方がいらっしゃるので、それがわかるのです。本当に神がそのように認めてくれるというのは、あの2000年前の彼の地に打ち立てられた十字架という歴史上の出来事があるから、わかるのです。

 そのように、大いなる安心と信頼をもって、自分の全てを大いなる意思に委ねて未知の世界に足を踏み出すことができる。このような安心と信頼を、どうして捨てなければならないのでしょうか?また、どうして奪い取ろうとするのでしょうか?奪い取ろうとするのは、何かもっと確かな安心と信頼を保証してくれるからなのでしょうか?奪い取ろうとする者がそれを示せると言うのなら、イエス様の十字架を超えるような出来事が歴史上あったのか示せると言うのでしょうか?もし示せないで奪い取ろうとするのならば、一体何のために奪い取ろうとするのでしょうか?自分ではその大いなる安心と信頼を求めたいと思わないのでしょうか?全く理解できないことです。

最後に「ペトロの第一の手紙」31316節の聖句を引用して本説教の締めとしたく思います。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2017年1月23日月曜日

悔い改めよ。神の国は近づいた。 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年1月22日(顕現節第三主日)
スオミ・キリスト教会

アモス書3章1-8節
コリントの信徒への第一の手紙1章10-17節
マタイによる福音書4章12-17節

説教題「悔い改めよ。神の国は近づいた。」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イザヤの預言の成就

 先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてでした。イエス様という本来ならば洗礼など必要のない神聖な神のひとり子がなぜ洗礼を受けなければならなかったのか?それは、イザヤ書に記された預言に従って、創造主の神が人間救済計画を実現するために必要な手続きであった、ということを先週の説教でお教えしました。洗礼の後でイエス様に何が起きたかと言うと、ユダヤの荒野で40日間に渡って悪魔から誘惑の試練を受け、それに打ち克つという出来事がありました(4111節)。そのことがテーマになる主日は、日本のルター派教会では、イースター前の四旬節の最初の主日に定められています。今年は35日です。イエス様が悪魔から受けた試練については、その時に譲りたく思います。

本日の福音書の箇所は、イエス様が悪魔の誘惑の試練に打ち克った後に起きた出来事についてです。イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。まず、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたという報が伝わります。捕えられた理由は、ヨハネがアンティパスの不倫を神の意思に反することだとはっきり言ったためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14112節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤ地方に乗り込んでいきます。(新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、アンティパスの本拠地に行くわけなので、「退かれた」ではないでしょう。)ただし、育ち故郷の町ナザレに戻ってそこを活動拠点にはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。ナザレに戻ったイエス様に何が起こったかということについては、ルカ41630節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

イザヤ書の預言は、同書の823節から96節までのところです。この預言が語られた歴史的背景を見てみます。時は紀元前700年代、ダビデ王の王国が南北に分裂して二つの王国が互いに反目しあって200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北側のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南側のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王様から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、「攻撃は絶対成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と宣べ伝えます。実際、北王国とその同盟国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダ王国に対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。引用元のイザヤ書823節に次のように記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルン、ナフタリというのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には北王国にあたります。それで、同国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ことを指します。しかし、預言は一つの国の滅亡に終わりません。まだ続きがあります。同じ823節の後半で、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く91節からの預言に記されています。聖書の中で有名な箇所の一つです。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。預言はさらに続きます。956節には次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

この預言が示されてから700年の後、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ「人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である」とわかったのです。そして、ああ、そう言えば、イエス様の公けの活動はまさにガリレア地方で始まったではないか!と思い当たり、そうか、あれは全てイザヤ書823節から96節までの預言の成就だったのだ、とわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ですが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのです。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りです。このように創造主である神は、人間救済計画がどのように実現されるかということを、何百年前だろうが前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な方なのです。

2.「悔い改めよ」

少し前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が神に向けられるように限定されたのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があって、それに対応するギリシャ語は何か?ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情がありました。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていた生き方を改めて、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるという意味になりました。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは新約聖書の中では「神のもとに立ち返る」という意味です。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間は自分の造り主である創造主の神とどんな関係にあるかということを考えてみる必要があります。神との関係はいいのか?悪いのか?うまくいっているのか?いっていないのか?

人間と神との関係について、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然、行為に及ばなくても神が与えた十戒の第5の掟を破ったことになる、また異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えました。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになると言うのです。そうなると、神の意思を凝縮した十戒の掟を全てそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しなくなります。

マルコ7章の初めにはイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートとの論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。イエス様の論点は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神の裁きを免れて永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできない。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送り、全ての人間の全ての罪の罰を彼に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦す、というものでした。人間は誰でも、このイエス様を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになりました。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、まずイエス様の神聖な純白な衣を頭から被せられること。もちろん自分の内に残る罪は必ずや、その衣を脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪は純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「父なるみ神よ、私の罪を赦して下さい。イエス様以外に拠り頼む方はいません!」と祈れば、神は「わかった、私のイエスの身代わりの死に免じてお前を赦そう、もう罪は犯さないように」と言って下さり、私たちがイエス様の白い衣をしっかり纏っていられるようにして下さるのです。本当にイエス様こそが「神のもとへの立ち返り」の手がかりであり、それ以外にはないのです。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々は、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれたでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に自らを十字架の死に委ね、死から復活させられたことをもって全てを明らかにしたのです。

3.「天の国は近づいた」

 次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイは、「神」という言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、それで「天の国」と言います。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を述べていました(マタイ32節)。しかし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動した時、ヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様もご存知のように、イエス様は数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりするという無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、例えば黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章には、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、人々はイエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前になっているところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを入れるようにして下さったのがイエス様なのでした。イエス様の十字架の死と死からの復活が全てを可能にしたのです。父なるみ神がひとり子を用いて私たち人間のために「罪の赦しの救い」を実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちはこの救いの所有者になります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのです。

4.おわりに

さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時というのは、神の国がその日に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は今、私たちと無関係にあるのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのです。「我らの国籍は天にあり」(文語訳フィリピ320節)というのは、まことにその通りです。キリスト信仰者は二重国籍者です。もちろん現実の世界で二重国籍を認める国は多いので、そういう人たちも多くいます。しかし、死んでしまえばゼロです。天の御国に国籍がある二重国籍者は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍を持っています。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのです。この永住権の「永」は文字通り死を超える永遠のものです。キリスト信仰にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないという、そういうものがある、天の御国の国籍はまさにそれなのです。このことを忘れないようにしましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン