主日礼拝説教
2021年6月27日 聖霊降臨後第五主日
哀歌3章22-33節
コリントの信徒への第二の手紙8章7-15節
マルコによる福音書5章21-43節
説教題 「天国がこの世を生きる指針になる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
まず初めに先週の説教に訂正箇所があります。ヨブ記38章について説き明かしした時、ヨブの問いに対して神の答えは答えになっているかどうかということについて聖書学者の間で論争があって、答えになっていると主張する研究者の一人としてドイツの研究者の意見を紹介しました。その名をラズと言ってしまったのですが、ヘルシンキ在住のルター神学者の高木賢氏からすぐメールが来まして、ラードゥ、ゲアハルドゥ・フォン・ラードゥではないかと指摘を受けました。それに間違いないと思います。ラズと言うのは、ダニエル書に出てくるアラム語の単語(正確にはラーズ)で「秘密」を意味します。似ているので混同してしまいました。お詫びと共に訂正いたします。
本日の本題に入ります。本日の福音書の日課の個所には二つの大きな出来事があります。一つは、長年の病気で苦しんでいた女性がイエス様の衣服に触れて治ったという奇跡。もう一つは、会堂長ヤイロの娘が息を引き取った後でイエス様が生き返らせたという奇跡です。本説教ではこれらの出来事の中にあるイエス様の二つの言葉に注目します。一つは「お前の信仰がお前を救ったのだ」、もう一つは「娘は死んではいない、眠っているのだ」です。これらの言葉はキリスト信仰の核心をつく言葉です。そのことを明らかにしていこうと思います。
2.「お前の信仰がお前を救ったのだ」
まず一番目の奇跡です。イエス様は癒された女性に言われました。「お前の信仰がお前を救ったのだ。」一見すると、これはそんなに難しい言葉ではありません。女性はイエス様が癒す力がある方と信じてその衣服に触れたら治ってしまった。つまり、病気が治ったことが救われたということになります。宗教とか信仰というのは普通そういうものと考えられます。何かを信じて病気が治ったら、信仰が強かったからというふうに見なされます。逆に治らなかったら、信仰が弱いというふうに。それでは、イエス様もそういうことを言っているのでしょうか?同じような例はルカ17章19節にもあります。重い皮膚病を患わっていたサマリア人が癒されて、イエス様が同じ言葉をかけます。
ところが、ここに一つわかりにくいことがあります。それは、「お前を救ったのだ」と言う時の「救った」なのですが、ギリシャ語原文を見るとそういう理解がうまくあてはまらないのです。細かいことですが、「救った」はセソーケンという現在完了形です。現在完了などと言うと中学の英語の授業みたいで嫌がられそうですが心配無用です。ギリシャ語の現在完了は英語と少し違うので英語のことは忘れていても大丈夫です。ギリシャ語の現在完了は、「過去のある時点から現在まで~の状態にある」と言う意味です。それで、ここの「救った」の正確な意味はこうです。「過去のある時点から現在まで救われた状態にある。」「過去のある時点」とはイエス様を信じた時点です。そういうわけで、「お前の信仰がお前を救った」と言うのは、「お前が私を信じた時点から現在までお前は救われた状態にあったのだ」ということになります。
これは少し変な感じがします。本日の個所の女性も皮膚病のサマリア人もイエス様を信じて、それでひょいと癒しが与えられたと思ったら、そうではないのです。信じた時つまりまだ癒しを受けていないで信じた時から始まって、癒しを受けた後の現在に至るまでずっと救われた状態にあると言うのです。信じてひょいと癒しが与えられるということを言いたければ、現在完了ではなくてアオリストというギリシャ語特有の時制がピッタリだと思います。その場合、エソーセンと言います。それなのに現在完了形セソーケンを使って、まだ癒しを受けていないで信じた時から救われた状態にあると言うのです。これは、一体どういうことでしょうか?
その答えが福音書の別の個所にあります。マルコ10章52節を見ると、盲目の人がイエス様に目が見えるようにして下さいと懇願する。それに対してイエス様は同じ言葉「行け、お前の信仰がお前を救った」を言います。それを言った後で目が見えるようになりました。これは変です。病気の女性と皮膚病のサマリア人は癒された後にこの言葉を言われました。しかし、ここでは癒しが起きる前に「お前は、私を信じた時から今のこの時まで救われた状態にあったのだ」と言うのです。まだ目が見える前に救われた状態にあったというのです。つまり、救いというのは癒しに尽きてしまうのではない、救いは癒しを含むかもしれないが、それよりももっと大きなものであることを言っているのです。
ここで一つ驚くべきことがあります。それは、マタイ9章に本日のマルコの日課と同じ出来事を扱った個所があります。マタイの記述はマルコと違っていて、イエス様はこの言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」を女性が癒される前に語ります。この言葉を述べた後で女性は癒されます。これはマルコ10章の盲目の人の場合と同じです。「お前は、私を信じた時から今のこの時まで救われた状態にあったのだ。」それで、救いは癒しに尽きてしまうものではない、癒しを含むかもしれないが、それよりももっと大きなものであることを言っているのです。それなのでマルコ5章の日本語訳は癒し=救いという誤解を招くものです。先ほど申しましたように、もし、癒し=救いという理解が正しければ、ギリシャ語の時制をそれに合うものにしなければなりません。しかし、マルコはそうしませんでした。女性はまだ癒しを受けていないで信じた時に救われた状態に入って、その後で癒しを受け、癒された後も同じ救われた状態にあると。マタイの場合は、女性はまだ癒しを受けていないで信じた時に救われた状態に入ったと。いずれの場合も、イエス様の言葉は癒しが与えられていなくとも彼を信じた段階で救われた状態に入るということを意味しています。
そうなると、病気が治らないから信仰が弱い、治ったから信仰が強いということは言えなくなります。普通の宗教や信仰の尺度があてはまらなくなります。病気が治っても治らなくても救われているというのは、どんな救いなのでしょうか?(後注)
3.「神の国」とはどんな国?
キリスト信仰で「癒し」と「救い」の関係を考える時、イエス様の教えの中心にある「神の国」がわからないとその関係は理解できません。「神の国」はマタイ福音書では「天の国」つまり天国と呼ばれます。マタイは「神」という言葉が畏れ多いので「天」に置き換えます。それでは「神の国」、天国とはどんな国か?それがわかれば「癒し」と「救い」の関係が理解できるのならば、それはどんな関係なのか?それを以下に見てみましょう。
「神の国」はどんな国かについては2週間前の説教でもお教えしました。それを少し復習します。
神の国とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて今ある全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れてくる国です(26-29節)。この世が終わるというのは、景気の良い話ではありませんが、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもあるということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時点に既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時点で生きている者たちと一緒に最後の審判を受け、万物の創造主である神の目に相応しいとされた者は「神の国」に迎え入れられるというのです。
「神の国」の中はどうなっているのかというと、黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今のこの世で着ている朽ち果てる肉の体に替わって朽ち果てない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42-55節)。イエス様は、「神の国」に迎え入れられる者たちのことを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。
神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。旧い世での労苦が全て労われるところです。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1-14節)。
以上をまとめると、「神の国」は今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ち果てない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところです。旧い世での労苦を全て労われ、そこで被った不正や不正義も最後の審判で全て神の手で最終的に清算されてすっきりするところです。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の意思が貫かれるところです。
不正や不正義の清算についてもう少し言えば、イエス様はよく、高いものは低くされ低いものは高くされる、先のものは後にされ後のものは先にされる、と教えました(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今そうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語原文に即せば、彼らは将来間違いなく慰められることになるという約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされます。それは目指さなければならないことですが、しかし、いつも実現するとは限りません。それに、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国は、そうした無数の齟齬が、それをもたらした不正や不正義と一緒に一掃されるところと言ってよいでしょう。
さらに「神の国」は、イエス様が語り教えたということに留まりません。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業から明らかです。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、本日の日課のように一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様、飢えなどないという事物の有り様、自然の猛威の危険などないという事物の有り様、それらが身に降りかかってそうなったのです。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになります。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。
しかしながら、イエス様が「神の国」に関して人間に行ったことで一番大切なことは、それについて教えたり、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。もちろんそれらも大事なことですが、一番肝心なことは、人間が「神の国」に迎え入れられないように邪魔していたものを取り除いて、迎え入れられるように道を切り開いて下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪、神の意思に背こうとする性向を、イエス様が全部自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。
そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってそれでイエス様を本当の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。それでその人は罪を償ってもらったことになります。罪を償ってもらったということは罪の支配から解放されたことになります。人間と神との結びつきを断ち切って人間が神の国に迎え入れられないようにしようとする力から解放されたのです。なぜなら、イエス様の果たした罪の償いを受け取ると神に買い取られた、買い戻されたことになるからです。買取価格は神聖な神のひとり子が十字架で流した血です。金銀銅とは比べられない高価な値をつけられたのです。そうであれば、どうして、これから神の意思に背くような生き方が出来るでしょうか?どうして、これから十字架のイエス様を見て自分の罪の赦しがあそこにあるということを忘れたり曇らせたりすることが出来るでしょうか?どうして、あの日、主の墓が空であったことが全てに勝る真の希望にならないということがあるでしょうか?
4.天国がこの世を生きる指針となる
以上から、イエス様の言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」の意味はこうなります。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しの恵みの中で生きるという信仰に入ったのならば、神の国に至る道に置かれてその道を進むことになる、そして復活の日にそこに迎え入れられることになるということです。。そういうわけで、神の国に至る道に置かれてそこを目指して進むことが救われた状態なのです。病気の人も健康な人も、病気が治った人も治らなかった人もみんな、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの中で生きているのであればみんな同じ救われた状態にいます。そして神の国に迎え入れられた時、病気も死もない神の栄光に輝く復活の体を着ているのです。
そう言うと、じゃ、この世で病気は治らなくてもいいと言っているのか?と言われてしまうかもしれません。そんなことは言っていません。病気は放置してはいけません。治すように努めなければなりません。なぜかと言うと、そうすることは神の国を目指している決意の表れだからです。病気を治そうとすることは病気などない神の国を遥かに見据えてそこに向かうことです。治れば、神の国の有り様に少し与った、それを味わえたということで、本当の神の国はもっと素晴らしいところだろうなあ、と予感すればよいのです。もし不運にも治らなかった時は、前味は味わえなかったが、その分そこに早く迎え入れられたいと希求を強めればよいのです。ひょっとしたら、治った人は前味で満足してしまって希求しなくなる危険があるかもしれません。
同じことが正義の問題にもあてはまります。神の国で神の完璧な正義が実現し、旧い世の全ての不正・不正義は一掃される。そう言うと、じゃ、この世では正義の実現はしなくていいのか?と言われてしまうかもしれません。しかし、そうではありません。この世で十戒に示された神の意思に沿うように生きることは神の国を目指している決意の表れになります。不正や不正義を正そうとすることで、それらがない神の国を遥かに見据えてそこに向かうことになります。不正・不正義が正せれば、神の国の有り様に少し与った、前味を味わえた、本当の神の国はもっと素晴らしいところだろうなあ、と予感すればよいのです。もし不運にも正せなかった時は、前味は味わえなかったが、その分そこに早く迎え入れられたいと希求を強めればよいのです。それで正せた人はひょっとしたら前味で満足してしまって希求しなくなる危険があるかもしれません。
以上申し上げたことは、神の国、天国を実在のものとしてそれをこの世を生きる基準にするということです。こういう考え方は、ひょっとしたら現代の考え方にあわないのかもしれません。あるキリスト教会の教団の年次総会で、我々はこの地上に神の国を実現するだったか建設するだったか忘れましたが、そんなことを方針にしようとしていました。人間が神の国を実現する?それは既に神のもとにあり、復活の日に我々の目の前に現れるものではないか?その日まではそれを目指してこの世を生きるのではないか?などと思ったものです。その教団の中で働く牧師の中には、復活などないと言う人もいれば、天国などないとジョン・レノンみたいなことを言う人もいるとのことでした。恐らく、そういう人たちにとって、神の国は人間の心の中にあるもので、人間の外側には実在しない心理現象のようなものではないかと思われます。その場合、この世を去ることになったらどうなるのでしょうか?死んでしまったら心理現象も一緒に消えてしまいます。それで自分たちで作り上げるということになったのでしょうか?
4.「娘は死んではいない。眠っているのだ。」
最後にイエス様が会堂長ヤイロの娘を生き返らせた奇跡を行った時に述べた言葉、「娘は死んでいない。眠っているのだ」についてひと言です。本日の注目すべき言葉の二つ目でしたが、時間も厳しくなったので駆け足で述べます。この言葉は、この世から去る死というのは実は復活の日までのひと眠りにすぎないということを具体的に示すものです。このことは、同じ言葉が述べられたラザロの生き返らせの時にもっとはっきりします。
復活というのは、肉の体が土葬にしろ火葬にしろ消滅した後で起きるものです。ヤイロの娘の場合もラザロの場合もまだ肉体があったので(ラザロはもうギリギリのところだったでしょう)蘇生です。本当の意味での復活ではありません。本当の復活は、肉体が消滅した後に残った人格(おそらく魂)に復活の体が着せられて永久化するということです。イエス様は十字架と復活の出来事の前に生き返らせの奇跡を行った際に「眠っている」と言って起こしました。それは、彼が将来、死んだ者を眠っているがごとく目覚めさせる力があることを人間にわからせるために行ったのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの中で生きる者は、そのようなイエス様の力を及ぼされることが確実になったのです。
最後の最後に、イエス様が娘を生き返らせた時に述べた言葉、タリタ・クムですが、これはおまじないの言葉に思われるかもしれませんが、そうではありません。アラム語という当時イスラエルの地域で話されていた言葉です。テゥリーター クウミーと発音します。新約聖書は古代のギリシャ語で書かれていますが、イエス様や弟子たちは主にアラム語で話していました。それが記録されてギリシャ語に翻訳されたのでした。新約聖書の中にはこのようにアラム語の記述をそのまま残して、それはこういう意味ですと解説を付けるところが何か所かあります。どうして残したかと言うと、主の言葉がその場に居合わせた人々に強烈な印象を残したのでそれを後世の人に生々しく伝えたかったのです。そのような個所は、まさにイエス様の肉声を耳にすることが出来る個所です。この他の個所を皆さん、どこにあるか言い当てられますか?夏休みの宿題にしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注)「お前の信仰がお前を救ったのだ」はこれらの他に、ルカ7章50節でも言われます。イエス様に罪を赦された女性に対してです。ここでは癒しは関係ありません。救いは癒しに尽きてしまわないことの一つの例です。