2012年5月14日月曜日

人を救いに導く愛を持ち、キリストの友となれ (吉村博明)


 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年5月13日 復活後第五主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

使徒言行録11:19-30、
ヨハネの第一の手紙4:1-12、
ヨハネによる福音書15:11-17

説教題 人を救いに導く愛を持ち、キリストの友となれ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 この4月と5月は本日吉教会での私の説教奉仕のローテーションに変更があったため、先々週に続いて本日また説教壇に立つこととなりました。前回は、福音書の箇所がヨハネ211519節のイエス様とペテロの対話のところだったため、説教では愛について、特に神由来の愛とか人間由来の愛ということについて沢山お話ししました。先週は、ヨハネ15111節のイエス様はぶどうの木で弟子たちはその枝であるというたとえのところでした。そのことについて斎藤先生から解き明しをいただいたことと思います。そして、本日はその続きのヨハネ151117節でして、イエス様は弟子たちに互いに愛し合うように命じられるところです。前回、愛について十分お話ししたつもりだったのですが、父なる神様はあれではまだ足りないとお考えのようですので、本説教でも愛について、御言葉に基づいてお話しを続けていく次第です。
 
 
2.

 まず、神とイエス様がどのような愛をもって私たちを愛して下さっているのかを、本日の箇所に沿って見ていきましょう。12節で、イエス様は弟子たちに互いに愛し合いなさい、という掟を与えます。どんな愛で愛し合うのかは、すぐはっきりします。「私がおまえたちを愛したように」と言っている通り、イエス様が弟子たちを愛した愛と同じ愛を持って愛し合いなさい、ということです。それでは、弟子たちが互いに愛し合う時に模範とすべきイエス様の愛とはどんな愛か、これもすぐはっきりします。13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言います。つまり、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということです。ここで大事なことは、この犠牲が誰による誰のためになされる何のための犠牲なのか、ということをはっきりさせなければなりません。このことについては、前回の説教で申し上げましたので簡単におさらいをします。
 
 神がイエス様を用いて行った自己犠牲を伴う愛ということをわかるためには、まず私たち人間は造り主である神に造られた被造物であるということをわきまえておかなければなりません。人間は自分の力で自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い亀裂が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順と罪に陥り、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。そこで、神は人間が御自分と結びつきを回復できて、御自分のもとに戻ることができるようにと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間に張り付いている罪や不従順には人間を造り主から永遠に引き裂かれた状態にとどめる力がある。まさに呪いの力です。その力を無力化するために、神は人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、それらがもたらす滅びの死を全部イエス様に叩きつけた。これがゴルガタの十字架の出来事です。このように神は、イエス様を人間の身代わりとして死なせて、その犠牲に免じて人間の罪と不従順を赦し、造り主との結びつきを回復して、そのもとに永遠に戻れる道を整えられたのです。まさに罪の赦しによる救いを実現させたのであります。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命、復活の命への扉も開かれました。私たち人間は、神のひとり子の死が本当に私たちの身代わりのための死だったとわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」の中に入ることができます。ところが、わからず、信ぜず、では、せっかく神が全ての人のために整えて下さった「罪の赦しの救い」の外側にとどまることになってしまいます。
 
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力を上回る命の力の下に置かれることになります。そして、この世にいながら永遠の命、復活の命に向かう道を歩み始め、この世から死んだ後は永遠に造り主とともにいることができるのです。このように、赦しを受け入れることが救いに導かれることになります。造り主である神との結びつきは、この世の人生の段階では目には見えませんが、神の目からみてしっかり始まっています。神との結びつきは洗礼でできます。私たちの目にはただの水にしかすぎないものが、神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、私たちはイエス様の犠牲がもたらした「赦しの救い」の所有者になります。こうして神の目から見て結びつきができあがります。この「赦しの救い」は聖餐式で確認され、神との結びつきは強められます。私たちの目にはただのパンのかけらとぶどう酒にしかすぎないものが、やはり神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、神の目から見て「罪の赦しの救い」が確認され、結びつきが強められます。いろんな感情や思いにとらわれる私たちは、時として神が遠ざかってしまったと感じられる時があります。しかし、それは人間の勝手な思いで、神の方では洗礼で確立した結びつきはしっかり保たれていると見ておられる。そのことを、私たちが口を通して体で受け止めることができるのが聖餐式であります。
 
以上から、神がイエス様を用いて私たちにどれほどの愛を示して下さったかが明らかになったと思います。ヨハネ福音書316節でイエス様は次のように言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ばないで、永遠の命を得るためである。」神の私たち人間に対する愛は、まさにこの言葉通りのものであります。イエス様は、この同じ神の愛をそのまま持たれて私たちを愛し、神の救いの計画の実現のために御自分を犠牲に供したのであります。
 
 
3.

 これで、神とイエス様の私たちに対する愛がどのようなものであるかが明らかになりました。ここでひとつ注意しなければならないことがあります。イエス様が「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え」と命じられる時、イエス様がやったのと同じ犠牲は私たちには課せられていないということです。人間を罪と不従順の呪いから贖うこと、これは神がひとり子を用いて全ての呪いに関して一回限りで完結されたので、イエス様の犠牲の後には何も付け加えることはあり得ません。人間を罪と不従順の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復するために、もっと何かが必要だ、などと考えるのは、神の救いの計画では不十分だ、と言うのも同然で、被造物が造り主に言うべきことではありません。それでは、イエス様が模範を示した愛で私たちも互いに愛し合うとは、どうすることなのでしょうか?神がイエス様を用いて、人間を罪と不従順の呪いから贖い、神との結びつきを回復する道を開いたことはもう動かせない真理です。イエス様を救い主と信じる者が他の人たちを愛する時、この愛が出発点にならなければなりません。それでは、これを出発点としたら、どこに向かったらよいのでしょうか?それは、他の人たちも罪と不従順の呪いから贖われ、神との結びつきを回復することができるようにすることです。
 
隣人愛が究極的にはそのようなことを目指していることは、ルターも教えるところです。「ローマの信徒への手紙」157節の御言葉「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」について、彼は次のように教えます。
「(...我々は罪を除去すべく人々を助ける。我々は誰をも避けたり拒否したり見下してはならないのであって、罪びとを受け入れ罪びとと共にいるようにしなければならないのである。そのようにして我々は罪びとを悪い方向から助け出し、教え諭し、助言し、その人のために祈り、その人のことを耐え忍び、背負ってあげるのである。我々がこうするのは、もし我々が同じような罪にある場合、我々がそうしてほしいと思うからだ。キリスト教徒とは、他者の利益になろうとすることのためだけに生きる者である。その他者の利益というのは罪を除去するということである。(...)我々は、隣人が信仰や人生においてしでかす誤りを耐え忍ぶだけではなく、それを直させるように努める者なのである。」
 
 同じ「ローマの信徒への手紙」153節の御言葉「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」についてのルターの教えは次の通りです。
 「(...)もしキリストがファリサイ派が取税人にしたように振る舞っていたならば、また自分に強い者が自分に弱い罪びとたちにするように振る舞っていたならば、我々の誰が罪から贖いだされることができたであろうか?主が我々に対して振る舞ってくれたように、我々も隣人の罪に対して振る舞わなければならない。我々は、裁いたり、排除したり、嘲ったりしてはならないのであって、隣人が罪から離れられるように助けてあげなければならない。たとえ、そのために命や大切な時間や財産や名誉その他我々が持っている全てのものを支払わなければならなくなったとしても、そうしなければならないのである。このようにしない者は、キリストを放棄したと思い知るが良い(...)。」
 
 このように隣人愛とは、究極的には隣人が罪と不従順の呪いの力から助け出され、造り主との結びつきを回復させ、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩めるようにし、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠にいることができるようにすることです。隣人が、同じキリスト信仰を持つ人の場合は、その人がイエス様のもたらした「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれるよう支えてあげることです。もし、隣人が、キリスト信仰を持たない人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることです。  
 
こう言うと、心穏やかでなくなる人も出てくると思います。日本のようにキリスト教徒の人口比に占める割合が非常に少なく、かつ信教の自由を人権として尊重しなければならない社会では、「罪の赦しの救い」の中に入れるようにする、などと言うと、宗教を他人に強要するように感じる人もいます。そんなのは、キリスト教を名乗ってそうではない宗教団体のやることと同じだとさえ感じる人もいます。もちろん、キリスト信仰を持たない人がキリスト教に興味を持って教会の門を叩いて来れば、話は別です。その時は、私たちを「罪の赦しの救い」の中に入ることができるようにしてくれた神の愛について堂々と証しすることができます。しかし、そうでない場合には、信仰者でない隣人に対しては信仰について何も口にしない方がその人の利益だ、とか、私は食べ物に困っている人に食べ物を与え、着る物に困っている人に着せてあげることで隣人愛を実践しよう、そうすることで助けを受けた人は、私をこのような助けに突き動かしたイエス・キリストにいずれは興味を持ってくれるだろう、これこそが信仰の証なのだ、等々、そのように考える向きが多いのではないかと思われます。
 
こうした考えは、理解できることでありますが、それでも神とイエス様の御心は隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることであるのを考えると、やはりもう一歩何かなければならないのではないか、と考えざるを得ません。まさに、そのために神はひとり子を犠牲にしたのだし、イエス様もそのために御自分を犠牲に供することを受け入れたのですから。でも、興味もない人たちに信仰を証しするなどとは、何か場違いなことのように思われるし、かえって反発をくらってキリスト教がもっと嫌われることに手を貸してしまう等々、ある時にはもっともな根拠ではあるが、ある時には言い訳にもなりうる、そういう逡巡の状態に陥ります。そこで、キリスト信仰の隣人愛の実現のために最低限これだけはしなければならないというものを提案したく思います。それは、私たちの日々の祈りの中に、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるように祈ることを付け加えることです。「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪と不従順の呪いから贖われ、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命、復活の命への道を共に歩めるようにして下さい。」
 
私たちは、困窮している人たちのために祈る時、彼らが神の助けを得られるよう祈りますが、衣食住や健康といった焦眉の助けの他に、根底的な助けである「罪の赦しの救い」の中に入れるようにするという祈りも付け加えるべきだと考えます。この祈りは、隣人と面と向かって信仰を証することではなく、神に向かってお願いすることなので、信教の自由に抵触することはありません。それから、先ほど隣人愛を人道的支援に限定して行う人の中には、自分がキリストの愛に突き動かされていることを見てもらって人々がキリスト教に興味を持つようにするという戦略的迂回の手法を取っていることを申しました。もしその人が、自分を突き動かすキリストの愛とはなんだろうと自問して、まさに人間を罪と不従順の呪いから贖い、造り主との結びつきを回復させ、この世において永遠の命、復活の命に至る道を歩めるようにすること、これがキリストの愛であると確認できるならば、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神に祈ることは、戦略的迂回と何も矛盾はないはずです。戦略的迂回で肝要なことは、迂回をしすぎてもとにもどれなくなってしまわないように注意をすることです。残念ながら、神学を学んだ人たちの中には、もとにもどれなくなるくらいに迂回しすぎて今度は迂回している道の方が本道だと言い始める人も見受けられます。この問題については、いつか機会があれば触れたく思います。
 
さて、この祈りの提案に大切な補足をします。隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神にお祈りすれば、神はなんらかの形で道を準備し始めるでしょう。ひょっとしたら、隣人がなんらかの経路を辿ってキリスト信仰の証しを聞く機会が与えられないとも限りません。それが、祈る人本人の働きになるかもしれません。どんな経路で誰の証しでそれがいつになるかは、神にお任せするしかありませんが、もしそれが祈る本人の働きになる場合に備えて、祈る人は、そのような時が与えられたらしっかり証しができるよう力添えとそのための自分の信仰への支えを神にお願いしましょう。「御心でしたら、その働きは私にお与え下さい」と勇気を持って祈ることができれば申し分ないですが、それは各自の自己吟味にお委ねしましょう。
 
 
4.
 
このように、神とイエス様の御心がわかっていれば、私たちはイエス様の友なのであります。神とイエス様は全人類のために「罪の赦しの救い」を整えられ、私たちは自分の力や考えでは想像もできなかった道を辿ってその中に迎え入れられました。従って、私たちは自分でイエス様を選んだのではなく、イエス様に招かれたことがわかって、その招きは受け入れるべきものとわかって受け入れたという意味で、イエス様に「選ばれた」のであります。何も自分が優れているから選ばれたというのではありません。救いようがないから選ばれたのです。もし、今「罪の赦しの救い」の外側にいる人たちが、自分たちもそこに招かれていることがわかり、それを受け入れれば、彼らもイエス様に「選ばれた」ということになります。
 
それから、世界に出て行って、持続するような実を結ぶ、と言うのは(16節)、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、実際にそのような人が増えて、そこにしっかりとどまれるよう支える、ということです。「実を結ぶ」と言うと、何か目に見えるような慈善事業をするようなイメージがありますが、そのような事業が「罪の赦しの救い」の中に入る人を増やし、そこにいる人を支える、ということをちゃんと射程に入れていれば、本当に「実を結ぶ」仕事になるでしょう。ところが、その射程がなくただ単に人道支援に限定されると、結ぶ「実」はイエス様の整えられた「罪の赦しの救い」とは無縁のものになります。言い方がきついかもしれませんが、人助けをしようにもできない重い病気の人や障害のある人のことを考えて下さい。慈善事業や人道支援が隣人愛の実を結ぶことそのものであると考えると、これらの人たちは実を結べない人たちになってしまいます。しかし、その人たちが病床に横たわりながらも、「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪と不従順の呪いから贖われ、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命、復活の命への道を共に歩めるようにして下さい。」と祈れば、これこそイエス様が教えられる「実を結ぶ」ことなのです。キリスト教会が、肉においても霊においても「実を結ぶ」ものとなりますように、そして、肉において結ぶのが困難な人たちが霊において結ぶ時、そのことが両方できる人たちの実と同じ価値があるものと認められますように。
 
 本日の箇所の終わりで、イエス様はまた「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ということを教えられます(16節)。「また」というのは、同じ教えが157節や1413節でも言われているからです。この教えは、私たちに試練を与えます。私たちは誰も、自分勝手な利己的な願いを神にお願いしようとは思いません。そんなことをしたら十戒の第二の掟を破ることになるからです。もし利己的な願いが実現するようなことがあれば、それは神から来たものではないので、大変危険です。私たちは、神の御心に沿った祈りをしなければならないと知っています。しかし、自分や隣人の病気が治るように、とか、陥った苦難を超えられるようにと祈っても、また、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにと祈っても、もしそうならなかったら、と、いつも一抹の不安を覚えます。全知全能の神にできないことがあったと言いたくないがために、困難な問題を祈ることに躊躇する人もいます。難しいことです。しかし、私たちの心を重くしている事柄を全て神に打ち明けることはキリスト信仰者の権利と言うよりほとんど義務といってもよいものであることは、ルターの次の教えから明らかです。  
この聖句で使徒パウロが教えようとしていることは、どのように我々は心配事を全部神に押しつけたらよいかということである。パウロの教えは次のごとくである。「何も心配しないようにしなさい。しかし、もし何か君を心配させようとすることが出てきたら、その心配事に取り組む主人公はあたかも君ではないように振る舞い、君はそれを脇に置いて、すぐ祈りと願いをもって神の御前に行きなさい。そこで神に祈り、君が心配することを通して実現しようと思っていたことの全てを神がかわりにしてくれるように祈りなさい。そして、そう祈る時はいつも、君にはこんなにも君のことを大事に思っていてくれる神がいて、全ての事柄を打ち明けることができることを感謝しなさい。
 ところが、何かに直面して自分の能力で前もって予測をたてて自力で物事を進めようとし、心配事を自分で引き受けようとする者は、多くの悲惨に見舞われ、せっかく神と共にいることで得られる喜びと平安を失ってしまう。しかも、そのような人は何も実現できない。彼は、砂地に穴を掘って自ら深みへと沈んでいき外に出られなくなるようになってしまう者である。このことは自分たちの経験からも他人の経験からも毎日知らされることである。」
 「この聖句で使徒パウロは」と言ってルターが教えを述べている御言葉は、「フィリピの信徒への手紙」467節です。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。