2012年9月17日月曜日

イエス様の奇跡の業の目的 (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
 
主日礼拝説教 2012年9月16日(聖霊降臨後第十六主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
イザヤ書35:4-10、
ヤコブの手紙1:19-27、
マルコによる福音書7:31-37
  
  
説教題 イエス様の奇跡の業の目的
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
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本日の福音書の箇所は、イエス様の行った数多くの奇跡の業の一つで、耳が聞こえず喋ることがほとんどできない人を治して、聞こえかつ話せるようにしたという話です。イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、実に数多くの奇跡について記録されています。マルコ福音書だけをみても、病気の癒しの事例は、全身麻痺の男(2章)、熱病にあったシモンのしゅうとめ(3章)、手が萎えた状態の男(3章)、らい病の男(6章)、盲目の男二人(8章と10章)、悪霊祓いの事例は、5章、7章、9章にあります。これらは癒しの出来事が個別に詳しく述べられている事例ですが、この他に1章、3章、6章で、大勢の人を相手に病気の癒しと悪霊祓いをしたと一括して記されています。これらに加えて、死んだ娘を生き返らせたこと(5章)、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたこと(5千人が6章、4千人が8章)、嵐に命令してこれを静めたこと(4章)、水の上を歩いたこと(6章)、高い山の上でこの世のものとは思えない光をもって輝いたこと(9章)、実をならさないいちじくの木に裁きの言葉をかけて枯らせたこと(11章)、さらに、自分の死と復活について預言したこと、ペテロが主を見捨ててしまうことを預言したこと、最後は死からの復活があります。
 
これらの奇跡が実際にあったのかどうか、ということになると、科学技術がとてつもなく発達した現代に生きる私たちには信じられないという思いが強くなるのではないかと思われます。特に歴史を学術的に記述することを仕事とする歴史学者・研究者は、人間を取り巻く条件は古代においても現代とかわらない、つまり、現代において人が水の上を歩くことはできないのは、古代も同じである、という立場に立って、収集した文献や資料を分析し歴史を再構築して記述します。そこでは、ナザレ出身のイエスの歴史的存在や十字架で処刑された事実は認めても、彼が天と地と人間を造った神のひとり子とか、処刑された後に生き返ったとか、そういうことは記述しません。
 
しかしながら、キリスト教信仰において、イエス様の奇跡の業は避けて通ることはできません。なぜなら、最初の目撃者である使徒たちが、自分たちの見たこと聞いたことの性質上(それがもとでイエス様を神の子、救い主と信じるようになったのですから)、それを人々に伝えないではいられないという動機を持ったからです。彼らは、イエスの名を広めたら命はないぞ、と脅されても屈せず、場合によっては命を落としてしまいますが、自分たちの見たこと聞いたこと、そしてそれらに基づいてイエス様は神の子で救い主であるという信仰を教え伝えました。逆に言えば、命を差し替えてもいいという位のものを目撃したということです。こうした使徒たちの証言が口伝えされパピルス紙に記述されてさらに伝えられていき、一~二世代の後に福音書という書物にまとめられました。使徒たちの命を賭けた教えを受けた人たちは、それが偽りでないと確信しイエス様を神の子、救い主と信じました。キリスト教信仰が使徒的信仰と言われるのは、直の目撃者である使徒たちが見聞きしたことに基づいてイエス様は神の子、救い主だったと信じるに至った信仰を出発点にし、それを受け継ぐ信仰だからであります。
 
そういうわけで、使徒的信仰の観点に立てば、イエス様の奇跡の業の記述は、私たちも、使徒たちが信じて教え伝えたようにそれを受け入れるのが順当ということになります。しかしながら、科学技術が発達した現代のような時代にいると、奇跡などというものは大昔の文明段階に相応した想像や空想の産物でしかないという向きが多くなります。キリスト信仰者の中にも、奇跡なんかなくてもいい、イエス様の立派な教えがあれば十分と言って、イエス様を仏陀やモハメッドのような影響力のある宗教創始者のように扱うことがあります。それだけにとどまらず、イエス様が他に比べていかに卓越した思想家だったかを示そうと、イエス様の教えに時代時代の要請に応じていろいろな意味を注入して膨らませることも見受けられます。しかし、奇跡を除外して、イエス様が救い主であるということは言えるでしょうか?ここで、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、それがわかっていなければなりません。わからないと、「イエス様は救い主」と言ってもピンとこなくなります。そのことをこれから見ていこうと思いますが、その前に、本日の箇所の奇跡についてもう少し見てみます。
 
 
2.

イエス様の奇跡の業の記述を読んでいくと、わかりにくいことに多く出くわします。本日の箇所のところでも、聴覚言語障害のある男を連れてきた人たちはイエス様に、手をおいて下さい、とお願いします。しかし、イエス様は男を人々から引き離して、誰にも見えないところで男を癒します。「誰にも見えないところ」というのは正確ではないでしょう。イエス様がどんな仕方で癒し、その時どんな言葉をかけたかがちゃんと記述されているので、誰かがその場に居合わすことを認められ、何が起きるか目撃したのは明らかです。誰が一緒にいることを認められたのでしょうか?本日の福音書の箇所にはそのような者は言及されていません。しかし、5章をみると、シナゴーグ会堂長ヤイロの娘を生き返らせたとき、イエス様は群衆について来ないように言って、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子だけを家の中まで連れて行き、目撃させました。この同じ三弟子は、イエス様が高い山で姿が輝いてモーセとエリヤと話をした時にも連れて行きました(9章)。同じ三弟子かどうかは不明ですが、本日の箇所でも誰か直近の弟子を同行させていたことが十分考えられます(8章のベトサイダでの盲人を癒した時も同じだったと思われます)。「エッファタ」というのはイエス様の間違いない母語のアラム語です(正確にはאפּתח「イプタ」か「エプタ」か?意味は「わたしは開くようにしてやろう」か?)。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様の言葉や(「タリタ、クーム」[マルコ541節]、「エロイ、エロイ、レマー、サバクタニー」[同1534節])、また彼を取り巻く人たちの叫び声(「ホサナ」[同11910節]、「ラッブーニ」[ヨハネ2016節]― 福音書記者はこれをヘブライ語と言っていますが)、さらに黎明期のキリスト信仰者の祈りなど(「マラナ、タ」[第一コリント1622節])、ところどころ、もともとのアラム語の言葉がギリシャ語の言葉に翻訳されずに、そのまま(ギリシャ語文字で)記されています。これは、これらの言葉を最初に聞いた人がその時受けた強烈な印象をそのまま伝えようとし、それを受け取った人たちもその印象をそのまま残したかったからと考えられます。従って、私たちは、こうしたもともとの言葉を目にすることで、当時の生々しい現場の一端に触れることができるわけです。
 
それにしても、本日のイエス様の奇跡の業はわかりにくいことがいろいろあります。他の箇所では言葉をかけただけで癒しが実現したこともあるのに、なぜ耳に指を入れ、唾を相手の舌につけて触れるようなことをするのか。唾は、ベトサイダの盲人の癒しの時にも使います(マルコ8章、ヨハネ9章も)。しかし、エリコの盲人の癒しの時には言葉だけでした(マルコ10章)。さらに、ある奇跡の時は、本日の箇所のように人々から引き離して行い、別の箇所では群衆の目の前で行っている。本日の箇所では人々に対してこの癒しは触れ回るなと命じ、他の箇所ではそのようなことは命じません。奇跡の業の公開性・非公開性について首尾一貫性がないことについて、いろいろな学説がありますが、すっきり解明する学説はおそらくまだないのではないでしょうか?それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、もしマルコ福音書が書いた人の創作物語にすぎないならば、これほど作者の創作能力の欠如を示す物語はないということです。つまり、本気で創作物語を書くのであれば、奇跡は全部人目を避けて行われたというように首尾一貫させるのではないか。または、群衆の面前と人目を避けたところの使い分けをするなら、どういう基準で使い分けするか自分でもはっきりわかっていなければならないのではないか。それが見られないというのは、結局、マルコ福音書は、書いた人が(何か神学的な方向性は持ちつつも)目撃者の生々しい証言や記憶を出来るだけ手を加えないようにして書き綴ったものという性格が浮かび上がります。
 
 
3.
 
それでは、イエス様は救い主である、と言う時、また、そう信じる時、一体何が人間にとって救われない状態なのか、そこからどういう状態になることが救われたことになるのか、ということを見てみましょう。
 
キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
 
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先々週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
 
 
4.

イエス様は、このように神が計画された救いを実現するためにこの世に送られました。それでは、十字架と復活の前に、多くの奇跡の業を行ったのは、どういう目的だったのでしょうか?何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたのでしょうか?自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?そうやって従う者を集めて自分を教祖に新しい宗教団体を結成しようとしたのでしょうか?キリスト信仰者だったら、そうは考えないでしょう。イエス様は、弱い者困っている者を心から憐れみ本当に助けてあげたくて一切の私利私欲を捨てて救援活動にまい進した、というイメージが強くもたれているのではないかと思います。イエス様がそうであった以上は、キリスト者もそれに続かなければならない、と。私は、奇跡の業はイエス様の慈愛・憐れみの心のあらわれというのはその通りだと思いますが、このイメージにはまだ大事なものが欠けていると思います。それは何かと言うと「神の国」であります。
 
イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ114節)。その活動の内容は、奇跡の業と神の国についての教えを宣べることでした。つまり、彼の教えは、神の国がどういうものかをわからせる教えでした。それにあわせて、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。奇跡の業と神の国が結びついていることは、イエス様が弟子たちを最初の宣教旅行に派遣する時にも現れています。マタイ10章で、イエス様は派遣する弟子たちに病気の癒しや悪霊祓いの力を授けますが、その際、神の国(「天の国」)が近づいた、と宣べ伝えよ、と命じています。
 
神の国とは、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ6517節、6622節、黙示録211節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ122627節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録214節)。イエス様の奇跡の業は、人間から悲しみ嘆き苦しみ不安を取り除くものでした。自然に対しては、自然の法則を超える力を示すものでした。そういうわけで、イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲であったと言ってもよいでしょう。奇跡の業を受けた人たちは、その音色を聞かせてもらった、または神の国の味を少し味あわせてもらった、と言ってもよいでしょう。
 
 しかし、そうは言っても、人間はその時に神の国そのものに入れたわけではありませんでした。そのためには人間は罪と不従順の汚れを取り除き、神の神聖さにマッチする存在にならなければなりません。それを可能にしたのが、先ほども申し上げたイエス様の十字架の身代わりの死であり、死からの復活であります。人間はそれが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、神の国の一員となることができるのであります。
 
 
5.

最後に本日の旧約の箇所であるイザヤ書35章と本日の福音書の箇所の関係について触れておきます。
 
5節と6節で「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」とありますが、イエス様の癒しを受けた人たち、それを見た人たちは、ついにこの預言が成就する日が来たのだという思いに満たされたでしょう。8節で、荒野の中に聖なる道と呼ばれる大路が敷かれ、「主御自身がその民に先立って歩まれ」とあり、10節をみると行先はシオンとなっています。シオンは直接的にはエルサレムの神殿がある場所を指すので、イエス様を先頭にしてエルサレムに向かった群衆はまさに預言の実現を感じていたでしょう。しかし、10節をみると、この聖なる道を歩む者は、「主に贖われた人々」であります。「主に贖われた人々」とは、そもそもイエス様の十字架と復活の出来事の後、彼を救い主と信じる信仰を持った人たちです。従って、十字架と復活の出来事の前のイエス様の活動の時期はまだ預言の完全な実現ではなかったのです。10節に、主に贖われた人々が帰り着くシオンとは、「嘆きと悲しみが逃げ去った」場所と言われます。これも黙示録の214節に預言されている神の国、復活して永遠の命を得た者たちの国と同じです。そこには痛みも嘆きも苦しみもなく、涙は全て拭われ、死さえもがありません。かつてさまざまな病気や障害の人がイエス様から癒しを受けたのは、将来到来する神の国を少し味あわせるようなものであったと、先ほど申しました。神の国においては、すべての病気や障害が消滅するのであります。死さえも力を失うのであります。
 
そういうわけで、イザヤ書35章に言われる、聖なる道を進む主に贖われた者たちとは、実に神の国を目指してこの世の人生を歩む私たちキリスト信仰者なのであります。このことを頭に入れて、今一度、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書35410節を読んで本説教の締めとしたく思います。

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
渇いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず
獣が上ってきて襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン