説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年1月3日(顕現主日)スオミ教会
イザヤ書60章1-6節
エフェソの信徒への手紙3章1-12節
マタイによる福音書2章1-12節
説教題「歴史的事実と信仰ということについて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
はじめに
本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが学者たちの異国訪問の理由であるとか、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか。こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてくると思います。
本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したこと、自然の猛威を静めたこと、その他もろもろの奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人たちのなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって、聖書は信仰の書、永遠不滅な神の言葉などでなく、古代オリエント世界の人々の考え方や文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象を真に受けることはしないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人たちもいます。イエスは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、そしてその通じるものに注目し(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家ないしイデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエスも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。こうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。それで、イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になるのであります。
さて、本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べていきたいと思います。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、少なくとも80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていきたく思います。それでは、聖書に書いてある出来事が仮に80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問に対して、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、ということを本説教第二の教えとして述べていこうと思います。信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性を確立することとは別のところにあるのです。それではその出発点は何か、そうしたことを考えていこうと思います。
2.
マタイ2章1-12節の歴史的信ぴょう性について
最初に、本日の福音書の箇所に出てくる不思議な星の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。これからお話しすることは、皆さんも既に聞かれたことがあるかもしれません。イエス様が誕生した頃の天体の動きについては、似たような説がいろいろあるようです。以下に申し上げることは、私がフィンランドで読んだり聞いたりしたことに基づくバージョンであるということをお含みおき下さい。
近代の天文学者として有名なケプラーは1600年代に太陽系の惑星の動きをことごとく解明しますが、彼は紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いのシッパリという古代の天文学の中心地から当時の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。さて、イエス様の正確な誕生年について諸説がありますが、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13-23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年としてひとつ有力候補になります。そこで決め手となるのは、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録がない。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上してきます。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。
次に、東方から来た正体不明の学者グループについて見てみましょう。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、前に述べたように、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学が非常に発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されておりました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。つまり、星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。従って、もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れであると考えられたのです。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、土曜日はユダヤ民族が安息日として神を称えた日と連想できるので、この星はユダヤ民族に関係すると理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上から、木星と土星の魚座のなかでの異常接近を目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。
それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わってイスラエル帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残ったユダヤ人も多くいたことは、旧約聖書のエステル記からも明らかです。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あそこの家は安息日を守っているが、かつてのダビデ王を超える王メシアがでて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じ待望しているぞ」という具合に。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた人たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。
学者のグループがベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはしなかったでしょうから、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王と王の取り巻き連中の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて驚天動地に陥ったことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。日本語訳では「不安を抱いた」とありますが、ギリシャ語原文の正確な意味は「驚愕した」です。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に至ったのであります。
以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もあります。2つのことが大きな問題としてあります。まず第一の問題点は、昨年12月20日の説教でイエス様親子がどのくらいエジプトに避難していたかということを考えました。もしマリアの出産後3か月間の清めの期間だったとすれば、イエス様の誕生は紀元前4、5年になってしまいます。紀元前7年とするとイエス様がエルサレムの神殿に連れて行かれるのが2,3歳くらいになってしまい、少し大きすぎてしまいます。その時にも申し上げたのですが、イエス様誕生の後の時間の流れはジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。
もう一つの問題点は、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきましょう。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、しつこく何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だったという可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみようということであります。
確認できることというのは、とても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもって、確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないものだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく、神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。
3.
信仰の出発点について
以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象からみても歴史的背景からみても、確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになってきました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人たちは、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを見て確認できない限りは信じないと言っているようなものです。ところが、私たちはイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいる。彼らはイエス様の教えを間近に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめる。またイエスに起きた全ての出来事の至近の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してイエス様こそが旧約聖書の預言の成就、神の子、救い主であると信じるに至る。そして今度は彼らの命を惜しまないような証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになる。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれを土台にイエス様を見たことのない人たちが信じるようになる。それが世代ごと時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのであります。私たちはこの途切れることのないチェーンのひとつの結び目なのであります。
では、どうして先代が残した記録、証言、教えの集大成である聖書に触れることで、会ったことも見たこともない者を神の子、救い主として信じるようになったのか?それは、遥か2000年前にかの国で起きたあの出来事は、実は現代を生きる私にかかわっていたのだ、この私のために神がイエス様を用いて成し遂げた業なのだ、と気づいて、そう信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき、信じることができたのでしょうか?マタイ16章13-20節の箇所で、ペトロがイエス様をメシア、神の子と告白した出来事がありますが、そこにヒントがあります。それを見てみましょう。
ペトロの告白に対してイエス様は、お前に私の正体を現したのは「血と肉(σαρς και αιμα)の塊にすぎない人間ではなく、わたしの天の父だ」(ギリシャ語原文に忠実な訳です)と述べられます。「血と肉が明らかにしたのでない」という意味は、ペトロ自身を含め、人間が単なる血と肉の生身にとどまる限り、誰もイエス様の正体はわからないということであります。神が人間に力を働かせないとわからないのであります。神の力が働かなければ、どんなに知識や学識を蓄えても、優秀な頭脳をもっていても、それは単なる血と肉の能力にしかすぎず、イエス様の正体はわからないのであります。逆に言えば、知識や学識がなくても、神の力が働けば、イエス様の正体はわかるのであります。こうしたことがわかるために次のような事例を考えてみましょう。
高校か大学に世界の諸宗教という授業を設けて、今日はキリスト教をみてみましょうと言って、パワーポイントでも使ってボードに「キリスト教の信仰」という題を映し出し、それに続いて次のような記述を学生たちに見せたとします。
「最初の人間アダムとエヴァが陥った神への不従順と罪がもとで、人間は死する存在になってしまった。人間は代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継ぎ、それらがもたらす裁きと呪いの下に置かれてしまった。神は、人間が永遠の命を持てて再び創造主のもとに戻ることが出来るようにと、ひとり子イエスをこの世に送り、本来人間が受けるべき不従順と罪の裁きと呪いを全てイエスに肩代わりさせて十字架の上で死なせた。これによって人間を不従順と罪の奴隷状態から解放した。その解放の代価は、まさに神の子の血であった。しかし、それだけに終わらず、神はイエスを死から復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間に開いた。このようにして、天と地と人間を創造した神は、ひとり子イエスを用いて人間救済を全部自分で実現した。」
これを学生に写させて、来週テストしますと言えば、いい点取りたい者はみな、キリスト信仰者でなくても覚えてきて答案を書きます。キリスト教徒はこういうふうに考えているんだな、と頭で理解します。つまり、この場合、「キリスト教の信仰」というものは、知識にしかすぎません。
ところが、ああ、あの2000年前の今のパレスチナの地で起きた出来事は、実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった瞬間、全てが一変します。その時、イエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けて、神が実現した救いを所有する者となります。この救いの所有者は、既にこの世において神の国の立派な一員として迎えられ、永遠の命の命に至る道を歩み始めます。そして、この世の終わりの日にその新しい命を持って生き始めることになります。もちろん、この世にいてまだ肉をまとっている以上、私たちの内には不従順と罪が宿っている。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる以上、神の側では、イエス様の犠牲に免じてそれらを不問にして下さる。神が実現した救いをしっかり受け取った者として私たちを見て下さる。私たちの側では、このような深い愛と恵みをもって自分を扱って下さる神を賛美し絶えず感謝しようという心が生まれ、その神のみ心に適うように生きるのが当然になっていく。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛する如く愛することが当然という心が育っていく。
このように、2000年前の出来事が今を生きる自分のためになされたと分かった時、人は新しく創造されます。肉に宿る古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていく、そういうものに新しく創造されるのであります。2000年前の出来事について、またキリスト教そのものについて、どれだけたくさんの事柄を知っていても、この「自分のためになされた」ということがなければ、それは単なる知識にとどまります。知識だけでは、イエス様を神の子、救い主と信じる信仰は生まれません。
それでは、「自分のためになされた」ということはどのようにして起きるのでしょうか?それは、先ほどのペトロとイエス様のやりとりからも明らかなように、神の力が働かないとそうならないのであります。神が聖霊を送って人間に作用しないとそうならないのであります。聖霊は、まず私たちがどれくらい神聖な神のみ心から離れてしまった罪深いものかを思い知らせて下さる。その瞬間にすかさず、神はひとり子イエス様を送られたくらいにこの自分を愛して下さることを思い知らせてくれるのです。
4.
おわりに
神がイエス様を用いて実現した救いは全ての人間に提供されています。それでは、神がどうぞと言って提供してくれている救いを、人間の全てが受け取らないのはどうしてなのでしょうか?人間にその受取りを妨げるものがあれば、私たち信仰者は、その妨げるものを取り除くよう導き助ける役目があります。まだ救いを受け取っていない人たちと接する時、どのようにしたらそれを取り除くようにしてあげられるかを考えなければなりません。もちろん私たちの働きがなくても、聖霊が直接働かれる場合もあるでしょう。しかし、聖霊は信仰者が働くことも望んでいます。それで、隣人との接し方について、神に知恵と力を祈り求めなければなりません。天の父なるみ神は、聖書の御言葉を通して必要な知恵と力を与えて下さいます。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、何事につけ聖書を繙くことと祈り求めることを怠らないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン