2022年3月28日月曜日

天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年3月27日 四旬節第四主日 スオミ教会

 

ヨシュア記5章9-12節

コリントの信徒への第二の手紙5章16-218節

ルカによる福音書15章1-3、11b-32節

 

説教題 「天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課にある放蕩息子の話はキリスト教会の内と外とを問わず聖書を読む人なら恐らく誰もが知っている有名な話です。知られすぎている話ゆえに、これを読む時に注意しなければならないことがあります。それは、この話はイエス様のたとえの教えであるということです。架空の話で実際に起きた出来事ではありません。何か大切なことを教えようとしてイエス様が自分で創作して人々に聞かせた話です。後で見ていきますが、大切なことがよく表れるようにとても精巧に出来ています。だから、読む人はイエス様が伝えようとしている大切なことをわからないといけません。

 

 それでは、彼が教えようとした大切なこととは何か?3つあります。一つは、神は自分のもとに立ち返る者を、たとえどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるということ。二つ目は、神に迎え入れられた者は、自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然であるということ。遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということです。そして三つめは、多分あまり注目されていないことかもしれませんが、一番大事なことです。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になる、つまり最初の立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。以下、これらの3つの大切なことを見ていきましょう。

 

2.神は立ち返る者は誰でも大喜びで両手をひろげて迎え入れてくれる

 

あるところに多くの使用人を雇えるくらいの金持ちがいて、彼には息子が二人あった。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求です。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかです。しかし、なぜか父親は言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、先ほども言いましたように、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話です。父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けです。この父親が父親として適格かどうかとかいうような議論は不要です。

 

 さて、息子は得た金を持って遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。この話を聞いていた人たちは、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、弟は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかです。

 

 さて、息子は金を使い果たします。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲います。困った息子はその地でなんとか豚の群れの世話の仕事にありつける。しかし飢饉はひどく、豚のえさまでが喉から手が出るくらいにほしくなる始末。まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めなことか。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父さんに謝って召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにしました。

 

 やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に息子に気がつく。息子は飢えと過酷な労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親は召使いに命じて息子に上等な服を着せて靴も履かせるので、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとって全く想定外のことでした。きっと白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情深く受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。祝宴が始まりました。父親は息子の帰郷を本心で喜び、彼がしでかしたことを不問にしました。イエス様は、天の父なるみ神も同じだと教えるのです。つまり神は自分のもとに立ち返る者を、たとえその者がどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるのです。

 

3.神に迎え入れられた者は後から迎え入れられた者を神と共に喜ぶ

 

そこで長男が畑仕事から帰ってきます。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、行方不明だった弟さんが無事帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家に入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけを守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに神と父親の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。

 

 ここでイエス様は、神のもとからいなくなってしまった者が神のもとに立ち返って神に見つけられるようになると、神は祝宴を催したいくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこの話を聞く人たちにわからせようとしたのです。そのために父親の喜びようを詳しく話したのでした。

 

 それでは、どうしてイエス様は神のもとに立ち返った者を神が大喜びすることを教えるのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。放蕩息子の話のすぐ前にイエス様の別のたとえの教えが2つあります。合計3つのたとえは連続しているのです。

 

 イエス様がたとえを話すきっかけになったのは、彼が当時ユダヤ教社会で罪びとと目される人たちと一緒に食事をしたことがスキャンダルになったからでした。食事を共にするということは家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今世間の注目の的となっているこのナザレのイエスは何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者という宗教エリートたちは目くじらを立てたのです。これに対してイエス様は自分の行っていることは正しいと言うために三つのたとえを話します。最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。二つとも締めくくりの言葉は同じです。こういうなくなったものを見つけた時の喜びは、まさに罪びとが神のもとに立ち返った時に天国で抱かれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返るようになった人たちなのです。

 

 それならば、なぜ宗教エリートたちは文句をつけるのか?神のもとに立ち返ったのならば問題ないではないか?そういう疑問が起きます。宗教エリートたちは、イエス様と一緒に食事をする元罪びとたちが本当に神のもとに立ち返ったかどうか信じられないのです。彼らからすれば、罪の赦しを間違いなく神から得られるためには、宗教上の規定に基づいていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、と思ったのです。放蕩息子の話の終わりに出てくる兄は父親の言うことをよく聞く良い子でしたが、弟を受け入れることが出来ません。イエス様は宗教エリートたちに対して、これが君たちのレベルなのさ、とわかりやすく教えているのです。

 

 イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした元罪びとたちは本当に神のもとに立ち返る生き方を始めた人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度なくなってしまったがまた見つかったのです。それで神は、いなくなってしまった1匹の羊を見つけた羊飼いが大喜びするように、またなくなってしまった1枚の銀貨を見つけた婦人のように、そしていなくなってしまった息子を見た父親のように、神は自分のもとに立ち返る者を心から喜んで迎え入れるのだと教えるのです。それなので、神に迎え入れられた者は自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然である、遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということをイエス様は宗教エリートたちに教えるのです。

 

 ここで、最初の二つのたとえに関して注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり物であるということです。それなので、悔い改め、つまり神のもとに立ち返ることを教える題材としては適当ではありません。銀貨や羊が悔い改めをすることはないでしょう。そこで放蕩息子の話がでてくるのです。そこでも最初の二つのたとえと同じように、なくなったものが見つかった時の天上の喜びはとても大きいということが言われます。しかし、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、それに関連して人間の内面の変化についても教えているのです。

 

4.神に迎え入れられた瞬間、神に立ち返る心は一層強められる

 

そこで、このたとえの3つのポイントの中で一番大事なポイントに入ります。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の時の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になって、立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。息子の場合はいつそのような気持ちの強められが起こったでしょうか?

 

 まず17節を見ます。「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状態にあった時のことです。これはまだ最初の立ち返りの気持ちです。強められる前のものです。18節を見ると、その時の息子の気持ちが詳しく記されています。父さんのところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに僕は飢え死にしそうだ。ここを発って父のところに帰って言おう。「父さん、僕は天に対しても、また父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。

 

 果たしてこの立ち返りの気持ちは純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、そういう論法でしょう。

 

 結局、パン欲しさのための立ち返りと言われても仕方がなく、息子の反省はこの時点ではまだそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには自分の非を認めて謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形式だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということも否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、金がなくなったので親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は食いつなぐための手段のように見えます。

 

 ところが、どうでしょう。息子は父親から心からの出迎えを受けて何を言ったでしょうか?父さん、僕は天に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪の言葉「自分は神に対しても父親に対しても罪を犯した、自分はもう息子と呼ばれる資格はない」を言う必要がありました。そのために謝罪の言葉は「雇い人の一人にしてもらってパンを腹一杯食べる」という目的のための手段に聞こえてきます。ところが、息子が実際述べた言葉の中には「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。本来の目的が消えてなくなったのです。これに伴って謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が目的になったのです。イエス様はそのようにセリフを考えて作ったのです。本当に天才的としか言いようがありません。

 

 どうして息子にそのような変化が起こったのでしょうか?息子が帰国を決めてから故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何があったかをみてみましょう。遠くに息子を見た父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれていた、帰って来るのをずっと待ってくれていた、忘れないでいてくれていた。それなのに自分は父さんを単なる財産提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、しかもそれを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父さんに受け入れてもらうに値しない者なのに、父さんは両手をひろげて迎えてくれた...

 

 「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉は、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という流れで言う言葉でした。それが「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけになって、それは本当に自分を恥じる言葉になりました。それに対して父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて大きな祝宴を開きました。このように父親は「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は息子と呼ばれる資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。

 

5.創造主の神に新しく創造された者として

 

僕は父さんの息子と呼ばれる資格はないんです、と思っていたのに、父親からお前は紛れもなく私の息子だ、と態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神の間にも起きているのです。そのことに気づきましょう。何が起きたのか、次に見ていきましょう。

 

 私たち人間は、神の意思に反しようとする性向すなわち罪のために自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。罪を持っているために神との結びつきを回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり行ったりして悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの惨めな状態から助け出そうとして、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、罪のゆえに本当なら人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせてゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。このように神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る道を私たち人間のために切り開かれました。

 

 人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さり、私たちを自分の子として扱ってくれるのです。本日の使徒書の日課、第二コリント5章でパウロが言うように、イエス様の犠牲のおかげで神と私たちが和解できたのです。このようにして神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きるようになり、順境の時だろうが逆境の時だろうがいつも神から変わらぬ導きと助けを得られます。この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れらます。このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとしてイエス様をこの世に贈って十字架と復活の業を成し遂げさせたのです。イエス様を救い主と信じる者はもう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいられないのです。

 

 それでは、神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しく生きるとはどんな生き方になるでしょうか?それはもう、神がイエス様を用いて実現して下さった罪の赦しの中に留まってひたすら復活に至る道を進んでいくことです。罪の赦しの中に留まるとは次のようにすることです。イエス様を救い主と信じる信仰を持ち洗礼を受けても罪は残ります。それが私たちの弱さや隙をついて神の意思に反するようなことを考えさせたり言葉に出させたり、時として行いに出させたりします。その時は必ず、それは神の意思に反することなのだと自分で認め、神にイエス様の犠牲に免じて赦しを祈り願います。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。赦しはゴルゴタの十字架で打ち立てられて今も揺るがずにある。これからは罪を犯さないようにしなさい。」このように神の意思に反することを反することと認め、揺るがずにある罪の赦しに自分を委ねていくとき自分の内にある罪を圧し潰していくことになります。自分が生きているのは神のひとり子の犠牲があるからとわかり、軽々しいことは出来なくなります。これが罪の赦しの中に留まることです。罪の赦しの中に留まり続けていくと、復活に至る道をひたすら進むことになります。これが神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しい生き方です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2022年3月22日火曜日

神のもとに立ち返り、神にキャッチしてもらおう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日 スオミ教会

 

イザヤ書55章1-9節

コリントの信徒への第一の手紙10章1-13節

ルカによる福音書13章1-9節

 

説教題 「神のもとに立ち返り、神にキャッチしてもらおう」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様と因果応報

 

 本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。

 

 これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。

 

 さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。

 

 これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。

 

 イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。

 

 ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

 

2.イエス様にとって「滅び」とは何か?

 

 実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ1633節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ93節も参照)。

 

 イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?

 

 その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ316節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。

 

 このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」

 

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ1633節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?

 

3.神のもとへの立ち返り

 

 それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオμετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオは、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。

 

 そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。

 

 皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

 

 人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。

 

 このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。

 

4.神にキャッチしてもらおう

 

 このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。

 

 そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。

 

 パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(1011節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ2414節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。

 

 パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。1013節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?

 

 13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。

 

 私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?

 

5.神はあなたの立ち返りを待っている

 

 最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。

 

            主を探し求めよ、主が見つかる時に

            主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に

            神に逆らう者よ、その道を捨てよ

            不正を働く者よ、その考えを捨てよ

            主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる

            我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ

            דרשו יהוה בהמצאו

            קראהו בהיותו קרוב

            יעזב רשע דרכו

            ואיש און מחשבתיו

            וישב אל יהוה וירחמהו

            ואל אלהינו כי ירבה לסלוח

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

2022年3月15日火曜日

信仰義認に生きる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)スオミ教会

 

創世記15章1-12、17-18節

フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節

ルカによる福音書13章31-35節

 

 

説教題 「信仰義認に生きる」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様の再臨の日、あなたはどうするか?

 

 本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。

 

 促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。

 

 33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。

 

 イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。

 

 神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。

 

 35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?

 

 イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。

 

 それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。

 

 それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。

 

2.信仰義認に生きる

 

 イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。

 

 今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。

 

 そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。

 

 イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのがキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。

 

 イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。

 

 ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。

 

 アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。

 

 そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。

 

 神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。

 

 アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。

 

 目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇234節の心意気でいるからです。

 

たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、

汝、我と共に在せばなり、

汝の鞭、汝の杖、我を慰む。

גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע

כי אתה עמדי

שבטך ומשענתך המה ינחמני

 

そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。

 

          されど我らの国籍は天に在り、

          我らは主イエス・キリストの救い主として

          その処より来たり給うを待つ。

          ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει

          εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα  κυριον Ιησουν Χριστον,

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン