説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2017年1月15日(主の洗礼日)
スオミ・キリスト教会
イザヤ書42章1-7節
使徒言行録10章34-38節
マタイによる福音書3章13-17節
説教題「イエス様が受けた洗礼と私たち」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてです。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのでしょうか?ヨハネの洗礼というのは、救世主メシアの到来と来るべき神の裁きの日に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返るという決心をして、救世主メシアをお迎えするのに相応しい者になるということです。実際のところ、ヨハネのもとに来た人たちは、彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて清くなり神の裁きを免れると思っていたようです。しかし、ヨハネの洗礼はあくまで、もうすぐ来る救世主メシアを迎えるのに相応しい者にするということであって、罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。そのことについては、ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。
その救世主メシアであるイエス様自身がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は、神の神聖なひとり子であり、聖霊の力で乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれてきますが、罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は、なにも罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。ヨハネの洗礼というのは、今申し上げたように、受ける人が救世主メシアを迎えるのに相応しくなるようにするものです。イエス様が自分自身を迎えるのに相応しくなるなんて意味をなしません。ヨハネから洗礼を受ける必要など全くなかったのです。それだから、イエス様が目の前に現れた時、ヨハネは驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネのとまどいはよく理解できます。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?
この問いに対する答えとして、「イエス様は神の子でありながら、人間と同レベルになることに徹しようとした。それで、罪がないのに罪ある人間たちの間に入って洗礼を受けたのだ」と考える人もいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、連帯心の強い方ということですが、実はもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、それでもそうした捉え方ではとても収まりきれない、もっと大きなことがあります。その大きなこととは何かを知る手掛かりは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章にあります。そういうわけで、本日の説教は、イエス様がヨハネから受けた洗礼とは何だったのかということをイザヤ書の預言から見てみることにします。そして終わりのところで、イエス様が洗礼を受けたことが私たちにとって何だったのかということを見ていこうと思います。
2.
なぜイエス様がヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?この問いの答えは、本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が、躊躇するヨハネに対して、次のように言います。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」だからだというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためには、福音書のギリシャ語の原文を見てみる必要があります。この問題は以前にもお教えしましたが、少し復習します。
15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして義を全て成就することは我々にふさわしいのだから」。ふさわしいのは何かと言うと、「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνです。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています([英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle
Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme
Jumalan vanhurkaan tahdon)。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て成就する」でいこうと思います。
そこで問題となるのが、それでは「義を全て成就する」とは何なのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」というのは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒は、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など、人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は、十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。
この神の義というものを今度は人間の側について見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。その理由は、人間は内に罪と神への不従順を宿しているからです。十戒に反しようとする性向を持っているからです。人間が義を失った状態でいるとどうなるか?それは、創造主であり自分の造り主でもある神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。さらに、この世から死んだ後も造り主の神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、神との結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?そのことについてユダヤ教の中では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った掟や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能であると教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。
この世にいても次の世にあっても創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。それを持てるために成すべきことは十戒に定められている。しかし、神の神聖さにピッタリ合うくらいに十戒を完璧に達成することは誰にもできない。この行き詰まり状況を神自身が打開して下さったのです。どのようにして打開したかと言うと、ご自分のひとり子イエス様をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、このような犠牲の業を果たしたイエス様こそ自分の救い主であると信じて、この神が与えて下さった罪の赦しを受け入れた瞬間、神から義なる者と見なされるのです。もちろん、イエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り、罪の思いを持ち続けます。罪を完全に拭い去ることはできません。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを持って生きられるようになります。神との結びつきがあれば、残っている罪にもう人間と神の間を引き裂く力、人間を永遠の滅びに陥れる力はありません。「イエス様を救い主と信じますから罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった。私のイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言ってくれるのです。
このように神から罪の赦しを受ける者は、絶えず受け続けることで、残っている罪を日に日に干からびせていきます。ただ、イエス様を救い主と信じることで罪は決定的な打撃を受けたとは言え、それでも必ず隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。
3.
以上みてきたように、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来たのは、「義を全て成就する」ためでした。「義を全て成就する」というのは、人間が神の義を持てるようにしようとする神の計画を実現することでした。それでは、ヨハネから洗礼を受けることがどうしてそうした神の計画を実現することになるのでしょうか?
イエス様が洗礼を受けた時、何が起きたを思い出しましょう。まず神の霊、聖霊がイエス様に降りました。加えて、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は全て、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1-7節の預言がそのまま成就したことを示しています。イザヤ書に出て来る神の「僕」とはイエス様を指します。天から響く声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。
そこで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」と言われますが、どういうことでしょうか?3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいことです。「机の上に何か物を置く」というのはわかりますが、「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は、「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、それらの理解できる言葉を並べたら理解できなくなるというのは不思議です。英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」などと訳しています。もとにあるヘブライ語の言葉משפטが難しい言葉です。その基本的な意味は、「対立する者たちを仲裁して対立を解決する」ということです。そのような解決をもって得られたものとして、「正義」とか「正当な権利」も意味として入ってきます。さて、どの意味が適当なのでしょうか?それは、イエス様が実際に何をもたらしたか、何を実現したかをみればわかってきます。(そういうわけで本説教では、イザヤ書42章をバビロン捕囚が終わる日を預言したものではなく、エルサレム帰還後の時代を預言したものとみなします)。
先ほども述べましたように、イエス様は全ての人間の全ての罪の罰を請け負われて十字架の上で死なれました。その身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを受けることが可能になり、こうして神と人間の結びつきが回復して両者の間に平和がもたらされることになりました。つまり、イエス様がもたらしたものというのは、自分を犠牲にして神と人間の間を仲裁して両者の間を本来あるべき姿にもどしたということです。その意味で、イザヤ書42章1、3、4節で「裁き」とか言っているのは、そうではなくて、「彼は、諸国民のために神と人間の間に平和をもたらす」(1節)ということです。3節も、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、神と人間の平和を恒久に打ち立てる」(3節)となり、「暗くなることも、傷つき果てることもない、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは」(4節)ということになります。
実際、イエス様は十字架の業を通して、神と人間の間の対立関係を解消して平和な関係に戻すことを行ったのですが、それをどのように行ったかについてはイザヤ書42章の箇所によくあらわれています。2節「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」というのは、同じイザヤ書の53章の中にあるテーマと共通しています。そこでは、神の僕が人間の罪の償いのために自分を犠牲にする時、それは小羊が口を開かず物を言わずに屠られていくのと同じだと預言されています。
3節 神と人間の恒久の平和を打ち立てる時、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」打ち立てるというのは、詩篇51篇19節「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と同じテーマです。何が神に喜ばれる生け贄か?それは、神殿で多くの捧げ物をするような形式的な宗教的儀式ではない。そうではなくて、神に対して心から罪を悔いて新しく生まれ変わりたいと切望する心、また苦難にあって打ち砕かれて、どうか見捨てないで下さい、と神に必死にすがりつく心、そういう神以外に拠り頼むものはありませんという心を神は最上のいけにえと見なすのです。傷ついた葦、暗くなってゆく灯心とはまさに、打ち砕かれて悔いる心を持つ人のことです。イエス様は、そういう人たちを助けるために、自分自身を犠牲の生け贄にして人間が神との結びつきを持って生きられるようにしたのです。
4節 イエス様が「『暗くなることも、傷つき果てることもない』、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは」というのは、イエス様が十字架にかけられる寸前まで激しい拷問を受け、最後に五寸釘のような太釘で手足を十字架に打ち付けられながらも最後まで身代わりの犠牲を果たしたことを意味しています。
5節 天の父なるみ神が万物の創造主であることが言われています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」
その創造主である神と造られた者である人間との関係が、人間に罪が入り込んでしまったことで崩れてしまった。それを回復するために、神はひとり子を犠牲にして人間が神との結びつきを取り戻せるようにした。そのことが6節に言われます。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」新共同訳では「恵みをもってあなたを呼び」とありますが、「恵みをもって」というのは注意が必要です。ヘブライ語の辞書をみると確かにそうとも訳せると書いてありますが、英語、スウェーデン語の聖書をみると、「神の義において」という訳になっています。ヘブライ語の言葉בצדקはそうとも訳せるのです。「主である私は、私の義においてあなたを召し出した」ということになります。ただ、これでもまだわかりにくいと思います。ここで興味深いことは、フィンランド語の聖書では「主である私は、私の義なる計画に従ってあなたを召し出した」となっています。これは、先ほどもみましたが、イエス様がとまどうヨハネに対して、「義を全て成就する」のは大事だと言っていたことと一致する訳です。「義を全て成就」するというのは、神の義なる計画、つまり罪の赦しを打ち立てて人間を罪の支配下から救い出すという計画を実現することに他ならないからです。
こうして神のひとり子イエス様は、神と人間の平和を実現するために召し出されて、十字架の上でそれを実現しました。罪の支配下から抜け出せず、どうやって神との結びつきを得られるのか手立てのない人間を一挙に神の御許に導いて下さいました。それはさながら、7節で言われるように、目の見えない人たちを見えるようにし、牢獄で囚われの身となっていた人たちを解放するようなことだったのです。
以上から明らかなように、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書42章1-7節の預言が全て実現するために必要なことだったのです。洗礼を受けた時点で、1節にある聖霊の降臨と天から響く声の預言が実現しました。ここから、神の計画を実現するイエス様の活動が始まります。イエス様は、神の意思と将来復活の日に現れる神の国について人々に教えました。また無数の奇跡の業を行って神の国がどういうところであるかを示しました。そして最後は、本日のイザヤ書の日課にあるように、十字架の犠牲の業を成し遂げて、神と人間の間に平和をもたらし、神の義なる計画を実現しました。まさにイザヤ書の預言の成就のため、その預言に基づいて神の計画が実現していくために、イエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのです。
4.
最後に、イエス様の受けた洗礼には、私たちがキリスト教会で受ける洗礼を先取りしていることがあることを述べておこうと思います。それは、聖霊が降ったということです。ヨハネの洗礼は、受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。(そのことは使徒言行録19章に記されている出来事に明らかです。)キリスト教会の洗礼は、受ける人に聖霊が定着するように与えられる洗礼です。聖霊だの、霊だの、与えられるなどと言うと、事情を知らない人は薄気味悪い感じがするかもしれませんが、要は、イエス様が約2000年前に成し遂げた十字架の業というのは、現代を生きる自分のためにもなされたのだ、イエス様の身代わりの犠牲のおかげで自分は創造主である神と結びつきが持てて、生きるも死ぬも神から守りと導きを得られるようになったのだ、とわかり、それで十字架のイエス様は自分の救い主なのだと信じられるようになる、そのようにわかり信じる時には聖霊が働いているということなのです。逆に言うと、イエス・キリストなる人物が約2000年前に十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、というのは単に知識だけの話で、まだ聖霊が働いていません。実にイエス様を救い主と信じる信仰は、聖霊の働きによるものなのです。
聖霊が働いて、イエス様のことを単なる歴史上の人物ではなく、自分の救い主と信じられるようになった時、洗礼を受けることで聖霊をしっかり自分の内に定着させることになります。そうしてイエス様を救い主と信じる信仰を携えて神との結びつきの中で生きることができます。せっかくイエス様が自分の救い主とわかっても洗礼を受けないでいると、わかったことは一過性のものになって、知識に戻って、神との結びつきは得られないことになってしまいます。
赤ちゃんが洗礼を受ける場合はどうかと言うと、洗礼とは、ルターが教えていますが、神の言葉が水に結び付けられることで水はただの水ではなくなり、文字通り洗礼となります。それで、赤ちゃんにも罪の赦しの救いを贈り物として与えて、その所有者にする力のある水になることは大人の場合とかわりません。ただし洗礼を受けた後は、両親、教保、教会が子供の霊性を育てて、イエス様のことを知識ではなくて、ちゃんと自分の救い主であると信じられるように育てていかなければなりません。そうすることで子供も、定着した聖霊が働く大人になっていきます。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様のことが単なる知識にすぎなくなっていないか、それとも自分の救い主としておられるか、いつも注意し自己吟味することは、皆さんの霊性にとって大事なことですので忘れないようにしましょう。もし知識に戻ってしまうようなことがあれば、父なるみ神はいろんな仕方で信仰に引き戻そうとします。それは試練の形をとって起きることもあります。そのために心が打ち砕かれても、それはそれ位しないと知識の殻を破れないということなので、生まれ変わらせてもらうのにお任せするしかありません。しかし、そのプロセスを過ぎれば、神から頂く愛を以前よりももっと多く隣人に分け与えられる器に変えられていることに気づくのではないかと思います。神の導きに対して従順になり、謙虚さを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン