2013年10月28日月曜日

神のもとに立ち返る祈り (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年10月27日(聖霊降臨後第23主日)
スオミ教会にて

申命記10:12-22、
テモテへの第二の手紙4:6-18、
ルカによる福音書18:9-14

説教題 神のもとに立ち返る祈り


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領されている国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けようと集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように警告します。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力に取り入って不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、一つ驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上述べたような実際に存在していた徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの告知を信じた大勢の人たちが、神への悔い改めを確かなものにしようと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループもいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは、これまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのでした。本日の福音書の箇所の徴税人も同じです。彼も神のもとに立ち返る必要性を感じていた人です。もちろん、本日の箇所の徴税人はイエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような徴税人が実際にいたことは、先ほども見たように、洗礼者ヨハネのもとに徴税人のグループも行ったという歴史的事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場します。イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てた、ということであります。

以上から、福音書に登場する徴税人は、神に背を向けていた人生を改めなければならない、そのためには神のもとに立ち返らなければならないと感じていた人たちなのであります。そして、実際には、感じるだけでなく、イエス様の力で本当に神のもとに立ち返ることになった人たちもいたのです。

聖書を読む人の中には、このような神のもとに立ち返った徴税人というものを信じない人もいます。福音書が伝える徴税人と全く正反対な像を主張する人の一人に、E. P. サンダースSandersという著名な新約学者がいます。1986年に出版されて世界的に注目された彼の研究書Jesus and Judaism(「イエスと第二神殿期ユダヤ教世界」とでも名付けてよいと思います)の中に、イエス様が十字架刑に処せられるに至った要因について考察する部分があります。一つの要因としてサンダースがあげるのは、イエス様が徴税人その他の罪びとたちと食事を共にしていたことです。つまり、イエス様は罪びとたちを神への立ち返りがない状態で受け入れた、罪びとの罪を公に承認した、とサンダースは考えるのです。これが、当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちの反感を買い、イエス様に対して敵意を抱かせることになったと言うのです。もし、イエス様と食事を共にした罪びとたちが神への立ち返りを行って「元罪びと」になっていたら、それは宗教指導者たちにとってはおめでたいことになるのだから、その場合には反感も敵意も生まれなかっただろう。しかし、実際はその反対だったのだ、とサンダースは考えるわけです。

 しかしながら、それではイエス様という方は、支配者たちの目にショッキングなことをやってみせて体制を引っ掻き回す、なにか注目集めの騒がし屋のようになってしまいます。私は、サンダースはもっと福音書に記述されている出来事、つまり、徴税人のグループが洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を求めたこと、レビが全てを捨ててイエス様に付き従ったこと、イエス様に受け入れられたザアカイが不正で築いた富になんの価値も見出さなくなったこと、こうした出来事をもっと重要視すべきではなかったかと思う者です。私としては、イエス様と食事を共にした罪びとたちはイエス様の招きがきっかけとなって神のもとに立ち返った人たちであったと考えるべきだと思います。

 それならば、なぜユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様と元罪びとたちの食事の宴をみて満足しなかったのでしょうか?もちろん、指導者たちは満足できるはずがありません。なぜなら、神への立ち返りということが、彼らの権威を素通りして、完全にイエス様の招きの力で実現したからです。人間はどうしたら神の意思に従う生き方をすることができるかという問題について、イエス様と宗教指導層の間には深い見解の溝がありました。マルコ福音書2章に、イエス様が全身麻痺の男の人を癒す奇跡を行った出来事が記されていますが、その時イエス様は自分が罪を赦すことが出来る者であると人々に示されました。罪を赦す立場にあるということは、神と同等の地位にあるということです。このような、人々に罪の赦しを与え、神のもとへ立ち返らせることができる人物は、宗教指導層にとっては自分たちの権威に対する重大な挑戦と受け取られたのであります。

 以上から、次のことが明らかになります。もし人が自分の造り主である神に背を向けていた生き方を変えなければならない、神のもとに立ち返らなければならない、と感じて、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、ということです。キリスト信仰者の間でよく聞かれる言葉に「イエス様はあなたをあるがままの状態で愛される」というものがあります。しかし、これが意味するところは、イエス様は、あなたの神の意思に反する生き方を続けてもよいと認めているということではありません。そうではなくて、その言葉が意味しているのは、「イエス様は、神のもとへ立ち返る必要性を感じているあなたをあるがままの状態で愛される」ということです。どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始めます。神のもとへの立ち返りの必要性を感じていない人は誰もイエス様の招きを受け入れません。仮に、立ち返りの必要性を感じないでイエス様の招きを受け入れたとしても、その人の人生には神の意思に沿った変化は何も生まれません。

2.

本日の福音書の箇所で、イエス様は祈りについて何かを教えています。そのことをみてみましょう。先週の主日の福音書の箇所も祈ることについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこで、イエス様は、神を信頼して気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えました。それに続く本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分を低くするような仕方で祈らなければならないと教えます。自分を低くするような仕方で祈るとは、まさに、神のもとへ立ち返る必要性を感じながら祈るということであります。

イエス様の祈りについての二つの教えがどう結びついているかを見てみましょう。結びつきを理解するカギは、イエス様は誰にこれらの教えを述べているかということです。「やもめと裁判官」のたとえは、先週申しましたように、弟子たちに述べられています。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189節)述べられます。ギリシャ語に忠実に訳すと「自分は神の目の前で義なる者であると自信を持つような自信過剰にあり、かつ他人を見下している何人かの者たち」です。誰がその「何人かの者たち」でしょうか?

「やもめと裁判官」のたとえの最後のところで、イエス様は尋ねます。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめが示したような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?イエス様は、この質問を、たとえを聞いていた弟子たちにしました。この質問の後でイエス様は、自信過剰に陥っていた何人かの者たちに本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話しました。つまり、このたとえが向けられた相手とは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の箇所の教えを、さらに一歩踏み込んだ教えなのであります。たとえ、信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしその人が本日の箇所のファリサイ派の人のように祈ったら、せっかくの絶えざる祈りといえども何の意味もなくなってしまいます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中にあった熱心な信徒を中心とする信仰浄化運動です。神の意思に従った生き方を実践しようと、モーセ律法を重んじ、さらに口伝えの宗教的規定を厳密に守ることも主張してしました。様々な規定を守ることを通して、神の目に相応しい者になろうとしていたのです。
 
本日の説教の最初の部分で、どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、と感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、と申しました。本日の福音書の箇所の徴税人は、まさにそうした必要性を感じて神に祈りを捧げました。彼が祈ったこと「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」というのは、「神様、罪びとのわたしを罰しないで下さい」と憐れみを乞うているのであります。神から罰せられるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとに永遠に戻れなくなるということであります。その彼が、神の目に義なる者とされたのであります。他方で、ファリサイ派の人の場合は、神に背を向けた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、とは感じていませんでした。宗教的な規定をしっかり守っているので、自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよらないし、神のもとに十分立ち返っていると思っていたでしょう。しかし、その彼が、祈った後で、神の目に義なる者とはされなかったのです。なぜでしょうか?
 
マルコ福音書7章にイエス様とファリサイ派の人たちの間の有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れを除去できないので意味がない、というものでした。それでは、どうしたら人間は自分を造られた神から切り離された状態に終止符を打てて、神との結びつきの中で生きることが出来るのでしょうか?
 
これを人間の力ではできないと知っていた神は、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、本来は人間が背負うべき罪と不従順からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。さらに神はイエス様を死から復活させて、復活の命、永遠の命の扉を人間のために開きました。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が実現した救いを受け取ることができます。救いを受け取った人というのは、イエス様の身代わりの死に免じて罪を赦された人なのであります。こうして人間はイエス様のおかげで神の目に相応しい者と映り、神との結びつきの中で生きることができるようになったのであります。

そして、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、今度は永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようになったのであります。
 
イエス様を救い主と信じて、神との結びつきの中で生きることになったとは言っても、肉をまとって生きる私たちには、まだ同じ内在する罪や汚れた悪い思いを抱えています。つまり、神に背を向ける生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じるのは、キリスト信仰者になる時だけに限られません。信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。ただ、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがなく、全て自分の力で神からの赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。

以上、キリスト信仰者が祈る場合、気を落とさずに絶えず祈らなければならないということと、自分はまた神に背を向けてしまった、今こそ方向転換して神のもとに立ち返らなければならない、と日々悔い改めの心をもって祈らなければなりません。

3.

最後に、神のもとへの立ち返りの必要性を感じた時に、神の御言葉と聖餐式には大きな意味があるということについて申し上げたく思います。神の御言葉は聖書に収められていますが、そこから私たちは、自分たちがいかに神の意思に反する生き方をする存在で、この神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるかが明らかになります。しかし、この同じ神の御言葉からさらに、神はどんなにか私たち人間が神との結びつきの中で生きられるようにと望んでおられたか、まさにそれを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られたのだということが明らかになります。
 
人は、イエス様を救い主として受け入れた時に新しい命と人生を得られます。この時、神の意思は、私たちにとってもはや忌み嫌うべきものではなくなって、喜ばしいことになります。なぜなら、私たちは、私たちをここまで愛して下さる神を愛するのが当然だという気持ちになり、そのような神の教えることには聞き従うのも当然となるからです。しかしながら、力弱い私たちは、いつも神の意思に背くようなこともしてしまいます。神の御言葉がそのことを示します。そして、同じ御言葉が、神の意思は私たちが神に背を向けてしまうのではなく、いつも神のもとに立ち返ることを望んでいらっしゃることを明らかにしています。そうでなければ、イエス様がこの世に送られることはなく、十字架で犠牲の死を遂げることもなく、そして死から復活させられたこともなかったでしょう。このように神の御言葉は、私たちの神との結びつきを強めてくれる大事な恵みの手段です。

それから、聖餐式でイエス様の血と肉を受け取る時、私たちは、私たちに確立された神との結びつきを口で味わって確認することができるのです。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年10月21日月曜日

祈る者に正義あり (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年10月20日(聖霊降臨後第22主日)
スオミ教会にて

創世記32:23-31、
テモテへの第二の手紙3:14-4:5、
ルカによる福音書18:1-8

説教題 祈る者に正義あり


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえの教えです。初めの節で言われているように、この「やもめと裁判官」のたとえは、弟子たちに語られています。イエス様がこのたとえを話された目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。この教えは、弟子たちだけに向けられたのではありません。イエス様の弟子たちは主の十字架と復活の出来事の後に福音の使徒となって自分たちが見聞きしたことを公に証言し、同時に信仰について教えていきますが、それらを信じてキリスト信仰者となった人全て、すなわち私たちにもこのたとえの教えは向けられています。
 
なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、この世の人生の歩みの中で厳しい現実に遭遇していくうちに、次第に気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさずに絶えず祈り続ける信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に気を落として祈りを絶やしてしまった後だろうか、ということです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということであります。一体どんな厳しい現実があるのか、それを後で見ていきましょう。その前に、イエス様のたとえをじっくりと見て、祈りは無駄に終わることはない、という教えを体得していきましょう。

2.

イエス様のたとえの教えには、自然現象を題材にしたものや人間ドラマを題材にしたものなどいろいろな種類があります。人間ドラマのたとえについて、それらが本当に起きたことに基づいているのか、それともイエス様の全くの創作なのかを考えるのは興味深いテーマであります。しかし、それは学者によっていろいろ見解が別れる問題でもあります。ここではこれ以上、立ち入りませんが、この「やもめと裁判官」のたとえに関しては、私は個人的に、実際に起きた出来事に基づいて、イエス様が教えの目的に沿うように多少アレンジしたものではないか、と思っています。

まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。しかし、この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキアαδικιαという単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、例えば私腹を肥やすようなことをして今なら懲戒免職されてしかるべきというイメージが起きるでしょう。この裁判官が実はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表しています(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから、無慈悲、無情な人物と言えるし、神を畏れないから、神の意思や御心に従わない傲慢な人物とも言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で、神の意思に従わない」裁判官ということです。

この裁判官についてもう一歩踏み込んでみます。2節に裁判官のいる場所を「ある町」と言っていますが、町というのは、ギリシャ語でポリスπολιςなので、正確には都市です。もし「ある都市」と言わず、ギリシャ語で定冠詞を付して「その都市」と言ったならば(さしずめ英語ならthe city、ドイツ語ならdie Stadtのようになれば)、これは決まった都市、つまりエルサレムを指します。もし裁判官のいる場所がエルサレムなら、ユダヤ人の自治の機関である最高法院を思い浮かべることができます。あの、イエス様を裁判にかけてローマ帝国の総督ピラトに引き渡すことを決めた機関です。ところが、たとえで言われている都市は定冠詞がついていないのでエルサレムではない。そうなると、どこか別の都市になります。そういう所での裁判所と言ったら、おそらくローマ帝国の裁判所にならざるを得ないのではないか。そうなると、たとえに登場する裁判官はユダヤ人ではなく、異教徒になる。異教徒の裁判官であれば、イスラエルの神など畏れなくて当たり前だろうし、ローマ帝国は占領国ですので、被占領国民のユダヤ人に対しては人を人とも思わない態度だったこともうなずけます。以上は、わずかな手掛かりに基づいた裁判官の出自についての推測です。これが事実そのものだと主張するつもりはありませんが、案外あたっているのではないかという気もしております(そうなると今度は、やもめはローマ帝国の裁判所で訴訟できるのなら、ローマの市民権を持っているのか、それとも持っていなくて直訴しているのか、という問題に発展していきます。)

次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないということが神の意思であると言われてきました(出エジプト2221節、申命記2719節、詩篇686節、イザヤ117節、ゼカリア710節)。当時は遺族年金とか男女雇用機会均等などという制度も考えもない時代の社会でしたから、夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったでしょう(例えばマルコ1240節を参照)。

裁判官と同じ都市に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」。そこで、「神をも畏れず、人を人とも思わない」裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」υπωπιαζωという意味の単語です。相手が裁判官、もしそれが占領国の官憲だとしたら、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということであります。裁判官が「彼女のために裁判してやろう」というのは、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。これから裁判を始めるということではなく、もう彼女に有利な判決を下すことに決めたということです。

ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。神の意思に従わないような裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)ということです。 

この「~ですら~するならば、神はなおさらそうするではないか」という論法は、神の愛と見守りのあることを忘れるなとイエス様が教える時に使います。例えば、ルカ11章で、魚が欲しいと言う子供に蛇を与える父親がいるだろうか?卵が欲しいと言う子供に蝮を与える父親がいるだろうか?人間は悪い存在でありながら、子供には良いものを与えることを知っていれば、神はなおさら、求める者に対して天から聖霊を与えて下さるのは当然ではないか、と(1113節)。マタイ6章では、神は明日にも枯れる野の草花を美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、と(2830節)。本日の箇所も同じで、神の意思に従わない裁判官ですら、正義の実現に動いたのだ。まして神そのものであれば、昼も夜も助けを求めて叫び祈り続けている選ばれた者たちに対して、正義を実現しないなどとはありえないではないか。神の意思に従わない裁判官は、「しばらくの間」(4節)取り合おうとしなかったが、神は「速やかに」(8節)不正を廃して正義を実現するのだ。もし、神をそのような方だと信じられないならば、それは神をあの裁判官以下にみなすことになってしまうのだ。それくらい、神が絶えず祈り求める者に正義を速やかに実現するのは当然のことなのだ、と言うのであります。

ここでひとつ注意したい言葉があります。それは、「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、まず信仰者になる者は、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は、造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た化学的合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、造られた自分と造った方との関係があるべき状態ではなかったこともわかる。最初の人間が創造主に対して不従順と罪に陥って以来、人間は死ぬ存在となり、神聖な神から遠ざかった存在になってしまった。この世の人生の歩みで創造主との関係は断ち切れたままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻ることもない。ところが、創造主である神は人間のためにこの事態を打開しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られ、人間の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて十字架の上で死なせ、このひとり子の犠牲の死に免じて人間を赦すことにした。さらに、イエス様を死から復活させることで人間に永遠の命、復活の命への扉を開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのことが全て自分のために起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の完成された救いを受け取った者、同時に自分の造り主のもとに永遠に戻れる道を歩むようになった者、これが、「選ばれた者」なのであります。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と呼ぶのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、その時、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかった」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできないのです。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。

ところで、このイエス様を救い主と信じる信仰に生きる「選ばれた人」がまさにそうである所以が、本日の福音書の箇所で述べられています。それは、「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」ということであります。キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいない、イエス様を用いて救いを実現した神以外にはいないということです。もし、信仰に生きる人がそれをしなくなってしまったら、それは、その人が神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけたか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになったかのいずれかです。その時は、「選ばれた人」はもはやそうではなくなります。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までに、イエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になると言うことが出来ます。

3.

 それでは、キリスト信仰者が厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると言う場合、どんな厳しい現実に遭遇するのかということをみてまいりましょう。

 それはとりもなおさず、信仰者が苦難や困難に陥り、事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、そういう祈りに望み通りの答えが与えられない時がそうでしょう。そんな時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか。私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか。それとも、神は万能と言われるが、実はそうではなかったのか。こうした疑いを持てば、神をいたずらにおそれてしまうか、または神に見切りをつけてしまうかのいずれかで、どっちにしても神に背を向けて生きることになってしまいます。かつて、神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきの中で生きられるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って救いを完成させて下さったのに、私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた神との結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。ルターは、そういう時こそ、私たちは一層神にしがみつかなければならないと教えています。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、そうイエス様は約束しているのです。

 祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない者たちなのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק712節、95節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/神の御心に従わない裁判官」(ο κριτης της αδικιας)ですが、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)

 今の私たちの問題にとって一番参考になるのは、詩篇の10篇、13篇、22篇と思われます。この三つは、詩の流れが共通していて、初めは、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちさえ感じられる嘆きが述べられます(10111節、1323節、2223節)。その後で、「神よ、どうか事態を打開して下さい」と、おそらくこれまでにも何度もしてきたであろう嘆願に戻ります(101215節、1345節、222022節)。そして最後は、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(101618節、136節、222527節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちさえ含まれるような素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になると思います。

そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない。

神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれているのであります。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうなのであります。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられる場合があるかと思えば、他方では、時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きとなったのであります。
 
そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ目に見える形で解決が与えられるのかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、問題がこれだけ神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする必要はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン