2016年1月25日月曜日

罪の自覚 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年1月24日顕現節第四主日 スオミ教会

エレミア書1章9-12節
コリントの信徒への第一の手紙12章12-26節
ルカによる福音書5章1-11節

説教題 「罪の自覚」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまう。なぜペトロはこの時、自分は罪びとであると罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον [.......] επι των ιχθυων [.....])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?本説教では、まずそのことを見ていきたいと思います。

イエス様はガリラヤ湖の岸辺で群衆に教えを宣べています。教えの内容については触れられていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。つまり、神の国がイエス様と一体となって到来したこと、神の国の一員として迎え入れられるために人間は罪の赦しを受けなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、また人間は神の御心を正しく知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、これらのことが考えられます。

 岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、イエス様は岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様は、ペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで、魚を捕るべく網を投げるよう命じます。

 ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかった、と応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それでも何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。この時ペトロはイエス様のことを、上に立つ者、指導的立場にある者を意味する言葉エピスタテースεπιστατης呼んでいます。新共同訳では「先生」となっていますが、「先生」を意味する言葉はディダスカロスδιδασκαλοςという言葉が別にあります。ペトロにしてみれば、漁をやめて網を洗っていたのに突然人の舟に乗り込んできて漕ぎなさいと命じたり、教え終えると今度はもっと沖に出て網を入れなさいとか、いろいろ命令ばかりする人だな、やたらと指導者ぶる人だな、という思いが言葉遣いに見て取れます。少し皮肉った言い方で、「お偉いさん」という意味だったのかも知れません。そうは言っても、イエス様は既にガリラヤ全土で権威ある教えと奇跡の業によって名声を博している方です。言われたことを断ることもできません。

無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一隻の舟が応援にかけつけるも、このままでは二隻とも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」その時ペトロは、イエス様のことを先ほどの少し皮肉の混じった「お偉いさん」と呼ばず、今度は一挙に神を言い表す言葉キュリオスκυριος「主」と呼びます。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。最初のぶつくさ言うような感じから、一挙に背中がピンと張って目が覚めて真剣そのものに激変した感じです。

それでは、ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?そして、どうしてその恐れから神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ペトロが恐れたのは舟が沈んで自分が溺れてしまうことではありませんでした。ペトロが金槌でなかったことは、ヨハネ21章から明らかです。ペトロが復活したイエス様に真っ先に会おうとして上着を着けたまま水に飛び込んで岸まで泳ぐ場面がありました。ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。

神を間近に見ることが人間に罪の自覚と呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることは、イザヤ書6章によく描かれています。ユダ王国が国王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいた頃でした。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。その時、イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(5節)」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まことに罪の自覚の悲痛な叫びです。ここでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一挙に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力が満ちています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、炭火がイザヤを霊的に清めたことを意味します。いずれにしても、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。

2.

 私たちにも、神を間近に見たり感じたりして罪の自覚が生まれるということが起きるでしょうか?私は、人間が死に直面してこの世から去るのを目前に控えた時というのは案外、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかと考えるものです。どうしてそのように考えるのかと言うと、以前読んだことのあるスウェーデンの小説にそのような出来事があったからです。スウェーデンという国は、日本ではノーベル賞や大規模な家具チェーン店の国として知られていますが、国民の60%強がルター派教会に属している国です。国民の半数以上と言うと多く聞こえますが、実は数十年くらい前はほとんど100%近かったのです。それ位、国民の教会離れが近年進んでいるということです。

さて、問題となっている小説ですが、それは「グルンドゥステーネンGrundstenen」という題名で、日本語にしたら「岩盤」という意味でしょうか。作者は、1960年代から70年代にかけてスウェーデンのルター派教会のイェーテボリ監督区の監督を務めたB.イェールツという神学博士です。もう既に亡くなった人です。神学者の書いた小説ですが、第二次大戦後のスウェーデン文学界の代表作の一つと言われています。

話しを先に進める前に少しだけ小説の内容を紹介しますと、オーデショーという架空の村が舞台で、1809年から1939年までの130年に渡る村の歴史に、形を変えつつも、いつも繰り返し起きる出来事が主題になっています。それは、村の教会に赴任した牧師と村の人たちがいかにルター派の信仰を守る戦いをしたかということです。

130年の歴史は三つの時代に分かれていて、第一部は、ナポレオン戦争の時代にスウェーデンがロシアとの戦争に敗れてフィンランドを失うという時代背景のもと、牧師たちも当代の知識人と同じく啓蒙主義の影響を強く受けていて、信仰よりも理性を重んじる風潮の中での話です。第二部は1870年代で、村からも多くの人たちがアメリカに移民するという社会変動の時代。その頃、キリスト教のいろんな宗派がこの村にも入って来て、多くの村人たちがルター派に魅力を感じなくなって離れてしまい、そうした宗派に流れて行ってしまうという状況の中での話です。第三部は1930年代に国民の教会離れ聖書離れが進み、個人の生き方も神など引き合いに出さず個人が自由に決めればよいという風潮が強まり、それが性のモラルにも現れてくる。やがて第二次大戦が始り、隣国フィンランドがソ連に攻撃されると中立国のスウェーデンから8000人もの義勇兵が出征する。第三部に登場する問題人物もその一人として前線に赴き、彼の戦死の報を牧師が受け取ったところでこの年代記のような小説は終わります。

それぞれの三つの時代の中で教会が直面した三つの挑戦、理性の偏重、教派や宗教の百花繚乱、個人の自由追求やそこから起こる性モラルの乱れといったものは、実は今の時代にも全部当てはまるのではないでしょうか?

一つ余計なことを付け加えると、作者のイェールツという人はスウェーデンのルター派教会の聖書離れに警鐘を鳴らし続けた人で、彼のキリスト信仰に関する多くの著作はフィンランド語にも訳されて、スウェーデンとフィンランド両国のルター派のリバイバル運動に大きな影響を与えました。両国の牧師の中には、この小説を読んで牧師を志したという人もいるほどです。

さて、話を本筋に戻します。死に直面した人間がこの世を去るのを目前にする時というのは、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかということについてです。グルンドゥステーネンの第一部に次のような出来事があります。村のヨハンネスという老人が重病で、もう死期が近づいているという時に、意識ははっきりしているが半狂乱のようになってしまう。彼は毎週教会の礼拝に通う敬虔な人と思われていたのだが、突然自分はとんでもない罪びとだった、自分が神に受け入れられないのは確実だ、と言い始めて、周りの人たちのどんな慰め言葉も受けつけない状態になってしまった。そこにウプサラ大学神学部を出たての新米牧師が送られてきた。牧師が老人に、神は良い方だから何も心配いらない安心しなさい、といくら言っても、話が全然かみ合わない。老人は、そう、神は良い方だというのは全くその通りである、神は本当に自分に良いものを与え続けて下さった、それなのに自分はそれに応えるように生きてこなかった、心の中で隣人を罵ったり嘲ったりした、困っている人がいた時に助けてあげなかった、その人のために祈ってあげなかった、自分は神の期待を裏切ることばかりしてきた。良いことをしなければならないとわかっていたのにしなかったのは、神がその力を与えて下さらなかったということで、その時既に神に見放されていたのだ、等々。

ヨハンネス老人が苦にしている罪とは、盗んだとか殺したとか姦淫したとか、そういう行為に出る重大なものではなく、心の中のレベルの問題でした。しかし、そのようなものでも、神は裁きの根拠にする。そこで牧師が、「あなたは私が会った人の誰よりも正直な人です。だから、あなたは他の誰よりも確実に天国に行けると牧師の私がはっきり言います」と言う。新米牧師は、老人を本当に励ますつもりでこの言葉を言ったのですが、効果は全く逆でした。老人は、「罪を裁く時、裁く者は他の人の罪と見比べて裁きを決めるものではない」と冷たく答えます。神は人間の行いを全部命の書に記録するのであり、今自分の書が開かれようとしている。そこに記されている罪について、神に申し開きなどできるわけがない。牧師はもう何も言えなくなって途方に暮れてしまいます。

ヨハンネス老人の苦悩は、これからこの世から退場する時、退場した瞬間父なるみ神にしっかりキャッチしてもらえるかどうか、もう確信が持てなくなってしまったことにあると言えます。どうして確信が持てなくなってしまったかというと、キャッチしてくれる方はどんな方なのか、聖書に基づいて罪を裁く方である、ということが、かつてないほどはっきりしてしまった。神はキャッチしてくれないと言うならば、自分のどんな罪が原因なのか?心の中の罪は行いの罪より重くはないと言って、それでキャッチしてもらえると安心して良いのか?新米牧師の論理はそういうことになるのですが、牧師の言うことは本当に神の御心を間違いなく代弁しているのか?神の御心と関係のない人間の都合で言っているのではないか?いずれにしても、神にキャッチしてもらえるかどうか、その心配や疑いが一切なくなる一番よい方法は、行為にせよ心の中にせよ、罪を一切犯さないことなのであるが、それは不可能だった。

このようにして、この世から旅立つ時、いよいよ自分を受け止めて下さる方が目の前に現れるという時が近づいて、さて本当に受け止めてもらえるのかどうか、不安が起きて確証が得られなくなってしまう原因に罪の自覚があると言えます。ヨハンネス老人は果たして救われるのでしょうか?

3.

 牧師が途方に暮れているところに、カトリーナという年老いた女性が到着します。幼馴染で若いころ同じ村に住んでいて一緒に聖書を学ぶこともしたという人で、別の村に引っ越した後はそこでかなり古い世代に属する牧師の下で聖書を学んだという人でした。以下はカトリーナとヨハンネスのやりとりの抜粋です。

 ヨハンネスがまた、自分は罪人だ、偉大な罪びとだ、と言うと、
カトリーナ「その通り。あなたは偉大な罪びとよ。しかし、イエス様はそれを遥かに上回って偉大な救い主なのよ。」
ヨハンネス「イエス様が偉大な救い主なのは、ある特定の人に対してだけなのさ。イエス様が救ってくれるがままに任せられる人に対してなのさ。俺の心は不純で悪に満ちてしまっている。」
カトリーナ「健康な人に医者は要らないのよ。要るのは病気の人なのよ。イエス様が来たのも、聖者を招くためではないわ。罪びとを招くためよ。」
ヨハンネス「改心しなければならないということなんだろう、カトリーナ。でも、俺にはその改心が不足しているんだ。」
カトリーナ「あなたに不足しているのは改心ではないわ。信仰よ!あなたは改心の道を何十年も歩んできたのよ!」
ヨハンネス「何十年その道を歩んできたのに、目的地に到達できなかったんだ!」
カトリーナ「ヨハンネス、私の質問に答えて。あなたは自分の気持ちとしては心を汚れのないものにしたいの?」
ヨハンネス「もちろんだとも。清くしたいんだ。この気持は神様も知っていると思う。」
カトリーナ「それなら、あなたの改心は真実だわ。あなたの改心には何も問題はないわ。問題は、あなたは信仰を見失ってしまったことよ。」
ヨハンネス「それじゃ、俺は何を信じなければならないんだ、カトリーナ?」
カトリーナ「あなたが信じなければならないのは、この神の御言葉よ。『自分の業に依り頼むことはせず、神から離れてしまった者を神の目に相応しい者に変えて下さる方を信じる者、この信仰を神は御自分の目に相応しいものとみて下さる。』今日の日までヨハンネス、あなたは自分の業を気にしすぎて、自分の心の中を一生懸命に見て来たのね。その結果、心の中には罪と貧しさしかないことがわかってしまったの。でも、それは神様があなたの目を聖霊の目薬ではっきり見えるようにしたから、真実が見えるようになったということなのよ。ヨハンネス、あなたの心の中に罪はあるの?」
ヨハンネス「もちろんだよ。たくさんあるよ。ありすぎるくらいあるよ。」
カトリーナ「これで、もうわかるでしょ。神様はあなたを見放していないということが。聖霊を持っている者だけが、自分の罪を見ることができるのよ。」
ヨハンネス「それじゃ、カトリーナ、俺の心が汚れていると言うのは、神様のなせる業だと言うのか?」
カトリーナ「あなたの心が汚れているというのは、神様の業ではないわ。それは、罪のなせる業でしょ。あなたが自分の心の汚れを見ることができるといこと、これが神様のなせる業よ。」
ヨハンネス「でも、どうして汚れのない心を得ることはできないんだ?」
カトリーナ「それは、あなたがイエス様を愛することができるようになるためなのよ。」
ヨハンネス「お前の言っている意味がわからないよ、カトリーナ。」
カトリーナ「はっきり言うわ、ヨハンネス。もしあなたが汚れのない心を持てて、そのおかげで天国行きの切符を獲得できたとすると、救い主は何のために私たちに送られたの?もし律法の掟を守ることで一人でも人間が救われるなら、イエス様は十字架で死ぬ必要はなかったんじゃないの?だけど、律法は満たして救われるためにあるのではなくて、神様の裁きと憎しみをはっきりさせるためにあるの。神様はこの神聖な掟をもって全ての人が救いに関して神様に何も偉そうなことが言えないようにしたのよ。この世全てが、恥辱に打ちのめされて呆然と立ち尽くすために。(ヨハンネスに促されて、カトリーナは続ける。)
この御言葉を覚えている?ヨハンネス、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊よ。』」
ヨハンネス「カトリーナ、あの方は本当に俺の汚れた心の中に住む罪をも取り除いて下さるのか?」
カトリーナ「その通りよ。イエス様は、あなたの身代わりになって十字架の上で死なれて、それで全ての罪を償って下さったのよ。」
ヨハンネス「でも、まだ俺の中に罪が残っているじゃないか?」
カトリーナ「そう残っているわ。使徒パウロの中に罪が残っていたのと同じくらいに残っているわ。パウロが何と言っていたか覚えていないの?『私は、自分という肉の存在の中に善いものが何もないということを知っている。善いことをしなければという意思はある。しかし、それを実現する力がないのだ。』」
ヨハンネス「俺のことを言っているみたいだ。」
カトリーナ「私たちのことを言っているんだし、他の全ての人のことも言っているんだわ。御言葉にもあるわ。『彼の受けた傷を通して、私たちは癒された。』イエス様は、私たちとこの世の罪の償いをして下さったのよ。」
ヨハンネス「カトリーナ、その通りだと思うよ。俺はこのことを信じるよ。もう一つ相応しい御言葉があったら、聞かせてくれないか。」
(カトリーナは聖書を取り出して、それを開いて読む。)
カトリーナ 「『全ての者が罪を犯した。そして神の栄光を失ってしまった。しかし、その全ての者が、神の恵みによりイエス・キリストの贖いの業を通して、神の目に相応しい者とされることを贈り物として得たのである。』」
ヨハンネス「アーメン。カトリーナ、このことを信じるよ。」
カトリーナ「今ここで、神様の業がなされたんだわ。さあ、あなたは牧師先生に聖餐式をお願いしなさい。」

 そして病床にて聖餐式がもたれました。ヨハンネスにとってこの地上での最後の聖餐式となりました。ところで、私たちの礼拝と聖餐式ですが、まず礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。続く説教の部では神の御言葉を通して、神がいかに罪びとを御自分のもとに受けとめたく思って、それでイエス様をこの世に送って、救いの業を成し遂げて下さったことを明確にします。このように、聖餐式の前にも神の業が私たちにしっかり働くようにします。そして、聖餐式それ自体が、私たちの信仰を強めて育ててくれて、私たちがこの世を去る時、父なるみ神が私たちを間違いなくキャッチしてくれることを疑う必要がなくなるようにしてくれます。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、このように礼拝、特に聖餐式が私たちの救いにとって本当に大事なものであることを忘れないようにしましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年1月20日水曜日

肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年1月17日顕現節第三主日 スオミ教会

エレミア書1章4-8節、
コリントの信徒の第一の手紙12章1-11節
ルカによる福音書4章16-32節

説教題 「肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の福音書の箇所ルカ3章では、イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、そしてその時神からの聖霊が彼に降って特別な力が備えられたことをみました。特別な力とは、神の人間救済計画を実現する力です。神の人間救済計画とは、罪の奴隷になって死の力に支配されている人間を救い出すことです。そのためにイエス様は自分自身を犠牲の生け贄にして、罪の奴隷になっている人間を神のもとに買い戻す。そういう、人間を罪と死の力から解放する計画です。イエス様は、洗礼のすぐ後で、ユダの荒野で40日間悪魔から誘惑の試練を受けますが、全て旧約聖書にある神の御言葉を盾としてはねのけました。これは、聖書の神の御言葉には悪魔を退かせる力があること、そして御言葉が真理であると信じる者には悪魔は手の出しようがないということを示す出来事でした。

この荒野の試練の後に、本日の福音書の箇所が来ます。イエス様は、ユダ地方からガリラヤ地方に移りました。ガリラヤ各地のユダヤ教の教会堂、シナゴーグを回って、神の国が近づいたということ、それに人間の救いがまもなく実現するという福音を人々に伝え始めます。そして神の国が架空のものではない、実在するものであることを示すために数多くの奇跡の業を行いました。それでイエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりました。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。

 イエス様のナザレ訪問の目的は、生まれ育った故郷に帰ってのんびり休暇を過ごすことではありませんでした。これまでガリラヤ地方で行ってきたのと同じく宣教をするためでした。しかし、顔見知りが多くいる故郷の町では、他の町々と勝手が違いました。どう勝手が違ったか、なぜそのようなことになったのか、ということが本日の福音書の箇所の主題になります。

イエス様は、これまでそうしてきたように、まず町のシナゴーグに入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。私たちの用いる新共同訳では何気なく「いつものとおり」とありますが、原語のギリシャ語の意味はもう少し深くて「彼にとって習慣だった」ということです。イエス様が宣教活動を始める前にも安息日にはきちんと欠かさず礼拝に通っていたことが窺われます。

 ところで、当時のシナゴーグの礼拝ですが、少し背景について説明いたします。ヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読した後で、それをアラム語で解き明かしする説教が行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、イスラエルの民はもともとヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚でイスラエルの民は異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、イスラエルの民はその言語がだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、捕囚の身となったイスラエルの民でしたが、紀元前6世紀の終り頃にバビロン帝国を倒して中近東の覇者となったペルシャ帝国の王の計らいでエルサレム帰還が認められます。帰還した民は廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時の民の苦難と信仰の戦いの出来事については、エズラ記とネヘミア記に記されています。ネヘミア記8章を繙くと、指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する箇所があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということであります。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖な最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代のシナゴーグの礼拝の時にも続いていたのです。

 さて、本日の聖句に戻りまして、シナゴーグの会堂長は、その日の神の御言葉の朗読と解き明しをする人を誰にするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は参会者で一杯です。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは、私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。イエス様は立って、イザヤ書61章の最初の部分をヘブライ語で朗読しました。その箇所の内容は、神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて捕らわれ人に解放を告げ知らせるというものです。メシアはまた、心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に目が見えるようになるという喜びの知らせを伝える。さらに神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容です。

朗読した後、イエス様は巻物を係の者に返して、席につきます。席というのは説教者の座る所ですので、会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後でイエス様は解き明しをしていくのですが、それについてはルカ福音書では何も記されていません。22節をみると、参会者みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、イエス様が解き明しを続けたのは間違いありません。解き明しの内容はほぼ間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めをして、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したとイエス様が冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのであります。

2.

 ところが、ここで状況が一変する出来事が起きます。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。これでは、この後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという、急転回がどうして起きたのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文をもう少し忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の解き明しを聞いていた聴衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。(μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと、肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります。)聴衆は、イエス様の口からでる恵み深い言葉に驚いている。しかしその同じ聴衆が、「あれはヨセフの子の大工のイエスではないか」とも言っている。つまり、神の恵みの言葉を価値あるものとわかって、イエス様が誰の子とかそんなこと全く関係ないという雰囲気が生まれた。しかし、同時に「あれはヨセフの子」ということに目が行ってしまい、せっかく価値があると思っていた教えが色あせてしまう。この方は神の人間救済計画を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、故郷のみんなはそれを知っている、ということで遮ってしまったのです。聴衆にとって、神の御言葉を語るイエス様は肉眼に映る像をはるかに超えた存在に映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない心の目、信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

信仰の目とはどういう目かというと、神は人間を罪と死の奴隷状態から救い出してあげようという意思を持った方である、という真理を見ることが出来る目です。また神は人間の救いを実現するために自分のひとり子をこの世に送られたという真理も見ることが出来る目です。こうした真理は、限りある肉眼の目では見えません。肉眼では、目の前にいる男は単なるヨセフの息子の大工にしか見えません。信仰の目を通して見るイエス様は、まさに天と地と人間を造られた神が提示するイエス像であります。それは、人間が限りある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、神の力に助けられて知ることのできるイエス像です。

イエス様は、聴衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまっていることに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、ナザレの人たちが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということであります。加えてナザレの人たちはイエス様に向かって、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。

しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことはしませんでした(マルコ65節、マタイ1358節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのサレプタのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事です。サレプタのやもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。預言者エリアとエリシャの時代、イスラエルの民の北王国は神の道に背く道を歩んでいました。神は、御自分の預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に属する者に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥ったイスラエル北王国と同じ立場にある、というのです。

これを聞いた聴衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き、難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの日までは神はイエス様が滅びるようなことは一切認めなかったのであります。

3.

ところで、なぜイエス様はナザレの人たちが自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?どうして、肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導かなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ1411節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから神を畏れるようになった、というだけで終わってしまう危険があります。

本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理と信じられることです。ちょうどイエス様が不信心のトマスに対して「見ないのに信じる人は幸いである」と言われた通りです(ヨハネ2029節)。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。奇跡の目撃や体験がなくなると信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているわけですが、残念なことに彼らの反応は、メシア救世主を殺害するという、それ自体、自暴自棄そのものと言える行為に走ったのでした。なぜなら、イエス様を殺害して十字架と復活の出来事を起こさせないようにするというのは、自分たちを救うためにある神の計画を妨害することですから。

ナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、なぜ信仰の目をもってする信仰の道を目指すことを考えなかったのでしょうか?この大きな原因は、彼らが自分たちは罪の奴隷状態に陥っていることを認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らがエリヤとエリシャの時代のイスラエル北王国と同じ罪深い状態にあると明確に指摘しました。しかし、ナザレの人たちは、謙虚に立ち止まって自分たちの生き方を神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。

以上から明らかなように、信仰の目が持てて、その目でイエス様を見ることができるためには、自分が神への不従順と神の意思に反する罪を持っていることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したために死ぬ存在となってしまいました。それで、人間が死ぬということ自体が人間の罪性、不従順性を示しているのです。

人間を造られた神は、人間がこの世から死んだ後、造り主である自分の許に永遠に戻れるようにするために、ひとり子イエス様をこの世に送ったのです。さらに、人間がこの世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩めるようにするために、またその道を歩む際には順境にあろうが逆境にあろうが絶えず守られて歩めるようにするために、イエス様を送ったのです。それで、人間の罪と不従順がもたらす罰を全てイエス様に身代わりに受けさせました。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが実は自分のためになされたとわかって、イエス様こそが救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間に、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。神の意思と計画が真理であるとわかるために、奇跡や超自然的な力を見る必要は全くないのです。

 しかしながら、イエス様を救い主と信じるようになって信仰の目を持てるようになったとは言っても、私たちは肉を纏って生きる以上、肉眼の目に頼ってしまう危険がいつもあります。どうして私たちは、そのような中途半端な状態に置かれなければならないのでしょうか?どうして、一度与えられた信仰の目が全てにならないのでしょうか?ルターは、信仰とは育たなければならないものと教えています。そうすると、今の中途半端な状態というのは、まさに信仰を成長させなければならないものにしていることがわかります。このことについて、ルターの教えをひとつ引用して本説教の締めとしたく思います。この教えは、第二コリント57節の聖句「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」の解き明しです。

「福音の光に照らし出された人は、聖書の御言葉を噛みしめながらキリストとしっかり結ばれていく。たとえ自分自身、まだ罪が残っている、まだ罪の中にいると思っていても、その人は日に日に罪と地獄の外側へと移されていくのである。

しかし、そこには戦いがあることを忘れてはならない。感じること見えることが聖霊や信仰に戦いを挑んでくる。同じように聖霊と信仰も感じること見えることに戦いを挑む。信仰というものは性質上、理性が把握しようとすることに対しては介入しない。理性がしたいようにほおっておく。信仰はただ、人の目を閉じさせて、生きる時も死ぬ時も神の御言葉だけに依り頼むようにさせるのである。翻って、感じること見えることは、理性や五感で把握できること以上に進むことができない。このように、感じること見えることは信仰に対峙するものであり、信仰は感じること見えることに対峙するのである。この戦いで、信仰が成長すればするほど、感じること見えることは廃れていくのであり、逆もまたしかりである。

罪や驕り高ぶり、憎む心、独り占めしようとする心、その他全ての忌まわしいものが、キリスト信仰者である我々の内にまだぶら下がっているのは、それらが我々を逆に鍛えさせてくれるからなのである。御言葉に依り頼みながらそれらに戦いを挑んで鍛えられていくと、我々の信仰は一日一日と前に進み、最後には頭のてっぺんから足のつま先まで完全なキリスト信仰者になれて、キリストに完全に覆われて、天の御国の真の祝宴の席につけるのである。我々は、海の荒波を思い浮かべるが良い。波は次から次へと岩壁に押し寄せ、それはあたかも力ずくで岩壁を砕こうとしているかのようである。しかし、砕かれるのは波自身であり、砕かれては消え去ることを繰り返すだけである。罪の攻撃もこれと同じである。罪は、我々を打ち砕いて絶望に追い込もうと、それこそ覆いかぶさるように襲いかかってくる。しかし、力が足りず退散しなければならないのは罪なのである。なぜなら、罪は最後の日に音もなく消え去るよう既に定められているからなのだ。」


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン