2023年6月29日木曜日

神は信仰を守り告白する者を最後まで責任もって面倒を見る (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年6月25日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会

 

エレミア書20章7-13節

ローマの信徒への手紙6章1b-11節

マタイによる福音書10章24-39節

 

説教題 「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任もって面倒を見る」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華を極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思に反する生き方をして内憂外患に陥り、最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされるという、その動乱の時期の紀元前7世紀終わりから6世紀初めにかけての頃のことです。神は、国に迫る危機を国民に知らせて神に立ち返るようにしなさいとエレミヤに命じます。エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。

 

 マタイ福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けると預言しています。エレミアもイエス様も、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわる大変な目に遭うと述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うと言われます。

 

 そこで本日の説教では最初に、神が魂を救うというのはどんな救いかを見てみます。その時、「魂」とは何かを考えなければなりませんが、これがなかなか難しいです。魂と似た言葉に「霊」もあります。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。旧約聖書のヘブライ語で「魂」と訳されるもとの言葉はネフェシュ、「霊」と訳される言葉はルーァハです。新約聖書のギリシャ語で「魂」と訳されるもとの言葉はプシュケー、「霊」と訳される言葉はプネウマです。「魂」と「霊」ははっきり区別されるものですが、聖書の中では時たま重なっていることもあります。今回は「霊」の方は見ずに「魂」の方を中心に見ていきます。

 

 神が魂を救うとはどんな救いか?それは、キリスト信仰では「魂の救い」が「復活」と結びついていることに気づけばわかります。その結びつきは本日のエレミヤ書の日課の個所にも見ることが出来るのでそれを見てみます。終わりに、マタイの個所が提起している問題、すなわち、人前で自分はイエス様を救い主と信じると公表すればイエス様もその人のことを天の父なるみ神の御前で自分に属する者であると認めてあげる、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということについて少し考えてみます。この日本でイエス様を救い主と信じることを公表することにはどんな難しさがあるか、それをどう乗り越えていけるかということについて考えてみます。

 

2.魂の救いと復活

 

 「魂」という言葉にはいろいろな定義があると思います。聖書に出てくる「魂」を理解しようとしたら、その言葉が出てくる箇所を全部見て、どんな文脈でどんな使われ方をしているかを見て意味を捉えることが重要です。先ほど申しましたように、「魂」という日本語に訳されるもともとの言葉はヘブライ語でネフェシュ、ギリシャ語ではプシュケーです。ネフェシュが出てくる箇所を全部洗い出す、同様にプシュケーが出てくる箇所も全部。しかし、それはなかなか大変な作業です。新約聖書だったらいつかそれをしてみようという気が起こりますが、旧約聖書だったらちょっと尻込みします。分量が多いのでこの年齢で始めたら命が一つだけでは足りないのではないかと思います。それで、ここで申し上げることは本当に氷山の一角のさらまた一角の一角にも満たない定義だということをどうかご了解頂き、話を進めてまいりたいと思います。

 

 本日の福音書の日課のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(1028節)という箇所があります。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまっても、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来る。「地獄で」と言っているので最後の審判のことを言っています。しかし人間には魂を滅ぼすことは出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分まで。人間が人間を滅ぼそうとしても、殺せるのは体までで魂は殺せない、なので人間は人間を完全には殺せない、滅ぼせないということです。逆に神は最後の審判の時に体と魂の両方を殺せる、完全に滅ぼせると言われるのです。

 

 魂は人間の目で見えない部分です。体は目で見える部分です。体は手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。しかし、魂は目で確認できません。体は死んだら腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。もちろん、神に守られていればの話です。そこで、その目で見えない魂は人間のどんな部分なのか少し旧約聖書をもとに見ていきます。

 

 詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は魂は日本語の「心」に置き換えることが出来ます。詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(23節)とあります。「生き返らせて下さる」などと言うと、死からの復活を連想させてしまいますが、ここは文字通りの復活ではありません。ヘブライ語の動詞ユショベーブは、疲れ切った状態から回復させるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた人全体です。つまり、ここでは「魂」が人全体を言い表す使い方です。さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を言い表しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化して守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は日本語の「命」に置き換えることができます。

 

 さて、聖書の「魂」は、人全体を言い表したり、「命」や「心」にも置き換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、この程度でも方向性が見えてくるのではないかと思います。方向性というのは、日本語の「魂」という言葉を聞いて頭に浮かんでくるものに耳を傾けず、あくまで聖書に出てくるネフェシュやプシュケーに耳を傾けるということです。

 

 そこで、魂は肉体が消滅してもあるということについて。肉体が消滅して、肉体のような見える形は持たないが何かその人が残っていることになります。肉体を持たない人格のようなものです。ここでキリスト信仰の中で大事な事柄、「復活」の出番となります。復活とは、使徒パウロが教えるように、死の眠りから目覚めさせられて、肉体の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる、ということです。体は肉から復活の体に変わっても、人格は変わりません。それなので「私は吉村博明である」という自分が続きます。目覚めた時、この世で纏っていた朽ち果てる体にかわって神の栄光に輝く体を纏っている自分に気づくのです。

 

 本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っています。これも聖書の「魂」が復活と結びついていることを示すところです。「命」と訳されていますが、もとの語はギリシャ語のプシュケー「魂」です。だから、本当は「自分の魂を得ようとする者は、それを失い、わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているのです。「わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得る」と言うのは、明らかにキリスト信仰者が迫害にあって命を落とすことです。そうすると、あれっ、さっきイエス様は魂は殺されないと言ったではないかと言われてしまうのですが、ここは「魂」が「命」に置き換えられるところと考えればよいでしょう。迫害で命は落としても、肉体のない人格は復活の日に復活の体を着せられるまで神に守られて眠りについている、なので「魂」は殺されてはいないのです。そして復活の日に復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる。その時の命は「永遠の命」です。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはまことにその通りです。

 

 逆に、イエス様が自分の救い主になっていない者は、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにしておらず、罪から贖い出された状態にもありません。そのような者が永遠の命を持てるようにしよう、しようと努力しても、最後の審判の時に罪が償われておらず罪からも贖い出されていない状態のまま神の御前に立たされることになってしまいます。それは非情に厳しいと思います。「自分の命を得ようとする者は、それを失う」というのはまことにその通りです。しかし、神がひとり子イエス様を用いて果たして下さった罪の償いと罪からの贖いは、神が私たち人間に受け取りなさいといつも提供して下さっているのです。今からでも受け取るには遅すぎることはありません。

 

3.エレミヤの魂の救いと復活

 

 エレミアは、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。果たして、国は滅び人々は占領国に連行されてしまいます。しかし、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現するという希望の預言も残します。神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さる方でもあることがはっきりするのです。だから祖国滅亡しても自暴自棄にならず、神を信頼して建て直しの時を待つのが正しい生き方です。

 

 エレミアのメッセージは、神の御言葉を宣べ伝えたり人々に信仰を証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものです。今日の日課の個所もそうです。神は必ず、その者に報い補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。

 

 7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」

 

 ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」の「復讐」という言葉ですが、ヘブライ語・英語の辞書によれば、人間がするものなら「復讐」でいいが、神がするものならば「報い」、「補償」にするとありました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義のアンバランスの大清算です。神に立ち返る生き方をした者がしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われる。この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的かつ完全に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとってウインウインになります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。

 

 エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳にはありませんが、ヘブライ語には「なぜなら」と根拠を言っています。「なぜなら、自分の訴えをあなたに委ねたからです」。訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということです。パウロの、復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。

 

 13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアが置かれた立場がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では動詞は完了形なので「救い出して下さった」と訳します。これは面白いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに自分の魂は既に神の手中にある、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然だと言うのです。

 

 このことは本日の福音書の日課の中で、神は私たちの髪の毛の数も全て数えて把握していると言われていることと同じです。キリスト信仰者にとって、これは神の手中にあることがこれだけ完璧であることを言っているのです。神の手中にあって私のどこも神の手からこぼれ落ちていない。そのように守られるから、最後の審判と復活の日をクリアーできる。まさに、今日の説教題「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任をもって面倒を見てくれる」のです。

 

 このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生じた。あとはその状況に入り込もう、入り込んだら今度はそこから出ないようにしっかり留まろう、そのようにして生きるだけである。それが「罪に対して死に、神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴むことになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から託された使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。

 

4.人前で信仰を告白すること

 

 本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様を救い主と信じる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に属する者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、日本の潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?彼らは、踏み絵を踏み檀家制度に組み込まれ、人前では仏教徒を装いましたが、隠れた所では代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました。これは、イエス様が教えられたことと照らし合わせてどうなのか?信仰を守り通したことになるのか、それとも信仰を公けに言い表さなかったことになるのか?

 

 この問題について、何年か前の説教で帚木蓬生の小説「守教」から大事な視点を得たことをお話ししました。どんな視点かと言うと、一つは、潜伏キリスト教徒たちは神父から、殉教は聖職者がすることである、信徒は何百年たとうが宣教師は再び必ず来日するから、その日に備えて信仰を絶やさないようにして将来の教会の再建の種を残しなさいという使命を託されました。もう一つは、隠れて信仰を続けることは実は命がけで勇気が要ることだったということです。もし、見つかって奉行所に引っ張って行かれたら、申し訳ありません、棄教しますと言っても何の助けにもなりません。拷問と死刑が待っています。小説の中では、見つかって連行されたキリスト教徒たちは棄教しようがしまいが結果は同じだからと、役人たちに向かって、あなたたちも神に造られた者だから神を拝まなければなりません、などと伝道します。まさに聖霊が語るべき言葉を与えた場面です。

 

 そこで、現代日本でイエス様を救い主を信じると公けにせよというイエス様の命令を守るとどうなるかについて考えてみます。私たちの場合はキリシタン禁教の時代のように命に係わることはないと思います。潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。ただし、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、賢明に立ち振る舞わないと圧倒的多数派の中に埋もれて埋没してしまう危険があります。圧倒的少数派であるがゆえに声をあげなければならない、イエス様の命令が一層重要になると思います。

 

 その時、自分が救い主と信じているイエス様がどんなお方であるか、どんなイエス像を提示するのかを考えることも重要です。現代社会ですと、イエス様を人権推進者ヒューマンライツ・ヒーローのように提示することは世の注目を集めると思います。マイノリティーに寄り添うイエス様、などと言ったら、世間からとても肯定的、好意的に見られるようになります。もちろん人権に反対する人にはウケないでしょうが、今の社会の趨勢は人権推進なのでイエス様をそのような方として提示するのは時流に適っていると言えます。イエス様は、信仰を告白すると迫害が起きるのは不可避と言われましたが、ヒューマンライツ・ヒーローなら大丈夫です。心配ないでしょう。

 

 これに対して、私と私を派遣するミッション団体はそういう時流からみるとかなりズレています。イエス様を提示する時は、「創造主の神のもとに行ける唯一の道である」とイエス様の「唯一性」を強調します。今時このようなことを言うと反発を受けることが多いです。イエス様はそんなに狭い考えの持ち主ではない、と。「唯一の道」と言ったのはイエス様本人なのですが..。このような提示の仕方の方がイエス様の預言が現実性を帯びてきます。そうであれば、髪の毛の数を全て数えられる位に自分は神の手中にあることが身近になります。そうであれば、エレミヤの告白、主が私の魂を救って下さったということも身近になります。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2023年6月26日月曜日

福音を携えて生きる者の心構え (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年6月18日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

 

出エジプト記19章2~8a

ローマの信徒への手紙5章1~8節

マタイによる福音書9章35節~10章23節

 

説教題 福音を携えて生きる者の心構え


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.

 

 本日の福音書の箇所は一回読めば意味は大体わかります。しかし、難しいです。言っていることの意味はわかるのに難しいとはどういうことか?それは、キリスト信仰者になると迫害を受けるとイエス様が言っているからです。信仰のゆえに当局に引き渡されるとか、果ては信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に引き渡すとか、信仰のゆえに全ての人に憎まれるとか、こんなの読んだら誰もキリスト信仰者になりたいと思わないでしょう。信仰者も、ここを読み返したら心配になる人も出てくるかもしれません。これらが、意味的には難しくないが内容的に難しいところです。

 

 意味的に難しいところもあります。例えば、1016節でイエス様は伝道に送り出す弟子たちに、「蛇のように賢くあれ。鳩のように素直であれ」と指示します。「鳩のように素直であれ」というのはわかるとしても、「蛇のように賢くあれ」とはどういうことか?創世記31節で、人類を罪と死に追いやった蛇が「全ての動物のなかで賢い」などと言われています。イエス様は、送り出す弟子たちにあの蛇のようになれと言っているのでしょうか?もう一つ意味的に難しいところは1023節、一つの町で迫害を受けたら別の町に逃げよと言っているところです。イエス様が再臨する日まではイスラエルの町をまだ全部逃げ終わっていないなどと言います。そこで、イエス様はまだ再臨されていません。と言うことは、キリスト信仰者はまだイスラエルの町々を転々と逃げ回っていることになりますが、今そんなことは起きているようには見えません。このイエス様の言葉はどう理解したらよいのでしょうか?

 

 このように内容的にも意味的にも難しいところがいろいろある本日の日課は説教でどう説き明かしていいのか困ってしまうところです。そこで解決の手がかりとして、イエス様が弟子たちを伝道旅行に派遣する場面がマルコ福音書とルカ福音書にもあることに注目します。それらと本日のマタイ福音書の記述を比べるといろいろ違いがあります。違いがあるというのは、同じ出来事の記述ではあるが、マタイはマルコ、ルカと少し違う視点で同じ出来事を眺めているということです。それを明らかにして、先ほど述べた難しい事柄をもう一度見直してみると最初と少し違って見えてきます。そんなに心配にならなくなると思います。本当にそうか、これから見てまいりましょう

 

2.

 

 本日の福音書の日課のマタイ10章はイエス様が12弟子を伝道旅行に送る際に述べた教えです。同じ出来事を扱っているマルコ福音書6章とルカ福音書910章の記述と大きく異なっています。どういうふうに異なっているかと言うと、まずマタイの方は最初に旅行のいろいろな規定が述べられます(515節)。伝道はユダヤ民族を相手にしろとか、金目のものは一切持って行くな、余分な服も靴も杖も持って行くなとか、弟子たちを受け入れない町から立ち去る時は足のほこりを落とせとかいうものです。

 

 こうした旅行規定を言った後で迫害のことが述べられます(16節~)。最初に「弟子たちはオオカミの群れの中に派遣されるのと同じだから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」とか、「イエスのゆえにあちこちで迫害を受け裁判にかけられるが、弁明の言葉は聖霊に任せよ」とか、「イエスの名のゆえに家族にさえ憎まれるが、最後まで信仰に踏みとどまれば救われる」とか述べます。その後で、先ほど触れた、イエス様の再臨の日まで逃避行が続くということが来ます。その後の続きは来週の日課になります。少し先取りして言うと、「憎しみや迫害や誤解の的になっても驚くな、主自身に起きたことは弟子たちにも起きるのだから」(24節)とか、「肉体を殺しても魂を殺せない者は恐れるべき者ではない」(28節)とか、「雀でさえ天地創造の神の意志のもとで生かされている、人間はなおさらそうである」(2931節)などと続きます。このように最初に旅行規定を言って、その次に迫害の注意喚起とそれへの心構えについて教えるのがマタイ福音書の流れです。

 

 ところが、マルコ6章とルカ9章でイエス様が12弟子を送る場面とルカ10章で72人の弟子を送る場面を見ると、マタイ福音書と同じような旅行規定を述べますが、マタイにある迫害の注意喚起と心構えはありません。そればかりか、マルコとルカでは旅行規定を言った後すぐ弟子たちは伝道に送られます。出かけた弟子たちは各地で神の国について宣べ伝え、病気の癒しや悪霊の追い出しを行ってイエス様のもとに帰還します。ところが、マタイでは111節でイエス様が弟子たちと別行動を取って自分一人で伝道を続けたように言われます。つまり、弟子たちは伝道に派遣されたのです。ところが、帰還については何も述べられていません。イエス様自身の伝道活動が11章全体で述べられ、12章に入るといきなり、イエス様がある安息日に麦畑の傍らを弟子たちと進んでいる場面がきます。弟子たちはいつ伝道旅行から帰ってきたのか?

 

 皆様も既にご存じのように、4つの福音書には同じ出来事を扱っていてもそれぞれ描写に多かれ少なかれ違いがあることが多々あります。本日の箇所もそうです。こうした違いは、違いが全くないことに比べると、かえって出来事が歴史的事実性を強く帯びるということを以前お話ししました。ここでは繰り返しませんが、マタイの記述がマルコやルカと違うことで、マルコやルカからは見えてこないことが見えてきます。これからそれを見ていきましょう。

 

3.

 

 なぜマタイ福音書では弟子たちが伝道旅行から帰ってきたことが語られないのか?

 

 マルコ福音書とルカ福音書は弟子たちが帰ってきたことをはっきり記すことで、彼らの伝道旅行はイエス様の十字架と復活の出来事の前に起きたことがはっきりします。ところがマタイ福音書では、弟子たちが帰ってきたことが述べられていないので、弟子たちの伝道旅行はマルコやルカと比べると完結した感じがしなくなります。伝道旅行はもちろん十字架と復活の前にあったことですが、マタイは十字架と復活の後に起こる伝道旅行も視野に入れているということが見えてきます。

 

 それともう一つ、マルコとルカでは迫害の注意喚起はありません。実際、伝道先では病気を治したり悪霊を追い出したりしてミッションは成功だったと弟子たちはイエス様に報告します。迫害を受けたことは報告されていません。マタイ福音書では伝道旅行は迫害を伴うと言われます。実際、十字架と復活の後の弟子たちの伝道は、使徒言行録を繙けばわかるように迫害を伴うものでした。ここからも、マタイが伝道旅行に際して迫害の注意喚起を入れたのは、伝道旅行を十字架と復活の前のものだけでなく後のものも視野に入れていたことが見えてきます。もちろんマルコとルカにも、イエス様の迫害の注意喚起はあります。ただし、それは、エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが来る時とか、そういうイエス様の再臨を待つ時代に起こることとして述べられます。要するに、マタイもマルコもルカもイエス様の十字架と復活の後の伝道は迫害を伴うということでは一致しているのです。ただ、マルコとルカは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道は別々に扱い、マタイは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道旅行が繋がっているようにしているのです。

 

 ここで、伝道が十字架と復活の前と後で意味合いが異なってくることに気づくことは重要です。十字架と復活の出来事が起きる前の伝道とは、人間を罪の支配状態から救い出す神の救済計画が実現する前の伝道です。その時のイエス様の伝道の主眼は、「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、旧約聖書を神の意図通りに正確に教え、あわせて不治の病を癒し悪霊を追い出すことでした。「神の国が近づいた」ことは、病の癒しや悪霊の追い出しから明らかになりました。病気や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう力が働く領域があるということがはっきり示されたからです。黙示録21章にあるように、「神の国」とは全ての涙が拭われて悩みも嘆きも苦しみもそして死さえない国だからです。そのような国がイエス様とくっつくようにしてやってきたのです。イエス様は弟子たちを伝道に派遣する時も、自分と同じようにしなさいと命じました。「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、それが本当だとわかるように、病を癒す力と悪霊を追い出す力を弟子たちに授けたのです。

 

 しかしながら、いくらイエス様とその力をもって神の国が近づいたことが明らかになっても、最初の人間アダムとエヴァの時に人間に備わってしまった、神の意思に反しようとする性向、罪は代々人間に受け継がれたままです。人間はそのままの状態では神の国に入ることはできないのです。罪のゆえに人間は神聖な神とあまりにも対極なところにある存在になってしまったからです。罪の問題を解決しなければ神の国に迎え入れられません。いくら病気を治してもらっても悪霊を追い出してもらっても、罪の問題の解決なくして、人間はまだ神の国の外側にとどまっているのです。癒しを受けた人たち悪霊を追い出してもらった人たちは神の国に迎え入れられたのではなく、来るべき神の国がどんな国であるか、黙示録で言われている国であることを前もって垣間見た、味わっただけなのです。

 

 人間が神の国の外側からその内側に迎え入れられるようにして下さったのがイエス様でした。イエス様は本当であれば私たち人間が受けるべき罪の神罰を全部引き受けて十字架の上で死なれました。私たち人間の罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。さらに、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を私たちのために切り開いて下さいました。神がひとり子のイエス様を用いて人間のために罪の問題を解決してくれたのです。

 

 あとは人間の方が、これらのことは本当に起こったのであり、だからイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。罪を償ってもらったからその人は神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになります。永遠の命と復活の体が与えられる日を目指して進む道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進むようになります。

 

 その時、キリスト信仰者といえども、まだ復活の体ではない肉の体を纏っているので、罪は残っています。しかし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪は信仰者の道の歩みを妨げる力を失っています。人間的な弱さや隙をつかれて道の歩みを邪魔される時もあります。しかし、一度打ち立てられた十字架の罪の赦しは永久に打ち立てられたままです。十字架が現す罪の赦しと罪からの贖い、復活の命などに洗礼によって結びつけられました。罪には信仰者の道の歩みを妨げる力がないことは明らかすぎるほど明らかです。信仰者はこの神のお恵みによって道の歩みを続けることができるのです。

 

 以上から、ガリラヤ時代のイエス様の弟子たちの伝道は、神の国が実在することを告げ、それをわからせるために病気癒しと悪魔祓いをする伝道でした。それが、イエス様の十字架と復活の後になると、伝道の目的は人間をまさに神の国の中に入らせることに変わったのです!こうなると、イエス様を救い主メシアと認めないユダヤ教社会の指導層と以前にも増して対立することになります。それだけではありません。他の神々や霊、果ては人間の支配者を崇拝するよう要求する各国政府との衝突も避けられません。マタイは十字架と復活の出来事の後に福音書をまとめ始めたわけですが、マルコやルカのようにガリラヤ時代の弟子たちの伝道を歴史的な過去として扱うことはせず、全ての時代に当てはまる普遍的な出来事として扱ったのです。伝道とは、神の国を外側から垣間見させる、味わせることではない、神の国の内側に入れるようにするのが伝道であるという視点で書いたのです。それで迫害の注意喚起と心構えについてのイエス様の教えを、ガリラヤ時代の伝道旅行のところに持ってきたのです。

 

4.

 

 このマタイの視点をもって、今度は意味的に難しいこと、内容的に難しいことを見てみましょう。

 

 まず、「蛇のように賢くあれ、鳩のように素直であれ」。ここは言葉の問題があると思います。創世記31節にある蛇はどんなだったかという言葉ァルームは、ヘブライ語・英語の辞書を見ると「賢い」もありますが、「巧妙な」、「巧みな」、「抜け目のない」もあります。蛇のやったことを考えたら、こちらの方が「賢い」よりもピッタリなのではないかと思います。マタイ10章の蛇はギリシャ語ではフロニモスと言われます。これは辞書では「賢い」という意味ですが、少し考えなければならないことがあります。ヘブライ語の旧約聖書はイエス様の時代の200300年前にギリシャ語に翻訳されました。創世記31節の問題のヘブライ語の言葉はこのフロニモスに置き換えられました。しかし、訳した人は蛇のやったことを当然知っていたので、フロニモスに「巧妙さ」、「巧みさ」の意味を含ませたと考えるのが妥当です。なので、マタイ10章のフロニモスも同じように「巧妙な」、「巧みな」と考えた方がよいと思います。

 

 創世記3章の蛇は人間を神から引き離すという明確な目的を持ち、それを見事に達成しました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という誘惑の言葉が決め手となりました。被造物にとどまるのは嫌だ、創造主の神の地位に上りたいという人間の心に上手く付け入ったのです。「巧妙」と言うのは、こうした明確な目的とそれを達成する最適な手段の選択によくあらわれています。

 

 しかしながら、イエス様は蛇の次に鳩を出すことで、目的と手段はなんでもいいということではなくなって決った方向に方向付けられます。日本語訳では鳩は「素直」となっていますが、ギリシャ語の言葉アケライオスは「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」という意味です。「素直」ではなんだか言われたことを従順に聞き従う感じになってしまいます。「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」というのは神の御前でそうだと言うことです。それなので、明確な目的を持ち最適な手段を選ぶという点では蛇と同じだが、目的と手段は神の目から見て相応しいものでなければならなくなります。伝道の明確な目的とは言うまでもなく、人間を神の国の中に迎え入れられるようにすることです。そのための最適な手段は何かを状況に応じて考えなければなりません。それを見つけられれば、鳩のように「清く」、蛇のように「巧み」になれます。

 

 次に迫害の問題について、信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に至らせるなどとは恐ろしいことです。歴史的に迫害が激しかった時代にはそのようなことがあったことは想像に難くありません。現代でもイスラム教が厳格なところではそのようなことが起こると聞いたことがあります。信仰の自由が保証されている時代に生きられて本当に良かったと思います。しかしながら、マタイ10章にある迫害の注意喚起は、先ほども申しましたように、マルコ福音書とルカ福音書では、ガリラヤ時代の伝道旅行の所ではなく、十字架と復活の後のこととして出てきます。エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが近づく時とか、イエス様の再臨を待つ時代に起こる迫害の注意喚起が述べられます。なので、キリスト信仰者は平穏の時代を生きている時も(それは感謝すべきことですが)、それは本当の姿ではない仮の姿だという警戒心を持っていないといけないと思います。

 

 警戒心だなんて、そんなこと言っていたら人生楽しくなくなると言われるかもしれません。しかし、そうではないのです!永遠の命と復活の体が待っている日を目指して進むキリスト信仰者にとって人生はどのようなものになるか、そのことが本日の使徒書の日課ローマ5章でも的確に述べられています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に相応しい者、義なる者とされる、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者になる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。天地創造の神と平和な関係にあれば、他のものは全て造られた被造物なので造り主より劣るのは明らかである。そんなものが敵対してこようが恐れるに足らず。このような信仰に立てれば、試練があってもそれは忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。パウロは、「希望」とは神の栄光に与る希望だと言います(2節)。どんな希望かと言うと、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるという希望です。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのような栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この愛を神は、洗礼の時にキリスト信仰者に与えた聖霊を通して信仰者の心に注いで下さいます(5節)。それでキリスト信仰者は聖霊のおかげで霊的な喜びに満たされるのです。

 

 この福音を伝道することがどれだけ大切なことであるか、本日のマタイ9章の終わりでイエス様が述べています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にある。それは、神との平和な関係を持たず、罪の力にされるがままにある状態のことです。神の愛も霊的な喜びもありません。人々がその状態から脱せられて神と平和な関係を持てるように、そのために福音を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。

 

 最後に、イエス様の再臨の日までキリスト信仰者は迫害を逃れてイスラエルの町々を逃げ回っているという言い方について。もちろん、私たちキリスト信仰者は迫害を受けて今イスラエルの町々を行ったり来たりしていません。そうではなくて、イエス様の言葉は、キリスト信仰者というのは本質的にこの世にではなく神の国に属する者であるということを意味する言葉と考えればよいでしょう。再臨の日が来ても、まだ全部の町を逃げ終わっていないというのは、この世には安住の場はない、本当の安住の場は神の国なのだということです。それ位、キリスト信仰者はこの世に属する可能性はゼロで100%神の国に属してしまっているということです。そこまで完璧に属しているのであれば、逆に安心ではないでしょうか?

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年6月7日水曜日

創造主の神に造られたもので行こう! (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年6月4日 三位一体主日 スオミ教会

 

創世記1章1-2章4a

コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節

マタイによる福音書28章16-20節

 

 

説教題 「創造主の神に造られたもので行こう!」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.       

 

  今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

 

 皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者、神に相応しい者にしていくということです。

 

 これら三つの人格、三つの役割は別々のようなものでも、全部が一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。この全体が神の大いなる愛を表しています。第一ヨハネ48節で「神は愛なり」と言われますが、三位一体の大いなる愛のことを言っています。

 

 本日の説教は二部構成になります。第一部では、マタイ福音書の日課の箇所でイエス様が弟子たちに、世界の人々に「父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ」と命じていることについて見てみます。三位一体の神と洗礼は不可分に結びついているということについて見てみます。第二部では旧約聖書の日課、創世記の天地創造の話を見てみます。進化論から見たら聖書の天地創造は馬鹿々々しい話になってしまうのですが、実は天地創造は現代において意外にも意味がある話であることをお話ししようと思います。

 

2.

 

 本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる箇所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎えられます。

 

三位一体の神と結びついて生きる時、私は「神に創造された者」という自覚を持つことは特に大事と考えます。と言うのは、その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないかどうかのカギになるからです。また信仰に入った後もしっかり信仰に踏み留めるかどうかのカギになるからです。どういうことかと言うと、自分が神に造られた者との自覚を持つと次に、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになります。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?

 

聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけない、という立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わってしまった。そのことが創世記3章に記されています。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、そのままの状態ではこの世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

 

 しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

 

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれて神との結びつきを持ってその道を進むようになります。

 

ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入っても道から踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。神に背を向けてしまうようなことがあっても、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれます。その時、私たちは再び神の御前にひれ伏すようになり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正してまた天の御国に向かう道を進んでいきます。

 

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。それと、造られ贖われた者が天の御国に向かう道を歩める力と支えを得られるようになることです。実に三位一体の神と結びつけられる洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神からしてもらうことです。

 

3.

 

 先ほど申し上げましたように、三位一体の神と結びついて生きる時、「神に創造された者」という自覚を持つことは大事です。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわかりません。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

 

ところが、今日では神の創造ということを信じることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

 

何年か前にイスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が話題になりました。その中で、彼は進化論の立場に立って、なぜキリスト教は進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていました。これにはなるほどと思いました。生き物は、人格と意志を持つ創造主が造るのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は、造り主がどう思っているかなんて考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

 

そこで、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めのところをもう一度振り返り、天地創造は本当は現代においても意味のある話であることを見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論についていけるインテリジェンスを持っていないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

 

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

 

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

 

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語の原文の言い方は、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。ここにあるのは、一日というのは日の出で始まり次の日の出までという考え方です。なので「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、その日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図の文句です。

 

つまり、天地創造の記述の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日にすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。このように6日というのを6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては問題はなくなります。

 

4.

 

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定します。そうすれば人間と動物は能力の差はあれ、同じ種類になるので決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見ます。ところが、聖書をよく読むと、動物も実は霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入るということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注目されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

 

 5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?魚と鳥は動物以上で人間並みということなのか?

 

 これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節です。28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それは文法的にも可能です。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

 

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムを乗せたロバが行く手に天使を見て立ち止まり、天使が見えないバラムに対して人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書にはちゃんと記載されているのです。

 

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを見てみます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇728節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さ賢明さが必要ということになります。

 

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物は人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間と動物と鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝がこの世の権力者とは全く異なる仕方で世界を治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった後の次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷つけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

 

 それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架の死と死からの復活があったのであり、贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

 

5.

 

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。いずれにしても天地創造は、救いを人間を超えて生態系にも及ぼしていることを予感できるだけで十分と思います。それなので、時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点も与えます。もし、自分は神なんかに創造されていないと言ったら、その時はもう造り主がどう思っているなんか考える必要はなくなります。自分こそ自分の主人だから自分の好きなようにやればいい、神なんかにとやかく言われる筋はない、という生き方になります。逆に自分は神に創造されたと認めたら、神との関係は必ず心配の種になりますが、神が贈ってくれた贖い主がおられる。彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きるのは自然なこと、別にとやかく言われるからするということではなくなります。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

(後注)

ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。

一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。

もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記118節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇728節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。