2012年9月25日火曜日

命を買い戻せる代価(マルコ8章37節)とは? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士(新約聖書学))

主日礼拝説教 2012年9月23日(聖霊降臨後第十七主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて

イザヤ書50:4-11、
ヤコブ書2:1-18、
マルコによる福音書8:27-38

説教題 命を買い戻せる代価(マルコ837節)とは?


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


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 本日の福音書の箇所は、マルコ福音書のなかで大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動をしていましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、まず本日の箇所の出来事があり、その後、おそらくヘルモン山と思われる「高い山」に登って姿がかわったところを弟子たちに目撃させます。それから後はただエルサレムに向かって南下していくのであります。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさに本日の箇所において、イエス様は初めて、御自分の受難の死と復活について預言します。
 
 本日の箇所は、読み通していくと、さほど難しいことはなく、理解できる気がします。人々がイエス様のことを過去の預言者がよみがえって出てきた者と考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペテロはイエス様のことをそうではなく、メシアと信じていることが明らかになりました。その後で、イエス様は御自分が受難のうちに死ぬも三日目によみがえると預言します。これにショックを受けたペトロがそれを否定するとイエス様は激しく叱責しました。その後で、イエス様は、自分につき従う者は各自それぞれの十字架を背負わなければならない、とか、何が命を救うことになり何が失うことになるについて教えます。そして、人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか?自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか?という有名な言葉が続きます。読む人は誰でも、イエス様は命のかけがえのなさ、大切さを教えているのだと理解するでしょう。
 
しかし、本当に理解したのかな、わかったつもりでいるのはいやだな、と二、三度読み直してみると、一度目には気づかなかったようなことが出てきます。例えば、ペトロがイエス様のことを「メシア」と信じていると言った時、そのメシアとは何だったか?確か、救い主、救世主という意味だと聞いたことがあるな。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならない、と弟子たちに命じたのか?それから、イエス様が受難の死と死からの復活を預言した時、ペトロがそれを否定して、イエス様は激しく叱責する。ペテロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペテロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?そして、イエス様がつき従う者に背負いなさいと言った十字架とは何なのか?何か人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのだろうか?「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、一体どういうことか?どうせ失われるのだから、自分の命を救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うとはどういうことか?一度失った命が救えるというのは、一体どういうことなのか?このように、聖書は一度読んでわかったような気がしても、何度か読み返すと、実はわからないことだらけだった、というようなことがいつも出てきます。そこで、礼拝の説教を聴いたり、牧師や宣教師に聞いたり、聖書を解説する本を読んだりすることになるのですが、疑問点が全て一度にわかるということはないと思います。どうしてかというと、聖書の学びには、読む人の人生のいろいろな課題やその人の置かれた状況が関わってくるからです。聖書のある教えはとても身近に感じられてもっと深く知ろう、理解しようと目の色を変えることがあるかと思えば、身近に感じられないものは別に深く知ろうという欲求も起きないので流したり見過ごしたりすることがあります。それが、ある日突然身近なものとなって目の前に立ちはだかるのです。神は、本当に聖書の御言葉を通して、私たちを日々、導き生かして下さるのです。
 
以上のことを念頭において、本日の箇所のいろいろな疑問点の解明に努めてみましょう。本説教でこの箇所が全て理解できるということはありえません。大事なのは何が身近に感じられる事柄か、そういうものが見つかることです。

 
2.

 まず初めに、ペトロがイエス様のことを「メシア」と言った、そのメシアについて。これはヘブライ語の言葉(משיחマーシーァハ)で「油注がれた者」の意味です。具体的には、イスラエルの初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上101節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下71316節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。それ以外の使い方としては、イザヤ451節、レビ記43節、ダニエル926節、詩篇10515節等ご参照。イスラエルの王国が滅びると、今度は、将来ダビデの家系に属しイスラエルの民を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が強まります。時代がイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れ、イスラエルの民の解放を主任務としつつも神の救いを全世界に及ぼす救世主という理解も持たれるようになります。
 
 このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(χριστοςクリストス)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語になおして付けたということであります。
 
 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げており、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。従って、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。メシアということについて、自分がメシアということについて人に話すな、ということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアには、イスラエルの民を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解したら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られました。それなのに一つの民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。さらに、支配者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていたので、もし反乱鎮圧の軍隊出動という事態にでもなれば、エルサレムでの受難と復活というイエス様の任務遂行に支障をきたすことになったでしょう。
 
 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったのでしょう。それで、イエス様がイスラエルの宗教指導者に迫害されて無残にも殺される、という預言を聞いた時、王国復興の期待を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならない、と否定してしまったのだと言えます。
 
 
3.

 それにしても、預言を否定したペテロを「サタン、悪魔」と叱責するとは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死をくぐり抜けて死からの復活を実現しなければならない、そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画の実現を邪魔することになる。神の計画の実現を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することになってしまいます。ここで、この神の計画というものを少し振り返る必要があります。
 
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
 
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。今月の第一主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
 
 このような救いは、人間には自分を造って下さった神がいるという、そういう造り主のあることを認めないところでは、ありえません。いろんな宗教に輪廻転生という考え方がみられますが、人間が死んだ後に別の人間や果ては動物に生まれ変わってこの世に戻ってきてそれが果てしなく繰り返されるというのは、造り主のもとに永遠に帰るということがありません。輪廻を除いて転生だけをとってみた場合、悩みも苦しみもない来世に入れるというのは、一見、キリスト教の復活、人間が復活して悩みも苦しみも死もない神の国に入れることと同じように見えます。しかし、キリスト教信仰では、復活して神の国に入れるというのは、造り主のもとに永遠に戻るということです。それが可能になるように、神の側で手筈を全て整えた、つまりイエス様を用いて救いを実現した、ということです。人間の側ですることと言えば、自分には造り主がいると認め、その造り主である神が実現した救いをその通りだと認めてそのまま受け取ることだけです。転生の場合ですと、造り主も造り主が実現した救いもないので、結局は、人間の側で自己の力とか自分がつくった宗教的な儀式をこなすことが中心になります。しかし、そこには自分の造り主のもとに永遠に戻るという見通しはありません。キリスト教信仰の場合は、まさにその見通しのもとで、造り主が実現した救いとそれを人間が受け取ることが中心となります。
 
 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にイスラエルの民族解放の期待を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から下る天使の軍勢の支援を受けてローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡指導者を打ち滅ぼして、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていたことでしょう。ところが、「迫害されて殺されるも、三日目に復活する」という預言を聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てが起きた後で、それこそが本当に人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。
 
 
4.

 それでは、イエス様が、つき従う者、つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か。そして、命を救う、失う、と言っていることは何か。それらについてみてみましょう。
 
 まず、私たちの十字架は、イエス様が背負われたものと同じでないことは明らかでしょう。全人類の罪と不従順とそこからくる死の呪いを神のひとり子が全部引き受けて救いを完成した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。
 
 それでは、私たちがそれぞれ背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターの教えの中で、キリスト信仰者というものは、自己の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられたのだと言われます。キリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことだ、とルターは教えます。古い人を死なせるというのは、言葉はどぎついですが、これはなにも物騒なことではありません。ルターによれば、まず、自分の肉の内に古い人があることを素直に認め、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえず導くことを心から悲しみ忌み嫌うこと。そして、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、そのように神からの赦しを受け取ること、これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々力を失っていくのであります。そういうわけで、「自分を捨てる」とは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこうという歩みを始めることです。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」とは、一般に思われがちですが、なにか自分で自分を律せられる無私無欲の立派な人間を目指していくということではありません。神から与えられた赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようとして、自分が新しくされていくことに身も心も委ねるということであります。
 
そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違うでしょう。例えば職場や家庭の人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。病気や経済的な困窮に陥った人は、そうでない人に対する妬みという古い人が強まるかもしれません。またキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいで、新しい人の育てが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦う内容は同じです。
 
 最後になりますが、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう。35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力の核のようなものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。36節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)のもともとのギリシャ語は違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。それで、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあります。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?
 
先に、34節の「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」は、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることである、ということを見ました。古い人と新しい人との内的な戦いを始め、造り主のもとに永遠に戻る道を歩み始める、これが自分を捨てて十字架を背負うことである、と申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいるかいないかということが明らかになってきます。以下に、35節以下を整理してみます。
 
35節「自分を捨てようともせず十字架を背負おうともせずに永遠の命を得ようと思う者は、それを得られない。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいないからだ。しかし、自分を捨てて十字架を背負う者は、信仰の迫害にあって命を失おうとも、永遠の命を得る。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいたからだ。命を失った瞬間に父なる神は御手をもってその人をみもとに引き上げて下さる。」
 
36節「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配しても莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」
 
そして、37節に続きます。「人間は、今の命が終わった後の命を買い取ろうにも、何を代価として支払うことができようか?全世界も財産も代価としては不足すぎるのだ。」詩篇4989節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。しかし、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界や財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たちは今、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでおりますが、この道の歩みにおいて、どんなことが起きても、私たちの命はとてつもなく尊い犠牲を払ってもらって造り主である神のもとに買い戻された命であるということを忘れないでいきましょう。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2012年9月17日月曜日

イエス様の奇跡の業の目的 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年9月16日(聖霊降臨後第十六主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
イザヤ書35:4-10、
ヤコブの手紙1:19-27、
マルコによる福音書7:31-37
  
  
説教題 イエス様の奇跡の業の目的
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
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本日の福音書の箇所は、イエス様の行った数多くの奇跡の業の一つで、耳が聞こえず喋ることがほとんどできない人を治して、聞こえかつ話せるようにしたという話です。イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、実に数多くの奇跡について記録されています。マルコ福音書だけをみても、病気の癒しの事例は、全身麻痺の男(2章)、熱病にあったシモンのしゅうとめ(3章)、手が萎えた状態の男(3章)、らい病の男(6章)、盲目の男二人(8章と10章)、悪霊祓いの事例は、5章、7章、9章にあります。これらは癒しの出来事が個別に詳しく述べられている事例ですが、この他に1章、3章、6章で、大勢の人を相手に病気の癒しと悪霊祓いをしたと一括して記されています。これらに加えて、死んだ娘を生き返らせたこと(5章)、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたこと(5千人が6章、4千人が8章)、嵐に命令してこれを静めたこと(4章)、水の上を歩いたこと(6章)、高い山の上でこの世のものとは思えない光をもって輝いたこと(9章)、実をならさないいちじくの木に裁きの言葉をかけて枯らせたこと(11章)、さらに、自分の死と復活について預言したこと、ペテロが主を見捨ててしまうことを預言したこと、最後は死からの復活があります。
 
これらの奇跡が実際にあったのかどうか、ということになると、科学技術がとてつもなく発達した現代に生きる私たちには信じられないという思いが強くなるのではないかと思われます。特に歴史を学術的に記述することを仕事とする歴史学者・研究者は、人間を取り巻く条件は古代においても現代とかわらない、つまり、現代において人が水の上を歩くことはできないのは、古代も同じである、という立場に立って、収集した文献や資料を分析し歴史を再構築して記述します。そこでは、ナザレ出身のイエスの歴史的存在や十字架で処刑された事実は認めても、彼が天と地と人間を造った神のひとり子とか、処刑された後に生き返ったとか、そういうことは記述しません。
 
しかしながら、キリスト教信仰において、イエス様の奇跡の業は避けて通ることはできません。なぜなら、最初の目撃者である使徒たちが、自分たちの見たこと聞いたことの性質上(それがもとでイエス様を神の子、救い主と信じるようになったのですから)、それを人々に伝えないではいられないという動機を持ったからです。彼らは、イエスの名を広めたら命はないぞ、と脅されても屈せず、場合によっては命を落としてしまいますが、自分たちの見たこと聞いたこと、そしてそれらに基づいてイエス様は神の子で救い主であるという信仰を教え伝えました。逆に言えば、命を差し替えてもいいという位のものを目撃したということです。こうした使徒たちの証言が口伝えされパピルス紙に記述されてさらに伝えられていき、一~二世代の後に福音書という書物にまとめられました。使徒たちの命を賭けた教えを受けた人たちは、それが偽りでないと確信しイエス様を神の子、救い主と信じました。キリスト教信仰が使徒的信仰と言われるのは、直の目撃者である使徒たちが見聞きしたことに基づいてイエス様は神の子、救い主だったと信じるに至った信仰を出発点にし、それを受け継ぐ信仰だからであります。
 
そういうわけで、使徒的信仰の観点に立てば、イエス様の奇跡の業の記述は、私たちも、使徒たちが信じて教え伝えたようにそれを受け入れるのが順当ということになります。しかしながら、科学技術が発達した現代のような時代にいると、奇跡などというものは大昔の文明段階に相応した想像や空想の産物でしかないという向きが多くなります。キリスト信仰者の中にも、奇跡なんかなくてもいい、イエス様の立派な教えがあれば十分と言って、イエス様を仏陀やモハメッドのような影響力のある宗教創始者のように扱うことがあります。それだけにとどまらず、イエス様が他に比べていかに卓越した思想家だったかを示そうと、イエス様の教えに時代時代の要請に応じていろいろな意味を注入して膨らませることも見受けられます。しかし、奇跡を除外して、イエス様が救い主であるということは言えるでしょうか?ここで、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、それがわかっていなければなりません。わからないと、「イエス様は救い主」と言ってもピンとこなくなります。そのことをこれから見ていこうと思いますが、その前に、本日の箇所の奇跡についてもう少し見てみます。
 
 
2.

イエス様の奇跡の業の記述を読んでいくと、わかりにくいことに多く出くわします。本日の箇所のところでも、聴覚言語障害のある男を連れてきた人たちはイエス様に、手をおいて下さい、とお願いします。しかし、イエス様は男を人々から引き離して、誰にも見えないところで男を癒します。「誰にも見えないところ」というのは正確ではないでしょう。イエス様がどんな仕方で癒し、その時どんな言葉をかけたかがちゃんと記述されているので、誰かがその場に居合わすことを認められ、何が起きるか目撃したのは明らかです。誰が一緒にいることを認められたのでしょうか?本日の福音書の箇所にはそのような者は言及されていません。しかし、5章をみると、シナゴーグ会堂長ヤイロの娘を生き返らせたとき、イエス様は群衆について来ないように言って、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子だけを家の中まで連れて行き、目撃させました。この同じ三弟子は、イエス様が高い山で姿が輝いてモーセとエリヤと話をした時にも連れて行きました(9章)。同じ三弟子かどうかは不明ですが、本日の箇所でも誰か直近の弟子を同行させていたことが十分考えられます(8章のベトサイダでの盲人を癒した時も同じだったと思われます)。「エッファタ」というのはイエス様の間違いない母語のアラム語です(正確にはאפּתח「イプタ」か「エプタ」か?意味は「わたしは開くようにしてやろう」か?)。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様の言葉や(「タリタ、クーム」[マルコ541節]、「エロイ、エロイ、レマー、サバクタニー」[同1534節])、また彼を取り巻く人たちの叫び声(「ホサナ」[同11910節]、「ラッブーニ」[ヨハネ2016節]― 福音書記者はこれをヘブライ語と言っていますが)、さらに黎明期のキリスト信仰者の祈りなど(「マラナ、タ」[第一コリント1622節])、ところどころ、もともとのアラム語の言葉がギリシャ語の言葉に翻訳されずに、そのまま(ギリシャ語文字で)記されています。これは、これらの言葉を最初に聞いた人がその時受けた強烈な印象をそのまま伝えようとし、それを受け取った人たちもその印象をそのまま残したかったからと考えられます。従って、私たちは、こうしたもともとの言葉を目にすることで、当時の生々しい現場の一端に触れることができるわけです。
 
それにしても、本日のイエス様の奇跡の業はわかりにくいことがいろいろあります。他の箇所では言葉をかけただけで癒しが実現したこともあるのに、なぜ耳に指を入れ、唾を相手の舌につけて触れるようなことをするのか。唾は、ベトサイダの盲人の癒しの時にも使います(マルコ8章、ヨハネ9章も)。しかし、エリコの盲人の癒しの時には言葉だけでした(マルコ10章)。さらに、ある奇跡の時は、本日の箇所のように人々から引き離して行い、別の箇所では群衆の目の前で行っている。本日の箇所では人々に対してこの癒しは触れ回るなと命じ、他の箇所ではそのようなことは命じません。奇跡の業の公開性・非公開性について首尾一貫性がないことについて、いろいろな学説がありますが、すっきり解明する学説はおそらくまだないのではないでしょうか?それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、もしマルコ福音書が書いた人の創作物語にすぎないならば、これほど作者の創作能力の欠如を示す物語はないということです。つまり、本気で創作物語を書くのであれば、奇跡は全部人目を避けて行われたというように首尾一貫させるのではないか。または、群衆の面前と人目を避けたところの使い分けをするなら、どういう基準で使い分けするか自分でもはっきりわかっていなければならないのではないか。それが見られないというのは、結局、マルコ福音書は、書いた人が(何か神学的な方向性は持ちつつも)目撃者の生々しい証言や記憶を出来るだけ手を加えないようにして書き綴ったものという性格が浮かび上がります。
 
 
3.
 
それでは、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、ということを見てみましょう。
 
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
 
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先々週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
 
 
4.

イエス様は、このように神が計画された救いを実現するためにこの世に送られました。それでは、十字架と復活の前に、多くの奇跡の業を行ったのは、どういう目的だったのでしょうか?何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたのでしょうか?自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?そうやって従う者を集めて自分を教祖に新しい宗教団体を結成しようとしたのでしょうか?キリスト信仰者だったら、そうは考えないでしょう。イエス様は、弱い者困っている者を心から憐れみ本当に助けてあげたくて一切の私利私欲を捨てて救援活動にまい進した、というイメージが強くもたれているのではないかと思います。イエス様がそうであった以上は、キリスト者もそれに続かなければならない、と。私は、奇跡の業はイエス様の慈愛・憐れみの心のあらわれというのはその通りだと思いますが、このイメージにはまだ大事なものが欠けていると思います。それは何かと言うと「神の国」であります。
 
イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ114節)。その活動の内容は、奇跡の業と神の国についての教えを宣べることでした。つまり、彼の教えは、神の国がどういうものかをわからせる教えでした。それにあわせて、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。奇跡の業と神の国が結びついていることは、イエス様が弟子たちを最初の宣教旅行に派遣する時にも現れています。マタイ10章で、イエス様は派遣する弟子たちに病気の癒しや悪霊祓いの力を授けますが、その際、神の国(「天の国」)が近づいた、と宣べ伝えよ、と命じています。
 
神の国とは、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ6517節、6622節、黙示録211節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ122627節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録214節)。イエス様の奇跡の業は、人間から悲しみ嘆き苦しみ不安を取り除くものでした。自然に対しては、自然の法則を超える力を示すものでした。そういうわけで、イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲であったと言ってもよいでしょう。奇跡の業を受けた人たちは、その音色を聞かせてもらった、または神の国の味を少し味あわせてもらった、と言ってもよいでしょう。
 
 しかし、そうは言っても、人間はその時に神の国そのものに入れたわけではありませんでした。そのためには人間は罪と不従順の汚れを取り除き、神の神聖さにマッチする存在にならなければなりません。それを可能にしたのが、先ほども申し上げたイエス様の十字架の身代わりの死であり、死からの復活であります。人間はそれが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、神の国の一員となることができるのであります。
 
 
5.

最後に本日の旧約の箇所であるイザヤ書35章と本日の福音書の箇所の関係について触れておきます。
 
5節と6節で「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」とありますが、イエス様の癒しを受けた人たち、それを見た人たちは、ついにこの預言が成就する日が来たのだという思いに満たされたでしょう。8節で、荒野の中に聖なる道と呼ばれる大路が敷かれ、「主御自身がその民に先立って歩まれ」とあり、10節をみると行先はシオンとなっています。シオンは直接的にはエルサレムの神殿がある場所を指すので、イエス様を先頭にしてエルサレムに向かった群衆はまさに預言の実現を感じていたでしょう。しかし、10節をみると、この聖なる道を歩む者は、「主に贖われた人々」であります。「主に贖われた人々」とは、そもそもイエス様の十字架と復活の出来事の後、彼を救い主と信じる信仰を持った人たちです。従って、十字架と復活の出来事の前のイエス様の活動の時期はまだ預言の完全な実現ではなかったのです。10節に、主に贖われた人々が帰り着くシオンとは、「嘆きと悲しみが逃げ去った」場所と言われます。これも黙示録の214節に預言されている神の国、復活して永遠の命を得た者たちの国と同じです。そこには痛みも嘆きも苦しみもなく、涙は全て拭われ、死さえもがありません。かつてさまざまな病気や障害の人がイエス様から癒しを受けたのは、将来到来する神の国を少し味あわせるようなものであったと、先ほど申しました。神の国においては、すべての病気や障害が消滅するのであります。死さえも力を失うのであります。
 
そういうわけで、イザヤ書35章に言われる、聖なる道を進む主に贖われた者たちとは、実に神の国を目指してこの世の人生を歩む私たちキリスト信仰者なのであります。このことを頭に入れて、今一度、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書35410節を読んで本説教の締めとしたく思います。

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
渇いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず
獣が上ってきて襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン