2021年9月27日月曜日

キリスト信仰者の自由 (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教202126日 聖霊降臨後第十主日

 

イザヤ章117

ガラテアの信徒への手紙22-2

マルコによる福音書7章-1

 

説教題 「キリスト信仰者の自由

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の聖書日課はフィンランドのルター派国教会の日課に従うことにしました。日本のルター派の教会の日課の個所と異なっています。異なるのは聖書の個所だけではありません。フィンランドでは日課に共通のテーマが示されます。聖霊降臨後第18主日の今日のテーマは「キリスト信仰者の自由」です。それなので、フィンランドでは今日の礼拝の説教のテーマは全国的に「キリスト信仰者の自由」です。日本ですと、牧師や説教者が各々説教題を決めますが、フィンランドではみんな同じ説教題を掲げます。これですと、今日はどんな説教題にしようか悩まなくすみ楽です。その反面、自分には統一的なテーマとは違う考えがある、それを出したいという時には悩ましくなります。もちろん統一テーマは強制ではないので、牧師によっては異なるテーマを掲げる人もいますが、ほとんどは共通テーマです。

 

「キリスト信仰者の自由」という言葉を聞くと、同名のルターの著作を思い出します。その本の主題は、キリスト信仰者とはあらゆるものから自由で束縛されないという主人のような存在である、それと同時に神や隣人に仕えるという服従する者でもあるという、一見相反することを言っています。それがその通りなのだと教える本です。

 

本日の説教のテーマを「キリスト信仰者の自由」に定めたのはフィンランド国教会の誰かなのですが、その方がそう定めたのは本日の福音書の個所でイエス様が人間の作った有害で意味のない掟や規則から人間を解放するということがあるからでしょう。イエス様は人間をそうした掟や規則から解放してどこに連れて行こうとされるのか?本日の個所をもとに見ていきましょう。

 

2.聖書に書かれた掟、書かれていない掟

 

本日の福音書の個所はファリサイ派の人たちと律法学者たちとイエス様のやりとりです。ファリサイ派とは当時のユダヤ教社会で影響力のあった信徒団体で、旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、記されていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと主張していました。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これがまさに口頭で伝承された教えです。その内容は、清めに関する規定が多くありました。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないと考えたからでした

 

そのファリサイ派の人たちと律法学者たちが、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生的なので、ファリサイ派の言っていることは理に適っています。特にコロナ感染がある現在では大事なことです。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理でもコロナ対策でもないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινος)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。「一般的な手」、「全てに共通する手」というのは、神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味です。それで「汚れた」という意味になるのです。衛生上の汚れではなく、宗教的、霊的な穢れを言っているのです。

 

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えを沢山持っていて、その遵守を主張していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に相応しいなれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規則無視していることが明らかになりました。

 

3.普遍的に効力を持つ神の意思、状況に左右される人間の考え

 

なぜイエス様は、当時の宗教エリートファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を無視したのか?それは、8節のイエス様の答えから明らかです。そうした教え「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の考え、その時その時の状況や利害はては気分に左右される考えに由来するものになります。時代や場所を超えて普遍的に効力を持つ神の意思に由来するものではないのです。ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方でした。しかし、イエス様は神のひとり子なので父である神の意思を一番よくご存じでした。そのイエス様から見たら彼らのしていることは大変な誤りだったのです。しかも、言い伝えの教えは間の考えに基づいているだけではありませんでした。そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくこともイエス様はわかっていました。その具体例が本日の個所に出てくるコルバンについての規定でした。

 

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味します。「私はこれこれのものを捧げますと誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題視したのは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に言ったら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から何か受けられるのですが、私はそれをコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。なんだか信じられない話です。まるで神とか教祖とかから愛顧を引き出せるためなら両親など構わないというのと同じです。当然のごとくイエス様はそのような規定はモーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判します。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

 

4.神のみ前にとことんへり下ること ー 神の意思に沿う心や行いが現れる出発点

 

ここまで見ると、なるほどイエス様は人間を人間が作った意味のない掟や規則から自由にする方であるとわかります。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。イエス様は人間をあらゆる規則から解放しようとはしていないということです。意味のない掟や規則からです。意味のある掟は別です。それでは意味のある掟とはどんな掟でしょうか?

 

イエス様はファリサイ派を批判する時、君たちは自分で作った掟をもって神の掟を無効にしている、と言います(9,13節)。無効にすべきは人間の掟であって、神の掟が人間に対して有効である、それを妨げてはならないということです。そうすれば、人間が作った規則でも神の掟の有効性に反しなければ問題ないことになります。ところが、有効性に反しているか反していないかの判断において人間は誤ってしまう。そのことが本日のイザヤ書の個所でも言われています。ユダヤ人たちは自分たちが神の意思に従っていることの証として神殿におびただしい数の動物の犠牲の生贄を捧げている。自分たちはこれだけ神の意思に従っているんだと、それが捧げる牛や羊の数で量れるかのごとくおびただしい数の生贄を捧げる。しかし、神はそんなものは全く意味がないと一蹴してしまいます。なぜなら、ユダヤ人たちがこのように外見上の敬虔さを一生懸命している最中に、社会の中で不当な扱いを受けている者、孤児や未亡人の生存権が脅かされている、正義が損なわれている、それはまさに、十戒の第五の掟「なんじ殺すなかれ」、第七の掟「なんじ盗むなかれ」、第八の掟「なんじ偽証するなかれ」、第九、十の掟「なんじ妬むなかれ」に背くことである、そんな状況を放置したまま神殿に捧げものを持って来らえてもそれは神の意思を踏みにじっていることをカモフラージュするもので、見ただけでも気分が悪くなるというのです。

 

イエス様は神の掟の大事なポイントを教えたことがあります。マルコ12章などにあります。ある律法学者がユダヤ教の膨大な掟集の中で何が一番大事な掟ですかと聞いた時です。「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するがごとく愛すること」。神の掟のココロはこの二つに尽きるのだと教えました。

 

「神を全身全霊で愛すること」とは十戒の最初の3つの掟に関わります。3つの掟とは何でしたか?まず最初に、天地創造の神こそ信頼できる方である、なぜなら神はあなたを造られて方だからだ、だからあなたの造り主にのみ悩み苦しみを打ち明けて助けを求めるべきである、ということでした。二つ目は、神の名前を引き合いに出して悪い考え行いをしてはならない、でした。三つめは、1週間に一日位は心と体を休める静かな日にして神のみ言葉に聞き、生き方の軌道修正をして神に感謝し賛美をする日にすべきである、そういう自分自身のために神中心の日にすべきである、ということでした。「神を全身全霊で愛する」というのは、こうした心と行いが現れるということです。「隣人を自分を愛するがごとく愛する」は、十戒の残りの七つの掟に関わります。父母を敬う、他人を傷つけない、不倫をしない、盗まない、偽りを語らない、妬まないという心と行いが現れるということです。

 

どうしたらそういう心と行いが自分に現れてくるのか?日々を生きていると自分はそういう心や行いから遠いではないかと思い知らされることばかりでしょう。しかし、イエス様が十字架の死の業を成し遂げて、さらに死から復活されたことが、この壁を乗り越える力を与えて下さいます。イエス様が十字架の死を遂げたのは、私たちが神の意思に沿えないために神から受けることになってしまう罰を代わりに引き受けて下さったのでした。神のひとり子が私たちの至らなさや罪を代わりに償って下さったのでした。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を償ってもらった者として見ていただけることになります。この自分は神聖な神のひとり子から罪を償ってもらったということは大きな解放感をもたらします。まさにキリスト信仰者の自由です。お前は何もできない、正しい考えや行いを持てない、だから神の目から見て失格だという責め立てる声はか細くなります。もし正しい考えや行いを持てなくなってしまう時があったら、その時は直ぐイエス様の十字架に心の目を向けます。あそこに罪の赦しが打ち立てられたので、洗礼を受けた以上は罪の赦しは揺るがずにあります。

 

イエス様は十字架の死の後、神の想像を超える力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。この世の人生を終えた後は、あとは復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す、朽ち果てない復活の体を着せられます。そして創造主の神の御許に永遠に戻ることになります。そこでは、同じように目覚めさせられた人たちとの懐かしい再会が待っています。それなので、その日が来るまでは、イエス様に罪を償ってもらった者としてこの世でこの置かれた道を歩みます。自分の至らなさのせいで、または襲い掛かる苦難や困難のせいで、神が遠くになってしまったような感じがする時もあります。しかし、罪の赦しの十字架は打ち立てられ、あの墓は空っぽでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの歴史上の出来事を人生の新しい出発点にして生きるのです。それを思い起こせば神はいつも共にいて下さることに気づきます。

 

罪の自覚と赦しは必ずあるということ、苦難・困難な時に神は共にいて下さること、これらがあれば、神を愛することと隣人を愛することは規則ではなくなります。規則としてあると、力がある人、余裕がある人が守れることになってしまいます。罪の自覚と赦しが必ずある、苦難・困難な時に神は共にいて下さるというのは、自分には力も余裕もありません、神よあなたが私の全てです、という、自分をとことんへりくださせた状態のことです。私には力も余裕もないので、ただあなたの力が働いてくださいという状態です。そのようにして神の力が十全に働くとき、神を全身全霊で愛する心と行い、隣人を自分を愛するがごとく愛する心と行いは必ず現れます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年9月20日月曜日

信仰の温暖化に歯止めを (吉村博明)

                        説教者 吉村博明 (フィンランド福音ルーテル協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日

 

エレミア書11章18-20節

ヤコブの手紙 3章13節-18節

マルコによる福音書9章30-37節

 

説教題 「信仰の温暖化に歯止めを」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 フィンランドの宣教師が帰国したときにすべき仕事として宣教師を支援する教会を訪問するということがあります。フィンランドのルター派の国教会には全国で確か400位教会があったと思いますが、それぞれがどのミッション団体のどの宣教師を支援するか団体を通して契約を結びます。私とパイヴィの仕事を支援する教会は全部で12あり、トゥルクを中心とする南西部に6つ、ヴァサを中心とする中西部に6つあります。今年の夏から9月初めにかけて全部で10の教会を訪問しました。フィンランドは日本のように鉄道網が発達していないので移動は車になります。今回は走行距離は2,100キロになりました。

 

 教会訪問で何をするかと言うと、それぞれの教会の海外伝道に関係する集会や行事を担当したり報告会を行ったりします。訪問が日曜日に重なれば礼拝の説教を担当します。

 

 宣教師が行う訪問は教会だけに限りません。老人ホームのような施設や学校もあります。学校訪問というのは、フィンランドの公立の小中高校には宗教の科目があり、呼ばれた宣教師は課外授業として派遣国一般のことキリスト教会や宣教師の活動について話をします。ただし、この学校訪問は近年では少なくなる傾向があります。特に南部地方の学校からは声がかかることはありません。

 

 というのは、フィンランドでは全体的に教会離れが進んでいて、特に南部では進行が早く、例えば首都ヘルシンキでは生まれてくる子供に洗礼を授ける割合は今では5割に満たないそうです。これはもう教会離れというよりは脱キリスト教化です。ところが、北に行くほど様子は違って洗礼率は100%近くになります。

 

 そういう状況ですので、南部では宣教師を学校に呼ぶとか国教会との繋がりを保つというのはもう考えられなくなっています。今回私たちは中西部で小中学校2つ、高校1つ訪問しました。低学年になるほど質問攻めにあって先に進めないというのもいつもと同じでしたが、果たして次回も学校からお呼びがかかるかどうか心配にもなりました。フィンランドで北から信仰の風が南に向かって吹くのか、それとも南からの風に押されてしまうのか?信仰の温暖化現象に歯止めはかけられるのか?本日の説教のみ言葉の解き明かしが歯止めの一助になるように願ってやみません。

 

2.神の目から見て偉大な者

 

 イエス様と弟子たちの一行は現在のシリアとレバノンの境の地域からエルサレムに向かって南下の旅を続けていました。あの十字架の死と死からの復活の出来事が待っているエルサレムにです。まさに北から南に向かっていました。その途中のガリラヤ湖畔の町カファルナウムに滞在した時のことです。イエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について教えます。これは、人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節までの3節に凝縮されています。まず35節で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」人間の目から見たら、偉大な人、先頭に立つ人というのは、皆から尊敬されたり畏怖されたりして皆に仕えられる人です。ところが、イエス様に言わせれば、他人に仕えてもらうのではなく、逆に他人に仕える者の方が神の目から見て偉大で先頭に立つ者である、ということなのです。人間の目から見たら逆ですが、神の目から見たらそうなのだ、というのです。

 

他人に仕えることで神の目から見て偉大な者、先頭に立つ者になったのは、まさにイエス様でした。イエス様は神のひとり子として本来ならば天の御国にて神の栄光に包まれていればよいお方でした。ところが、人間が神の意思に反しようとする罪というものを持つようになってしまった、それで人間は神との結びつきを失ってしまった、そのために神は人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送られたのです。人間の乙女マリアを通して生まれるという仕方で送られました。それで、神のひとり子は人間の心と体と魂を持てて、私たち人間の悩みや苦しみをわかることができたのです。そして最後は、本来なら人間が受けるべき神罰を全部人間の身代わりに受けて十字架の上で死なれました。人間は、この神のひとり子の身代わりの犠牲が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この犠牲に免じて神から罪の赦しを得られ、それで神との結びつきが回復することとなりました。

 

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命に至る道を人間に開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者はその道に置かれてそれを歩むようになったのです。神との結びつきを持って生きられるというのは、順境の時も逆境の時も全く変わらぬ神との結びつきの中で生きるということです。たとえこの世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。私たち人間にこのような壮大な救いをもたらすために、イエス様は神のひとり子でありながら、私たち人間と同じ姿かたちをとってこの世に送られて人間が受けるべき神罰を身代わりになって受けられたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えたのです。このことが使徒パウロの「フィリピの信徒への手紙」2章の中で述べられています。

 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(611節)」。

 

このようにイエス様は、もともとは全ての人に先立つ方だったのに全ての人の後になって全ての人に仕えて、再び先頭に立つ者となられたのです。イエス様は弟子たちに、先頭に立つ者になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、と教えました。これは具体的にどういうことでしょうか?もちろんこれは、弟子たちもイエス様のように罪の赦しをもたらす犠牲行為をしなさい、ということではありません。罪の赦しと神との結びつきをもたらした犠牲は神のひとり子が全て果たしてくれました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいません。そういうわけで、人間に罪の赦しをもたらす犠牲行為はイエス様の十字架の死一回限りで完結し、それ以上はいらないのです。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういう仕えでしょうか?

 

キリスト信仰で他者に「仕える」というのはどんなことかを考える時、使徒言行録6章の出来事が参考になります。最初のキリスト信仰者たちが共同体を形成しつつあった頃でした。12弟子は祈りや神の御言葉を教えるだけでなく、礼拝に来た人たちの食事のことも考えなければならない状況でした。そこで礼拝や教えに専念できるように、つまり信仰者の霊的な必要を満たすことに専念できるために、食事のような体の必要を満たすことに専念する人たちを別に選出したのです。使徒言行録6章に出てくる「仕える」という言葉は、このように神の御言葉に仕えることと(τη διακονια του λογου 4節)、体の必要を満たす仕え(διακονειν τραπεζαις 2節)の双方に関係します。

 

そういうわけでキリスト信仰の「仕える」とは、イエス様を救い主と信じている人たちに対しては、信仰にしっかりとどまれるように、イエス様のおかげで回復した神との結びつきを失わないように、霊的・肉的に支えることであると言うことができます。そう言うと、相手が信仰者でなかったら「仕え」なくていいのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。天地創造の神の意思は、全ての人間が神との結びつきを回復して生きられるようにしてあげたいということです。それなので、相手が信仰者でない場合は、その結びつきが回復することを目指して助ける、仕えるということになります。そう言うと、それじゃ、宗教に勧誘するための人助けではないかと言われてしまうかもしれません。もちろん、神との結びつきの回復など持ち出さないで人助けや仕えをすることは出来ます。しかし、キリスト信仰の場合は、イエス様の十字架のおかげで神との結びつきに道が開いたということがあるので、どうしてもそれが関係せざるを得ないのです。それに、物質的な支援は万能ではなく、霊的な支援にこそ計り知れない力が秘められているということがあります。このことは、イエス様の言葉「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から語られる全ての言葉によっても生きる」(マタイ44節)、この言葉に示されています。創造主の神との結びつきは決して失われない、という確信があれば、たとえ物質的な支援に限りがあったとしても絶望状態にはならないのではないでしょうか?キリスト信仰の支援というのは、そういう確信にかかわるものです。

 

3.イエス様に抱きかかえられた者として

 

全ての人に仕えること、これはキリスト信仰の場合、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、霊的に肉的にそうなるように支えてあげる、ということを述べました。そのことが続く36節と37節のイエス様の行いと教えに結びついています。行いとは、子供を弟子たちの前に立たせて抱いたことです。教えとは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」です。このイエス様の「子供の受け入れ」の行いと教えは、キリスト信仰者の「仕え」とどう結びつくのでしょうか?それを見ていきましょう。

 

イエス様は、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。少し細かいことですが、子供は立っていたので「抱き上げたのは赤ちゃんではありません。立てるくらいの子供をよっこらしょと抱っこしたことになります。ギリシャ語の動詞εναγκαλισαμενοςは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味なので、別に抱っこに限られず、立ったまま子供を屈みこんで腕を回して抱いたということも考えられます。

 

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちの前に子供を立たせて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そしてその行為を言葉で言い表します。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れること、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れること、これは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父と信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。イエス様は、キリスト信仰を証しするような子供の受け入れをしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、それで神の目からみて先頭に立つ者になる、と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

 

ここでカギになるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。英語、ルター訳ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりにくいです。イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

 

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依拠して」という意味です。そうは言っても、それがどんな子供の受け入れ方を言っているのかまだまだわかりにくいです。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の名前ではないということです。誰か偉い人が慈善を沢山行ったから自分も倣ってそうする、ということではない。また他の誰にも依拠しないで自分一人で受け入れるということでもない。とにかくイエス様の名前を表に出してそれに依拠して、それを引き合いに出して受け入れなければならないということです。これは一体どういう受け入れなのでしょうか?

 

ここで今一度その唯一の名前の持ち主であるイエス様とはどんな方だったか振り返ってみましょう。イエス様とは、十字架の死を遂げることで人間の罪を償って下さって、人間を罪の支配状態から贖い出して下さった方です。そして死から復活されたことで永遠の命に至る道を人間に開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のもの全てがひざまずく名です。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、まさに子供も大人同様、罪の赦しの救いを受けられて、大人と同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられ永遠の命に至る道を歩めるようにすることです。つまり大人と全く変わらぬ神の御国の一員に受け入れて一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても、イエス様が実現した救いは大人同様に提供されている、永遠の命に至る道は開かれている、ということをわきまえて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。

 

このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、引き合いに出して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことか明らかになってきます。こういう受け入れをした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているとわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

 

ところで、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、道が開かれているにもかかわらずまだ歩んでいない人は大人も子供も含め世界中にまだ大勢います。また、一度は受け取って歩み始めたが、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人もいます。その意味で、イエス様が弟子たちの前で立たせて抱きしめるのは別に子供でなくてもよかったのですが、やはり弟子たちが「偉大なものは誰か」ということに関心が向いてしまって「仕える」ということを忘れてしまっていたので、小さい子供を抱きしめて見せるのは効果的だったでしょう。

 

兄弟姉妹の皆さん、私たちこそ、イエス様に抱きしめられた者、抱っこしてもらった者です!それなので互いに信仰を支えあうようにしましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るように、道に戻ることが出来るように祈りましょう。そうした人たちに教えたり諭したりする機会をよく注意して待ち、もし機会が来たら、神が聖霊を働かせて相応しい言葉を与えて下さるように祈りましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

 あなたは、み子イエス様を救い主と信じる者に、罪の赦しと永遠の命そして日々私たちを見守って下さることを約束されました。まことに貴い約束です。どうか私たちが、あなたは約束を守る方と固く信じて疑わないように私たちの信仰を強めて下さい。

 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン