2012年9月10日月曜日

シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年9月9日(聖霊降臨後第十五主日)
日本福音ルーテル日吉教会にて

「イザヤ書」35:1-3、
「ヤコブの手紙」1:2-18、
「マルコによる福音書」7:24-30

説教題 シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
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 イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、彼の活動舞台の大部分は、ユダヤ人の居住地域であるガリラヤとユダヤの二つの地域であったことが明らかになります。イエス様は神から課せられた任務をまさにイスラエルの民の間で遂行していた、と言うことができます。ところが、本日の福音書の箇所では、イエス様は二つの地域の外側にある地中海沿岸のフェニキア地方の都市ティルスの近くまで行きます。お手元の聖書の後ろにある地図「新約時代のパレスチナ」をご覧になれば、どこにどの地域があるかわかると思います。今は先を急ぎますので、お家でご確認いただければと思います。ユダヤ人は、ガリラヤとユダヤの二地域以外の各地にも少数派として居住していたので、イエス様はティルス近郊でユダヤ人を相手に活動するつもりだったのでしょう。

 ところが、思いがけないことが起こりました。ユダヤ人でない婦人がイエス様のもとに来て、足元にまでひれ伏して助けを求めるのです。婦人の民族的所属は、新共同訳では「ギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれ」となっていますが、少し注釈します。当時地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていましたから、別にギリシャ本土でなくてもギリシャ語を操る人は広範囲に存在していました。そういうわけで、問題の婦人の民族的所属を正確に記すと、「ギリシャ語を主要言語とするシリア・フェニキア人」ということになります。ギリシャ本土出身のギリシャ人ということではありません。さて、その婦人が、「汚れた霊にとりつかれている娘を助けて下さい」と助けを求めました。それに対するイエス様の答えは、先ほど読んでいただいた通り、かなり冷淡なものでした。「子供たち」と「犬」のたとえを話しますが、「子供たち」がユダヤ人、「犬」が非ユダヤ人を指すのは一目瞭然です。しかし、真剣勝負とも言える対話の結果、婦人は願いをかなえてもらい、娘は悪霊から解放されます。

本日の福音書の箇所は、神やイエス様に対するへりくだりの大切さを教える一種の美談のようにしばしば言われます。神やイエス様は、へりくだった心を示す者を必ず顧みて下さることを教えているのだ、と。それはそれで正しいのですが、実は本日の箇所は、「へりくだりの大切さの教え」だけでは収まりきれない大きなことが含まれています。これからそれを見て行こうと思います。


2.

 4つの福音書を繙いて気づかされることの一つは、イエス様の活動の対象は実にユダヤ人中心だったということです。確かに、主は死から復活した後、弟子たちに「全世界の全民族に福音を宣べ伝えよ」と命じ、自分が救世主であることはユダヤ人を超えて全人類に関わっているのだと言います。ところが、十字架の出来事が起きるエルサレム入城以前のイエス様は、ほとんどガリラヤとユダヤの二地域でユダヤ人を相手に活動をしており、本日の福音書の箇所以外で、彼が明らかに非ユダヤ人と対話をするような接触があるのは、ルカ7章のローマ帝国軍百人隊長と、ヨハネ4章にあるサマリア人の女くらいです(マルコ5章に出てくるデカポリス地域の男がユダヤ人だったかどうかは不明)。

 十字架の出来事の前のイエス様が活動の対象をユダヤ人に限っていたことは、マタイ福音書によく表れています。例えば、10章で12弟子を最初の宣教旅行に送り出すとき、イエス様は、非ユダヤ人のところには行くな、「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行け、と命じます。15章には本日の箇所と同じシリア・フェニキア人の婦人の出来事が別のバージョンで記され、そこでイエス様は婦人に対して、自分は「イスラエルの家の失われた羊たち」のために遣わされたのであり、それ以外の者たちのためではない、とまで言い切ります。

こうした復活前のイエス様の非ユダヤ人に対する態度は、イザヤ書496節にある神の預言と相いれないように思えます。そこで神は、将来現れる救世主は、ユダヤ人以外にも救いをもたらすことを任務にすると、言っています。
「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
この日本語訳で「だがそれにもまして」というのは意味が弱すぎます。ポイントとなるヘブライ語の動詞(נקל)を忠実に訳すると、もっと迫力のある意味になります。
  「ヤコブの諸部族を興し、イスラエルの残余の者を帰還させる目的で、おまえをわたしの僕にするというのは、あまりにもスケールが小さすぎる。わたしの救いが地の果てにまで及ぶために、わたしはお前を諸国民の光にする。」

結果的には、復活後のイエス様はこの預言どおりに諸国民の光として立ち現われることとなりました。しかし、なぜ十字架と復活の出来事の前の彼は、人間の救いにかかわる任務をユダヤ人に限るようなことを言っていたのでしょうか?ユダヤ人以外の人間の救いは考えていなかったのでしょうか?この疑問に答えられるためには、イエス様が神から与えられた任務とは、そもそもなんだったのか、ということと、そのような任務を与えた神の目的はそもそもなんだったのか、ということがわからなければなりません。


3.

 神のそもそもの目的は、ユダヤ人非ユダヤ人にかかわらず人間を救うことでした。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は、ユダヤ人非ユダヤ人に関係なく、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
以上が、イエス様が神から与えられた任務と神がその任務を与えた目的であります。


4.

 それでは、神の目的やイエス様の任務がユダヤ人非ユダヤ人に関係なく人間すべてに向けられているのなら、なぜ十字架前のイエス様はユダヤ人を中心に活動していたのか、ということについてみてみましょう。

 重要なことは、イスラエルの民はもともと天と地と人間を造られた神に選ばれた民であった、ということです。この「神に選ばれた民」というのは、一般に思われがちですが、神に特別目をかけてもらっているので何をしても神のお墨付きだ、などという甘い独善主義とは全く無縁の厳しいものです。神はイスラエルの民に十戒を与えましたが、これは、造り主である神が造られた人間に要求していることはかくかくしかじかであると、神の人間に対する意志を明確に表示したもので、それを責任持って管理しろ、とイスラエルの民に付託したのです。諸民族を出し抜いて、天地創造の神の意志を授かったからといって、神に特別扱いされたなどといい気になるな、しっかり守らないとどうなるか、周りの諸民族はその目撃者になるだろう、というのです。

 事実、イスラエルの民の歴史は、この重い責任の歴史となりました。国民がこぞって神の意志に背く時はいつも国難がふりかかりました。アッシリア帝国やバビロニア帝国の侵略も、神が罰としてイスラエルの民に送った、ということが旧約聖書に何度となく言われます。国滅ぼされてバビロニアの地に捕囚となったイスラエルの民でしたが、今度はペルシャ帝国の王の計らいでユダヤへの帰還が認められます。しかし、これも本当は、神が民の罪の償いはもう十分と認めたので、ペルシャ帝国にバビロニア帝国を滅ぼさせてやった、ということになります。このように、旧約聖書では、諸々の民族の動向や興亡はみな、天地創造の神の意志に基づいていることが示されています。当該民族としては、自分たちはなぜイスラエルの民を攻撃するのか解放してやるのか、本当の理由はわかっていないでそうしていたのであります。

全ての人間の救いにかかわる以上は全ての人間に対して送られたはずの救世主がまさに神に選ばれた民の中から誕生した、ということは重要です。なぜなら、イスラエルの民は、十戒や旧約聖書に示された神の意志をしっかり管理する責任があり、それがイエス様の時代にもいろいろな問題があったからです。ファリサイ派もサドカイ派も律法学者たちも、自分たちの動機ではそれぞれの解釈に基づいて神の意志を実現していると思っていたのでしょう。しかし、本当は実現どころか反するようなこともしていたのです。先ほど触れました何が人間を内部から不浄にするかという問題もその一つでした。何か宗教的な儀式行為をすれば大丈夫という考えに対して、イエス様は、神が与えるものをしっかり受け取らなければ人間は神の意志を実現した状態にはなりえない、それくらい人間は汚れきっていると教えるのです。

このようにイエス様には、十戒をはじめとして旧約聖書に延々と記された神の意志というものを、もう一度整理する役目が与えられました。イエス様と当時の宗教指導者との論争が新約聖書に記録されたおかげで、神のみ子自身が父なる神の意志をどう教えたか、ということを私たちは知ることができます。イエス様がイスラエルの民の中から生まれ、その民を相手に活動したというのは、私たちが神の意志を正しく知ることができるために必要であったのです。


5.

 以上から、十字架前のイエス様がユダヤ人を主たる相手に活動しつつも、その任務は全ての人間の救いに関わるものであることをしっかりわきまえていたことが明らかになったと思います。シリア・フェニキア人の婦人との対話は、実にこのことを明らかにするものでした。ただし、任務は全ての人間の救いという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して遂行できるという具体的な歴史の状況があるので、イスラエルのこうした特別な立場も対話の中にはっきりでてきます。それにもかかわらず、救いの任務は全ての人間に関わるということもはっきりでている。それが、本日の福音書の箇所の趣旨であります。

婦人は娘から悪霊を追い出して下さいと、イエス様に懇願します。ここで注意しなければならないことは、イエス様は何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたかということです。自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ114節)。つまり、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。神の国は、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ6517節、6622節、黙示録211節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ122627節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録214節)。イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲の音色であったと言ってもよいでしょう。

シリア・フェニキア人の婦人がイエス様に奇跡をお願いしたのは、彼にしてみれば、神の意志もまだ知らない非ユダヤ人に神の国の味を味あわせろということになります。イエス様の答え「最初に子供たちの空腹を満たせなさい」(27節)というのは、最初にユダヤ人に神の国の味を味あわせろ、という意味です。それに続く「子供たちのパンを取って、犬に投げやるのは正しくない」(27節)は、ユダヤ人に先駆けて最初に非ユダヤ人に味あわせるのは正しくない、という意味です。

これに対する婦人の答え「犬も食卓の下で、子供たちのところから落ちるパンのかけらは食べます」というのは、注目に値します。ここで婦人は、ユダヤ人に先駆けて非ユダヤ人を先にして下さいなどとは言っていません、ユダヤ人が先の順番なのはそれで構いません、ただ救いと神の国は非ユダヤ人にも与えられるというのが神の御心ならば、たとえユダヤ人と同じ席でなくても何らかの仕方で与えられるのが当然ではないですか、犬だって食卓から落ちるパンのかけらを食べてもいいのと同じくらい当然ではないですか、と言うのです。婦人の答えは、救いは全ての人間に及ぶという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して行わなければならないという特殊な事情のもとで行うというイエス様の任務を全面的に受け入れたものとなりました。この答えの後、婦人の娘は癒され、神の国の前奏曲の音色はこの非ユダヤ人にも響き渡ったのであります。


6.

 おわりに、本日の福音書の箇所の教えに基づいて、キリスト教に対してありがちな誤解を正したく思います。それは、キリスト教や聖書は人間をキリスト教徒と非キリスト教徒にわけて、前者をよい者、後者を悪者扱いする独善的な宗教であるというような誤解です。本説教で見てきて明らかなように、旧約新約を含む聖書が人間を二分化する基準はキリスト教徒非キリスト教徒ではありません。イスラエルの民かその他諸々か、であります。つまり、ユダヤ人か非ユダヤ人かであります。イエス・キリストは実に両者を隔てる敵意の壁を取り壊し、彼を救い主と信じる信仰をもって両者を一つにしたのであります。このことは「エフェソの信徒への手紙」2章に詳しく述べられています。

 非ユダヤ人には、当たり前のことですが、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も含まれます。私事で恐縮なのですが、キリスト信仰に至る道に入りかけた頃、キリスト教徒になるというのは結局欧米人に頭を下げるようなものではないかとの思いがしてなかなか足を踏み出せませんでした。ところが、神の目からすれば、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も皆、テーブルの下でパンくずを待っている犬にすぎない、ということがわかった時、信仰に至る道にあった大きな障害物が粉砕した思いがしました。

それから、キリスト教は、キリスト教徒はよい者で非キリスト教徒は悪者とみる独善主義に満ちているというのも、キリスト信仰のなんたるやを知らないから出てくる誤解です。本説教でも明らかにしましたが、キリスト信仰者も性質上、神に対する不従順と罪に満ち満ちているという点では非信仰者と何の変わりもありません。ただ、キリスト信仰者の場合は、イエス・キリストの神聖な白い衣を頭から被せられているということが違います。しかし、これはこれでまた大変なことであります。というのは、神聖な白い衣を被せられているにもかかわらず、自分の内に宿る不従順と罪のために、それに相応しくないことを行ったり、言ったり、考えたりし、また逆に相応しいことは行わなかったり、言わなかったり、考えなかったりしてしまうからです。まさにこのために、キリスト信仰者にとって罪の赦しの祈りは生涯付きまとうのです。しかし、その祈りの度に神は、白い衣の方に目を留めて、それに免じて赦しを与えて下さるのです。そして、人がこの世の人生を終える時、神は白い衣を捨てずにしっかりまとい続けた者を御元に引き上げて下さり、こうして神に造られてこの世に生まれた人間は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン