2012年5月28日月曜日

聖霊 VS. 諸霊(副題 イエス・キリストについて、使徒の証言と共に正しく教える聖霊の働き) (吉村博明)


  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年5月27日 聖霊降臨祭 
日本福音ルーテル横浜教会にて
  
エゼキエル書37:1-14、
使徒言行録2:1-21、
ヨハネによる福音書15:26-16:4a
  
説教題 聖霊 VS. 諸霊(副題 イエス・キリストについて、使徒の証言と共に正しく教える聖霊の働き)
  
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  
  
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 復活祭から7週間たった本日は、聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日で、復活祭から50番目の日をギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと言うことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれています。聖霊降臨祭は、教会歴の中ではクリスマス、復活祭とならんでキリスト教会にとって重要な主日であります。クリスマスの時、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちを救うために人となられたことを喜び祝います。復活祭の時には、私たちのために苦しみを受け十字架の上で死なれた主が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちのために神のもとに至る道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束した通りに私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持て、神の真理に導かれるようになったことを喜び祝います。
 
 皆様もご存じのように、キリスト教会の復活祭は、ユダヤ教の伝統ではもともとは出エジプトを記念する過越祭でした。歴史的には、過越祭から7週間たった時に七週祭という、収穫の捧げものをする祭日が守られていました(出エジプト記342223節、申命記16910節)。そういうわけで、イエス様が十字架に架けられ復活した年、西暦30年ないしそれに近い年の七週祭の日には、普段から世界各地からやってきたユダヤ人でごった返ししていたエルサレムの町は、お祝いのためにもっと人が増えていたでしょう。世界各地、とは言っても、主に地中海世界と現在の中近東の地域ですが、どんな地域から来ていたかについては、先ほど日課朗読していただきました使徒言行録2章の中に詳しく列挙されています。
 
聖霊が下ってイエス様の弟子たちに注がれた時、天から激しい風が吹くような音が聞こえ、人々は音のする方へ集まってきました。そこで、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人々のいろいろな国の言葉で話をし出したのです。ギリシャ語、ラテン語、アラム語、ヘブライ語は言うに及ばず、世界各地の土着の言語を使って話を始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、突然できるようになったのです。使徒言行録24節によると、聖霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した、とあるので、聖霊が外国語能力を授けたのであります。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話し始めたのでしょうか?少なくとも、初級英会話のレベルではなかったようです。使徒言行録211節で、集まってきた人たちの驚きを誰かが代弁して言います。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
 
イエス様の弟子たちが世界各地の国々の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは、世界各地から来たとは言え、皆ユダヤ人でした。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても、出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を与えられ、神の民として約束の地カナンに自分たちの移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、バビロン捕囚からの帰還もあげられます。一度滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超えた歴史のかじ取りのおかげで、通常だったら考えられない祖国復帰が実現したという出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、神が万物を、そして私たち人間を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいかと思います。この他にも、ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解できる出来事はあるかと思いますが、以上の3つのものは代表的なものとして考えてよいでしょう。
 
ところが、イエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教の伝統的な出来事の他にもう一つ新しいものがありました。それは、彼らが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事でした。つまり、偉大な預言者の再来と目されたあの「ナザレ出身のイエス」は、実は神の子であり、十字架刑で処刑され埋葬されたにもかかわらず神の力で復活させられて、人々の前に再び現れ、つい10日程前に天に上げられた、という出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」であります。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエスの出来事とその意味することが語られたのです。
 
ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」であれば、ユダヤ人の誰もが理解できるものだったでしょう。しかしながら、イエス様の出来事の場合、多くの人にとってはただ聞いた噂とか断片的な話のつなぎ合わせだったでしょうから、出来事の全体像を把握していた人は弟子たちを除いてはいなかったでしょう。ましてや、イエス様の出来事が人間の命と救いにとってどんな意味があるのか、そんなことは理解の域を超える事柄だったでしょう。
 
 そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について二つの異なる解き明しをします。最初の解き明しは、この異国の言葉を話し出すという現象についてです(使徒21421節)。その次に、イエス様の出来事そのものとその意味について解き明しを始めます(2240節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。
 
 
2.

ペトロは、異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事は、旧約聖書ヨエル書315節の預言の成就であると解き明かしします。イエス様は、自分が天に上げられた後はお前たちが孤児みたいにならないために父なる神のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、1526節、164b15節、ルカ2449節、使徒18節)。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始りました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかるのであります。このように父なる神も御子イエス様も、私たちのために聖書の中で約束されていることは、必ず守り通し実現される方なのですから、私たちも、神は真に信頼するに値する方である、ということを忘れないようにしましょう。
 
ところで、ペテロが引用したヨエル書の箇所について、使徒言行録の文章では、ヘブライ語の旧約聖書の形でなくギリシャ語版の形です。ペテロが演説をした時に引用したヨエル書はヘブライ語かアラム語のものだったでしょうが(ひょっとしたらギリシャ語の可能性もなくはないのですが)、使徒言行録を記したルカはギリシャ語で書いたので、引用もギリシャ語版旧約聖書に依拠したと思われます。ヘブライ語のヨエル書31節は次のように言います。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻をみる」。使徒言行録にあるギリシャ語とほぼ同じですが、ギリシャ語では聖霊が降臨する時は、「その後」(אחרי־כן)ではなく、「終わりの日々に」(εν ταις εσχαταις ημεραις)となっています。「終わりの日々」とはどういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事によって神の人間救済計画が成就したので、それから後の人間の歴史はイエス様の再臨を待つ「終わりの日々」となるわけです(同じ考え方は「ヘブライ人への手紙」11節にあります)。もう2千年近くたちましたが、3千年かかろうとも、主の再臨を待つ以上、今は「終わりの日々」なのであります。
 
 
3.

以上、弟子たちが異国の言葉を使って「神の偉大な業」を語りだした現象は、旧約に預言された聖霊降臨の実現であるというペテロの解き明かしについて述べました。ペテロは、この後で、この「神の偉大な業」の中で最も新しくまだ人々が理解していないイエスの出来事とその意味について解き明かしをしていきます。この聖霊降臨の時に行った解き明し(使徒22240節)は、まだ序論です。その後もペテロは解き明しを続けます。神殿でイエス様の名において病人を癒したとき、驚く群衆の前でとても詳しく解き明ししますし(31126節)、議会で取り調べを受けた時も同様です(4812節)。これらの箇所は本日の日課には入らないので本説教では取り上げませんが、ペテロそして他の使徒たちが解き明かした「イエス様の出来事とその意味」について、その主旨をここで述べてみたく思います。(以下、本3章の残りは513日に日吉教会の礼拝説教で教えたことをベースにしています。)
 
イエス様の出来事とその意味についてわかろうとする時、私たちはまず、人間は造り主である神に造られた被造物であるということをわきまえておかなければなりません。人間は自分の力で自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い亀裂が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順と罪に陥り、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。そこで、神は人間が御自分と結びつきを回復できて、御自分のもとに戻ることができるようにと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間に張り付いている罪や不従順には、人間を造り主から永遠に引き裂かれた状態にとどめる力がある。まさに呪いの力です。その力を無力化するために、神は人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、それらがもたらす滅びの死を全部イエス様に叩きつけた。これがゴルガタの十字架の出来事です。このように神は、イエス様を人間の身代わりとして死なせて、その犠牲に免じて人間の罪と不従順を赦し、造り主と人間の結びつきを回復して、造り主のもとに永遠に戻れる道を整えられたのです。まさに罪の赦しによる救いを実現させたのであります。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命、復活の命への扉も開かれました。私たち人間は、神のひとり子の死が本当に私たちの身代わりのための死だったとわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」の中に入ることができます。ところが、わからず、信ぜず、では、せっかく神が全ての人のために整えて下さった「罪の赦しの救い」の外側にとどまることになってしまいます。
 
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力を上回る命の力の下に置かれることになります。そして、この世にいながら永遠の命、復活の命に向かう道を歩み始め、この世から死んだ後は永遠に造り主とともにいることができるのです。
 
 
4.

人は洗礼を受ける時、神が送られる霊、聖霊を受けます。人がイエス・キリストを救い主とわかって信じることができるのは、聖霊の力が働いているからです。聖霊の力が働かなければ、誰もイエス様が自分の救い主だとはわかりません。いくら歴史の本をたくさん繙いたり、また歴史学・社会学的に「ナザレ出身のイエス」の思想と行動を分析しても、それではイエス様は、せいぜい歴史上数多くいた卓越した思想家、宗教家の一人としてしか捉えられません。単なる知識の集積だけでは、イエス様を「私の救い主」として捉えることはできません。つまり、この世を生きるこの私を永遠の命、復活の命に至る道に乗せて下った方、その道の日々の歩みを支えて下さり、そして、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠にいることができるように引っ張り上げて下さる方です。単なる歴史学、社会学の説明の中には聖霊は働きません。そもそも学術的研究というものは、本質上そういうものなのです。ところが、もし人が、知識の有無にかかわらず、ああ、あの2000年前のパレスチナで起きた出来事は実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった時、それは聖霊がその人に働き始めているのです。その人が洗礼を受けると、それからは100パーセント聖霊の働きのもとで生きることになります。他の霊は、その人に対して足場を失い、出て行かざるを得なくなります。「エフェソの信徒への手紙」113節に、聖霊を受けることは証印を押されることである、とありますが、まさに「この人は、神がイエス様を用いて整えられた救いを受け取って、その所有者になった」という証印であります。
 
ところで、「他の霊」と申しましたが、聖書にはいろいろな霊の存在について述べられています。「ヨハネの手紙一」4章には、霊が神の霊かそうでない霊かを見分ける基準として、イエス・キリストのことを、人間となってこの世に来た神の子であると言い表すかどうか、つまりイエス・キリストについての真理をしっかり言い表すか、それとも覆い隠してしまうか、それが決め手である、と言っています。本日の福音書の箇所にもあるように、聖霊が「真理の霊」と言われるのは(ヨハネ1526節、1417節もにある)、まさに、イエス・キリストは人となった神のひとり子であり、神はイエス様を用いて人間の救済計画を実現された、という真理を人に明らかにするからです。
 
旧約・新約を通して聖書は、いろいろな霊の存在は当たり前のことと見ています。いろいろな霊の存在は、この日本に住む私たちにも身近なことです。表の社会では、霊などというものは表立って取り上げられませんが、それでも大新聞のページの下の方によく載せられるいろんな宗教団体の出版物の広告をみると、どれもいろいろな霊とかかわりを持っていることを窺わせます。表の社会も一歩裏に入ると、いろいろな霊とかかわりを持って生きている人は多いのではないでしょうか?この世の人生の中で、さまざまな困難に遭遇して、その解決を得ようとして、または今の境遇よりももっと成功して繁栄しようとして、いろいろな霊に伺いをたてたり、仕えたりするということが、結構あるのではないでしょうか?
 
聖書の中で神は、霊媒や口寄せと一切の関係を持つことを禁じています(レビ記1931節、申命記1811節)。なぜなら、人間は、そのような者たちが呼び出す霊に依り頼み、自分の幸福や不幸、成功や失敗は霊のご機嫌次第ということになってしまい、自分で自分を霊に縛りつけていくことになるからです。私たちが依り頼むべきものは、私たちを造られた神のみでなければなりません。いろいろな霊というのも、実は造られた被造物にしかすぎません。被造物である私たちが依り頼むべきものは、造り主であって別の被造物であってはなりません。
 
いろいろな霊が被造物であるということは、「コロサイの信徒への手紙」116節の御言葉、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」によります。「王座」、「主権」、「支配」、「権威」と聞くと、この世の目に見える国の支配者やその権力を思い浮かべますが、実はギリシャ語のこれらの言葉(θρονοςκυριοτηςαρχηεξουσια)はみな目に見えない霊的な存在や支配を指しています。それでは、なぜ神は依り頼んではならないものをわざわざ造られたのか?もともと天地創造の時に神が造られたものは全て良いものでした(創世記14節、12節、18節、21節、25節、31節)。それが、堕罪によって被造物は神聖さを失い、神との関係が断ち切れて、「ローマの信徒への手紙」822節の言葉を借りれば、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」という状態に陥ったのです。神は、神聖さを失って神との関係が断ち切れ、死ねば永遠に造り主から切り離されて滅ぶしかない人間を深く憐み、再び関係を回復して神のもとに永遠にいることができるようにと、ひとり子を犠牲にして救いを私たちに整えて下さった、これは先に見た通りです。それほどまでして私たちに、この世と次の世の双方にまたがる愛と恵みを示して下さった造り主をさしおいて、この世限りの幸福や成功を求めて被造物である霊に依り頼む、これくらい天地創造の神を失望させ、悲しませ、また怒らせることはないのです。
 
被造物である霊のなかで最大のものは、聖書の中で悪魔サタンと呼ばれる霊です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味ですが、何を非難し告発するかというと、神の前で「この人はどうしようもない罪びとで憐れみをかけてはならない、極刑に値する」と告げ口をするのです。その働きぶりは、ヨブ記の最初のところで窺えます。このようにサタンの目的は、人を絶望に追いやり永遠に神と切り離された状態にとどめようとすることです。聖霊は、サタンに対抗します。サタンが「この人には義のかけらもない」と告発すると、聖霊は「この人は洗礼を通して、キリストの義という白い衣を頭から被せられている」と言って弁護するのです。本日の福音書の箇所でイエス様が言われるように聖霊が「弁護者」と呼ばれる所以です(ヨハネ1526節、1416節、167節)。
 
聖書に出てくる他の霊や日本の裏社会に跋扈する霊は一見サタンとは別もののように見えますが、イエス・キリストについて真理を言い表さず、それを覆い隠したりすることで、造り主と人との関係を回復させたり、人が造り主のもとに永遠にいられるようにするのを妨げるようとします。つまり、神から出たのではない霊はどれも、同じ目的を持っているのです。
 
 
5.

最後に、イエス・キリストについての真理を証するものは、聖霊と使徒の二人三脚である、ということを強調して本説教の結びとしたく思います。本日の福音書の箇所でイエス様は、「聖霊は私について証をする」と述べたすぐ後に続いて「お前たち弟子も私について証をする。なぜなら、お前たちは最初から私と共にいたからである」と述べられます。聖書の中でイエス様の言行録を扱っている書物はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書ですが、それらは、イエス様の出来事の直の目撃者たちである使徒たちが命をかけてまで行った証言が土台となって出来ています。当時は、イエス様の出来事の伝承にはいろいろなまがいものも出回っていました。しかし、ユダ福音書やトマス福音書のような使徒の伝承・教えと相いれない書物は、結局、聖書の中には入れられませんでした。つまり、聖書が形成される過程では聖霊のコントロールがしっかり働いていたのです。聖書を侮ってはいけません。弟子たちは初めからイエス様と行動を共にしていたので、イエス様の出来事の直の目撃者、証言者です。そして、神が送られる聖霊は、イエス様についての真理を明らかにすることができる唯一の霊です。その真理の霊が、目撃者・証言者たちに注がれたのです。このように聖霊と使徒の伝承・使徒の教えは切っても切れない関係にあります。そのどちらかが欠けても、聖書は成立しなかったでしょう。本当に聖書を侮ってはいけません。ルターは次のように教えます。「自分をへりくだった者とする心をもって祈りながら神のもとに立ち返り、絶えず聖書の御言葉を読み吟味し、それが自分の血と肉となるようにせよ」と。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年5月22日火曜日

イエス・キリストの昇天により、この世の構図は一変した (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2012年5月20日 昇天主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて

使徒言行録1:1-11、
エフェソの信徒への手紙1:15-23、
ルカによる福音書24:44-53

説教題 イエス・キリストの昇天により、この世の構図は一変した


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 私たちが経験することとして、何か個人的な出来事が原因で、周りの世界や景色がそれまでと異なって見えたり感じられることがあります。何かとても良いニュースがあって、例えば第一志望校に合格できたとか、希望の職種で就職できたとか、またはプロポーズが受け入れられたとか、そういう時はきっと世の中の見えるもの全てが本当にバラ色に見えたり、耳に入る音さえ喜んでいるように聞こえたりするでしょう。逆に悲しいニュースがあれば、まったく逆の見え方、聞こえ方になるでしょう。そういうふうに同じ世の中が、私たちの心の状態によって、いつもと異なって見えたり聞こえたりすることがあります。
 
死から復活されたイエス様が40日たって天に上げられた昇天の出来事の時、これとは逆のことが起こりました。イエス様が天に上げられてから、私たちの心の状態とは全く無関係に、この世の有り様の方が一変したのです。説教題に「この世の構図」と書いてしまってわかりにくくなってしまったと思います。要は、神が創造されたこの世界の有り様を一つの図か絵に書き表してみて、イエス様の昇天前と後を比べるとそれが大きく変化していることに気づく、ということです。実は、本説教を準備する時、私は昇天前と後のこの世の有り様を紙に簡単に描いてみました。それで、構図などという言葉を使ってしまった次第です。とにかくイエス様の昇天で、この世の有り様が一変しました。先ほど述べた私たちの経験の場合、この世の同じものがバラ色ないしは灰色に見えたり聞こえたりしても、それは私たちの心の状態が作用しているので、この世の有り様自体には何の変化もありません。イエス様の昇天の時に起きた変化は、私たちの心の状態とは全く無関係に起きた変化で、それは普通の目や耳で見たり聞いたりすることができません。その変化を見ることができるのは、心の目、しかも信仰に裏打ちされた心の目だけであります。以下、イエス様の昇天が起きた時、何がどうかわったのか、ということをみていこうと思います。
 
 
2.

このことに関連して、最初にイエス様の昇天の歴史的事実性ということについて少し考えてみます。昇天に限らず、奇跡と言われる超自然的現象が歴史的事実かどうかの確定は困難であります。なぜなら学術的な研究分野の一つである歴史学は、学術的方法を用いて起きた歴史を再構築するものですので、その方法になじまない奇跡のような現象は最初から再構築の対象から除外されます。なぜ、なじまないかと言うと、学術的な歴史学が相手にする歴史とは、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ないようにして再構築された歴史だからです。私たちの時代の誰も水の上を歩かないし、死から復活することもない、そのことは古代の世界でも同じでなければならない、と言って、歴史を再構築するのです。つまり、学術研究上の歴史とは、研究者・学者の時代の観点に立って構築された歴史と言うことができます。
  
学校で教えられる歴史は、そういった歴史学者の学術研究の成果に基づいていますが、学校教育の歴史がキリスト教の誕生について述べたら大体次のようになるでしょう。これは、昨年10月に本横須賀教会の説教でも取り上げたことですが、おさらいの意味で見てみます。「現在のパレスチナの地域がローマ帝国に支配され総督ピラトの統治下にあった頃、ナザレ出身と言われるイエスが現れ、自分を神の子とかユダヤ人の王と称して、神の愛、隣人愛についてユダヤ教に顕著にあった自民族中心主義を超える教えを説き、そのため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。お気づきのように、この歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」たとは言いますが、「彼が死から蘇った」とは言いません。学術研究の歴史、学校教育の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。
 
ところで、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ持っていると言うことができます。このことも昨年の礼拝説教で教えた事柄なので、ここでは簡単に振り返ってみます。二つの歴史観のひとつは、以上みてきた学術研究の歴史、学校教育の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。この歴史観は、私たちが学校の歴史の試験で落第しないために、また社会生活で様々な宗教や世界観を持つ人たちと共存できるために便宜上持たなければならないものと言えるでしょう。
 
キリスト信仰者が持つもう一つの歴史観は、ずばり歴史というものを神の人間救済計画の実現の場や時間と見なすものです。神の人間救済計画の実現とは、以下のことです。1)人間を造られた神が、堕罪の出来事によって関係が切れてしまった人間との関係を回復して再び神のもとにもどれるようにしようと計画を立てられた。そして、御自分のそうした意図を旧約聖書の律法や預言書を通して随時明らかにした。2)救済計画をいよいよ実現する時、神はひとり子をこの世に送った。そして、関係切断の原因であった人間の罪と不従順をあたかも彼の責任であるかのようにして全て彼に負わせて、その罰を身代わりに受けさせた。このような人間を赦すというやり方をとって神と人間との関係回復の道を開いた。以上をもって神の人間救済計画は実現します。この歴史観は、私たちキリスト信仰者が、この世でどう生きるか、何を考え、何を語り、何に喜び、何に悲しみ、何を希求し、何を信じ、何に耐え忍ぶか、ということ全てを明らかにできるようにするために必要なものです。神の人間救済計画が実現した後の歴史は、この神の実現された救いに人間が与れるようにしようとする勢力とこれに反対する勢力の対立として進むことになりました。今私たちはそのただ中に生きています。この対立はイエス・キリストが再臨する時に反対勢力が滅ぼされて終結します。
 
このように歴史を神の人間救済計画の実現の場や時間として見るというのは、五感や理性では把握できない歴史、信仰に裏打ちされた心の目でしか捉えることのできない歴史を見るということです(「エフェソの信徒への手紙」118節でパウロは、「心の目」τους οφθαλμους της καρδιας が見えるものについて述べています)。この歴史は、五感や理性で把握できる真理よりも深くて広い真理を含んでいます。どのようにしたら、そのような目が得られるかというと、こうです。神がイエス様を用いて整えられた救いは実はこの自分のためにもなされたのだということがわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで得ることができます。そうした信仰に裏打ちされた心の目を持てる時、イエス様の昇天で起きたこの世の構図の変化ということもよく見えてきます。(ちょっと脇道にそれますが、私が長年住んだフィンランドで牧師の説教や神学者の議論を聞いていると、歴史観はもう心の目で見える歴史観はなくなって完全に五感や理性のみで把握できる歴史観だけになってしまった人たちが多くいました。また二つの歴史観を区別しないでごっちゃにして混乱している人もいました。日本のキリスト教会ではどうでしょうか?)それでは、心の目を持った者として以下、イエス様の昇天で起きたこの世の構図の変化について見ていきましょう。
 
 
3.

 イエス様が御自分を犠牲として人間を罪と不従順の呪いから贖った時、その犠牲は、ユダヤ教の大祭司たちがもたらしてきた神とイスラエルの民の和解をはるかに凌ぐ和解を人間と神の間にもたらしました。このことは、「ヘブライ人への手紙」5章から10章までに詳しく記されています。創世記に出てくるヤコブの12人の息子の一人であるレビの家系が祭司職に定められました(申命記33811節)。出エジプト記のモーセとその兄アロンはレビの家系ですが、神はアロンを大祭司に任命し、その家系の者が将来祭司として、神に罪を犯したイスラエルの民と神の和解のためにどんな生け贄の捧げものをすべきか、多くの規定を与えました。事細かな規定は、レビ記の中に記されています。ユダヤ人はこれらの規定に従い神との和解を得るためにエルサレムの神殿にて夥しい数の羊や牛などの動物を犠牲の生け贄として捧げていました。
 
 ところが神のひとり子イエス様が神と人間との和解のために提供した犠牲は、まさに御自分でありました。人間の祭司や大祭司が神と民との和解のために毎日、毎年生け贄を捧げなければならなかったのに対して、イエス様の犠牲は一回限りで全ての人間と神の間の和解の実現のために永久に効力を持つように捧げられたのです。そのため、「ヘブライ人への手紙」510章の中で、イエス様は大祭司と呼ばれます。「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、私たちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを捧げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を捧げることによって、成し遂げられたからです」(72627節)。「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(91112節)。
 
 このようにイエス様の犠牲によって罪の赦しが神の御前で完全に実現して、旧約聖書に定められた生け贄を捧げることに基づく神崇拝が完結したのです。つまり、イエス様が天に上げられたというのは、大祭司としての彼が、罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んで行ったということなのです。
 
イエス様が完全な贖いを天の神の御前に運んだ時に何が起きたかというと、黙示録1210節に次のような天上の賛美の声が記されています。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。」我々を告発する者とは、悪魔サタンのことです。サタンとはヘブライ語で告発する者、非難をする者という意味があります。何を告発し非難するかと言うと、神の御前で「この人間はどうしようもない罪びとで極刑に値しますよ」と、誰も救われないようにと告げ口するのです。ヨブ記の1章にあるように、サタンは神と神の御使いたちが集まる場所に顔を出すことが許されていました。それでヨブが神に罰せられるようにと告発しに行ったのです。しかし、イエス様は全ての罪びとが神の裁きを受けないようにと罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んで行ったのです。イエス様を救い主と信じる者に対して、サタンはもはや、何も手出しはできなくなりました。それで、天から投げ落とされたのであります。
  
 先ほど引用した黙示録1210節中の言葉「神のメシアの権威が現れた」というのは、詩篇110篇の御言葉が実現したことを意味します。「わが主(御子イエス・キリストを指す、説教者注)に賜った主(父なる神を指す、説教者注)の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」天に上げられて、罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んだイエス様は、神の右に座すこととなり、神と共にこの世の出来事に支配を及ぼすこととなったのです。先ほど、神の人間救済計画の実現の後、人間の歴史は人を神の救いに与れるようにする勢力とそれに反対する勢力の間の対立として進んでいくと申しました。その時、神とその右に座するイエス様は一緒にその歴史を天上から支配することとなったのです。「コリントへの信徒の手紙一」15章で使徒パウロは、天上のイエス様がすべての敵を足台にするまで神の国を支配すること、そして全ての反対勢力を滅ぼし最後の敵である死をも滅ぼして、まさしく全ての敵を足台とした時、御国を神に引き渡すこと、そうすることによって神がすべてにおいてすべてとなられる、と教えています(2428節)。
 
イエス様にそのような支配力が与えられたことは、復活したイエス様自身が弟子たちに述べているところです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ281820節)。
 
天上にいるイエス様が彼を救い主と信じる者たちと共にいるということが、どうして可能なのかと言うと、イエス様が約束された通り、神の霊、聖霊を天からこの世の信じる者たちに送られたからです。ヨハネ福音書14章で十字架に架けられる前夜イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(1618節)。さらに、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせて下さる」(26節)。聖霊の天からの降臨はヨエル書の3章に預言されていましたが、イエス様の昇天から10日後に起きて、預言は成就しました。その時の出来事は使徒言行録の2章に記されています。
 
以上のように、イエス様の昇天によって起きた出来事をまとめると、次のようになります。イエス様は罪の赦しを可能にする完全な贖いを御自分を犠牲にして実現され、それを天上の神の御前に運んで行った。それによってこの世ではもはや贖いのために犠牲を要する神崇拝は不要になり、私たちを告発するサタンは行き場を失って天から投げ落とされた。天上の神の右に座すこととなったイエス様は、神と共に人間の歴史の流れを支配するようになった。そして、天に上げられたイエス様はこの世に残された私たちと共にいることができるようにと神の霊を送って下さった。以上のようになります。
 
これらのことをもって、この世の構図が一変したと言えるのは、逆にイエス様の昇天がなくてこれらのことが起きなかった状態を考えて比較すれば一目瞭然です。イエス様が罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んでいないので、この世ではまだ罪の赦しのために生け贄や犠牲を捧げる神崇拝が必要とされる。サタンは天から投げ落とされず、今も天で神の前で私たちが救われないように神に告発を続ける。イエス様が天に上げられて神の右に座してから神の国の支配が本格的に始まったとすれば、昇天がなければそれもまだになります。それから弁護者である聖霊も天から送られていません。ところで、聖霊が弁護者と呼ばれるのは、私たちを告発し非難する者があるからです。サタンが私たちのことを義のかけらもない罪びとだ、と告発するなら、聖霊は「この人はイエス・キリストの義を着ている」と言って弁護するのです。
 
 心の目を持つこと、正確には信仰に裏打ちされた心の目を持つことですが、その時この世は幾重にも広さと深さと高さを持って見えてきます。私たちは、イエス様の昇天によってこれだけ大変化を遂げたこの世の中を歩んでいるのです。そのことを知ると、私たちが造り主である神からどれだけ目をかけられ愛されているか、ということがわかります。それは、肉眼の目では決して見えません。私たちは、肉眼の目やその他の五感の機能を通してこの世を知り、喜んだり悲しんだりしますが、心の目を通して見ることができるようになるというのは、そうした人間的な一喜一憂を超えた喜びと平安の源、何が起きても微動だにしない源を既に持っているということなのであります。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2012年5月14日月曜日

人を救いに導く愛を持ち、キリストの友となれ (吉村博明)


 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年5月13日 復活後第五主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

使徒言行録11:19-30、
ヨハネの第一の手紙4:1-12、
ヨハネによる福音書15:11-17

説教題 人を救いに導く愛を持ち、キリストの友となれ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 この4月と5月は本日吉教会での私の説教奉仕のローテーションに変更があったため、先々週に続いて本日また説教壇に立つこととなりました。前回は、福音書の箇所がヨハネ211519節のイエス様とペテロの対話のところだったため、説教では愛について、特に神由来の愛とか人間由来の愛ということについて沢山お話ししました。先週は、ヨハネ15111節のイエス様はぶどうの木で弟子たちはその枝であるというたとえのところでした。そのことについて斎藤先生から解き明しをいただいたことと思います。そして、本日はその続きのヨハネ151117節でして、イエス様は弟子たちに互いに愛し合うように命じられるところです。前回、愛について十分お話ししたつもりだったのですが、父なる神様はあれではまだ足りないとお考えのようですので、本説教でも愛について、御言葉に基づいてお話しを続けていく次第です。
 
 
2.

 まず、神とイエス様がどのような愛をもって私たちを愛して下さっているのかを、本日の箇所に沿って見ていきましょう。12節で、イエス様は弟子たちに互いに愛し合いなさい、という掟を与えます。どんな愛で愛し合うのかは、すぐはっきりします。「私がおまえたちを愛したように」と言っている通り、イエス様が弟子たちを愛した愛と同じ愛を持って愛し合いなさい、ということです。それでは、弟子たちが互いに愛し合う時に模範とすべきイエス様の愛とはどんな愛か、これもすぐはっきりします。13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言います。つまり、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということです。ここで大事なことは、この犠牲が誰による誰のためになされる何のための犠牲なのか、ということをはっきりさせなければなりません。このことについては、前回の説教で申し上げましたので簡単におさらいをします。
 
 神がイエス様を用いて行った自己犠牲を伴う愛ということをわかるためには、まず私たち人間は造り主である神に造られた被造物であるということをわきまえておかなければなりません。人間は自分の力で自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い亀裂が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順と罪に陥り、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。そこで、神は人間が御自分と結びつきを回復できて、御自分のもとに戻ることができるようにと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間に張り付いている罪や不従順には人間を造り主から永遠に引き裂かれた状態にとどめる力がある。まさに呪いの力です。その力を無力化するために、神は人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、それらがもたらす滅びの死を全部イエス様に叩きつけた。これがゴルガタの十字架の出来事です。このように神は、イエス様を人間の身代わりとして死なせて、その犠牲に免じて人間の罪と不従順を赦し、造り主との結びつきを回復して、そのもとに永遠に戻れる道を整えられたのです。まさに罪の赦しによる救いを実現させたのであります。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命、復活の命への扉も開かれました。私たち人間は、神のひとり子の死が本当に私たちの身代わりのための死だったとわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」の中に入ることができます。ところが、わからず、信ぜず、では、せっかく神が全ての人のために整えて下さった「罪の赦しの救い」の外側にとどまることになってしまいます。
 
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力を上回る命の力の下に置かれることになります。そして、この世にいながら永遠の命、復活の命に向かう道を歩み始め、この世から死んだ後は永遠に造り主とともにいることができるのです。このように、赦しを受け入れることが救いに導かれることになります。造り主である神との結びつきは、この世の人生の段階では目には見えませんが、神の目からみてしっかり始まっています。神との結びつきは洗礼でできます。私たちの目にはただの水にしかすぎないものが、神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、私たちはイエス様の犠牲がもたらした「赦しの救い」の所有者になります。こうして神の目から見て結びつきができあがります。この「赦しの救い」は聖餐式で確認され、神との結びつきは強められます。私たちの目にはただのパンのかけらとぶどう酒にしかすぎないものが、やはり神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、神の目から見て「罪の赦しの救い」が確認され、結びつきが強められます。いろんな感情や思いにとらわれる私たちは、時として神が遠ざかってしまったと感じられる時があります。しかし、それは人間の勝手な思いで、神の方では洗礼で確立した結びつきはしっかり保たれていると見ておられる。そのことを、私たちが口を通して体で受け止めることができるのが聖餐式であります。
 
以上から、神がイエス様を用いて私たちにどれほどの愛を示して下さったかが明らかになったと思います。ヨハネ福音書316節でイエス様は次のように言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ばないで、永遠の命を得るためである。」神の私たち人間に対する愛は、まさにこの言葉通りのものであります。イエス様は、この同じ神の愛をそのまま持たれて私たちを愛し、神の救いの計画の実現のために御自分を犠牲に供したのであります。
 
 
3.

 これで、神とイエス様の私たちに対する愛がどのようなものであるかが明らかになりました。ここでひとつ注意しなければならないことがあります。イエス様が「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え」と命じられる時、イエス様がやったのと同じ犠牲は私たちには課せられていないということです。人間を罪と不従順の呪いから贖うこと、これは神がひとり子を用いて全ての呪いに関して一回限りで完結されたので、イエス様の犠牲の後には何も付け加えることはあり得ません。人間を罪と不従順の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復するために、もっと何かが必要だ、などと考えるのは、神の救いの計画では不十分だ、と言うのも同然で、被造物が造り主に言うべきことではありません。それでは、イエス様が模範を示した愛で私たちも互いに愛し合うとは、どうすることなのでしょうか?神がイエス様を用いて、人間を罪と不従順の呪いから贖い、神との結びつきを回復する道を開いたことはもう動かせない真理です。イエス様を救い主と信じる者が他の人たちを愛する時、この愛が出発点にならなければなりません。それでは、これを出発点としたら、どこに向かったらよいのでしょうか?それは、他の人たちも罪と不従順の呪いから贖われ、神との結びつきを回復することができるようにすることです。
 
隣人愛が究極的にはそのようなことを目指していることは、ルターも教えるところです。「ローマの信徒への手紙」157節の御言葉「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」について、彼は次のように教えます。
「(...我々は罪を除去すべく人々を助ける。我々は誰をも避けたり拒否したり見下してはならないのであって、罪びとを受け入れ罪びとと共にいるようにしなければならないのである。そのようにして我々は罪びとを悪い方向から助け出し、教え諭し、助言し、その人のために祈り、その人のことを耐え忍び、背負ってあげるのである。我々がこうするのは、もし我々が同じような罪にある場合、我々がそうしてほしいと思うからだ。キリスト教徒とは、他者の利益になろうとすることのためだけに生きる者である。その他者の利益というのは罪を除去するということである。(...)我々は、隣人が信仰や人生においてしでかす誤りを耐え忍ぶだけではなく、それを直させるように努める者なのである。」
 
 同じ「ローマの信徒への手紙」153節の御言葉「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」についてのルターの教えは次の通りです。
 「(...)もしキリストがファリサイ派が取税人にしたように振る舞っていたならば、また自分に強い者が自分に弱い罪びとたちにするように振る舞っていたならば、我々の誰が罪から贖いだされることができたであろうか?主が我々に対して振る舞ってくれたように、我々も隣人の罪に対して振る舞わなければならない。我々は、裁いたり、排除したり、嘲ったりしてはならないのであって、隣人が罪から離れられるように助けてあげなければならない。たとえ、そのために命や大切な時間や財産や名誉その他我々が持っている全てのものを支払わなければならなくなったとしても、そうしなければならないのである。このようにしない者は、キリストを放棄したと思い知るが良い(...)。」
 
 このように隣人愛とは、究極的には隣人が罪と不従順の呪いの力から助け出され、造り主との結びつきを回復させ、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩めるようにし、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠にいることができるようにすることです。隣人が、同じキリスト信仰を持つ人の場合は、その人がイエス様のもたらした「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれるよう支えてあげることです。もし、隣人が、キリスト信仰を持たない人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることです。  
 
こう言うと、心穏やかでなくなる人も出てくると思います。日本のようにキリスト教徒の人口比に占める割合が非常に少なく、かつ信教の自由を人権として尊重しなければならない社会では、「罪の赦しの救い」の中に入れるようにする、などと言うと、宗教を他人に強要するように感じる人もいます。そんなのは、キリスト教を名乗ってそうではない宗教団体のやることと同じだとさえ感じる人もいます。もちろん、キリスト信仰を持たない人がキリスト教に興味を持って教会の門を叩いて来れば、話は別です。その時は、私たちを「罪の赦しの救い」の中に入ることができるようにしてくれた神の愛について堂々と証しすることができます。しかし、そうでない場合には、信仰者でない隣人に対しては信仰について何も口にしない方がその人の利益だ、とか、私は食べ物に困っている人に食べ物を与え、着る物に困っている人に着せてあげることで隣人愛を実践しよう、そうすることで助けを受けた人は、私をこのような助けに突き動かしたイエス・キリストにいずれは興味を持ってくれるだろう、これこそが信仰の証なのだ、等々、そのように考える向きが多いのではないかと思われます。
 
こうした考えは、理解できることでありますが、それでも神とイエス様の御心は隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることであるのを考えると、やはりもう一歩何かなければならないのではないか、と考えざるを得ません。まさに、そのために神はひとり子を犠牲にしたのだし、イエス様もそのために御自分を犠牲に供することを受け入れたのですから。でも、興味もない人たちに信仰を証しするなどとは、何か場違いなことのように思われるし、かえって反発をくらってキリスト教がもっと嫌われることに手を貸してしまう等々、ある時にはもっともな根拠ではあるが、ある時には言い訳にもなりうる、そういう逡巡の状態に陥ります。そこで、キリスト信仰の隣人愛の実現のために最低限これだけはしなければならないというものを提案したく思います。それは、私たちの日々の祈りの中に、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるように祈ることを付け加えることです。「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪と不従順の呪いから贖われ、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命、復活の命への道を共に歩めるようにして下さい。」
 
私たちは、困窮している人たちのために祈る時、彼らが神の助けを得られるよう祈りますが、衣食住や健康といった焦眉の助けの他に、根底的な助けである「罪の赦しの救い」の中に入れるようにするという祈りも付け加えるべきだと考えます。この祈りは、隣人と面と向かって信仰を証することではなく、神に向かってお願いすることなので、信教の自由に抵触することはありません。それから、先ほど隣人愛を人道的支援に限定して行う人の中には、自分がキリストの愛に突き動かされていることを見てもらって人々がキリスト教に興味を持つようにするという戦略的迂回の手法を取っていることを申しました。もしその人が、自分を突き動かすキリストの愛とはなんだろうと自問して、まさに人間を罪と不従順の呪いから贖い、造り主との結びつきを回復させ、この世において永遠の命、復活の命に至る道を歩めるようにすること、これがキリストの愛であると確認できるならば、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神に祈ることは、戦略的迂回と何も矛盾はないはずです。戦略的迂回で肝要なことは、迂回をしすぎてもとにもどれなくなってしまわないように注意をすることです。残念ながら、神学を学んだ人たちの中には、もとにもどれなくなるくらいに迂回しすぎて今度は迂回している道の方が本道だと言い始める人も見受けられます。この問題については、いつか機会があれば触れたく思います。
 
さて、この祈りの提案に大切な補足をします。隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神にお祈りすれば、神はなんらかの形で道を準備し始めるでしょう。ひょっとしたら、隣人がなんらかの経路を辿ってキリスト信仰の証しを聞く機会が与えられないとも限りません。それが、祈る人本人の働きになるかもしれません。どんな経路で誰の証しでそれがいつになるかは、神にお任せするしかありませんが、もしそれが祈る本人の働きになる場合に備えて、祈る人は、そのような時が与えられたらしっかり証しができるよう力添えとそのための自分の信仰への支えを神にお願いしましょう。「御心でしたら、その働きは私にお与え下さい」と勇気を持って祈ることができれば申し分ないですが、それは各自の自己吟味にお委ねしましょう。
 
 
4.
 
このように、神とイエス様の御心がわかっていれば、私たちはイエス様の友なのであります。神とイエス様は全人類のために「罪の赦しの救い」を整えられ、私たちは自分の力や考えでは想像もできなかった道を辿ってその中に迎え入れられました。従って、私たちは自分でイエス様を選んだのではなく、イエス様に招かれたことがわかって、その招きは受け入れるべきものとわかって受け入れたという意味で、イエス様に「選ばれた」のであります。何も自分が優れているから選ばれたというのではありません。救いようがないから選ばれたのです。もし、今「罪の赦しの救い」の外側にいる人たちが、自分たちもそこに招かれていることがわかり、それを受け入れれば、彼らもイエス様に「選ばれた」ということになります。
 
それから、世界に出て行って、持続するような実を結ぶ、と言うのは(16節)、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、実際にそのような人が増えて、そこにしっかりとどまれるよう支える、ということです。「実を結ぶ」と言うと、何か目に見えるような慈善事業をするようなイメージがありますが、そのような事業が「罪の赦しの救い」の中に入る人を増やし、そこにいる人を支える、ということをちゃんと射程に入れていれば、本当に「実を結ぶ」仕事になるでしょう。ところが、その射程がなくただ単に人道支援に限定されると、結ぶ「実」はイエス様の整えられた「罪の赦しの救い」とは無縁のものになります。言い方がきついかもしれませんが、人助けをしようにもできない重い病気の人や障害のある人のことを考えて下さい。慈善事業や人道支援が隣人愛の実を結ぶことそのものであると考えると、これらの人たちは実を結べない人たちになってしまいます。しかし、その人たちが病床に横たわりながらも、「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪と不従順の呪いから贖われ、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命、復活の命への道を共に歩めるようにして下さい。」と祈れば、これこそイエス様が教えられる「実を結ぶ」ことなのです。キリスト教会が、肉においても霊においても「実を結ぶ」ものとなりますように、そして、肉において結ぶのが困難な人たちが霊において結ぶ時、そのことが両方できる人たちの実と同じ価値があるものと認められますように。
 
 本日の箇所の終わりで、イエス様はまた「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ということを教えられます(16節)。「また」というのは、同じ教えが157節や1413節でも言われているからです。この教えは、私たちに試練を与えます。私たちは誰も、自分勝手な利己的な願いを神にお願いしようとは思いません。そんなことをしたら十戒の第二の掟を破ることになるからです。もし利己的な願いが実現するようなことがあれば、それは神から来たものではないので、大変危険です。私たちは、神の御心に沿った祈りをしなければならないと知っています。しかし、自分や隣人の病気が治るように、とか、陥った苦難を超えられるようにと祈っても、また、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにと祈っても、もしそうならなかったら、と、いつも一抹の不安を覚えます。全知全能の神にできないことがあったと言いたくないがために、困難な問題を祈ることに躊躇する人もいます。難しいことです。しかし、私たちの心を重くしている事柄を全て神に打ち明けることはキリスト信仰者の権利と言うよりほとんど義務といってもよいものであることは、ルターの次の教えから明らかです。  
この聖句で使徒パウロが教えようとしていることは、どのように我々は心配事を全部神に押しつけたらよいかということである。パウロの教えは次のごとくである。「何も心配しないようにしなさい。しかし、もし何か君を心配させようとすることが出てきたら、その心配事に取り組む主人公はあたかも君ではないように振る舞い、君はそれを脇に置いて、すぐ祈りと願いをもって神の御前に行きなさい。そこで神に祈り、君が心配することを通して実現しようと思っていたことの全てを神がかわりにしてくれるように祈りなさい。そして、そう祈る時はいつも、君にはこんなにも君のことを大事に思っていてくれる神がいて、全ての事柄を打ち明けることができることを感謝しなさい。
 ところが、何かに直面して自分の能力で前もって予測をたてて自力で物事を進めようとし、心配事を自分で引き受けようとする者は、多くの悲惨に見舞われ、せっかく神と共にいることで得られる喜びと平安を失ってしまう。しかも、そのような人は何も実現できない。彼は、砂地に穴を掘って自ら深みへと沈んでいき外に出られなくなるようになってしまう者である。このことは自分たちの経験からも他人の経験からも毎日知らされることである。」
 「この聖句で使徒パウロは」と言ってルターが教えを述べている御言葉は、「フィリピの信徒への手紙」467節です。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。