2022年3月7日月曜日

神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年3月6日(四旬節第1主日)スオミ教会

 

申命記26章1-11節

ローマの信徒への手紙10章8b-13節

ルカによる福音書4章1-13節

 

 

説教題 「神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 受難節は「断食の期間」

 

 教会のカレンダーは受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イエス様の十字架の受難を覚える期間です。以前の説教でもお話ししましたが、フィンランドやスウェーデンではこの期間を一般的に「断食の期間」と呼びます。なぜかと言うと、昔キリスト教会では復活祭の前の40日間は断食するという伝統があったからです。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるのかは調べていないのでわかりません。事の始まりは、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだった、それで復活祭の前に彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、本日の福音書の日課にあるように、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間にある6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がって復活祭の前の7週目の水曜日となりました。先週の水曜日です。それで本日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」を唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えてイエス様の受難を身近に感じるようにします。

 

 フィンランドやスウェーデンで今でも「断食の期間」という言葉を使うのは少し奇異な感じがします。というのは、両国ともルター派教会が主流の国なので、断食のような何か修行を積んで神さまに目をかけてもらうというような考え方はありません。人間の救いは人間の業にではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼に基づくというのがルター派の基本だからです。カトリック時代の言い方が今もそのまま続いているというだけのことです。そうは言っても、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。牧師の中には、この期間は嗜好物を避けるとか、好きなテレビ番組を見ないとかいうようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。

 

2.神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立とう

 

 さて、今年の断食の期間ですが、今ウクライナの戦争が大きな影を落としています。先週も申しましたが、世界の戦争や内乱は近年いろいろなところでありました。アフガニスタン、ミャンマー、シリア、その他ニュースであまり取り扱われないところで沢山ありました。なぜウクライナの戦争がこれほどまでに大きく取り上げられるのか?理由はいろいろありますが、それらをここで紹介することはしません。ただ、近年世界中で起きていた良くない流れが積み重なってついにこの戦争で堤防が決壊して濁流が一気になだれ込んで来たような感じがします。この戦争の前から世界的に各地が無秩序化していたと思います。戦争や内乱がない国々でも偽りや中傷、誇張や扇動が以前よりも広まりやすくなって人々が振り回されてしまっている状況があったと思います。

 

 ウクライナの戦争がどういう形で終結するのか、わかりません。一日も早く終わらなければなりません。そう言うのは、遠い日本にいる私たちの生活にも影響を及ぼすから、というのではありません。破壊と殺戮はいつどこであっても終わらせなければならないものだからです。どういう形で終わるにせよ、この後の世界は、自分の思うようにならない相手、言うことを聞かない相手は武力を用いてでも思うようにさせていい、という風潮を強めてしまうのではと心配します。破壊と殺戮を直接行うだけでなく、ソフトなやり方で偽りの情報をまき散らして人々を惑わすということがもっと当たり前になるのではないかと危惧します。これはそのまま十戒の「汝殺すなかれ」と「汝偽証するなかれ」という創造主の神の意思に真っ向から対立することです。ウクライナの人たちは自分たちで気づいているかいないか、彼らの戦いは祖国の自由と独立のためということを超えて、その後の世界の方向にも大きな影響を与える戦いを戦っているという気さえします。

 

 今後もし、神の意思に真っ向から対立することが増えるようになれば、私たちはどうしたらよいのか?キリスト信仰者の答えは、神の意思に沿う平和や安定を築きそれを守る側に立つ、に尽きると思います。神の意思に沿う平和や安定とは何か?それを築き守る側に立つとはどういうことか?神などという絶対的なものを持ち出すから妥協できなくなって殺し合いになるのだ、という人もいるかもしれません。でも、聖書にある神の意思に沿う平和や安定は果たして殺し合いをもたらすものかどうか、それは以下のことを聞いてから言ってほしいです。神の意思に沿う平和や安定とは、十戒の掟に従う平和と安定です。具体的には、行為や言葉をもって人を傷つけないこと、他人に属するものを奪わないこと、不倫に関わらないこと、真実を曲げないことです。さらに、パウロの「ローマの信徒への手紙」12章もよく読んでください。これらのことのどこが、妥協できなくなって殺し合いになるのか?キリスト信仰について何か言おうとする人は、聖書を見て言うべきで、聖書を知らない自称キリスト教徒たちを見て言うべきではないと思います。

 

 イエス様はこれらの掟は行為や言葉だけでなく心の有り様も当てはまる、それが掟を与えた神の意図なのだと教えました。心の有り様まで問われてしまったら、自分はどれだけ神の意思に反する者かを思い知らされてしまいます。キリスト信仰者と言えどもです。しかし、キリスト信仰では、神はそれで私たちを失格扱いにして見捨てることはしないということがあります。心の中で守り切れない自分に気づいたら、それを神の意思に反することだと素直に認めます。そして、神のひとり子のイエス様が私たちの罪を引き取るようにして十字架の上で神罰を受けられたことを思い起こします。その彼の犠牲の上に今の自分があることを思い出します。神のひとり子の犠牲の前にヘリ下ってその心でまたこの世を歩んでいきます。このように神が与えた罪の赦しの中にいつも留まって、神の意思に反するものが溢れるこの世に立ち向かっていきます。

 

 罪の赦しの中に留まってこの世を生きる時、十戒の前半部分がなくてはならないものになります。最初の3つの掟のことですが、簡単に言うと次のようなことです。罪の赦しを与えて下さった神こそ本当に自分の願い事、悩み、喜びを聞いてくれる方とわかって打ち明けること。これだけ自分のことを顧みて下さる神なのに自分の弱い思いや悪い思いを擁護するために引き合いに出すようなことはしない。むしろ弱い思い悪い思いを頑張って捨てること。そして、この世に立ち向かう力を毎週リフレッシュする主日礼拝を守ることです。

 

 このようにすれば神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。しかし、守る側に立つと今度は攻められます。神の意思に沿う平和や安定など破壊してやろうという力です。それはこの世の具体的な国や軍隊ではありません。聖書にも言われる、肉眼の目では見えない力です。本日の福音書の日課ではそのような力を持つ者として悪魔が出てきます。悪魔がイエス様に試練を与えて屈服させようとしました。悪魔が与えた試練はイエス様個人の運命に関わるものではなく人類全体の運命に関わるものでした。イエス様はそれらを撃退しました。それで人類は大きな危機を回避できたのです。イエス様が受けた試練がそれほどのものであったとは、一体どんな試練だったのでしょうか?イエス様はそれらをどうやって撃退したのでしょうか?これから、それらについて見ていきます。私たちはこれが分かると、この悪が猛威を振るう世にあって神の意思に沿う平和や安定を築き守る側に立つことが出来ます。

 

3.聖書が明らかにする悪魔とは?

 

 まず、イエス様に試練を与えた悪魔とは何者かを見てみます。悪魔は聖書の中で二つの言葉で言い表されます。一つは、新約聖書に多く出てくるディアボロスδιαβολοςというギリシャ語の言葉で、もともとは「中傷する者」「誹謗する者」という意味があります。もう一つは、旧約聖書に出てくるサーターンשטןというヘブライ語の言葉で、新約聖書にもそのままギリシャ語でサタンσατανという語が用いられています。もともとは「告発する者」「起訴する者」「非難する者」という意味があります。それで、二つの単語は語源的に大体同じような意味を持っています。本日の福音書の箇所ではディアボロスが使われています

 

 悪魔が何をするものかについて、旧約のヨブ記では、神に忠実で信心深いヨブが実はそうではないということを神に示そうとして、彼をありとあらゆる不幸に陥れます。まさに無実の者を有罪に仕立てようとする「告発者」「起訴者」です。黙示録12章でディアボロスともサタンとも呼ばれる太古の蛇が地上に投げつけられる場面があります。その蛇はキリストを救い主と信じる者たちを絶えず告発していたと言われています(10節)。太古の蛇とは間違いなく創世記3章に出てくる、あの蛇です。最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反しようとする罪を持つようにしてしまった仕掛け人、神と人間の結びつきを断ち切ることに成功した張本人です。

 

 その悪魔の運命ですが、マタイ2541節では、最後の審判の時キリスト信仰者に救援の手を差し伸べなかった者たちが永遠の炎に行くよう命じられる場面があります。その永遠の炎は、ディアボロスとその天使たちに用意されたものであると言われています。黙示録202節では、神の側の天使がこのディアボロスともサタンとも呼ばれる蛇を捕えて千年間縛りつけておくとあります。その後で永遠の炎の海に投げつけられると言われます。

 

 このように悪魔は最後の審判の時に滅ぼされますが、その時までは影響力を行使して、神の意思が実現されるのを阻止しようとします。最初の人間の時にそうしたように、人間が神との結びつきを回復できないように、復活の日に神の御国に迎え入れられないようにしようとするのです。どういうふうにするかと言うと、ヨブの場合のように、人間を苦しめて神に愛想をつかせて背を向けさせようとします。神の愛や恵みなどないと思わせようとします。また人間の弱みに付け込んで神の意思に反するようにと持っていきます。そしてほくそ笑んで言います。「お前ほど偉大な罪びとは存在しないのだ。そんなお前を神が顧みてくれるわけがない。ほら見ろ、お前の今の悲惨な状態を。どこに神の愛がお前にあると言えるのか。」そういうふうに巧みに私たちを絶望に追い込み、私たちを造り主の神からどんどん遠ざけようとするのです。

 

 ここで、悪魔が告発者、起訴者の役割を果たすことに関連して、キリスト信仰者には弁護者がついていることを忘れてはいけません。聖霊のことです。イエス様は聖霊を弁護者と呼んだのです。どうしてでしょうか?悪魔が信仰者と神に向かって、お前は罪びとだ、あいつは罪びとだ、神の意思のかけらもない失格者だ、と言う時、聖霊はまず、うなだれる信仰者に向かって次のように言います。「あなたの心の目をあの十字架に向けなさい。あの方の肩の上に重くのしかかっている罪の山の中にあなたのも入っています。あの方が償いをして下さったのです。」そしてすかさず神に向かって言います。「この人は、イエスを救い主と信じる信仰に立っています。私がそれを証言します。」これを聞いた父なるみ神は信仰者に次のように言うのです。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されたことは揺るがない。もうこれからは罪に従わないように生きなさい。」

 

4.イエス様が受けた3つの誘惑について

 

 イエス様が悪魔から受けた試練について見てみます。3つの誘惑がありました。最初は、40日間飲まず食わずにいて空腹で苦しい状態のイエス様に、お前が神の子なら石をパンにかえて空腹を満たしてみろ、でした。神のひとり子が本当に空腹を感じるのか?と思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間と同じ血と肉を持っています。だから、人間と同じ空腹を感じることができます。イエス様は悪魔の言うとおりにしませんでした。2番目は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、俺様にひれ伏したらこれらを全部くれてやろう、というものでした。イエス様はこれも拒否しました。3番目は、お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から飛び降りて天使に助けさせてみろ、というものでした。イエス様が立たされたのはおそらくキドゥロン谷という急な谷側の面だったと思われます。イエス様はこれも拒否しました。イエス様は不治の病を治したり自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり天使に飛んできてもらうことなど容易いことだったはずです。それなのになぜそうせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また危険な高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

 

 それは、もしそうしていれば、その瞬間、悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになるのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになっても。

 

 特に2番目の誘惑を撃退したことは、他の二つに増して人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。その時、神から聖霊を受けて神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ11011節)。もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。

 

 人類は実に際どいところにいたのです。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。確かにこの世は現実には悪魔に振り回されることが一杯あります。しかし、悪魔の上に立つ方がちゃんといて下さるのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。

 

5.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する最上の武器

 

 それでは、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したかを見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。

 

 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記83節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。

 

 次の誘惑、「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対してイエス様は申命記613節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。神との結びつきを持ってこの世を神の守りと導きの内に生き、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、このシナリオは万物の創造主でありこの私の造り主である神が私のために準備され、それがその通りになるとイエス様の十字架と復活の業で示して下さった。この世の豪華絢爛などという復活の日に消滅するもののためにこのシナリオは捨てることなど想像もできません。

 

 3番目の誘惑は要注意です。悪魔はイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇911112節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記616節をもって誘惑を撃退します。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。

 

 実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と言うのです。

 

 それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを神の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨でした。この篇の最初をみると次のように言われます。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(23節)。このような神に対する強い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に神への強い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分をちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。

 

 このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。このことは、私たちがこの世にあって、神の意思に沿う平和と安定を築き守る側に立って生きる上で大事です。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!」と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤らせようとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の試練から明らかなように、悪魔は御言葉を文脈から切り離してもっともらしく聞こえるようにするという手口を用います。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。毎週礼拝で御言葉の説き明かしに耳を傾けることも大事です。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればこの世ではもう怖いものなしです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン