2016年3月21日月曜日

自民族中心主義を超える神の愛 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年3月20日(枝の主日)スオミ教会

ゼカリア書9章9-10節
フィリピの信徒への手紙2章6-11節
ルカによる福音書19章28-48節

説教題 自民族中心主義を超える神の愛


天におられる私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                             アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 今年の四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(218節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(118節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(1213節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前のエルサレムで起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。その意味で、本日礼拝後に当教会で行われる音楽伝道集会「ヴィア・ドロローサ(受難の道)」は、良い機会になると思います。

さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー(הושיעה-נע)」という言葉が、イエス様の時代のパレスチナで話されていたアラム語に訳されたものです(ホーシャーナーהישע-נא)。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味がありましたが、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。

 またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰もまたがっていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 加えて、もう一つわかりにくいことがあります。それは、イエス様がエルサレムの町を見て泣いたことです。4344節をみると、イエス様はエルサレムが破壊される日が来ることを預言しています。これは、本当にこの時から40年位後にローマ帝国の大軍が押し寄せてきて、その通りになってしまいました。イエス様は、こうなってしまうのは、エルサレムの人たちが「平和への道をわきまえていなかった」、また「神の訪れて下さる時をわきまえなかった」からだと言います。「平和への道をわきまえていなかった」とは、ギリシャ語原文を忠実にみると「平和に関することを何も理解していなかった」です。ここで言う「平和」とは、38節で群衆が「天には平和」と叫んでいる「平和」、つまり天地創造の神のもとにある平和です。罪ある人間には到達できない平和です。イエス様は、人々がそういう天にある平和について何もわかっていない、と言うのです。「神の訪れる時をわきまえなかった」というのも、ギリシャ語では「神の訪れる時をわからなかった」です。これも、自分のエルサレム入城はまさしく神のひとり子の訪れなのに、人々は何か勘違いをしている、というのです。一体、人々は「天の平和」やイエス様の入城をどう誤解していたのか?そして、勘違いや誤解が原因でどうしてエルサレムが破壊されることになるのか?

以上のように、本日の箇所は一読すると、ふんふん、なるほどと出来事の流れだけはわかったような感じになりますが、本当は何が起きていたのかを理解しようとすると難しい箇所なのです。以下これらのことを明らかにしてまいりましょう。

2.

 このイエス様の子ろばに乗った神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実にみると「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現できる者です。(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、神から義を与えられて、義なる者とされます。)「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化し、天のみ神のもとにある平和を確立する者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々とやってくるのではなく、子ろばに乗ってやってくることです。イエス様が弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのは、このゼカリア書の壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった」態度をもって、全世界を神の意志に従わせて神の平和をもたらすという預言はイザヤ書11110節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

「狼は小羊と宿り」というところから始まる部分は、危険や害悪が全くない、全てが神に守られている世界が到来することを預言しています。これはもう今私たちがいるこの世の世界ではありません。今の世の後に到来する新しい世の世界です。今の世が新しい世に取って代わる時に裁きを行う者が現れる。それが「エッサイの根」と呼ばれる者ですが、これは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前です。つまり、ダビデ王の家系に属する者ということで、イエス・キリストを指します。今の世が終わりを告げて、全てのものが神の神聖な意志に従う新しい世が到来する。その時、誰が新しい世の世界に受け入れられるか、それをイエス・キリストが判断を下すというのであります。

このように、子ろばに乗ってエルサレムに入城するというのは、まさに、今の世が新しい世に取って代わるという預言された大事業をイエス様が担って、それを預言にある手順を踏みながら進めているのです。それでは、この大事業は、イエス様によってどのように進められていったのでしょうか?

3.

 この大事業は実は、当時のユダヤ人にとって理解をはるかに超えるものでした。旧約聖書を読んでいたのに、なぜ彼らは理解できなかったのでしょうか?それは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が新しい国を打ち立てるという旧約の預言は、なによりもローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエルの王国を再興するということを意味していたのです。このような期待には、今の世が新しい世に取って代わるということは必ずしも視野に入っていません。再興される王国は、今の世の中にあるからです。

他方では、イザヤ書651720節や6622節とかダニエル書1213節を見ると(他にゼカリア147節、ヨエル34節など)、今のこの世が終わりを告げて今ある天と地に替わって新しい天と地が創造され、死者の復活が起きるという預言があり、これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が君臨する王国とは、今のこの世のものではなく、新しい世の王国と理解されました。

さて、今のこの世の中に樹立される王国であれ、新しい世に現れる超越的な国であれ、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるというイメージでいたことに変わりはありませんでした。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにあるのであり、イエス様が担った大事業はもっと普遍的なことに関わるものだったのです。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられます。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下のようなものでした。

まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世が終りを告げる時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。

 もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。

 さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所にもある神殿からの商人の追い出しでした。宗教指導層は、現行の神殿が旧約に記された神の意思を実現していると考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思の実現からはほど遠いものでした。イザヤ書567節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書1421節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。

イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の意思を正確にわかる者としてこの世に送られました。それにもかかわらず、わかっていないのにわかっているつもりの宗教指導層が彼を迫害し殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、ただ自分たちの民族のスーパー・ヒーローだと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に、旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

4.

 イエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が存在すること、そしてその扉が人間に開かれたことが明らかになりました。神に最初に造られた人間アダムとエヴァが造り主に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死ぬ存在になってしまいました。しかし、この堕罪のために閉ざされてしまっていた永遠の命への扉が開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命を持つことが出来るでしょうか?ここで起きる疑問は、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である神への不従順と罪の問題はどう解決できるのか、ということです。

それが、解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪がもたらす神罰を全部人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部代わりに引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。このように神から罪を赦された者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。もう罪と死がその人の運命を左右する力はありません。もちろん、罪と死が左右するように見えたり感じたりする時もあります。しかし、見えたり感じたりすること自体には本当の力はありません。私たちの運命を左右する本当の力は、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架にあります。その十字架に心の目を向ける時、私たちはその力に与れます。

イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、旧約聖書の奥義が次々と明らかになりました。例として、イザヤ53章に預言されている「神の僕」とはまさにイエス様のことを指していることが明らかになりました。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(36節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(1112節) 

 実に、イエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族であるかないかに関係なく、人類すべてに「罪の赦しの救い」をもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業の第一弾でした。今のこの世が終わって新しい世が到来する時に裁きを行うイエス様が現れるというのは、まだ先のことだったのです。それは、イエス様の再臨の時のことだったのです。天地創造の神を崇拝するようになった多くの民族の人たちがエルサレムに上ってくるという預言も、それはもはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムをさすのです。つまり、それは神の国です。こうしたことは、当時、歓呼の声をあげて付き従った人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰もわかりませんでした。彼らはただ、自民族の宗教システムの温存が大事だったり、また自民族の解放と復興がもたらす平和が大事だったのです。それでイエス様に反対したり、逆に王に祀り上げたりしたのです。

このような自民族中心主義に縛られている限り破滅は避けられないということをイエス様はよくわかっていました。かと言って、十字架と復活が起きる前に「罪の赦しの救い」がもたらす平和など誰も理解できないこともわかっていました。また、十字架と復活が起きても、全ての者が理解するわけでなく、多くの者は自民族中心主義を続けてしまい、それがローマ帝国との衝突に至ってしまうことも。イエス様は、これらのことが全部わかって泣かれたのでした。

5.

以上、イエス様が子ろばにのってエルサレムに入城したというのは、人間救済という天地創造の神の一大事業の第一弾であったことが明らかになりました。この大事業は、旧約聖書を与えられて読んでいたはずのユダヤ人たちにとって理解を超えるものでした。でも、旧約聖書の奥義は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものでした。それが神の意思でした。イエス様は、神が送られたひとり子であるがゆえに、この神の意思を人間よりもご存知でした。そして、このひとり子は、神の意思を明らかにしただけではなく、それを身をもって実現したのです。

 私たちは、十字架と復活の出来事の後の時代を生きていますが、これはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この二つの出来事の間の時代はまた、一方で、イエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取って永遠の命に至る道を歩み始めた者と、他方で、そうでない者の二つに分かれる時代でもあります。神は、救いを全ての人間のために準備した以上、できるだけ多くの人がその受取人になってほしいというのが本心です。それゆえ、私たちキリスト信仰者は、隣人愛を実践する時にも、どうすれば隣人の心を人間の造り主であり贖い主である神に向けさせて、救いの受取人になれるようにしていけるか、ということに心を砕かなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン