2021年9月27日月曜日

キリスト信仰者の自由 (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教202126日 聖霊降臨後第十主日

 

イザヤ章117

ガラテアの信徒への手紙22-2

マルコによる福音書7章-1

 

説教題 「キリスト信仰者の自由

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の聖書日課はフィンランドのルター派国教会の日課に従うことにしました。日本のルター派の教会の日課の個所と異なっています。異なるのは聖書の個所だけではありません。フィンランドでは日課に共通のテーマが示されます。聖霊降臨後第18主日の今日のテーマは「キリスト信仰者の自由」です。それなので、フィンランドでは今日の礼拝の説教のテーマは全国的に「キリスト信仰者の自由」です。日本ですと、牧師や説教者が各々説教題を決めますが、フィンランドではみんな同じ説教題を掲げます。これですと、今日はどんな説教題にしようか悩まなくすみ楽です。その反面、自分には統一的なテーマとは違う考えがある、それを出したいという時には悩ましくなります。もちろん統一テーマは強制ではないので、牧師によっては異なるテーマを掲げる人もいますが、ほとんどは共通テーマです。

 

「キリスト信仰者の自由」という言葉を聞くと、同名のルターの著作を思い出します。その本の主題は、キリスト信仰者とはあらゆるものから自由で束縛されないという主人のような存在である、それと同時に神や隣人に仕えるという服従する者でもあるという、一見相反することを言っています。それがその通りなのだと教える本です。

 

本日の説教のテーマを「キリスト信仰者の自由」に定めたのはフィンランド国教会の誰かなのですが、その方がそう定めたのは本日の福音書の個所でイエス様が人間の作った有害で意味のない掟や規則から人間を解放するということがあるからでしょう。イエス様は人間をそうした掟や規則から解放してどこに連れて行こうとされるのか?本日の個所をもとに見ていきましょう。

 

2.聖書に書かれた掟、書かれていない掟

 

本日の福音書の個所はファリサイ派の人たちと律法学者たちとイエス様のやりとりです。ファリサイ派とは当時のユダヤ教社会で影響力のあった信徒団体で、旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、記されていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと主張していました。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これがまさに口頭で伝承された教えです。その内容は、清めに関する規定が多くありました。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないと考えたからでした

 

そのファリサイ派の人たちと律法学者たちが、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生的なので、ファリサイ派の言っていることは理に適っています。特にコロナ感染がある現在では大事なことです。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理でもコロナ対策でもないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινος)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。「一般的な手」、「全てに共通する手」というのは、神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味です。それで「汚れた」という意味になるのです。衛生上の汚れではなく、宗教的、霊的な穢れを言っているのです。

 

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えを沢山持っていて、その遵守を主張していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に相応しいなれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規則無視していることが明らかになりました。

 

3.普遍的に効力を持つ神の意思、状況に左右される人間の考え

 

なぜイエス様は、当時の宗教エリートファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を無視したのか?それは、8節のイエス様の答えから明らかです。そうした教え「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の考え、その時その時の状況や利害はては気分に左右される考えに由来するものになります。時代や場所を超えて普遍的に効力を持つ神の意思に由来するものではないのです。ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方でした。しかし、イエス様は神のひとり子なので父である神の意思を一番よくご存じでした。そのイエス様から見たら彼らのしていることは大変な誤りだったのです。しかも、言い伝えの教えは間の考えに基づいているだけではありませんでした。そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくこともイエス様はわかっていました。その具体例が本日の個所に出てくるコルバンについての規定でした。

 

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味します。「私はこれこれのものを捧げますと誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題視したのは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に言ったら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から何か受けられるのですが、私はそれをコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。なんだか信じられない話です。まるで神とか教祖とかから愛顧を引き出せるためなら両親など構わないというのと同じです。当然のごとくイエス様はそのような規定はモーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判します。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

 

4.神のみ前にとことんへり下ること ー 神の意思に沿う心や行いが現れる出発点

 

ここまで見ると、なるほどイエス様は人間を人間が作った意味のない掟や規則から自由にする方であるとわかります。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。イエス様は人間をあらゆる規則から解放しようとはしていないということです。意味のない掟や規則からです。意味のある掟は別です。それでは意味のある掟とはどんな掟でしょうか?

 

イエス様はファリサイ派を批判する時、君たちは自分で作った掟をもって神の掟を無効にしている、と言います(9,13節)。無効にすべきは人間の掟であって、神の掟が人間に対して有効である、それを妨げてはならないということです。そうすれば、人間が作った規則でも神の掟の有効性に反しなければ問題ないことになります。ところが、有効性に反しているか反していないかの判断において人間は誤ってしまう。そのことが本日のイザヤ書の個所でも言われています。ユダヤ人たちは自分たちが神の意思に従っていることの証として神殿におびただしい数の動物の犠牲の生贄を捧げている。自分たちはこれだけ神の意思に従っているんだと、それが捧げる牛や羊の数で量れるかのごとくおびただしい数の生贄を捧げる。しかし、神はそんなものは全く意味がないと一蹴してしまいます。なぜなら、ユダヤ人たちがこのように外見上の敬虔さを一生懸命している最中に、社会の中で不当な扱いを受けている者、孤児や未亡人の生存権が脅かされている、正義が損なわれている、それはまさに、十戒の第五の掟「なんじ殺すなかれ」、第七の掟「なんじ盗むなかれ」、第八の掟「なんじ偽証するなかれ」、第九、十の掟「なんじ妬むなかれ」に背くことである、そんな状況を放置したまま神殿に捧げものを持って来らえてもそれは神の意思を踏みにじっていることをカモフラージュするもので、見ただけでも気分が悪くなるというのです。

 

イエス様は神の掟の大事なポイントを教えたことがあります。マルコ12章などにあります。ある律法学者がユダヤ教の膨大な掟集の中で何が一番大事な掟ですかと聞いた時です。「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するがごとく愛すること」。神の掟のココロはこの二つに尽きるのだと教えました。

 

「神を全身全霊で愛すること」とは十戒の最初の3つの掟に関わります。3つの掟とは何でしたか?まず最初に、天地創造の神こそ信頼できる方である、なぜなら神はあなたを造られて方だからだ、だからあなたの造り主にのみ悩み苦しみを打ち明けて助けを求めるべきである、ということでした。二つ目は、神の名前を引き合いに出して悪い考え行いをしてはならない、でした。三つめは、1週間に一日位は心と体を休める静かな日にして神のみ言葉に聞き、生き方の軌道修正をして神に感謝し賛美をする日にすべきである、そういう自分自身のために神中心の日にすべきである、ということでした。「神を全身全霊で愛する」というのは、こうした心と行いが現れるということです。「隣人を自分を愛するがごとく愛する」は、十戒の残りの七つの掟に関わります。父母を敬う、他人を傷つけない、不倫をしない、盗まない、偽りを語らない、妬まないという心と行いが現れるということです。

 

どうしたらそういう心と行いが自分に現れてくるのか?日々を生きていると自分はそういう心や行いから遠いではないかと思い知らされることばかりでしょう。しかし、イエス様が十字架の死の業を成し遂げて、さらに死から復活されたことが、この壁を乗り越える力を与えて下さいます。イエス様が十字架の死を遂げたのは、私たちが神の意思に沿えないために神から受けることになってしまう罰を代わりに引き受けて下さったのでした。神のひとり子が私たちの至らなさや罪を代わりに償って下さったのでした。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を償ってもらった者として見ていただけることになります。この自分は神聖な神のひとり子から罪を償ってもらったということは大きな解放感をもたらします。まさにキリスト信仰者の自由です。お前は何もできない、正しい考えや行いを持てない、だから神の目から見て失格だという責め立てる声はか細くなります。もし正しい考えや行いを持てなくなってしまう時があったら、その時は直ぐイエス様の十字架に心の目を向けます。あそこに罪の赦しが打ち立てられたので、洗礼を受けた以上は罪の赦しは揺るがずにあります。

 

イエス様は十字架の死の後、神の想像を超える力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。この世の人生を終えた後は、あとは復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す、朽ち果てない復活の体を着せられます。そして創造主の神の御許に永遠に戻ることになります。そこでは、同じように目覚めさせられた人たちとの懐かしい再会が待っています。それなので、その日が来るまでは、イエス様に罪を償ってもらった者としてこの世でこの置かれた道を歩みます。自分の至らなさのせいで、または襲い掛かる苦難や困難のせいで、神が遠くになってしまったような感じがする時もあります。しかし、罪の赦しの十字架は打ち立てられ、あの墓は空っぽでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの歴史上の出来事を人生の新しい出発点にして生きるのです。それを思い起こせば神はいつも共にいて下さることに気づきます。

 

罪の自覚と赦しは必ずあるということ、苦難・困難な時に神は共にいて下さること、これらがあれば、神を愛することと隣人を愛することは規則ではなくなります。規則としてあると、力がある人、余裕がある人が守れることになってしまいます。罪の自覚と赦しが必ずある、苦難・困難な時に神は共にいて下さるというのは、自分には力も余裕もありません、神よあなたが私の全てです、という、自分をとことんへりくださせた状態のことです。私には力も余裕もないので、ただあなたの力が働いてくださいという状態です。そのようにして神の力が十全に働くとき、神を全身全霊で愛する心と行い、隣人を自分を愛するがごとく愛する心と行いは必ず現れます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン