2016年12月27日火曜日

はじめにことばありき (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年12月25日降誕祭
スオミ・キリスト教会

イザヤ書52章7-10節
ヘブライの信徒への手紙1章1-9節
ヨハネによる福音書1章1-14節

説教題 「はじめにことばありき」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書のこの出だしの部分は、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを詩的な口調で表現しています。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神、その中の御霊つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに総括・分析した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書11節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。そして、この真理は詩的に語られるので、これは「詩的な真理」と言えます。途中の67節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質をさらに明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。

このヨハネ福音書冒頭のイエス様についての詩的な真理というものは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を大いなるものを受けとめられるくらいに豊かにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を豊かにする力に触れられることを目指していこうと思います。

2.天地創造の前からいた神のひとり子

 「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記11節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいて、天地創造のあと時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語というのは、ヨハネ福音書をはじめ新約聖書の書物が書かれている元の言語です。ギリシャ語のロゴスという言葉ですが、これはとても幅広い意味を含みます。もちろん、文字にして紙に書き記したり(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ話、スピーチを意味したり、「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」とか、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄がロゴスに収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話で、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出されたものでした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場ですので、生み出す大元にあるのはあくまで神です。哲学では、その大元は人間ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の82231節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の13節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記13節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

本日の説教題「はじめにことばありき」で「ことば」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると何か話された言葉とか書かれた言葉のように意味を狭めてしまうのではないか、本当は背後にあるもっと壮大なものを意味するのに。それでひらがなにした次第です。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書1149節、マタイ1119節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(2425節、ヘブライ語חיל  )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言822節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言822節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記11節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。

「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは天地創造がない、時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」があるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」なのであり、生み出した方を「父」と呼ぶ、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書11節にあるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

3.永遠の命をもたらし導く光

 4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。それを再び人間に取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにするために、神のひとり子が父のもとからこの世に送られてきたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」というのは、ギリシャ語の原文では「照らす」とまでは言っておらず、ただの「人間の光」です。もちろん暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示してあげるという意味を持ちます。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯してもらう光も意味します。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。ただ、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、父なるみ神の力で死から復活させられて、死を超える永遠の命の扉を開かれた、このことを思い起こせば、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがよりピッタリではないかと思います。なぜなら、悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で事実上破たんしてしまったのですから。

4.インカーネーションの良い知らせ

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を罪の呪縛から解放して再び永遠の命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。あなたは、もう神から罰を受けないですむようになったんですよ、あの方が全部請け負って下さったんですよ、と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、自分一人の罪さえ背負いきることのできない人間が、全ての人間の罪を背負って神罰を受けることなどは不可能です。父なるみ神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書114節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それを父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(114節)。

 イエス様の十字架と復活を目撃した人たちは、イエス様というのは人間が神の罰を受けないで済むように、罪の呪縛から解放されて、永遠の命を持てるようになるためにこの世に送られて、それで十字架と復活の業を成し遂げられた。そのことが、ジグソーパズルが一挙に埋まるようにわかったのです。旧約聖書の趣旨はそうした全人類的な救いにあるとわかったのです。それで、出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらに、天に父のもとに戻られたイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。まさに、本日の旧約の日課の箇所イザヤ書52章で言われるような「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」になりました。

 イザヤ書529節に「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と言われます。「エルサレムの廃墟」というのは直接的には、イエス様の時代から約600年近く前に起きたバビロン捕囚の時代のエルサレムが廃墟だったことを指しています。同時にこれは、打ちひしがれた人、心が打ち砕かれて廃墟のようになってしまった人たち全てを象徴しています。実は「歓声をあげ」という句の前に、ヘブライ語の原文では「心を平安にせよ」という句(פצחו)があるのですが、どういうわけか、日本語、英語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では皆省かれています。恐らく「歓声をあげ」ることからみたら、余分なものとされてしまったのでしょう。(ただし、イザヤ書147節では529節と同様、この同じ動詞が「歓声をあげる」という動詞と一緒に使われていますが、そちらはちゃんと訳されています。)しかし、これは大事な句です。この「心を平安にせよ」というのは、正確には「嵐が過ぎ去った海や空のように心を静めて穏やかにしなさい」という意味です。つまり、廃墟のようになって悲しんでいる人たちに向かって次のように語っているのです。「嵐は過ぎ去った。もう廃墟のままとどまる時は終わったのだ。なぜなら、天地創造の神から送られたひとり子が、私たちが背負いきれない本当の重荷を背負って下さったからだ。だからそこを出発点にして、それを真の希望の拠りどころとして立ち上がりなさい。この方を救い主と信じていく限り、あなたは他の重荷をきっと背負っていけるでしょう。そのために主は必要に応じてあなたに休息を与えてくれるでしょう。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年12月5日月曜日

良い実を結ぶ木のように (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年12月8日待降節第2主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書11章1-10節
ローマの信徒への手紙15章4-13節
マタイによる福音書3章1-12節

説教題 「良い実を結ぶ木のように」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節とかアドベントなどと呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔、現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた父なるみ神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちは、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあります。その意味で、待降節という期間は、イエス様の最初の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、めでたし、めでたし、で済ませるのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を持つようにして、身も心もそれに備えるようにしなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつなのかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世が終わりを告げる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていないのです。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を持って、身も心もそれに備えるようにする。それが、「目を覚ましている」ということです。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」などと言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は自分の造り主である神から頂いたものだという自覚に立っています。それで、自分が置かれた立場や境遇、直面する課題というものは、各自取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は次の二つの原則に照らし合わせてそうします。まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、次に、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、この二つを基準にして考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っているだけの受け身な姿勢ではありません。

そこで、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

2.

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ180節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ32節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事いうことになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、例として「ヘブライ人への手紙」12章に記されています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという終わりの日に、唯一揺り動かされずに現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地にとって替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが記されています。

 本日の旧約の日課イザヤ書11章にも、将来現れる神の国のことが述べられています。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(9節)ことがどういうことかを分からせるために、野獣猛獣、家畜と幼子が一緒にいても何も危険はないということが言われます。それくらい安心と安全が完璧な夢のような国です。加えて、神の正義が完璧に実現される国でもあります。「エッサイの株から萌え出でる若枝」がそれを実現します。エッサイはダビデの父親の名前ですので、この若枝はダビデ王朝に属する者としてイエス様を指します。再臨するイエス様は最後の審判の時に裁きを司りますが、5節で「正義」と「真実」を帯のように纏っていると言われます(「真実」というのは、ヘブライ語אמונהの正確な意味は「頼り切って大丈夫なこと」です)。彼が裁きを行う時、「目に見えるところによって行わない、耳にするところによって行わない(3節)」というのは、人の目には見えないことや、人の言葉では言い尽くせないことまで全て真実を把握して裁きを行うということです。だから、この世でいろんなことを見落とされて不利益を被ったり、真実を見てもらえずに無念の涙を流した人たちにとっては朗報以外の何ものでもないでしょう。しかし同時にイエス様は、不正義を行った者もその犠牲者も等しく、全て心の奥底にある見えない部分もちゃんと見抜いておられる。そうなると一体誰が、この正義と安全と安心しかない国に迎え入れられるのか?この問題は、本説教の後半で明らかされていきます。

さて、そんな夢のような神の国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?そうならば、今ある天と地は当時も今もそのままではないか?新しい天と地はまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。実は2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は、不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたり、悪霊に憑りつかれた人々を救ったり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。黙示録214節を思い出しましょう。将来現われる神の国は、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところです。2000年前のイエス様の存在と活動というのは、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせる、そういう意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはりあくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。

それでは、今私たちは神の国とは無関係なのでしょうか?そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、彼こそ救い主と信じる信仰に生きる者は、既にこの神の国と結びつけられています。もし、イエス様の再臨が私たちの生きている時代に起きれば、信仰に生きる者はそのままそこに迎え入れられます。もし再臨の前に死んでいれば、再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられます。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現する方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.

さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書242122節、262021節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。それなので人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びつくと考えられたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。(興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζωβαπτισμοςが使われています[マルコ74])。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものはと言えば、律法の様々な掟や様々な宗教的儀式を守ったり行ったりすることでした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのです。

 人間が自分の力で罪や不従順の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部このひとり子に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア327節、ローマ1314節、さらにエフェソ42324節とコロサイ3910節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限りは、父なるみ神は私たちの罪ある内側には目を留めず、私たちに被せられた神聖な清い純白な衣に目を留めて下さるのです。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものでした。神が人間に贈り与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、今申し上げたイエス様の身代わりの犠牲がもたらしてくれる罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ139節、イザヤ125節、マラキ323節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限りは、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。このような計り知れない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 ヨハネの洗礼は、完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっているのだ、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ起こる罪の支配からの解放を全身全霊で受け取る器になれる、ということでした。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということでした。ところが、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

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以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得られるようになりました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして受け取った罪の赦しの救いの中にしっかり留まり、聖書の御言葉と聖餐式のパンとぶどう酒を栄養にすることで、肉に結びつく古い人を日々弱体化させ、聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことです。この道を歩む者から「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」が実ってきます。それはどのような実でしょうか?

一般的に言えば、次のようなことです。罪の赦しの救いを受け取った人は、聖霊と共にいろいろな賜物を神から頂く。その頂いた賜物を今度は神の意思に沿うように用いる。そうすると、イエス様の福音が周りの人々に伝えられたり示されたりし、人々が罪の赦しの救いを受け取ることができるようになって教会が成長する。そして、賜物を用いる人自身も、使徒パウロが教えるような聖霊の結ぶ実を結ぶようになる。これはスオミ教会の今年の年間主題でもありますが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったものに満たされるようになる。これら全てのことが、「神への立ち返りに相応しい実」、「良い実」です。

最後に、そのような実について、具体的なことを述べておきます。いろんな具体例が考えられますが、ここでは一例としてあげておきます。キリスト信仰者が、一生懸命の努力と真摯な祈りをもって何か事業に成功してお金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。その人がこの成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することに沿うように用いること、これが「良い実」です。もちろん、みんながみんな、そういう神の意思に沿って用いられる成果を手に入れられるわけではありません。ただその場合でも、もし伴侶がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが溢れるような家庭を築いて行こうと努力すること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうと努力すること。これが「良い実」です。さらに、不運にも病の床についてしまい、成果も得られず家庭もなかなか築いていけないような場合は、このような境遇にあっても、信仰の兄弟姉妹たちの心遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さる、と感謝すること。そして、自分自身のことに加えて、多くの人たちのためにも祈ること。これが「良い実」です。これらはみんな、父なるみ神の目から見て等しく良い実です。



 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン