2012年4月30日月曜日

キリストを愛すること - 牧会者・信徒の共通の課題 (吉村博明)



説教者 吉村博明 フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士

主日礼拝説教 2012年4月29日 復活後第三主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

使徒言行録4:23-33、
ヨハネの第一の手紙3:1-2、
ヨハネによる福音書21:15-19
 
説教題 キリストを愛すること - 牧会者・信徒の共通の課題
  
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 
 
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 今日は二つのテーマについてお話ししたく思います。一つは、本日の福音書の箇所にあるヨハネ2118節で、ペトロがどのような死に方をするかイエス様が預言し、19節で福音書記者のヨハネがその預言について、神の栄光を現す死に方と解説していますが、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛することとはどういうことか、その愛は牧会者と信徒にどうかかわっているか、という本日の説教テーマに直接かかわることです。それでは、はじめに「神の栄光を現すこと」についてみていきたいと思います。
 
 キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで十字架にかけられるという殉教の死を遂げました。彼は、十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちのない人間だ、と兵士たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして十字架に架けられたということです。本日の箇所のヨハネ2118節にあるイエス様のペテロに対する預言、「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」、これは言われてみれば、十字架の刑につけられることを指すとわかるものですが、実際に起きてみなければなんのことかわかりにくいものだと思います。ヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活した主がペトロに言われたことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのであります。こうしてみると、ヨハネがいったん20章で終えた福音書にどうしても21章を付け加えたくなった理由として、ペテロ殉教の報に接し、イエス様の預言の成就が特筆すべきものになったからということが見えてくると思います。(ひとつ余計なことですが、研究者の中には、聖書にある預言とはみな出来事が起きた後に作られて、さも出来事の以前に言われたように書かれただけだ、と主張する人も多いのですが、それだったら、本日の箇所のところは、こんなわかりにくい表現にしなかったのではないでしょうか?例えば、「ペトロ、お前は私のように木に掛けられる」とか「高く掲げられる」とか、イエス様がシンボルを上手に使って「正確に」預言できたようにしたのではないでしょうか?)
 
さて、ペテロの殉教の死は、19節でヨハネが解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは、私たちをしばし考えさせます。私たちもこれくらいしないと、神の栄光を現すことはできないのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天地創造の神の栄光や栄誉は、被造物である私たちの業や達成に左右されるような頼りないものではない、ということです。私たちの業や達成が増すこと減ることに関係なく、神は超然として栄光と栄誉に満ちた方であります。それでは、私たちが神の栄光を現す、というのはどういうことでしょうか?それは、動かせない神の真理を、私たちが自分の生き方を通して人前で証しし、明らかにすることです。つまり、あなたは何者かと問われて、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答える。そして、その造り主が送られたひとり子イエス・キリストの犠牲を通して罪と不従順の奴隷状態から解放された者である、さらに、この世から死んだ後に永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいる者である、そう胸をはって答えることです。何も問われない時は、そのような者として胸をはって生きるだけです。
 
このように神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。神の真理を取り下げないと命はないぞ、という時代だったら、この世の人生の終わり方は殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪の奴隷状態から贖われたということをどうして取り下げられましょうか?贖われた者として自分は永遠に造り主のもとに戻ることができる道を歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペテロは自分の生きた時代状況のなかで、そんな生き方をしたら殉教の終わりになってしまうという生き方を貫いてこの世の人生を終えました。そうすることで神の真理を証し、神の栄光を現したのであります。私たちの生きている時代状況の中では、そんな生き方を貫いたらどんなことに遭遇するでしょうか?これは各自の省察にお委ねしたく思います。一言だけ付け加えますと、たとえ不治の病に侵されても、神の真理に従って胸をはっていることはできるのであり、神の栄光を現すことはできるということであります。
 
 
2.

 次に二つ目のテーマである「イエス様を愛することとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペテロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペテロに同じ質問をしたことは、ペテロがイエス様のことを人前で三度拒否したことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみていきます。
 
 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペテロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。聞く時の動詞はαγαπαωアガパオーと言いますが、答える時の動詞はφιλεωフィレオ―と言います。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になるとイエス様はフィレオ―で聞き、ペテロは同じ動詞で答えます。日本語訳だけでなく、英独の訳もいくつかみてみましたが、みな「愛する」と同じ言葉で訳されています。スウェーデン語とフィンランド語の訳もそうです。これは、訳者がみな異なる動詞に意味の違いはないと考えているからでしょうか?私は、そうではないと思います。実は、この動詞の違いには看過できないものがあります。訳者たちはそれを知りつつも、適当な訳語が見いだせず、説明的に訳することも避けなければならなかったからではないかと考える者です。この二つの動詞の違いを見ていこうと思います。
 
 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女間の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背景に退きがちになるからです。あるフィンランド人の牧師が言っていたのですが、日本で中学生の女の子ばかりが集まる聖書の学びの会で、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちはみな顔を下に向けてくすくす笑い出し、横目で見あっていたということです。和洋を問わずヒットソングばかり聞いているとそういうことになってしまうのでしょう。
 
古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。ペトロの「愛しています」の答えに出てくるフィレオーφιλεωという動詞は、この兄弟愛、同志愛、人間愛に結びつく愛です。
 
それでは、イエス様が聞く時に使った「愛する」の動詞アガパオーαγαπαωはどんな意味があるのでしょうか?ヨハネ福音書1334節と1512節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範として弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーαγαπαωです。それでは、イエス様が弟子たちを模範的に愛する愛とはどんな愛でしょうか?1513節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーαγαπαωも名詞のアガペーαγαπηも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことがかかわってくることが明らかになります。
 
そこで、自己犠牲をも厭わない愛の形という場合、誰のための誰による何のための犠牲なのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」410節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」少し正確に訳すと、こうです。「愛(αγαπη)がどこに存するかと言うと、私たちが神を愛したということにではない。神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになったということの中に存するのである。」つまり、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、神から来る愛です。その内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神がひとり子を犠牲にして全て取り払って下さったということです。人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死する存在となり、造り主の神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神は、人間が再び御自分の元に戻ることができるように、この世から死んだ後も永遠にそのもとにいることができるようにと、ひとり子をこの世に送りました。もし人間が罪と不従順を背負い続けたら、この世から死ぬ時にその重みで滅びの世界に落ちてしまいます。そこで、イエス様に人間の罪と不従順を全てかぶせて、滅びの罰を受けさせました。そして、死んだイエス様を復活させることで、永遠の命、復活の命への扉を開かれました。永遠の滅びから救われるために人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて整えた救いを受け取ることです。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで受け取りは完了です。
 
さて、イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様は、ペトロに神由来の愛の形で「愛しているか」と聞きました。ペトロはというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛、つまり人間に由来する愛の形で「愛しています」と答えました。他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、と言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲などからほど遠いことを露呈してしまった手前、偉そうなことは言えない。かと言って、主を愛してやまないことも偽りのない真実である。そんなジレンマが、ペテロが神由来の愛を避けて人間由来の愛をもって答えたことに見て取れます。イエス様はペトロに、「お前は神由来の愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間由来の愛ですが」と答えるのです。イエス様は同じ質問を繰り返し、ペテロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神由来の愛の形の言葉アガパオーαγαπαωを使わず、人間由来の愛の形の言葉フィレオーφιλεωを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間由来の愛だったら愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペテロの反応と答えに彼が窮地に陥ったことが窺われます。(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃したヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものであります。イエス様とペテロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、使徒ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、イエス様ご自身が目撃者、証言者として働くべく選んだ者たちです。それゆえ、そんな使徒を信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト教信仰の基本です。)
 
 さて、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペテロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペテロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様を救い主と信じる者たちが信仰を持ってこの世を歩めるように彼らを守りかつ指導しなさい、つまり牧会しなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様からあずかって牧会するのですから、その責務ははかりしれないものがあります。ペテロにこのような責務を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。
 
それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様はペトロの愛を三度も確認させたのか?それは、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということを強調したかったからであります。それでは、牧会者のイエス様に対する愛が牧会の土台を成すという場合、その肝心なイエス様を愛するというのはどんな愛なのでしょうか?
 
イエス様を愛するとは、アガパオーαγαπαωアガペーαγαπηの愛で愛することですが、この愛は人間は自分の力でもつことはできません。これは、先にも申し上げたように、人間の自然に由来する愛の形とは異なる神由来の愛の形だからです。男女間の情愛・性愛、兄弟愛、同志愛、人間愛というものは、たとえ人が神に造られたことを知らなくても、イエス様に罪と不従順から贖ってもらったことを知らなくても、持つことができる愛の形です。人間に先天的に備わっているとも言えるし、また後天的に生まれ育った文化や伝統や国の中で形作られてくる面もあります。今次の大震災で何十万のボランティアが復興支援のために東北に赴きました。彼らの大部分はキリスト教徒でない人たちです。キリスト教徒でなくても、兄弟愛、同志愛、人間愛を持つと言うのは何の不思議もないことです。しかし、そうした人間由来の愛は、人間がこの世から死んだ後に人間を造り主のもとにもどす力はありません。その力を持つのは神由来の愛しかありません。しかし、神由来の愛は、神からいただかないと持つことができません。人間に先天的にも備わっていないし、国や文化や伝統がつくることもできません。どうすればそれを持てるかというと、先ほど申し上げましたように、神がひとり子イエス様を用いて人間の救いを整えられたということがこの私のためにもなされたのだ、とわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神の霊、聖霊を受けることを通してです。
 
イエス様は、こうして神由来の愛を受け取った私たちも同じアガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形で愛するよう命じられますのです(ヨハネ1334節、1512節)。ただしこれは、人間を罪と不従順から贖ったイエス様と同じ犠牲をしろ、という愛の実践は意味しません。それは神のひとり子が既に実現したので、新たな犠牲はもう必要ないからです。それにそのような犠牲は私たち人間が出来ることではないのです。他方で、イエス様が払った犠牲と全く異なるレベルですが、私たちが払わねばならない犠牲もあります。それは隣人愛の実践においてです。もし隣人がキリスト信仰を持つ人の場合、その人が既に受け取った救いを失わないようにと助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、ということを肝に銘じておきましょう。また隣人がキリスト信仰を持たない人の場合、その人が私たちと同じ救いを受け取ることができるようにと助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、ということもあわせて肝に銘じておきましょう。ルターは、そのような隣人愛の実践において、財産や命を失う可能性もあることを覚悟せよ、と言っています。
 
信仰と洗礼を通して私たちは、神由来の愛、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛を持って生きることになりますが、他方で、人間が自然に持っている愛の形も、私たちが肉をまとう存在である限り消えないで残ります。人間由来の愛を打ち消して、全てを神由来の愛に置き換えることは不可能です。問題はそうではなく、神由来の愛がそうした人間由来の愛をいかに方向付け秩序立てていくかにあります。例えば、男女間の情愛や性愛は、人間を男と女に造った神の創造の意図にしっかりとどまれば、夫婦の絆を強めるという大切な役割を持っていることが明らかになります。
 
イエス様は、彼を愛する人は彼の教えたことを守る人であると言います(ヨハネ142123節)。イエス様を愛して彼の教えを守るというのは、結局のところ、人間が神由来の愛を受けて、それに基づいて人間に由来する愛を方向付け秩序立てていくことであると言ってもよいと思います。
 
このようにみると、イエス様を愛するということは、牧会者だけに限られません。信徒にもかかわることです。牧会者は、教会を拠点にして、神の御言葉と聖礼典を恵みの道具として用い、信徒が神由来の愛を持ってこの世の人生を歩めるよう、この世から死んだ後は永遠に造り主の元に戻ることができるよう、守り指導する職制にある者です。また、信徒でない者が神由来の愛を持てるように助けることも職務に入ります。信徒はどうかと言うと、拠点は家族、仕事場、学校等々とそれぞれの人生の場所となり、恵みの道具の使用も限られます。しかし、信仰の兄弟姉妹が共に神由来の愛を持って歩めるよう互いに助け合い、また信徒でない人にはその人がその愛を持てるように祈り、もし時が与えられれば信仰を証して、そのようにと助けていくこと、これは牧会者と全く同じイエス様を愛することです。
 
最後に、洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたと言っても、この世では私たちは肉をまとって生きていますから、神由来の愛の形をもって愛そうと思っても、またその愛で肉の欲するところを方向付けたり秩序立てたりしようとしても、いつも霊の導くところと肉の欲するところの間に立たされて、失敗することがあります。神を全身全霊で愛さなかったり、隣人を自分を愛するが如く愛さなかったりする自分に直面します。失敗の連続でしょう。しかし、その時は、いつも罪と不従順の赦しの原点であるゴルガタの十字架に心の目を向けましょう。贖いと救いはそこで完全に実現されているのです。そして、洗礼を通して受け取った救いは、私たち個人の思いや感情や動向に関係なく、全く微動だにせず私たちの足元をしっかり支えているということを、聖書の御言葉から体得しましょう。例えば、イザヤ書5410節で神は次のように言われます。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと」。私たちが微動だにしない神の赦しの恵みとしっかり結ばれていることは、聖餐式で受ける主の血と肉を通して体得されます。このことも忘れずにこの世の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン