2014年3月17日月曜日

神の国の一員であるということ (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年3月16日 四旬節第二主日

創世記12章1-8節
ローマの信徒への手紙4章1-12節
マタイによる福音書20章17-28節

説教題 「神の国の一員であるということ」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は読み通すと、一見わかったような気がしますが、実は難しいことがいろいろあります。それらを一つ一つみていくことで、天の父なるみ神の私たち一人一人に対する御心を明らかにしてまいりましょう。

まず、イエス様が自分の受ける受難と恥辱に満ちた死について、そして死からの復活について予告します。その時、弟子のヤコブとヨハネとその母親がイエス様の前に進み出て、母親が嘆願します。神の国が来たら息子たちを王様イエス様の左大臣、右大臣にして下さい、と。ここで起きる疑問は、なぜイエス様が死と復活を予告したタイミングに、母親はこの嘆願をしたのかということです。それは彼女が、イエス様の死と復活が神の国の到来に関係すると直感したからなのですが、どうしてメシア救世主の死と復活が神の国の到来と関係するのか?この疑問からみてみましょう。

イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、自分たちの民族の将来について次のような期待が抱かれていました。それは、かつてのダビデ王のような王が登場して、この王が油を注がれて聖別された者、つまりメシアとして、自分たちを支配・抑圧しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに諸国に大号令をかけてこれらを従わせ、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させるという期待です。そのような期待がでてきたのは、旧約聖書にそのようなことを預言するとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ士族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。またイザヤ書11章に、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王がでて外国勢力を追い出して王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が持たれたとしても不思議はありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場しますが、これは機会があれば占領者であるローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者になると思ったのでしょう。しかし、彼らにとって、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまったのは、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

このような、ダビデ家系の王が現れてイスラエルに民族自決国家を実現するという考えは、王様にしても王国にしても今存在する現世に実現するものです。ところが実は、当時のユダヤ教社会には、メシアについても王国についてももっと違った考え方がありました。まず、今存在するこの世はいつか終わりを告げる。その時、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる。その際、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こる。かつてこの世で生きていた時に天地創造の神を信じてその意思に忠実であった者たちは神の国に迎え入れられる。この一連の大変動の時に、指導者的な役割を果たすのがメシアである。彼は、神の国という新しい世に最終的な平和を打ち立てる。大体そういう考え方です。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。終末論的なメシアと神の国の考え方と言ってよいと思います。余談ですが、このような考え方を示す書物が、紀元前23世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました。[1]

どうしてこのような考え方があったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書6517節、601920節にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書1213節、こうした今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考え方に従うと、現世的な王の下で現世的な民族自決国家を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は来るべき世の出来事を意味するものだというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考え方からすれば、現世的なメシアや王国復興の考え方は、旧約聖書の預言をまだまだ取り込めていないということになるでしょう。

こうしてみるとヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の予告を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考え方を持っていたことを窺わせます。しかし、彼女のメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。到来する神の国は死者の復活に関係があると理解していながらも、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分の息子を右大臣左大臣に取り立てて下さい、と嘆願したのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのであります。それがどういう国かと言うと、本日の箇所の最後でイエス様が言われます。「人の子は仕えられるために来たのではない。仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである。これと同じように、お前たちの間でも、大いなる者になりたいと思う者は、お前たちの中で仕える者となりなさい。」[2] つまり、神の国の秩序は、誰かが誰かの上に立って支配するというものでなく、お互いが仕え合っているという関係にある。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、王に従う者はみなそれに倣わなければならない、というのであります。

ヤコブとヨハネの母親が示したような終末論的な神の国の到来の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考え方よりも旧約の預言を網羅しているようにみえました。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。イザヤ書53章には、メシアが人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、恐らく有名ではなかったのかもしれません。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど、不可解だからです。しかし、十字架と復活の後は、不可解でもなんでもなくなりました。イエス様は、十字架と復活の前に全てをご存知だったのです。まさに彼こそが、旧約聖書の預言の全体を把握して正確な神の国の考えを持っていたのです。もちろん、これは、彼が神の御子であるため神の意思を全てわかっていたからなのですが、彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思そのものを実現することもやってのけたのです。

2.

本日の福音書の箇所の次に進みましょう。イエス様は、母親の嘆願を受け付けませんでした。イエス様の呆れ返った様子が母と息子の三人とイエス様のやり取りから窺われます。「お前たちは何を欲しているか自分でわかっていない」。嘆願した本人からすれば、右大臣と左大臣にしてくれと頼んでいるのだからわかっているつもりなのですが、イエス様からすれば、この嘆願は神の国のなんたるやを知らない、的外れなものだということになるのです。神の国とは支配する者とされる者が二分している国ではなく、構成員がお互いに仕え合う関係にある国であるということは先ほど申し上げました。

「私が飲む杯を飲むことができるか」というのは、イエス様が受けることになる受難をお前たちも味わうことができるかという意味です。二人の若者は「できます」と答えます。立派な覚悟ですが、おそらく大臣になれるなら、たとえ火の中水の中という意気込みだったのでしょう。ここでイエス様は、そう、確かにお前たちは私の杯を飲むことになる、と預言します。これで二人の運命は決せられてしまいました。というのは、ヤコブは使徒言行録122節に記されているように、ヘロデ・アグリッパ1世によって殺害されてしまうからです。兄弟のヨハネについては不明ですが、おそらく安逸な人生ではなかったでしょう。

このようにイエス様の預言は二人の若者の運命を確定してしまったので、それは少し残酷なものに思えます。しかし、ここで注意しなければならないのは、この預言は二人の若者を何か不幸に定めたということではないのです。キリスト信仰者に対する迫害は、イエス・キリストの名とその福音を宣べ伝える時に起こりました。ヤコブはその宣べ伝えが命を伴う危険があると知っていたでしょう。また、かつて主に「お前は私の杯を飲むことになる」と言われていたことを覚えていたでしょう。もはや主は地上にはおられず、主の御名と福音を宣べ伝えれば、大臣になれるどころか、命を危険にさらすことにさえなる。ヤコブはそれを知っている。それなのに宣べ伝えをやめなかった。どうしてでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の国がどんな国であるか本当にわかり、それまで大臣などと言っていたことが全く意味を失ったからでした。イエス様の十字架の死と死からの復活から本当に大切なものが自分に与えられたとわかり、それを出来るだけ多くの人に伝えたい、同じ大切なものを他の人たちにも受け取ってもらいたい、そういう思いで生きるようになったためでした。その大切なものがあまりにも大きくて、目の前にある脅しや恐怖が小さくみえてしまうほどだったのです。イエス様が二人の若者に「お前たちは私の杯を飲むことになる」と言ったのは、実に「お前たちはそれくらい大きな大切なものを受けることになるので、受難の杯を飲むことが出来るのだ」と言っているのであります。[3]

それでは、イエス様の死と復活から与えられた大切なものがなんであるかについて見てみましょう。それは、人間が自分を造られた神との結びつきを回復できたということ、そしてその結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるようになり、順境の時も逆境の時も自分の造り主である神から守りと良い導きを得られて歩めるようになったということ。万が一この世から死ぬことになっても、その時は造り主である神が手をとって御許に引き寄せてくれ、永遠に造り主である神のもとにいられるようになったこと、であります。どうして、そのような造り主との結びつきが失われていたかと言うと、創世記の初めにありますように、最初は良いものとして造られた人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったからでした。そこで人間は死ぬ存在となり、神との結びつきは失われてしまいました。ところが、神はこの不幸な状態をなんとか変えようとして、それでひとり子をこの世に送り、人間の罪から来る罰を全て彼に背負わせて人間の身代わりとして十字架の上で死なせて、この彼の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。人間は、このひとり子イエス様をまさに自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができるのであります。これが、イエス様の死と復活から与えられた大切なものであります。

ところで、ヤコブとヨハネに起きたのと同じことがペテロにも起きました。ヨハネ211819節で復活された主はペトロが将来どのような最後を遂げるかを預言します。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」これを言われたペテロ本人は、この主の言葉を生涯覚えていたでしょう。しかし、彼は全く怯むことなくイエス・キリストの名と福音を宣べ伝えていったのです。彼も、イエス様の十字架の死と死からの復活から大切なものを与えられたとわかった一人でした。この大切なものについて、私たちは、まだ知らない人に対しては明らかにし、既に知っている人に対しては忘れてしまわないように支え合ってまいりましょう。

3.

 神の国というのは、天の国、天国とも言い換えられます。天国と言うと誤解が生じると思います。一般には、天国と聞くとなにか、人が死んだ後で羽が生えたようになって空高く飛んで行って、何か安住の場所があって、「天国から私たちを見守ってくれている」などとよく言います。時々、仏教関係の人でもそのような言い方をする人がいて驚かされます。どうして、極楽浄土と言わないのだろうか、しかもまだ三十三回忌も済んでいないのに、と。しかし、この点はキリスト教徒も同じです。あれ、まだ主の再臨もなく復活も起きていないのに、もう天国にいるのか、と思ってしまいます。[4]

聖書が明らかにしている天国、神の国とは、今ある天と地が過ぎ去って新しい天と地にとってかわられるという、今のこの世が終わる時に目に見える形で現れるものです(ヘブライ122629節)。その時、イエス様が再臨し、死んだ者が復活させられ、その時点で生きている者と併せて、神を信じその意思に忠実であった者が迎え入れられるところです。誰が迎え入れられて迎え入れないかという時に、最後の審判というものが起こるのです。迎え入れられた者は、自分を造られた造り主である神の御許に永遠にとどまることになります。そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく死もないところです(黙示録214節)。神の国が結婚式の盛大な祝宴にたとえられるのは(同1979節)、今の世での信仰の戦いの労苦が何十倍何百倍にもなって労われるということであり、神が全ての涙を拭い去るというのは(同214節)、今の世で被ってしまった不正や不正義が最終的に完璧に清算され晴らされるということです。

 そうなると、人は死んだ後は復活の日まではどこで何をしているのか、という疑問がおこります。このことについては、私は説教の場でルターの教えに基づいて教えたことがあります(20131117日市ヶ谷教会)。ごく簡単に言うと、人は死んだ後は復活の日までは、神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、ということです。たとえ、この世の時間の尺度から見て500年眠っていることになっても、眠りに入った本人にしてみれば、ほんの一瞬にしかすぎないということです。瞬きした瞬間に、あれ、いつの間に寝ていたんだろう、としか思えない間隔で、目を開けた瞬間もう復活の壮大なドラマが始まっているというものです。

 しかしながら、神の国の一員になれるのは、主の再臨の日、復活の日まで待たねばならないということではありません。イエス様を自分の救い主と信じてこの世の人生を歩むようになった段階で、その人は神の国の一員となっています。復活の日にそれが見える形になるのです。今は見えませんが、天の父なるみ神の目には見えています。たとえ、人生の歩みの中で出てくる困難、苦難のために、神は自分のことを忘れてしまったのか、背を向けられてしまったのかと疑うことがあっても、イエス様を救い主と信じ、そのイエス様を自分のために送って下さった自分の造り主である神を信頼して歩む限り、その人が神の国の一員であることになんの揺らぎもありません。そのような時でも、否、そのような時こそ、神はしっかり見守っていて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 今この世にあって私たちは見えない形で神の国の一員であるのですが、その一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられました。洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、誰も完全な人にはなれません。それで、仕え合うということが大事なのです。今この世で見えない形で神の国の一員である私たちが仕え合うということについて、ルターが次のように教えていますので。それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「キリスト信仰者にとって、この世の人生は、信仰と愛と十字架の人生である。しかしながら、この三つのものは、この世の人生の間に完全なものになることは決してない。これらのものが完全になっているのは、キリストにしかない。キリストは、我々が目指して進んでいくために、我々の目の前に備え付けられた太陽である。我々の中には、弱い者もいれば強い者もいる。弱い者は苦しみを受けることがほとんどない。なぜなら、神はその者が耐えられないことを知っているからである。強い者は苦しみを多く受ける。なぜなら、神は、その者が耐えられると知っているからである。

 我々は全てキリストを目指し、キリストに倣う者でなければならない。この世の人生とは言わば、信仰がひとつの段階から次の段階へ、愛もひとつの段階から次の段階へ、忍耐も十字架もひとつの段階から次の段階へと絶えず進んでいく旅路のようなものである。人生において、出来上がった義は存在しない。あるのは、義に「なっていく」ということである。我々はまだ目的地に到達していないのである。まだ旅路の途上なのである。ある者は先にいて、別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが、ただ我々が歩む意思を捨てずに進んでいれば、神は満足したもう。そして、主が自ら決められた日に再臨される時、彼は我々の信仰と愛のまだ欠けているところを一気に満たし、瞬く間に我々をこの世から永遠の命、復活の命に移しかえて下さる。

 ところで、この世の人生を歩んでいる間は、我々はいつも、お互いの重荷を背負い合っていかなければならない。ちょうど、キリストが我々の重荷を背負って下さったように。我々の誰一人として完全な者はいない以上、なおさら背負い合う必要があるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン




[1] 例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩篇があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます。
[2] マタイ202627節のギリシャ語の表現「お前たちの間ではεν υμιν」「お前たちの仕える者υμων διακονος」「お前たちの僕υμων δουλος」に注意すること。
[3] ギリシャ語の「飲むことになる」という未来形πιεσθεは、「飲むことが出来る」という可能の意味も持ちます。
[4] まだ復活が起きていないのに、神の御許に引き上げられた者として、創世記5章に登場するエノクと列王記上下に登場するエリアが挙げられます。モーセは「死んだ」ことになっていますが(申命記345節)、葬ったのは神自身なため(同6節)、誰もモーセの死については確かなことが言えない状況があります。マルコ9章などでイエス様の姿が変わった時に現れたのがエリアとモーセだったというのは、それに何か関係しているのではと思われます。

2014年3月10日月曜日

神の御言葉のみが悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器 (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年3月9日 四旬節第一主日

創世記2章15-17節、3章1-7節
ローマの信徒への手紙3章21-31節
マタイによる福音書4章1-11節

説教題 「神の御言葉のみが悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 古いキリスト教会の伝統として紀元後300年頃には、復活祭の前に主日を除いて40日間断食することが行われるようになっていました。その40日間を日本語で四旬節と呼びます。本年は、420日が復活祭に定められているので、主日を除いた40日間はこの間の水曜日35日に始まり、教会歴ではこれを「灰の水曜日」と呼びますが、本主日はこの40日の期間の最初の主日にあたります。どうして40日間の断食かというと、本日の福音書の箇所でイエス様が荒野で40日間何も食べなかったという出来事が背景にあります。そもそも、イエス様の生涯というものは、人間の救いのために受けられた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して、こうした主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのであります。

四旬節は、英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉Lenctenに由来するそうですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaikafastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。

2.

 イエス様の荒野での試練について、本日の福音書であるマタイの他に、ルカ、マルコ福音書にも同じ出来事の記述があります。三つを比べて読んでみると記述がそれぞれ異なっていることに気づかされます。マルコ福音書ではたった二節ですが、ルカとマタイ福音書はもっと詳細にわたっています。荒野の試練の時は、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語って聞かせたものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載され、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。

それでは、イエス様は悪魔からどんな誘惑を受けたか、そして、それらをどのようにして撃退したのか、そのことを本日の福音書の箇所であるマタイ4章を中心にして見てみましょう。

 2節「そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」これは、40日間空腹を感じなかったが、41日目に急にお腹が空きはじめたということではありません。40日間次第に空腹が増しつつもまだ耐えられていたが、41日目にはそれがついに耐えられない位のものになったというふうに理解すべきでしょう。まさにこの時に悪魔が三つの大きな誘惑をしかけてきました。

 三つの誘惑のうち、最初の二つのものは共通していて、悪魔は「お前が神の子なら、何々してみろ」という言葉で誘惑を始めます。ところで、最初の誘惑「お前が神の子なら、この石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、二つ目の「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の上からまっさかさまに切り落ちるキルドン谷に身を投げて天使に助けさせてみろ」というのは、一見それほど「誘惑」には見えません。もし、イエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらえれば、それはそれでイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様は、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選びました。どうしてでしょうか?それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力と存在を見せつけることができたでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意志の下に服することになるからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。一見神の子であることを見せてくれ、と言いつつ、実は自分の言う通りにするように仕向けていくという、巧妙な罠だったのです。イエス様は、あえて空腹と恐怖の方を選びました。

 最後の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というあからさまの誘惑です。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、私たち人間の救いにとって特に重要な意味を持ちます。なぜなら、イエス様は、この荒野の試練の直前、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、かつ神の子であるとの認証を神から受けたのです(マタイ313-17節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏していたならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはならなかったのであります。それゆえ、たとえ万物が悪魔の下に服する事態が生じようとも、それを超える神が厳然とおられるのであります。私たちは、どのような状況に置かれても、そのような神に結びついていることを忘れないようにしましょう。

3.

 次に、イエス様はいかにしてこれらの悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器に用います。

 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記83節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく、経験に裏付けられた真実の言葉なのであります。悪魔が空腹の満たしのような人間の最も根本的な必要に訴えて人間を自分の言いなりにしようとする時、この申命記の言葉を突きつけることで悪魔に次のように反論することになります。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全ては神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」

 次に二つ目の誘惑、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令します。悪魔は今度は巧妙にも聖書の御言葉を用います。それは詩編911112節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから、飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記616節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなったとき、指導者モーセに不平を言い始め、神にすぐ水を出すよう要求した出来事です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満と至急の解決要求をぶつけました。何度も神の奇跡的な救いの業を自分たちの目で見てきているのに、困難の度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう神とは見なさない、エジプトに帰ってやる、と言わんばかりで、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すことばかりを繰り返しました。申命記の中で、もうすぐシナイ半島の荒野から約束のカナンの地に移動するという時、神は40年の出来事を振り返って、そのように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、人は苦難や困難に遭遇したらどうすればよいのでしょうか?神に助けを求める時、それが神を試すことにならない求め方とはどのようなものでしょうか?それはもう、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、その与えられた解決を最上の解決として受け取りなさい、それくらい神を信頼しなさい、ということにつきます。悪魔に対して申命記616節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への絶大な信頼を示すものです。実を言うと、このイエス様の神への絶大な信頼こそは、悪魔が誘惑用に使用した詩篇91篇の全体の趣旨だったのです。91篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(23節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に貫かれている神への深い信頼という主旋律から切り離して、同篇の真ん中辺だけをちょこっと取り出してイエス様にぶつけたわけです。しかし、そんな文脈から切り離した引用など、何の重みも意味もありません。このようなやり口は悪魔だけに限りません。キリスト信仰をあらぬ方向に持っていこうとする輩もみな、聖書の御言葉を全体から切り離してひけらかすのに長けていますので、皆さん、御言葉を広くかつ深く学ぶことを絶やさないようにしましょう。

 三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の奴隷になれ」に対して、イエス様は申命記613節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神を天と地と人間の造り主として、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、目の前で神の力が働くのを目の当たりにする時も、また目に見えて働いてはいないように見える時も、神は変わることなく全てに優る力を持つお方だ、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と神を敬うことです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば、神は恐怖の的以外の何ものでもありません。そこから逃避しなければならない存在です。しかし、神としっかり結ばれている者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れを抱かせるものから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神との結びつきの中に生きる者にとって神は恐怖の的でも逃避の相手でもなく、安心の源、とどまる場所なのであります。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持・拡大できたとしても、神と敵対していれば、死んだ後は自分の造り主のもとに戻ることはできず、滅びと災いの世界に投げ込まれてしまいます。そこには権力も富も持っていくことはできません。全ての人はみな丸裸でこの世から次の世に移行するのです。しかし神との結びつきの中に生きる者は、死んだ後は永遠に造り主である神のもとに戻ることができます。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源自体にいることができるのであります。このように神を畏れるということは、神と結びついたまま今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということなのです。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろ、などとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?

4.

 以上のように、イエス様は聖書の神の御言葉を武器にして、悪魔の誘惑を無力にしました。私たちは、そのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の勝利に私たちも結びついているのです。イエス様のもとにとどまる限り、私たちも、悪魔の誘惑を無力にする力に与っているのであります。しかしながら、私たちが洗礼によって神の義を頭から被せられたと言っても、悪魔は、私たちの内部に肉に結びつく古い人が残存していることを知っています。それで、私たちへの攻撃の手を緩めません。悪魔はなぜ私たちを攻撃するのでしょうか?

最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となり、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生まれてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにするために人間救済計画を立て、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。人間の罪と不従順の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たちのために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができます。そして、この世の人生において、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと良い導きを受けられ、万が一この世から死んでも、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 このように神は、御自身と人間の間の壊れた関係を修復するために御自分のひとり子さえも惜しみませんでした。しかし、悪魔にはそれが我慢ならないのです。せっかく堕罪の時に壊すのに成功した関係を修復するなんてとんでもない。なんとしてでも壊れたままにしてやりたい、と思うのです。しかし悪魔にとって、神は無敵な存在なので手の出しようがない。それで弱い存在である人間を苦しめてやろうというのです。このこと自体、悪魔が神に負けている存在であることを示すものですが、攻撃を受ける私たちとしてはどうすればよいのか?それは、本説教においてみてきましたように、イエス様が武器に用いた神の御言葉を思い出し、そこで教えられていることをしっかり心に留め、守っていくことです。つまり、私たちの必要を満たして下さる一番の大元は天の父なるみ神であることを忘れず、自分を造ってくれた以上、神は最後まで自分の名誉にかけて守って下さると信頼し、神の力を疑ったりせず、神を試すようなことはしないようにしましょう。そして、神との結びつきの中にいる限り、今歩んでいる人生の道は今の世と次の世にまたがっていることをいつも覚えていましょう。

 このように聖書の神の御言葉には悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する力があります。イエス様が取り上げた御言葉は旧約聖書からですが、私たちの場合、新約聖書もあるので、私たちの最強の武器庫は一挙に拡大したわけです。ルターも、聖書の御言葉が悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器であると述べていますので、それを引用して本説教の締めとしたいと思います。

「試練や誘惑など信仰を弱めようとするものに遭遇したら、どんな手段をもってそれらに対抗していったらよいのか?そういう時には、神の御心に反する考えを、全力を絞ってかなぐりすてることである。神の御心に反すると考えとは、神は私の罪を赦そうとなさらないのだろう、とか、神が私をこの困難から助け出さないのは、神が私に反感を抱いているからなのだろう、私を愛していないからなのだろう、終わりそうもないこの苦難がその証拠だ、罪の赦しの救いは私には関係なかったのだ、などという考えである。こうした考えをかなぐり捨てることが出来るためには、一生懸命に聖書の神の御言葉に耳を傾けかつ読み進めていかなければならない。ところが、もし君が神の御言葉に目をつむり、人間的な手助けや力に拠り頼んで自分を守ろうとするなら、君は悪魔という強力な霊を相手に無謀な戦いに丸裸で臨むことになろう。それゆえ、神の御心に反する考えをかなぐり捨てよ。そして、悪魔と議論しないように注意せよ。なぜなら、悪魔は場合によっては、純白の天使を装ったり、キリストの麗しい人格を身に纏って現れるかもしれないからだ。

神聖な聖書に何が書いてあるのか知っている悪魔は、キリストや信仰に反対するために、時としてキリストの美しい言葉を自ら用いるようなこともする。このように悪魔に泣き所を突かれた時、君は直ちに悪魔の攻撃に対して自分でどう対処したらよいかなどと考えを巡らすことを止めて、悪魔に次のように言うべきである。『私は、父なる神がお与えになり、私の罪のために死ぬ苦しみをお受けになったあの方以外にはキリストなる者は知らない。彼は私に怒りを抱いておらず、私に対して憐れみ深く恵み深いということを、私は知っている。もしそうでなければ、彼は私の身代わりとなって私のために死ぬ苦しみをお受けになることは決してなさらなかったであろう。』

もし、このような言い返しをもって悪魔に対抗することを怠ったり、また聖書を一生懸命読むことをしないならば、我々が敗者となって絶望に追い込まれるのは火を見るより明らかである。我々は、聖書の神の御言葉で自らを強化しない限り、悪魔の思い通りにさせてしまうことになってしまう。そうなれば、我々のか細い信仰の光はすぐかき消されてしまうであろう。」


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン