2012年5月22日火曜日

イエス・キリストの昇天により、この世の構図は一変した (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2012年5月20日 昇天主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて

使徒言行録1:1-11、
エフェソの信徒への手紙1:15-23、
ルカによる福音書24:44-53

説教題 イエス・キリストの昇天により、この世の構図は一変した


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 私たちが経験することとして、何か個人的な出来事が原因で、周りの世界や景色がそれまでと異なって見えたり感じられることがあります。何かとても良いニュースがあって、例えば第一志望校に合格できたとか、希望の職種で就職できたとか、またはプロポーズが受け入れられたとか、そういう時はきっと世の中の見えるもの全てが本当にバラ色に見えたり、耳に入る音さえ喜んでいるように聞こえたりするでしょう。逆に悲しいニュースがあれば、まったく逆の見え方、聞こえ方になるでしょう。そういうふうに同じ世の中が、私たちの心の状態によって、いつもと異なって見えたり聞こえたりすることがあります。
 
死から復活されたイエス様が40日たって天に上げられた昇天の出来事の時、これとは逆のことが起こりました。イエス様が天に上げられてから、私たちの心の状態とは全く無関係に、この世の有り様の方が一変したのです。説教題に「この世の構図」と書いてしまってわかりにくくなってしまったと思います。要は、神が創造されたこの世界の有り様を一つの図か絵に書き表してみて、イエス様の昇天前と後を比べるとそれが大きく変化していることに気づく、ということです。実は、本説教を準備する時、私は昇天前と後のこの世の有り様を紙に簡単に描いてみました。それで、構図などという言葉を使ってしまった次第です。とにかくイエス様の昇天で、この世の有り様が一変しました。先ほど述べた私たちの経験の場合、この世の同じものがバラ色ないしは灰色に見えたり聞こえたりしても、それは私たちの心の状態が作用しているので、この世の有り様自体には何の変化もありません。イエス様の昇天の時に起きた変化は、私たちの心の状態とは全く無関係に起きた変化で、それは普通の目や耳で見たり聞いたりすることができません。その変化を見ることができるのは、心の目、しかも信仰に裏打ちされた心の目だけであります。以下、イエス様の昇天が起きた時、何がどうかわったのか、ということをみていこうと思います。
 
 
2.

このことに関連して、最初にイエス様の昇天の歴史的事実性ということについて少し考えてみます。昇天に限らず、奇跡と言われる超自然的現象が歴史的事実かどうかの確定は困難であります。なぜなら学術的な研究分野の一つである歴史学は、学術的方法を用いて起きた歴史を再構築するものですので、その方法になじまない奇跡のような現象は最初から再構築の対象から除外されます。なぜ、なじまないかと言うと、学術的な歴史学が相手にする歴史とは、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ないようにして再構築された歴史だからです。私たちの時代の誰も水の上を歩かないし、死から復活することもない、そのことは古代の世界でも同じでなければならない、と言って、歴史を再構築するのです。つまり、学術研究上の歴史とは、研究者・学者の時代の観点に立って構築された歴史と言うことができます。
  
学校で教えられる歴史は、そういった歴史学者の学術研究の成果に基づいていますが、学校教育の歴史がキリスト教の誕生について述べたら大体次のようになるでしょう。これは、昨年10月に本横須賀教会の説教でも取り上げたことですが、おさらいの意味で見てみます。「現在のパレスチナの地域がローマ帝国に支配され総督ピラトの統治下にあった頃、ナザレ出身と言われるイエスが現れ、自分を神の子とかユダヤ人の王と称して、神の愛、隣人愛についてユダヤ教に顕著にあった自民族中心主義を超える教えを説き、そのため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。お気づきのように、この歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」たとは言いますが、「彼が死から蘇った」とは言いません。学術研究の歴史、学校教育の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。
 
ところで、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ持っていると言うことができます。このことも昨年の礼拝説教で教えた事柄なので、ここでは簡単に振り返ってみます。二つの歴史観のひとつは、以上みてきた学術研究の歴史、学校教育の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。この歴史観は、私たちが学校の歴史の試験で落第しないために、また社会生活で様々な宗教や世界観を持つ人たちと共存できるために便宜上持たなければならないものと言えるでしょう。
 
キリスト信仰者が持つもう一つの歴史観は、ずばり歴史というものを神の人間救済計画の実現の場や時間と見なすものです。神の人間救済計画の実現とは、以下のことです。1)人間を造られた神が、堕罪の出来事によって関係が切れてしまった人間との関係を回復して再び神のもとにもどれるようにしようと計画を立てられた。そして、御自分のそうした意図を旧約聖書の律法や預言書を通して随時明らかにした。2)救済計画をいよいよ実現する時、神はひとり子をこの世に送った。そして、関係切断の原因であった人間の罪と不従順をあたかも彼の責任であるかのようにして全て彼に負わせて、その罰を身代わりに受けさせた。このような人間を赦すというやり方をとって神と人間との関係回復の道を開いた。以上をもって神の人間救済計画は実現します。この歴史観は、私たちキリスト信仰者が、この世でどう生きるか、何を考え、何を語り、何に喜び、何に悲しみ、何を希求し、何を信じ、何に耐え忍ぶか、ということ全てを明らかにできるようにするために必要なものです。神の人間救済計画が実現した後の歴史は、この神の実現された救いに人間が与れるようにしようとする勢力とこれに反対する勢力の対立として進むことになりました。今私たちはそのただ中に生きています。この対立はイエス・キリストが再臨する時に反対勢力が滅ぼされて終結します。
 
このように歴史を神の人間救済計画の実現の場や時間として見るというのは、五感や理性では把握できない歴史、信仰に裏打ちされた心の目でしか捉えることのできない歴史を見るということです(「エフェソの信徒への手紙」118節でパウロは、「心の目」τους οφθαλμους της καρδιας が見えるものについて述べています)。この歴史は、五感や理性で把握できる真理よりも深くて広い真理を含んでいます。どのようにしたら、そのような目が得られるかというと、こうです。神がイエス様を用いて整えられた救いは実はこの自分のためにもなされたのだということがわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで得ることができます。そうした信仰に裏打ちされた心の目を持てる時、イエス様の昇天で起きたこの世の構図の変化ということもよく見えてきます。(ちょっと脇道にそれますが、私が長年住んだフィンランドで牧師の説教や神学者の議論を聞いていると、歴史観はもう心の目で見える歴史観はなくなって完全に五感や理性のみで把握できる歴史観だけになってしまった人たちが多くいました。また二つの歴史観を区別しないでごっちゃにして混乱している人もいました。日本のキリスト教会ではどうでしょうか?)それでは、心の目を持った者として以下、イエス様の昇天で起きたこの世の構図の変化について見ていきましょう。
 
 
3.

 イエス様が御自分を犠牲として人間を罪と不従順の呪いから贖った時、その犠牲は、ユダヤ教の大祭司たちがもたらしてきた神とイスラエルの民の和解をはるかに凌ぐ和解を人間と神の間にもたらしました。このことは、「ヘブライ人への手紙」5章から10章までに詳しく記されています。創世記に出てくるヤコブの12人の息子の一人であるレビの家系が祭司職に定められました(申命記33811節)。出エジプト記のモーセとその兄アロンはレビの家系ですが、神はアロンを大祭司に任命し、その家系の者が将来祭司として、神に罪を犯したイスラエルの民と神の和解のためにどんな生け贄の捧げものをすべきか、多くの規定を与えました。事細かな規定は、レビ記の中に記されています。ユダヤ人はこれらの規定に従い神との和解を得るためにエルサレムの神殿にて夥しい数の羊や牛などの動物を犠牲の生け贄として捧げていました。
 
 ところが神のひとり子イエス様が神と人間との和解のために提供した犠牲は、まさに御自分でありました。人間の祭司や大祭司が神と民との和解のために毎日、毎年生け贄を捧げなければならなかったのに対して、イエス様の犠牲は一回限りで全ての人間と神の間の和解の実現のために永久に効力を持つように捧げられたのです。そのため、「ヘブライ人への手紙」510章の中で、イエス様は大祭司と呼ばれます。「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、私たちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを捧げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を捧げることによって、成し遂げられたからです」(72627節)。「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(91112節)。
 
 このようにイエス様の犠牲によって罪の赦しが神の御前で完全に実現して、旧約聖書に定められた生け贄を捧げることに基づく神崇拝が完結したのです。つまり、イエス様が天に上げられたというのは、大祭司としての彼が、罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んで行ったということなのです。
 
イエス様が完全な贖いを天の神の御前に運んだ時に何が起きたかというと、黙示録1210節に次のような天上の賛美の声が記されています。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。」我々を告発する者とは、悪魔サタンのことです。サタンとはヘブライ語で告発する者、非難をする者という意味があります。何を告発し非難するかと言うと、神の御前で「この人間はどうしようもない罪びとで極刑に値しますよ」と、誰も救われないようにと告げ口するのです。ヨブ記の1章にあるように、サタンは神と神の御使いたちが集まる場所に顔を出すことが許されていました。それでヨブが神に罰せられるようにと告発しに行ったのです。しかし、イエス様は全ての罪びとが神の裁きを受けないようにと罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んで行ったのです。イエス様を救い主と信じる者に対して、サタンはもはや、何も手出しはできなくなりました。それで、天から投げ落とされたのであります。
  
 先ほど引用した黙示録1210節中の言葉「神のメシアの権威が現れた」というのは、詩篇110篇の御言葉が実現したことを意味します。「わが主(御子イエス・キリストを指す、説教者注)に賜った主(父なる神を指す、説教者注)の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」天に上げられて、罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んだイエス様は、神の右に座すこととなり、神と共にこの世の出来事に支配を及ぼすこととなったのです。先ほど、神の人間救済計画の実現の後、人間の歴史は人を神の救いに与れるようにする勢力とそれに反対する勢力の間の対立として進んでいくと申しました。その時、神とその右に座するイエス様は一緒にその歴史を天上から支配することとなったのです。「コリントへの信徒の手紙一」15章で使徒パウロは、天上のイエス様がすべての敵を足台にするまで神の国を支配すること、そして全ての反対勢力を滅ぼし最後の敵である死をも滅ぼして、まさしく全ての敵を足台とした時、御国を神に引き渡すこと、そうすることによって神がすべてにおいてすべてとなられる、と教えています(2428節)。
 
イエス様にそのような支配力が与えられたことは、復活したイエス様自身が弟子たちに述べているところです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ281820節)。
 
天上にいるイエス様が彼を救い主と信じる者たちと共にいるということが、どうして可能なのかと言うと、イエス様が約束された通り、神の霊、聖霊を天からこの世の信じる者たちに送られたからです。ヨハネ福音書14章で十字架に架けられる前夜イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(1618節)。さらに、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせて下さる」(26節)。聖霊の天からの降臨はヨエル書の3章に預言されていましたが、イエス様の昇天から10日後に起きて、預言は成就しました。その時の出来事は使徒言行録の2章に記されています。
 
以上のように、イエス様の昇天によって起きた出来事をまとめると、次のようになります。イエス様は罪の赦しを可能にする完全な贖いを御自分を犠牲にして実現され、それを天上の神の御前に運んで行った。それによってこの世ではもはや贖いのために犠牲を要する神崇拝は不要になり、私たちを告発するサタンは行き場を失って天から投げ落とされた。天上の神の右に座すこととなったイエス様は、神と共に人間の歴史の流れを支配するようになった。そして、天に上げられたイエス様はこの世に残された私たちと共にいることができるようにと神の霊を送って下さった。以上のようになります。
 
これらのことをもって、この世の構図が一変したと言えるのは、逆にイエス様の昇天がなくてこれらのことが起きなかった状態を考えて比較すれば一目瞭然です。イエス様が罪の赦しを可能にする完全な贖いを神の御前に運んでいないので、この世ではまだ罪の赦しのために生け贄や犠牲を捧げる神崇拝が必要とされる。サタンは天から投げ落とされず、今も天で神の前で私たちが救われないように神に告発を続ける。イエス様が天に上げられて神の右に座してから神の国の支配が本格的に始まったとすれば、昇天がなければそれもまだになります。それから弁護者である聖霊も天から送られていません。ところで、聖霊が弁護者と呼ばれるのは、私たちを告発し非難する者があるからです。サタンが私たちのことを義のかけらもない罪びとだ、と告発するなら、聖霊は「この人はイエス・キリストの義を着ている」と言って弁護するのです。
 
 心の目を持つこと、正確には信仰に裏打ちされた心の目を持つことですが、その時この世は幾重にも広さと深さと高さを持って見えてきます。私たちは、イエス様の昇天によってこれだけ大変化を遂げたこの世の中を歩んでいるのです。そのことを知ると、私たちが造り主である神からどれだけ目をかけられ愛されているか、ということがわかります。それは、肉眼の目では決して見えません。私たちは、肉眼の目やその他の五感の機能を通してこの世を知り、喜んだり悲しんだりしますが、心の目を通して見ることができるようになるというのは、そうした人間的な一喜一憂を超えた喜びと平安の源、何が起きても微動だにしない源を既に持っているということなのであります。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。