2016年1月15日金曜日

永遠を思う心 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

礼拝説教 2016年1月1日新年の礼拝 スオミ教会

コヘレトの言葉3章1-11
エフェソの信徒への手紙4章17-24節
ルカによる福音書12章22-34節

説教題 「永遠を思う心」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 西暦2016年の幕が開けました。教会の暦の新年は、既に昨年の1129日に待降節に入った時に始まっております。世俗の暦では本日が新しい年の第一日目です。この日は、教会の暦ではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書221節に記された出来事の日です。イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、「イエス」の名前が公けにされた日です。キリスト教会では、特にクリスマス(降誕祭)とかイースター(復活祭)とかペンテコステ(聖霊降臨祭)のような大きな祝祭日にはなっていません。

新年というのは日本では一般に一年の中で大きなお祝いの日になっています。これと全く対象的なのが、私が20数年間滞在したフィンランドでして、クリスマスの期間が「お祝い」の期間になりますが、新年はと言うと、11日だけが休日、あとは1231日まで仕事場もお店もやっていて、一日休んですぐ12日からはまた平常通りでした(ただし学校は「顕現日」のある16日位まで休み)。

フィンランドでクリスマスが「お祝い」の期間と言っても、日本のクリスマスの雰囲気とかなり違います。まず、1224日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日1225日丸一日続きます。26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家に帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。クリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、カードやプレゼントやクリスマスの料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家で過ごすと言うのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は特に大きな休みとは考えられていません。先ほど申しましたように11日が休日なだけで、学校が6日の「主の顕現日」くらいまでは休みとなる以外はあとは平常通りです。

フィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものですが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドはクリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、みんな地元の教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。歩いて行ける距離になければ、自家用車を使います。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者数は減るようです。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族や肉親と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が既に用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。キリスト教の信仰がまだしっかり根付いている人の観点では、クリスマスというのは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間ということになります。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数かもしれません。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っていると思います。

このようにクリスマスというのは本来、救世主の誕生という自分を超えた大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いのために時間を捧げる時です。日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、何か自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?三が日のお店の開店時間がどんどん増えて行くのを見ると、日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがしますが、どうでしょうか?(フィンランドでは昨年、法改正があって店の開店時間が自由化されました。クリスマスやイースターの期間に開店する店がどれくらい現れるか、いろんな意味で興味深いと思います。)

2.

 救世主の誕生をお祝いするというような大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りある日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」311節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、心は満たされなくなってしまうと思います。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界ですが、それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記11節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのであります。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書6517節、6622節、黙示録211節、他に第二ペトロ37節、313節、ヘブライ122629節、詩篇1022628節、イザヤ516節、ルカ2133節、マタイ2435節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。今ある天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様がこの世に人間としてお生まれになったというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたことしかないこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神に守られて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのためにこの世に来られたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神と正反対のものにしている、人間に染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様は人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運んで行って、人間にかわって罪の罰を受けて、人間が神の御前でも大丈夫になれるようにして下さいました。「イエス様が私の罪の罰を代わりに受けて下さったので、私は神の御前でも大丈夫な者にして頂きました。イエス様は真に私の救い主です。」そう告白する人は、本当に神の御前で大丈夫な者なのです。

先ほど読んだ「コヘレトの手紙」311節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とありました。この「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」という下りですが、この部分は英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので確認できず)。ただ、ヘブライ語の原語を見れば見るほど、私にはどうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠というものを人の心に与えられた。それがないとמבלי אשר)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。手短に言えば、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。機会があればヘブライ語の専門家に聞いてみたく思うのですが、それでもイエス様という永遠の御子が心に与えられてそれを受け取ることで、神の救いの業を発見することができるようになるというのは否定できないでしょう。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われると、この世で真面目に問題なく生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの罪にまみれた天と地の中だけにとどまります。真面目に問題なく生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、しなくとも最終的には「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が完結します。

この世は罪が入り込んだ世界ですので、自分では神の御心に適うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が送られた救い主を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、そういう危機の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは「永遠を思う心」を頂いたのですから、その永遠の方との繋がりや対話を絶やしてしまっては、心は満たされなくなってしまいます。どうか今日始まった新しい年が、兄弟姉妹の皆さんにとって、永遠を思う心が良く満たされる年になりますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン