2017年2月27日月曜日

起きなさい。恐れることはない。 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年2月26日変容主日 スオミ教会

出エジプト記34章29-35節
ペトロの第二の手紙1章16-19節
マタイによる福音書17章1-9節

説教題 「起きなさい。恐れることはない。」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン


 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに
                                     
本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が
山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたマタイ17章の他に、マルコ9章とルカ9章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は変容主日とも呼ばれます。毎年、四旬節の前の主日はこの変容主日に定められています。

 昨年も申し上げましたが、このイエス様の姿が変わる出来事はとても幻想的で劇的でもあります。イエス様が三人の弟子だけを連れて、「高い山」に登る。その山は、ほぼ間違いなく、フィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。以前、八方尾根でスキーをした時に見た五竜岳と比べると、ヘルモン山は写真で見るからにはなだらかで急峻な感じはしません。

ヘルモン山の頂上で何が起きたかと言うと、まず、イエス様が白く眩しく輝きだし、続いて旧約の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れ、イエス様と何かを話し合います。そこで、ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ立てましょう、と提案すると、突然辺りは雲に覆われ、その中から天地創造の神の声が轟きわたります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)と。その後すぐ雲は消え、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻っていたのです。ところで、神が「これはわたしの愛する子」と呼び、「これに聞け」と命じたのは誰のことだったでしょうか?それはイエス様のことでした。イエス様は神の子である、彼の教えることを聞いて守りなさい、と神は言われたのです。ところがイエス様は、十字架の死から復活させられるまではこの山の上の出来事を口外することを禁じました。

この出来事に幻想的な色を添えるのは、不思議な雲の出現です。山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所を注意して読むと(5節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられます。あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、福音書の解き明しには何の支障もないということは毎年述べている通りです。

 以上は、三つの福音書に述べられている出来事の大まかな流れです。ところが三つの福音書の記述をよく比べてみると、お互いに違っていることがいろいろあることに気づかされます。本日はマタイの記述を中心に解き明しをしていきますが、他の福音書の記述も注意してみていきます。

2.

同じ出来事を扱った複数の福音書の記述がお互いに違っているということは、本日の日課の箇所の他にも数多くあります。このことをどう考えたらよいでしょうか?ある記述が歴史を忠実に反映していると言ったら、じゃ、他の記述はそうではないということになってしまうのか?マルコの記述が正しかったら、マタイとヨハネの記述は信用できないということになってしまうのか?

聖書に収められた福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。それぞれのでき方を見ると、マタイ、マルコ、ルカの3つには共通点があります。ヨハネ福音書は、イエス様の弟子で出来事の直接の目撃者であるヨハネが書き記した記録が土台にあります。マタイ福音書も多分、弟子のマタイが書き記した記録が土台にありますが、マタイ自身の記録以外の資料も多く含まれています。大ざっぱに言うと、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、直接の目撃者でない執筆者が目撃者の談とか口伝えの伝承を資料にしています。さらに断片的に書き留められた記録やもっと長い記録も資料として用いています。

そういう目撃談や書き留められた記録などの資料は、伝承されていく過程で、強調したい部分は強調されたり、大事でないと考えられたものは背景に追いやられたり削除されたりします。そういうわけで資料は、福音書の執筆者の手元に届くまでに最初のものと比べて変化する可能性が高いです。そういうわけで、出来事の記述に違いがあるというのは、どっちが本当でどっちがそうでないと否定し合うもののように考えるべきでなく、全体像が把握できるためにお互いが補うもの同士になっているとみなければなりません。それに、出来事の記述に違いがあるとは言っても、核となる部分はみな同じです。イエス様に同行したのはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子であったこと、頂上でイエス様の姿が変わったこと、モーセとエリアと謎の雲が出現したこと、雲の中から神の声が轟きわたったこと、雲が消え去った後にイエス様だけが残っていたということ、これらは三つの福音書の記述全てに共通する、いわば出来事の核となる部分です。

三つに共通する中核部分に対して、今度はそれぞれがどう違っているのかを見ると、ルカ福音書ではイエス様が山に登った目的が「祈るため」と記されていますが、他の福音書では目的は何も言われていません。イエス様の変容についてみると、マタイ福音書では顔が太陽のように輝き、服も光のように白く輝きますが、マルコ福音書ではこの世のどんなさらし職人でも白くすることができないくらいの白さで輝いたことが言われます。ルカ福音書では、イエス様の顔の様子が変わり服が白く光り輝いたと言われます。イエス様がモーセとエリアと話をしていることについて、ルカ福音書では近くエルサレムで起きる、イエス様の十字架の死と死からの復活について話し合われますが、マタイとマルコでは話の内容は記されていません。ペトロが仮小屋を建てますと言ったタイミングをみると、マタイ福音書とマルコ福音書ではイエス様とモーセとエリアが話しをしている時ですが、ルカ福音書ではエリアとモーセがイエス様のもとを離れようとした時です。

それから、神の声が轟いた後のイエス様と弟子たちの様子についてみると、マタイ福音書では弟子たちは恐れおののき地面に伏してしまう。そこをイエス様が近寄ってきて、彼らに触れて「起きなさい。恐れることはない」と言って安心させます。マルコ福音書とルカ福音書では、イエス様のそういう励ましは記されていません。

 全体的にみると、ルカ福音書の記述が一番詳しいです。他方で、マタイ福音書ではイエス様が弟子たちを安心させるとか、マルコ福音書ではイエス様の変容がこの世のものでないことが強調されるという、ルカ福音書にない細部もあります。これらの違いは、先にも述べましたように、お互いを補い合って出来事の全体像を作り上げるものです。違いがあるおかげで、一つの出来事をいろんな角度から見れて、出来事を広く深く見ることができます。そういうわけで、違いがあることの中にも聖霊の働きがあると言うことが出来ます。

 ここで少し脱線ですが、同じ出来事を扱った福音書の箇所を比較しながらみると出来事の全体像がわかってくると申し上げましたが、どのようにしたらいくつもの福音書を同時比較することができるでしょうか?しおりや指をページに挟んで、いちいち開くところを変えるのは大変です。私はこうしています。このようにA3位の大きな紙に左からマタイ、マルコ、ルカの順に列にして書いていき、一目で比べられるようにします(実例を見せる)。私の場合はギリシャ語ですが、皆さんがわかる言葉で良いと思います。実はこういう本もあるのですが、値段は高いです。それに自分で書いた方が御言葉を身近に感じられます。なんだか写経じみていると思われるかもしれませんが、こちらは比較を通して書かれていることの内容を明確にするという目的があります。
 
3.

イエス様の変容の出来事のなかには、分かりにくい事が沢山あります。例えば、イエス様が白く輝く変容をとげたこと、モーセとエリアの出現、ペトロの「仮小屋」を建てるという提案、出来事を言いふらしてはならないと言うイエス様のかん口令などです。以下にそれらを明らかにしていきましょう。

まず、変容したイエス様の輝きについて。マルコ福音書では、白さがこの世のものでないことが強調されて、神の神聖さを現すことを意味しています。ルカ福音書ではイエス様が「栄光に輝く」と言われ(32節)、これは文字通り神の栄光を指します。この変容においてイエス様は、罪の汚れに全く染まっていない、神聖な神のひとり子としての本質を現わしたのです。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われています。つまり、イエス様というのは、この世に送られて乙女マリアから肉体を受けて人間と同じ者となったが、罪を持たないという神の性質はずっと持ち続けたということです。そういうわけで、ヘルモン山の上で起きた変容の出来事は、まさに罪を持たない神の神聖さを持つ、そういうイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

次にモーセとエリアが出現したことについて。二人とも旧約の偉大な預言者ですが、遥か昔の時代に登場した二人が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?ここで、人は死んだらどうなるかということについて、聖書が教えていることをおさらいしますと、人はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨して、この世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるということであり、その日には死者の復活も起きます。まさにその時に、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、この世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠るだけということになります。

ところが、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えがあります。ルターも、そのような者がいることを否定していません。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては、申命記34章にあるように、死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、人は誰もモーセが葬られた場所を知らないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。このようにモーセとエリアの場合、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないので、ひょっとしたら復活の日を待たずして、神の国に迎え入れられた可能性があります。まさにその二人が、イエス様に間もなく起こる十字架の死と死からの復活についてイエス様と話をするために、神の力によってヘルモン山頂に送られたのです。幽霊などという代物ではありません。そもそも亡くなった人は原則としては復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、それは神の力によるものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。

次に、ペトロが建てると言った「仮小屋」について。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。なぜなら、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。モーセは律法を直接神から人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。しかし、イエス様は神の子であり、神の意思そのものである律法が完全に実現した状態を持った方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので律法を受け渡した人と預言を宣べ伝えた人とは同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいます。「これは私の愛する子。彼に聞き従え」と。つまり、「ここにいるのは神のひとり子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人と一緒にするな」ということです。

 次に、イエス様は山の上の出来事を自分が死から復活させられる時までは言いふらしてはならないと命じましたが、なぜ、それを人々に伝えることをそのように後々に延ばしたのでしょうか?その背景として次のことが考えられます。イエス様の十字架と復活の出来事が起こる前は、人々は彼のことを預言者とかユダヤ民族を他民族支配から解放してくれる王という意味でメシアと見なしていました。しかし、受難の道を通って神の人間救済計画を実現するという意味でのメシアだとは誰一人として考えていませんでした。そのような時に、山の上で見たことを言い広めたら、ナザレのイエスはモーセ、エリアと並ぶ偉大な預言者だ、という噂が広まってしまったでしょう。十字架の死と死からの復活の出来事が現実に起きない限りは、イエス様がメシアであることの本当の意味はわかりません。イエス様としては、十字架と復活の出来事の前に余計な誤解や憶測を増やすことは避け、ただ黙々と神の人間救済計画を実現する道を歩むことに集中したのです。

 十字架と復活の出来事が起きた後で、イエス様には神の力が働いたからこそ死から復活することができたのだと皆がわかるようになりました。まさにその時に、イエス様は実は神のひとり子であった、そういう神の声をヘルモン山で聞いたと証言すれば、彼の十字架の死というのはこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲だったことがわかります。一体何のための犠牲だったかと言うと、それは人間が神から罪の赦しを受けられるための犠牲です。神聖な神のひとり子が犠牲の生け贄として捧げられたのです。それで人間は、イエス様が本当に自分の罪の償いのための犠牲になったとわかって、それで彼こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられます。それにあわせて、十字架で起こったことがその人に当てはまるようになります。十字架で起こったこととは、イエス様が自分を犠牲にすることで死を滅ぼしたこと、そして罪が持っていた、人間を死に陥れる力を無力にしたこと、こうしたことがイエス様を救い主と信じ洗礼を受ける人に当てはまるようになります。

4.

さて、本日の使徒書の日課の中でペトロは、聖なる山の上で神の声を聞いたことが預言の言葉を一層しっかり携えて人生を歩めるようになったと証しています(第二ペトロ119節)。ここで言う預言の言葉とは、イエス様が将来再臨するという預言を指します。イエス様が再臨するということは、この世には終わりがあり、その時は今ある天と地が新しい天と地にとってかわられ、死から復活させられたキリスト信仰者は神の国に迎え入れられるという預言を指します。

ペトロは、神の声を聞いたことで、これらの預言の言葉を一層しっかり携えて歩めるようになったと言うのですが、山の上でのペトロは神の声を聞いた時、一体どんな状態だったでしょうか?恐れに満たされて地面に伏してしまってブルブル震えていたのではなかったでしょうか?預言の言葉を一層信じるどころではなかったのではないでしょうか?それがどうやって神の声を聞いて一層信じられるくらいに恐れを乗り越えられるようになったのでしょうか?

ペトロが恐れに満たされていた時、イエス様が何をしてくれたかを思い出しましょう。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」神のひとり子が自分の方から地に伏して震えている弟子たちのもとに歩み寄って、背中でしょうか、肩のあたりでしょうか、優しく手を触れて、心配しなくていい、大丈夫だ、と言って下さったのです。これから人間を罪の呪縛から解き放つために自分を犠牲に供しようとする方が、そう言って下さったのです。人間が受けられる励ましと勇気づけの中でこれ以上のものはあるでしょうか?

 兄弟姉妹の皆さん、私たちも地面に伏してしまう時があります。もうないと思っていたはずの罪が力をふるいだした時とか、またいろんな困難や苦難に陥った時です。そのような時こそ、イエス様が弟子たちのもとに来て、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言ったことを思い出しましょう。確かに、同じ声は私たちの耳に響きません。主の手が触れることも感じられません。しかし、聖書の御言葉を通して、また聖餐式を通して、全く同じ励ましと力添えを受けられます。御言葉と聖餐は同じ励ましと力を与えるのだと信じて、御言葉に聞き、聖餐を受ける。これがキリスト信仰です。自分がどう感じるかは二の次です。感じることよりも、もっと確かなことがある。御言葉と聖餐が励ましと力を与えると神が約束すれば、それが感じることに勝る真実になる。これがキリスト信仰です。兄弟姉妹の皆さん、神は私たちがそのような確かな真実を持つことができるように御言葉と聖餐を与えて下さったことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2017年2月20日月曜日

『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年2月19日(顕現節第7主日)

スオミ・キリスト教会

レビ記19章17-18節
コリントの信徒への第一の手紙3章10-23節
マタイによる福音書5章38-48節

説教題 「『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

マタイ福音書の5章から7章にかけてのイエス様の教えは、彼が山の上で群衆の前で宣べたことから、「山上の説教」と呼ばれます。その中でイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方について教えます。十戒や律法を正しく理解するというのは、それらを与えた方、つまり天地創造の神の意思を正しく理解することになります。かつてイスラエルの民は全人類を代表して十戒や律法を与えられたにもかかわらず、神の意思を正しく理解していなかったことは明らかでした。それでイエス様は、「あなたたちは、神が次のように命じたと言われるのを聞いてきた。私はそれらについて次のように教えよう」と前置きをして、一つ一つ正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父である神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことでしょうか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?また、右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

さらに44節を見ると、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。イエス様は、私たちに何か崇高な道徳を実践しろ、と命じているようにみえます。45節を見ると、敵を愛し、迫害する者のために祈る理由が言われます。それは、私たちが「天の父の子となるためである」とか、父なるみ神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」などと言われます。こう聞くと、なるほど神は悪人にも気前よくしてくれるのか、悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪をやめなくてもいいわけだ、という理解がされる危険があります。さて、イエス様の意図が、悪はしたい放題で構わないと主張するものではないことは誰でもわかります。それならイエス様は何を教えようとしておられるのか?本日は、この問いに対する答えを見つけて参りましょう。

2.

 まず初めに、38節の「目には目を、歯には歯を」という掟について。これは、出エジプト記212225節やレビ記241720節に出てきますが、申命記191621節を見ると、どうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰で一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、嘘をついた側が嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ損害を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力の意図があったとしても、この掟は反対の結果をもたらしてきたことも事実です。損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。「これは当然の報いだ」と言って報復が正当化されます。こういう考え方はどこの世界にもあります。

掟が仕返しを正当化するものとして理解されたがために、イエス様は、それは本当の意図ではないとして、それで、悪を成す者に対して仕返しをしてはならないと教えます。報復を正当なものとしません。悪を成す者に仕返ししないとは、それじゃ、悪がなされるままにほおっておけ、ということなのかという疑問が起きると思います。ところが、イエス様の教えをよく見るとそういうことでないことに気づかされます。右の頬を打たれたら、左を出せ、と言います。下着を取られたら、上着を差し出せ、1ミリオン(約15キロ)歩かされたら、させた者と一緒にさらに1ミリオン歩け、と言います。ただの打たれっぱなし、取られっぱなし、歩かされっぱなしの泣き寝入りとは違います。悪を被った方はとても能動的です。受動的ではありません。能動的と言っても、打たれたら打ち返す、取られたら奪い取るというような仕返しでもありません。お返しはするが、そのお返しは普通考えられるような仕返しとは違います。

そこで、右の頬を打った側が左を出されたらどうするか考えてみましょう。下着を取った者が上着を差し出されたらどうするでしょうか?せっかく相手をひれ伏してやったと得意気になったのに、そんなことされたら、今自分がしたことが全く取るに足らないものであったとこれ見よがしに見せつけられた思いがするのではないでしょうか?そうなると、ここで恥じ入ってそれ以上の悪に進むことを躊躇するか、それとも、逆上してさらなる悪に踏み込むか、どちらかだと思います。

このように見ていくと、ここでのイエス様の教えの趣旨というのは次のように言うことができます。まず、悪を被ってしまった者は悪と同じ土俵に立たず悪と同じ手口を用いてはならないということ。そして、悪を行った者を、大げさに言えば人生の運命の分岐点に立たせるような、そういうお返しをしなさいということ、この二つを教えていることが見えてきます。

さらに42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。ここで言う「求める者」と「借りようとする者」は、38節からの文脈に沿ってみれば、悪を成す者です。困っている人一般ではありません。つまり、悪を成す者が困って求めてきたら与えなさい、借りようとしたら、背を向けないで貸してあげなさい、ということです。悪を成す者が困ったら、いい気味だ、自業自得だ、などと言うのではなく、助けてあげなさい、ということです。実は、使徒パウロがこのイエス様の教えを受け継いで教えているところがあります。「ローマへの信徒の手紙」121721節です。少し、それを見てみましょう。

1718節 だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

「だれに対しても悪に悪を返せず」というのは、先ほど述べたイエス様の教えの趣旨に合致します。「せめてあなたがたは」の意味ですが、まず、このパウロの手紙はキリスト信仰者に向けて書かれています。それで、キリスト信仰者というのは他の者たちが平和共存を損なおうとして何かしでかしてきても、決してそれを受けて立ってはいけない、挑発に乗ってはいけない、相手が何をしようがどう言おうがこちらとしては平和共存路線に訴えていきなさい、ということです。

19節 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、審判が起きる復活の日を信じるキリスト信仰者は不正義の報いと償いは神に任せて、以下のことに専念しなさいと言われます。

20節 あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。

善をもって悪に報いてあげた敵の頭の上に燃える炭火を積むというのは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が考えを改めない限り、ただただ最後の審判で受ける裁きを自ら確定してしまうことを意味します。

21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、結局は悪の力に頼ったことになり、悪に屈したことになる。悪に本当に勝つためには善をもって悪に立ち向かうしかない。その時、敵は恥じ入って悔い改めるかもしれない。悔い改めない場合は、あとは神がその者を完璧に裁くことになる。どっちにしても、悪は打ち負かされる運命にあるのだから、善をもって悪に立ち向かうしか道はないのである。

以上、使徒パウロの教えを見てみましたが、悪に対して悪を返さない、善をもって悪に勝つ、などとは、一見崇高な道徳に見え、誰か立派な人がやればいいのだと思われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰には復活の信仰があるので、悪と不正義に対する報いと償いはどんなに遅くとも最終的には最後の審判と復活の日に起きるとみんな知っています。それでキリスト信仰者は、イエス様やパウロが教えていることはそんなにかけ離れたものではないと気づくことができるのです。逆に、復活とか最後の審判とか最終的な報いや償いなどない、全てはこの世止まりで、その先は何もないと言う人から見たら、善をもって悪に立ち向かうなどというのは崇高な道徳で何か英雄的な人でないと無理ということになってしまうでしょう。

以上、「目には目を、歯には歯を」という掟の意図についてイエス様が教えたことを見てみました。それは、仕返しを正当化するものではないということ、じゃ、悪に対してどう振る舞えばよいかと言うと、悪と同じ手口を使わないで悪を一瞬たじろがせることをしなさいということでした。キリスト信仰者にはそういうことが出来る可能性があります。復活や最後の審判が起こると信じているからです。それがなければ、仕返しもせずに善をもって悪に報いるなどとは本当に道徳的な英雄しか出来ないことになってしまいます。

3.

次に、4344節のイエス様の教え、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」について見てみましょう。

「隣人を愛せよ」という掟は、先ほど読んで頂いた本日の旧約の日課レビ記1718節にあります。一つ注意すべきことは、レビ記の文脈の中ではこの「隣人」というのはイスラエルの民に属する同胞を意味します。「敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見当たりません。どうして律法にない掟が律法にあるものと一緒に対になって教えられてきたのか?レビ記の文脈では隣人愛は同胞愛ですので、同胞に属さない者、敵国に属する者は愛の対象ではないという考え方がつきまとったことによると考えられます。

ところがイエス様は、「敵を愛せよ」と教えました。つまり、隣人愛を向ける相手がイスラエルの民の外にも及ぶということです。これで、隣人愛を向ける相手である隣人の概念が一つの民族集団の枠を超えて全人類に及ぶものになりました。しかしながら、概念を拡大したところで、現実には敵対して来たり迫害してくる者も出て来ます。そういう者に対してはイエス様は、「迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。「ために」と訳されているギリシャ語の前置詞υπερは「利益になるように」という意味があります。迫害する者の利益になるように祈りなさい、とは一体どんな祈りなのでしょうか?

それがわかるために、イエス様が迫害する者の利益になるように祈ったことがありますので、それを見てみると良いと思います。ルカ2334節です。十字架にかけられたイエス様が天の神に向かって「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたところです。自分を十字架にかけた者たちが神の厳罰を受けないようにと、まさに迫害する者の利益のために祈ったのです。同じような祈りは、ステファノが大胆に信仰を証しした後で石打ちの刑を受け、息を引き取る寸前に唱えました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録760節)。悪と不正義に対する報いと償いは必ず復活と最後の審判の日に果たされるのに、なぜ、悪を吹っかける者が罰を受けないで済みますように、などと悪を被る側の方が祈らなければならないのか?イエス様もステファノも崇高な道徳を追求しすぎて、少しやりすぎたのでしょうか?

いいえ、そういうことではないのです。イエス様とステファノの祈りの意味がわかるために、あるキリスト信仰者が以前私に話してくれたことを振り返ってみたく思います。その方の高齢の親御さんが病気で入院して、原因不明の痛みが体中にあって苦しんでいました。医者もいろいろ調べてみたけれど原因がつかめず困っていました。見舞いに行った息子さんが、励ましの言葉が尽いてしまって、黙って見ているだけということに耐えきれなくなり、ついに意を決して「イエス様にお祈りしてあげます」と言って、ベッドの脇で少し声に出してお祈りを始めました。実はその親御さんというのは、元気な頃から、神や仏などに頼らない、宗教などは弱い人間がすがりつくものだという考えを持っていました。案の定、「やめろ、やめろ、そんなものは聞きたくない!」と叫び出してしまい、せっかくのお祈りは中断されてしまいました。息子さんが落胆したのは無理もありません。しかし、ちょうどその時、頭の中にある言葉が響き渡りました。それは、あのイエス様が十字架の上で述べた言葉でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

その息子さんが願ったことは、イエス様が癒しを与えて親がイエス様と出会え、彼を救い主として受け入れられるようになることでした。あるいは、たとえ癒しが与えられなくとも、少なくともイエス様とは出会えて、痛みがあっても心に平安を持てることでした。もちろん、洗礼を受けるまでになればベストなのですが、たとえそこまで行かない場合でも、少なくとも、あのルカ234043節に出て来る、改心した強盗のように最後の瞬間にイエス様を救い主と受け入れて、この世から次の世への移行を全てイエス様に任せられるようになることでした。それが拒否されてしまった時、息子さんに残されたのは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りだけでした。

この親のケースは、迫害はありませんが、それでもイエス様を拒否するという点では迫害者の場合と共通しています。そのような人たちでさえも、神が与えて下さる救いを受け取られるようになるというのが、まさに神が望まれていることなのです。

ここで、神が与えて下さる救いとは何かということを思い出さなければなりません。それは、人間が自分の造り主であり天地の造り主である神との結びつきを回復させてこの世の人生を歩むことができるようになるということです。そして、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようなるということです。この、神との結びつきの回復という救いはどのようにして起こったのか?それは、神がひとり子イエス様をこの世に送って、本来人間が受けるべき罪の罰を全部彼に請け負わせて十字架の上で死なせて、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことで始まりました。そして人間の方で、この、イエス様が命を捨ててまでして成し遂げた償いと贖いの業を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しはその人に全くその通りになります。罪が赦されたのですから、神との結びつきが回復するのです。

神はこの、イエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を全ての人間にどうぞと言って差し出してくれているのです。神がこの救いを善人にも悪人にも等しく与えたがっていることは、45節のイエス様の教えからも明らかです。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせると言うと、悪を働こうが善を行おうが神にとってはどうでもいいと言っているように聞こえます。しかし、そうではないのです。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、彼らが神の差し出している救いを受け取ることができるようにするという意図があります。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、神の善意を裏切ることになります。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されてしまいます。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいというのが御心です。それなので、既に結びつきを回復した者は神の御心に従って、悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、「神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい」という自分のための祈りではありません。そうではなくて、「神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された『罪の赦しの救い』を受け取ることができるようにして下さい」とまさに悪人や敵の利益のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそう祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということになります。

以上みてきたように、汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、という教えは、キリスト信仰にあっては、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って既に神との結びつきを回復した者が、まだ受け取っていない、回復していない者たちに働きかけ、神に祈りを捧げて、その者たちも受け取れるようにする、そういう内容です。もし、「罪の赦しの救い」とか神との結びつきの回復ということと全く無関係に、敵を愛することや迫害する者のために祈ることが目指されるならば、それはもう、道徳的な英雄にやってもらうしかなくなるでしょう。

4.

 このように、キリスト信仰の観点に立ってみると、イエス様とステファノが行った迫害者のための祈りは、何か崇高な道徳を追求した、とか、やりすぎな祈りであったというのは当たりません。もちろん、そうは言っても、自分を迫害する者が本当にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け入れられますようにと祈ることは、やはり現実離れしているような感じを受けるかもしれません。

 ところが、二人の祈りは現実離れしているとか、崇高な道徳の飾り物ではなかったことを示す証拠があります。それは、パウロです。彼は、自分でも語っているように、ステファノの石打ち刑に加担していました。それくらいイエス・キリストを拒否していたのに、「罪の赦しの救い」を受け取って、その後は使徒として福音伝道に一生を捧げました。イエス様やステファノの祈りの結果、迫害者が救いを受け取ったという例はパウロ以外にもあったかどうかについては、聖書には記されていないのでわかりません。ひょっとしたら、迫害者の中から福音伝道者が現れたかもしれません。または、あの十字架の強盗のように息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白した人がいたかもしれません。もちろん、イエス様も救いも拒否し続けて、神との結びつきを回復しないままこの世を去ってしまったケースもあるでしょう。それぞれどれくらいいたのか、それは神のみぞ知る、ですので、これ以上詮索はしません。いずれにしても、兄弟姉妹の皆さん、私たちは「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきを回復したキリスト信仰者ですので、まだ受け取っていない、回復していない人たちがそうできるように、働きかけと祈りを忘れないようにしましょう。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。