2021年9月20日月曜日

信仰の温暖化に歯止めを (吉村博明)

                        説教者 吉村博明 (フィンランド福音ルーテル協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日

 

エレミア書11章18-20節

ヤコブの手紙 3章13節-18節

マルコによる福音書9章30-37節

 

説教題 「信仰の温暖化に歯止めを」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 フィンランドの宣教師が帰国したときにすべき仕事として宣教師を支援する教会を訪問するということがあります。フィンランドのルター派の国教会には全国で確か400位教会があったと思いますが、それぞれがどのミッション団体のどの宣教師を支援するか団体を通して契約を結びます。私とパイヴィの仕事を支援する教会は全部で12あり、トゥルクを中心とする南西部に6つ、ヴァサを中心とする中西部に6つあります。今年の夏から9月初めにかけて全部で10の教会を訪問しました。フィンランドは日本のように鉄道網が発達していないので移動は車になります。今回は走行距離は2,100キロになりました。

 

 教会訪問で何をするかと言うと、それぞれの教会の海外伝道に関係する集会や行事を担当したり報告会を行ったりします。訪問が日曜日に重なれば礼拝の説教を担当します。

 

 宣教師が行う訪問は教会だけに限りません。老人ホームのような施設や学校もあります。学校訪問というのは、フィンランドの公立の小中高校には宗教の科目があり、呼ばれた宣教師は課外授業として派遣国一般のことキリスト教会や宣教師の活動について話をします。ただし、この学校訪問は近年では少なくなる傾向があります。特に南部地方の学校からは声がかかることはありません。

 

 というのは、フィンランドでは全体的に教会離れが進んでいて、特に南部では進行が早く、例えば首都ヘルシンキでは生まれてくる子供に洗礼を授ける割合は今では5割に満たないそうです。これはもう教会離れというよりは脱キリスト教化です。ところが、北に行くほど様子は違って洗礼率は100%近くになります。

 

 そういう状況ですので、南部では宣教師を学校に呼ぶとか国教会との繋がりを保つというのはもう考えられなくなっています。今回私たちは中西部で小中学校2つ、高校1つ訪問しました。低学年になるほど質問攻めにあって先に進めないというのもいつもと同じでしたが、果たして次回も学校からお呼びがかかるかどうか心配にもなりました。フィンランドで北から信仰の風が南に向かって吹くのか、それとも南からの風に押されてしまうのか?信仰の温暖化現象に歯止めはかけられるのか?本日の説教のみ言葉の解き明かしが歯止めの一助になるように願ってやみません。

 

2.神の目から見て偉大な者

 

 イエス様と弟子たちの一行は現在のシリアとレバノンの境の地域からエルサレムに向かって南下の旅を続けていました。あの十字架の死と死からの復活の出来事が待っているエルサレムにです。まさに北から南に向かっていました。その途中のガリラヤ湖畔の町カファルナウムに滞在した時のことです。イエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について教えます。これは、人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節までの3節に凝縮されています。まず35節で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」人間の目から見たら、偉大な人、先頭に立つ人というのは、皆から尊敬されたり畏怖されたりして皆に仕えられる人です。ところが、イエス様に言わせれば、他人に仕えてもらうのではなく、逆に他人に仕える者の方が神の目から見て偉大で先頭に立つ者である、ということなのです。人間の目から見たら逆ですが、神の目から見たらそうなのだ、というのです。

 

他人に仕えることで神の目から見て偉大な者、先頭に立つ者になったのは、まさにイエス様でした。イエス様は神のひとり子として本来ならば天の御国にて神の栄光に包まれていればよいお方でした。ところが、人間が神の意思に反しようとする罪というものを持つようになってしまった、それで人間は神との結びつきを失ってしまった、そのために神は人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送られたのです。人間の乙女マリアを通して生まれるという仕方で送られました。それで、神のひとり子は人間の心と体と魂を持てて、私たち人間の悩みや苦しみをわかることができたのです。そして最後は、本来なら人間が受けるべき神罰を全部人間の身代わりに受けて十字架の上で死なれました。人間は、この神のひとり子の身代わりの犠牲が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この犠牲に免じて神から罪の赦しを得られ、それで神との結びつきが回復することとなりました。

 

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命に至る道を人間に開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者はその道に置かれてそれを歩むようになったのです。神との結びつきを持って生きられるというのは、順境の時も逆境の時も全く変わらぬ神との結びつきの中で生きるということです。たとえこの世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。私たち人間にこのような壮大な救いをもたらすために、イエス様は神のひとり子でありながら、私たち人間と同じ姿かたちをとってこの世に送られて人間が受けるべき神罰を身代わりになって受けられたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えたのです。このことが使徒パウロの「フィリピの信徒への手紙」2章の中で述べられています。

 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(611節)」。

 

このようにイエス様は、もともとは全ての人に先立つ方だったのに全ての人の後になって全ての人に仕えて、再び先頭に立つ者となられたのです。イエス様は弟子たちに、先頭に立つ者になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、と教えました。これは具体的にどういうことでしょうか?もちろんこれは、弟子たちもイエス様のように罪の赦しをもたらす犠牲行為をしなさい、ということではありません。罪の赦しと神との結びつきをもたらした犠牲は神のひとり子が全て果たしてくれました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいません。そういうわけで、人間に罪の赦しをもたらす犠牲行為はイエス様の十字架の死一回限りで完結し、それ以上はいらないのです。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういう仕えでしょうか?

 

キリスト信仰で他者に「仕える」というのはどんなことかを考える時、使徒言行録6章の出来事が参考になります。最初のキリスト信仰者たちが共同体を形成しつつあった頃でした。12弟子は祈りや神の御言葉を教えるだけでなく、礼拝に来た人たちの食事のことも考えなければならない状況でした。そこで礼拝や教えに専念できるように、つまり信仰者の霊的な必要を満たすことに専念できるために、食事のような体の必要を満たすことに専念する人たちを別に選出したのです。使徒言行録6章に出てくる「仕える」という言葉は、このように神の御言葉に仕えることと(τη διακονια του λογου 4節)、体の必要を満たす仕え(διακονειν τραπεζαις 2節)の双方に関係します。

 

そういうわけでキリスト信仰の「仕える」とは、イエス様を救い主と信じている人たちに対しては、信仰にしっかりとどまれるように、イエス様のおかげで回復した神との結びつきを失わないように、霊的・肉的に支えることであると言うことができます。そう言うと、相手が信仰者でなかったら「仕え」なくていいのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。天地創造の神の意思は、全ての人間が神との結びつきを回復して生きられるようにしてあげたいということです。それなので、相手が信仰者でない場合は、その結びつきが回復することを目指して助ける、仕えるということになります。そう言うと、それじゃ、宗教に勧誘するための人助けではないかと言われてしまうかもしれません。もちろん、神との結びつきの回復など持ち出さないで人助けや仕えをすることは出来ます。しかし、キリスト信仰の場合は、イエス様の十字架のおかげで神との結びつきに道が開いたということがあるので、どうしてもそれが関係せざるを得ないのです。それに、物質的な支援は万能ではなく、霊的な支援にこそ計り知れない力が秘められているということがあります。このことは、イエス様の言葉「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から語られる全ての言葉によっても生きる」(マタイ44節)、この言葉に示されています。創造主の神との結びつきは決して失われない、という確信があれば、たとえ物質的な支援に限りがあったとしても絶望状態にはならないのではないでしょうか?キリスト信仰の支援というのは、そういう確信にかかわるものです。

 

3.イエス様に抱きかかえられた者として

 

全ての人に仕えること、これはキリスト信仰の場合、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、霊的に肉的にそうなるように支えてあげる、ということを述べました。そのことが続く36節と37節のイエス様の行いと教えに結びついています。行いとは、子供を弟子たちの前に立たせて抱いたことです。教えとは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」です。このイエス様の「子供の受け入れ」の行いと教えは、キリスト信仰者の「仕え」とどう結びつくのでしょうか?それを見ていきましょう。

 

イエス様は、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。少し細かいことですが、子供は立っていたので「抱き上げたのは赤ちゃんではありません。立てるくらいの子供をよっこらしょと抱っこしたことになります。ギリシャ語の動詞εναγκαλισαμενοςは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味なので、別に抱っこに限られず、立ったまま子供を屈みこんで腕を回して抱いたということも考えられます。

 

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちの前に子供を立たせて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そしてその行為を言葉で言い表します。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れること、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れること、これは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父と信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。イエス様は、キリスト信仰を証しするような子供の受け入れをしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、それで神の目からみて先頭に立つ者になる、と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

 

ここでカギになるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。英語、ルター訳ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりにくいです。イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

 

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依拠して」という意味です。そうは言っても、それがどんな子供の受け入れ方を言っているのかまだまだわかりにくいです。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の名前ではないということです。誰か偉い人が慈善を沢山行ったから自分も倣ってそうする、ということではない。また他の誰にも依拠しないで自分一人で受け入れるということでもない。とにかくイエス様の名前を表に出してそれに依拠して、それを引き合いに出して受け入れなければならないということです。これは一体どういう受け入れなのでしょうか?

 

ここで今一度その唯一の名前の持ち主であるイエス様とはどんな方だったか振り返ってみましょう。イエス様とは、十字架の死を遂げることで人間の罪を償って下さって、人間を罪の支配状態から贖い出して下さった方です。そして死から復活されたことで永遠の命に至る道を人間に開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のもの全てがひざまずく名です。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、まさに子供も大人同様、罪の赦しの救いを受けられて、大人と同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられ永遠の命に至る道を歩めるようにすることです。つまり大人と全く変わらぬ神の御国の一員に受け入れて一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても、イエス様が実現した救いは大人同様に提供されている、永遠の命に至る道は開かれている、ということをわきまえて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。

 

このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、引き合いに出して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことか明らかになってきます。こういう受け入れをした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているとわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

 

ところで、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、道が開かれているにもかかわらずまだ歩んでいない人は大人も子供も含め世界中にまだ大勢います。また、一度は受け取って歩み始めたが、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人もいます。その意味で、イエス様が弟子たちの前で立たせて抱きしめるのは別に子供でなくてもよかったのですが、やはり弟子たちが「偉大なものは誰か」ということに関心が向いてしまって「仕える」ということを忘れてしまっていたので、小さい子供を抱きしめて見せるのは効果的だったでしょう。

 

兄弟姉妹の皆さん、私たちこそ、イエス様に抱きしめられた者、抱っこしてもらった者です!それなので互いに信仰を支えあうようにしましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るように、道に戻ることが出来るように祈りましょう。そうした人たちに教えたり諭したりする機会をよく注意して待ち、もし機会が来たら、神が聖霊を働かせて相応しい言葉を与えて下さるように祈りましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

 あなたは、み子イエス様を救い主と信じる者に、罪の赦しと永遠の命そして日々私たちを見守って下さることを約束されました。まことに貴い約束です。どうか私たちが、あなたは約束を守る方と固く信じて疑わないように私たちの信仰を強めて下さい。

 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン