2016年3月30日水曜日

我らが立ち返るべき原点 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2016年3月25日 聖金曜日

イザヤ書52章13節-53章12節
ヘブライの信徒への手紙4章14節-5章10節
ヨハネによる福音書19章17-30節

説教題 「我らが立ち返るべき原点」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法でした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様は、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったように思われます。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。2004年に公開されたアメリカの映画で「キリストの受難Passion of the Christ」というのがあって、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こったのでしょう。とにかく、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に打ち付けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが手持ちぶさたそうにして、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんと期待外れな男だったか、と。もちろん群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛とかすれていく意識の中でイエス様が目にした光景でした。

そのような苦痛と激痛の中にありながらイエス様は、自分にこのような仕打ちをする者たちにも赦しが与えられるようにと神に祈りました(ルカ2334節)。また、隣の十字架にかけられた犯罪人がイエス様に罪を告白して自分の全てを委ねた時、イエス様はその人に永遠の命を与えました(ルカ2343節)。そして最後に、愛する弟子の一人に母マリアを引き取って世話をするように命じました。このようにイエス様は力尽きる最後の最後まで愛を実践することを怠りませんでした。

さて、このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの出来事を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの出来事の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。その大いなる真実とは何か?それは、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。この人間の救いを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。

それでは、どうしてイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。

イザヤ書5213節から5312節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。(ところで、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではあります。しかし、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのです。)それでは、イザヤ書53章から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(534節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべてイエス様に負わせたのであり(同6節)、神に対する人間の背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。

以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たち人間の一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言われるが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえないこと、落ち度だらけの者であることを明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があることも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。

人間は、もともとは神聖な神の意思に適う良いものとして、神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、自分の造り主である神と張り合いたいという傲慢な心を持ったことが原因で、人間は神に対して不従順になり、人間の内に罪が入り込んでしまうことになったのです。この結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れ、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、神との平和な関係が失われてしまいました。

しかしながら、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。正反対に、なんとか人間との結びつきを回復しようと考えたのです。ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にしなければならない。まさに人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力でそれを除去することはできず、罪の支配力を無力にする力もない。そこで、神が編み出した解決方法は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらおう。つまり、その誰かを全ての悪の犯人のように仕立てあげて呪われた状態にして、人間の全ての罪の罰を全部その者に受けさせるのだ。それこそ、罪の償いは全部済んだと言える位の罰をその者に下し尽くすのだ。人間は、このなされた償いを自分のものとして受け取ることで罪を赦された者となって、神との結びつきを回復させることができる。このような解決方法を神は考案したのです。

それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるのに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに人類の罪全部を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれずに滅んでしまうだけなのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、純白で神聖な神のひとり子しか背負いきれる者はいない。それで、この重い役目を引き受ける者として神のひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。

さて、神のひとり子は歴史を超えた天の御国という無限が支配するところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに先ほど読んでいただいたヘブライ書の聖句にあるように、イエス様は「罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われた」。それで「わたしたちの弱さに同情できる方」なのです(ヘブライ415節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するきっかけを持てないのです。

そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。このようにイエス様の身代わりの犠牲の役目が、人間の具体的な歴史状況の中で実施されたということはとても大事です。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。ちゃんと証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。天地創造の神がひとり子の身代わりの犠牲を歴史上の出来事として起こしたのには、ちゃんと理由があるのです。

ところで、ユダヤ民族というのは、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていた民族でした。この神聖な書物の本当の趣旨は全人類の救いということでした。ところが、ユダヤ民族は自分たちの長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という自分たちの利害関心に結びつけて考えていました。これは旧約聖書の一面的な解釈でした。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わりを告げた時に出現する神の国とはどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、皮肉にもまさにそれが起きたおかげで、神のひとり子が人類の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けるという、人間の罪の償いが具体的な形を取ることができたのでした。

このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、人間の救いが完成したことを現しています。本来ならば、私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。さらに、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、神がイエス様と一緒に十字架の上で刺し貫いてしまったので、その人間を牛耳っていた力は粉砕されてしまいました。このようにして、神は人間救済計画をひとり子イエス様を用いて実現したのです。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、さぁ、受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで人間が、ああ、そうだったのか、イエス様の十字架の死は実は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を受け取れて自分のものにすることができるのです。こうして神から罪の赦しを得た人は、神との結びつきが回復して、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めるようになります。順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも、その時は救い主が御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

「罪の赦しの救い」を受け取った人は、心に大きな安心と平安を持つことができ、神にこれだけ愛を頂いたからには、自分もイエス様が教えられたように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向し始めます。ところが、生きていくうちにそれはそう簡単なことではないと気づかされることがいろいろ出て来ます。この世というものは、神の意思に沿う生き方をできなくしてやろうという力に満ちているからです。とにかく現実の世界で生きていると、そういう力に絶えず直面します。特にあらゆることが混とんとしてしまったような現代では、そうでしょう。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも聖書の御言葉に聞き、神に助けと導きを祈り求めなければなりません。私たちが、イエス様のゆえに、つまりイエス様の身代わりの死に免じて、罪を赦して下さい、と祈ると、神の方で、お前はわが子イエスを救い主として信じているな、と確認できます。そしてすかさず、「この罪はもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、私たちをまた祝福してこの世に送り出して下さいます。これが、先ほど読んでいただいたヘブライ書416節で言うところの、大胆に恵みの座に近づいて、時宜に適った助けを頂くことです。

キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さる、と知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が持てない時も出て来ます。祈っても祈っても苦難や困難から脱せられない時とか、また死が間近に迫った時、信仰者といえども、果たして神は自分を御許に引き上るのに相応しいと見てくれているのだろうか、自分はまだ罪の汚れが残っているから見捨てられるのではないだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架に心の目を向けるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あのお方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しは間違いなくある、どんな境遇にあっても神との結びつきはしっかり保たれている、と確信できるはずです。

十字架上のイエス様というのは、イエス様を救い主と信じて救いを既に受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点です。その人にとっては、残存する罪には、もはや死と罰に追いやる力はありません。逆に罪は、その人を絶えず十字架のもとに立ち返らせる契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地です。目的地に到達するや否や、今度はそれは立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年3月21日月曜日

自民族中心主義を超える神の愛 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年3月20日(枝の主日)スオミ教会

ゼカリア書9章9-10節
フィリピの信徒への手紙2章6-11節
ルカによる福音書19章28-48節

説教題 自民族中心主義を超える神の愛


天におられる私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                             アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 今年の四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(218節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(118節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(1213節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前のエルサレムで起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。その意味で、本日礼拝後に当教会で行われる音楽伝道集会「ヴィア・ドロローサ(受難の道)」は、良い機会になると思います。

さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー(הושיעה-נע)」という言葉が、イエス様の時代のパレスチナで話されていたアラム語に訳されたものです(ホーシャーナーהישע-נא)。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味がありましたが、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。

 またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰もまたがっていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 加えて、もう一つわかりにくいことがあります。それは、イエス様がエルサレムの町を見て泣いたことです。4344節をみると、イエス様はエルサレムが破壊される日が来ることを預言しています。これは、本当にこの時から40年位後にローマ帝国の大軍が押し寄せてきて、その通りになってしまいました。イエス様は、こうなってしまうのは、エルサレムの人たちが「平和への道をわきまえていなかった」、また「神の訪れて下さる時をわきまえなかった」からだと言います。「平和への道をわきまえていなかった」とは、ギリシャ語原文を忠実にみると「平和に関することを何も理解していなかった」です。ここで言う「平和」とは、38節で群衆が「天には平和」と叫んでいる「平和」、つまり天地創造の神のもとにある平和です。罪ある人間には到達できない平和です。イエス様は、人々がそういう天にある平和について何もわかっていない、と言うのです。「神の訪れる時をわきまえなかった」というのも、ギリシャ語では「神の訪れる時をわからなかった」です。これも、自分のエルサレム入城はまさしく神のひとり子の訪れなのに、人々は何か勘違いをしている、というのです。一体、人々は「天の平和」やイエス様の入城をどう誤解していたのか?そして、勘違いや誤解が原因でどうしてエルサレムが破壊されることになるのか?

以上のように、本日の箇所は一読すると、ふんふん、なるほどと出来事の流れだけはわかったような感じになりますが、本当は何が起きていたのかを理解しようとすると難しい箇所なのです。以下これらのことを明らかにしてまいりましょう。

2.

 このイエス様の子ろばに乗った神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実にみると「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現できる者です。(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、神から義を与えられて、義なる者とされます。)「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化し、天のみ神のもとにある平和を確立する者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々とやってくるのではなく、子ろばに乗ってやってくることです。イエス様が弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのは、このゼカリア書の壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった」態度をもって、全世界を神の意志に従わせて神の平和をもたらすという預言はイザヤ書11110節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

「狼は小羊と宿り」というところから始まる部分は、危険や害悪が全くない、全てが神に守られている世界が到来することを預言しています。これはもう今私たちがいるこの世の世界ではありません。今の世の後に到来する新しい世の世界です。今の世が新しい世に取って代わる時に裁きを行う者が現れる。それが「エッサイの根」と呼ばれる者ですが、これは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前です。つまり、ダビデ王の家系に属する者ということで、イエス・キリストを指します。今の世が終わりを告げて、全てのものが神の神聖な意志に従う新しい世が到来する。その時、誰が新しい世の世界に受け入れられるか、それをイエス・キリストが判断を下すというのであります。

このように、子ろばに乗ってエルサレムに入城するというのは、まさに、今の世が新しい世に取って代わるという預言された大事業をイエス様が担って、それを預言にある手順を踏みながら進めているのです。それでは、この大事業は、イエス様によってどのように進められていったのでしょうか?

3.

 この大事業は実は、当時のユダヤ人にとって理解をはるかに超えるものでした。旧約聖書を読んでいたのに、なぜ彼らは理解できなかったのでしょうか?それは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が新しい国を打ち立てるという旧約の預言は、なによりもローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエルの王国を再興するということを意味していたのです。このような期待には、今の世が新しい世に取って代わるということは必ずしも視野に入っていません。再興される王国は、今の世の中にあるからです。

他方では、イザヤ書651720節や6622節とかダニエル書1213節を見ると(他にゼカリア147節、ヨエル34節など)、今のこの世が終わりを告げて今ある天と地に替わって新しい天と地が創造され、死者の復活が起きるという預言があり、これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が君臨する王国とは、今のこの世のものではなく、新しい世の王国と理解されました。

さて、今のこの世の中に樹立される王国であれ、新しい世に現れる超越的な国であれ、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるというイメージでいたことに変わりはありませんでした。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにあるのであり、イエス様が担った大事業はもっと普遍的なことに関わるものだったのです。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられます。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下のようなものでした。

まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世が終りを告げる時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。

 もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。

 さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所にもある神殿からの商人の追い出しでした。宗教指導層は、現行の神殿が旧約に記された神の意思を実現していると考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思の実現からはほど遠いものでした。イザヤ書567節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書1421節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。

イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の意思を正確にわかる者としてこの世に送られました。それにもかかわらず、わかっていないのにわかっているつもりの宗教指導層が彼を迫害し殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、ただ自分たちの民族のスーパー・ヒーローだと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に、旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

4.

 イエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が存在すること、そしてその扉が人間に開かれたことが明らかになりました。神に最初に造られた人間アダムとエヴァが造り主に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死ぬ存在になってしまいました。しかし、この堕罪のために閉ざされてしまっていた永遠の命への扉が開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命を持つことが出来るでしょうか?ここで起きる疑問は、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である神への不従順と罪の問題はどう解決できるのか、ということです。

それが、解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪がもたらす神罰を全部人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部代わりに引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。このように神から罪を赦された者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。もう罪と死がその人の運命を左右する力はありません。もちろん、罪と死が左右するように見えたり感じたりする時もあります。しかし、見えたり感じたりすること自体には本当の力はありません。私たちの運命を左右する本当の力は、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架にあります。その十字架に心の目を向ける時、私たちはその力に与れます。

イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、旧約聖書の奥義が次々と明らかになりました。例として、イザヤ53章に預言されている「神の僕」とはまさにイエス様のことを指していることが明らかになりました。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(36節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(1112節) 

 実に、イエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族であるかないかに関係なく、人類すべてに「罪の赦しの救い」をもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業の第一弾でした。今のこの世が終わって新しい世が到来する時に裁きを行うイエス様が現れるというのは、まだ先のことだったのです。それは、イエス様の再臨の時のことだったのです。天地創造の神を崇拝するようになった多くの民族の人たちがエルサレムに上ってくるという預言も、それはもはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムをさすのです。つまり、それは神の国です。こうしたことは、当時、歓呼の声をあげて付き従った人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰もわかりませんでした。彼らはただ、自民族の宗教システムの温存が大事だったり、また自民族の解放と復興がもたらす平和が大事だったのです。それでイエス様に反対したり、逆に王に祀り上げたりしたのです。

このような自民族中心主義に縛られている限り破滅は避けられないということをイエス様はよくわかっていました。かと言って、十字架と復活が起きる前に「罪の赦しの救い」がもたらす平和など誰も理解できないこともわかっていました。また、十字架と復活が起きても、全ての者が理解するわけでなく、多くの者は自民族中心主義を続けてしまい、それがローマ帝国との衝突に至ってしまうことも。イエス様は、これらのことが全部わかって泣かれたのでした。

5.

以上、イエス様が子ろばにのってエルサレムに入城したというのは、人間救済という天地創造の神の一大事業の第一弾であったことが明らかになりました。この大事業は、旧約聖書を与えられて読んでいたはずのユダヤ人たちにとって理解を超えるものでした。でも、旧約聖書の奥義は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものでした。それが神の意思でした。イエス様は、神が送られたひとり子であるがゆえに、この神の意思を人間よりもご存知でした。そして、このひとり子は、神の意思を明らかにしただけではなく、それを身をもって実現したのです。

 私たちは、十字架と復活の出来事の後の時代を生きていますが、これはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この二つの出来事の間の時代はまた、一方で、イエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取って永遠の命に至る道を歩み始めた者と、他方で、そうでない者の二つに分かれる時代でもあります。神は、救いを全ての人間のために準備した以上、できるだけ多くの人がその受取人になってほしいというのが本心です。それゆえ、私たちキリスト信仰者は、隣人愛を実践する時にも、どうすれば隣人の心を人間の造り主であり贖い主である神に向けさせて、救いの受取人になれるようにしていけるか、ということに心を砕かなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン