2021年6月14日月曜日

神の御言葉という驚異の種 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教

2021年6月13日 聖霊降臨後第三主日

 

エゼキエル書17章22-24節

コリントの信徒への第二の手紙5章6-17節

マルコによる福音書4章26-34節

 

説教題 「神の御言葉という驚異の種」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課の箇所でイエス様は、「神の国」とはどういう国か教える際に種の成長に結びつけて教えています。二つの教えがあります。最初の教えでは次のように言います。「神の国とは、人が種を地に撒いて、それから夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと何が起きてくるかということに似ている。種は育っていくがそれがどう伸びていくか、その人は知らない。しかし、種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。実がなると、その人は鎌を送る。収穫の時が来たからである。」

 

どうです、皆さん、わかりますか?神の国とは、撒かれた種がどう伸びていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると。なんだか、わかったようで、でも、わからないというのが正直な感想ではないでしょうか?種が自然に育っていくというのは、私など、小学校の夏休みの課題で朝顔の観察をしたことを思い出します。絵日記をつけて、今日は芽が出ました。今日は茎、茎が伸びて葉っぱも出るようになってを何日か繰り返し、今日は花のつぼみ、そして今日は開花と言う具合に。それこそ夜は寝て日中は起きていましたから、常時つきっきりで見ていたわけではありません。それで詳細はわかりません。イエス様の教えと同じことですが、今それを思い出しても朝顔の観察から「神の国」などなかなか想像できません。しかし、教えの終わりで言われていること、鎌を送る、収穫の時が来たということを考えると、この教えは見事に「神の国」の教えになります。朝顔の成長を思い出しただけではわかりません。後でこのことを見ていきましょう。

 

もう一つ「神の国」についての教えは、「神の国」を「からし種」にたとえる教えです。イエス様のたとえの教えの中でも有名なものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜植物よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのです。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラということで、その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って23メートル位になるそうです。

 

イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がすぎて的が外れているのではないでしょうか?

 

実は、イエス様がそう言われた背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。

 

「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(2223節)。

 

確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われていて、イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばスムーズに行ったのでは?「からし種」に起こりそうもないことを言わないで済んだのではないでしょうか?イエス様は一体何を考えていたのでしょうか?

 

以下、この二つの教えについて本日は見ていこうと思います。

 

2.「神の国」とはどんな国?

 

本日のイエス様の教えを理解するために「神の国」について復習する必要があります。そもそも今日の個所でイエス様はまさに「神の国」について教えようとして「成長する種」や「からし種」を引き合いに出したからです。

 

 神の国とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて今ある全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れてくる国です(2629節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言があります(6517節、6622節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時生きている者たちと一緒に神の審判を受け、万物の創造主である神の目に相応しい者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

 

そこで目を「神の国」の内部に転じると、それは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント154255節)。本日の使徒書の日課・第二コリントの個所でもパウロは、キリスト信仰者というのは今はこの世で肉の体を纏っていて復活の体は将来のことでまだ目にしていないが、それを着せられることに希望をおいているので今の段階から神の意思に沿うように生きていくのだ、ということを言っています(569節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ1225節)。

 

神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22114節)。

 

 以上を総合して見ると、「神の国」とは今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ち果てない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。前の世での労苦を全て労われるところ。また前の世で被った不正や不正義も最後の審判で全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の神の意思が貫かれている国と言うことができます。

 

不正や不正義の清算に関して言えば、本日の旧約の日課の中で神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル1724節)と言われています。イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ1930節、2312節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今そうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ54節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、彼らは将来間違いなく慰められることになるという約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国は、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいでしょう。

 

それから「神の国」は、イエス様が語り教えたということに留まりません。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

 

しかしながら、イエス様が「神の国」に関して人間に行ったことで一番大切なことは、それについて教えたり、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。もちろんそれらも大事なことですが、一番肝心なことは、人間が「神の国」に迎え入れられないように邪魔していたものを取り除いて、迎え入れられるように道を切り開いて下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪、神の意思に背こうとする性向を、イエス様が全部自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

 

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。その人は罪を償ってもらったことになります。罪を償ってもらったということは罪の支配から解放されたことになります。人間と神との結びつきを断ち切って人間が神の国に迎え入れられないようにしようとする力から解放されたことになります。なぜなら、イエス様の果たした罪の償いを受け取った人は神に買い取られた、買い戻された人で神のものとなったからです。買取価格は神聖な神のひとり子が十字架で流した血です。金銀銅とは比べられない高価な値をつけられたのです。どうして、これから神の意思に背くような生き方が出来るでしょうか?どうして、これから十字架のイエス様を見て自分の罪の赦しがあそこにあるということを忘れたり曇らせたりすることが出来るでしょうか?どうして、あの日、主の墓が空であったことが全ての希望に勝る希望にならないということがあるでしょうか?

 

3.神の御言葉は驚異の種

 

以上、「神の国」について復習し、イエス様の十字架と復活の業こそ人間がそこに迎え入れられるようにするための業であった、万物の創造主である神の人間に対する愛と恵みの現われであったことを申し上げました。

 

ここで、本日のイエス様の二つの教えの説き明かしに入りましょう。また前置きが長くなってしまったので、駆け足になってしまうことをご了承下さい。

 

初めに「からし種」のたとえから見ていきます。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。そこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わりを告げて新しい天と地の下に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが多くの人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来のこの世が終わりを告げて新しく創造された天と地の下に現れる「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身も、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとの立場をとっています(マルコ132727節など、マタイ253146節も)。

 

それにしても「神の国」を最初からレバノン杉の大木にたとえないで、高さ23メートルほどのクロガラシを引き合いに出すのはどうしてでしょうか?それは、ここでのイエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が23メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したかったからです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉だけで十分だったのですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さなものからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは驚きだ、という位のものが出てくることを強調したかったのです。それを誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるように話をしたのです。

 

それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?

 

その答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中でこれも有名な「種まき人」があります(38節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(1420節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは神の御言葉を指すのです。

 

これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきます。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それがもとにあって最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国であると。

 

神の御言葉が取るに足らない小さなものとはどういうことでしょうか?そもそも神の御言葉とは何でしょうか?イエス様が地上にいた時、神の御言葉とは旧約聖書とイエス様自身の言葉を指しました。イエス様自身の言葉は旧約聖書に基づいていました。基づいてはいましたが、当時のユダヤ教社会のエリートたちと異なる仕方で、神のひとり子として旧約聖書を正しく教えました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、神の御言葉は十字架と復活の意味を明らかにするものになりました。旧約聖書の御言葉もイエス様の御言葉も全て十字架と復活に向かうものとなりました。特に出来事の目撃者であった使徒たちの説き明かしが大きな役割を果たしました。それで彼らの教えも神の御言葉に加えられました。

 

ここで一つの国家が成立する時、国土とか構成員とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。国家が大きくなればなるほど、これらの要素も大きくなります。ところで「神の国」は将来新しい天と地にの下に唯一現れる国なので、今のこの世の中ではまだ何もないように思われます。ところが、この世ではその構成員が一人また一人生まれ、将来そこに迎え入れられるようにそこに向かってこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れていませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かう構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。それを成り立たせているのは今申し上げた神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになると、そこに迎え入れられる人がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、将来「神の国」が現れる時、神の御言葉こそがそこに迎え入れられる決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。かつては、そうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのかとあざ笑われて取るに足らないと見なされていたことが大逆転するのです。

 

 もう一つの教え「成長する種」は「神の国」とどう結びついているでしょうか?最初に申し上げたように、終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」という言い方があり、これは「神の国」が現れる時を意味します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞αποστελλωは「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書413節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に相応しい者が神の国に迎え入れられることについて教えています(2430節、3643節)。

 

そこで地に撒かれる種とは、これも神の御言葉であると考えるとこのたとえの意味がわかってきます。ここでのポイントは「からし種」のたとえと違って、小さな取るに足らないものが大きなものに変わるという変化ではありません。それでは何がポイントかと言うと、「種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる」と言っていることに注目します。御言葉が人の心に撒かれて、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、その人は復活の日に神の国に迎え入れられるようにと、そこに向かってこの世を進んで行きます。この向かって進んで行くことが成長です。到達して迎え入れられると、実を結んで刈り入れされたことになります。

 

「種が撒かれた地が自ずから種を成長させる」というのは少し注意して聞く必要があります。それは、御言葉を撒かれた人が自分の力で成長するということではありません。撒かれたらあとは御言葉が含んでいる力が自分の内に発揮されるように任せていくということです。御言葉に含まれている力とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活が人間に対して持っている力、人間を罪と死の支配から解放して神のもとに買い戻し神の子にする力です。

 

本日の第二コリント5章でパウロも次のように教えています。キリスト信仰者というのは、一人のお方が全ての人たちのために死なれたということを厳粛に受け止めているのでキリストの愛に捕らえられているのです。全ての人たちのために死なれたのは、今生きている者が自分の方を向いて生きるのではなく、全ての人たちのために死なれて復活させられたお方を向いて生きるようになるためだったのです。洗礼を受けてキリストと結ばれる者は新しく創造された者だというのは、まさにそのことです(5141517節)。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン