2019年12月16日月曜日

イエス・キリスト・インマヌエル! (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年12月15日待降節第3主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書7章10-14節
ローマの信徒への手紙1章1-7節
マタイによる福音書1章18-23節

説教題 「イエス・キリスト・インマヌエル!」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 イエス・キリストは歴史的にも世界的にも有名人です。彼が何者かはこのスオミ教会の礼拝の説教でも毎週お話ししています。今日の説教では、まず最初にイエス・キリストという名前を見てみます。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていて役に立つと思います。「キリスト」というのは、新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとはメシアのことだったのです。そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう思想が出てきます。聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は本名の苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。

 次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われたので付けました。それでこちらは本名です。そういうふうに、イエス様の名前はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。

本日の旧約と福音書の日課を見ると、まず旧約のイザヤ書7章に「おとめが身ごもって男の子を生む」という預言があります。その子がインマヌエルと呼ばれるということでインマヌエル預言とも言われます。インマヌエルとは、ヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוで、「神が私たちと共におられる」という意味です。福音書のマタイ1章の方は、その預言がついに実現する時が来たことを記しています。おとめマリアに聖霊の力が働いて身ごもりました。誰が生まれてくる子供をインマヌエルと呼ぶのかと言うと、ヘブライ語原文のイザヤ書では母親です(後注1)。しかし、母マリアがイエス様のことをインマヌエルと呼んだかどうかは、今日の福音書の日課の中には記されていません。ただ、ルカ1章にマリア賛歌と呼ばれる下りがあり、そこにマリアが神を賛美して述べた言葉があります。それを見ると、神はへりくだった心の者や神を畏れる者を本当に助けて下さるということがマリアの言葉として言われています。まさに神はそうした者たちと共にいる、文字通りインマヌエルな方なのだということが明らかに見て取れます。

このように、本日の旧約と福音書の日課はイエス様の名前について述べています。以上述べたことは名前の言葉についての辞書的な意味でした。これが、日課の御言葉を解き明すことで、イエス様の名前は私たちと私たちの命にとって大事な言葉であることが明らかになります。以下そのことを明らかにしていきたいと思います。

2.インマヌエル預言

 まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史状況の中で言われた言葉でしょうか?ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣のアラム王国と結託して、兄弟国のユダ王国を攻撃しようと計画したのです。この知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから大丈夫だ、落ち着け、そうアハズ王に伝えよ、と命じます。

 そして今日の日課の個所となります。初めは神とアハズ王とのやり取りですが、王は預言者の言葉を聞いても確信を持てなかったことが伺えます。イスラエルとアラムの共謀は実現しないと言われても、何を根拠にそう言えるのか、そこまで言うのなら証拠として神は何かしるしを見せろ、大体そんなやり取りがあったことを伺わせます。しるしというのは、大抵は奇跡的な出来事を意味します。

 それに対して神は、パニック状態にあるアハズ王に次の言葉を述べます。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」陰府というのは、死んだ者が安置される場所です。怯えてしるしを求める王に神はこう述べたのですが、どういう意味でしょうか?こういうことです。「そんなにしるしが見たいなら、自分で陰府にまで下って探し求めてみよ、あるいは、天にまで上って探し求めてみよ、そうすればきっと見れるだろう。しかし、お前はそんなところへは行ける筈がない。私を信じていればそんなところまで行く必要もない。なのに、お前はそこまで私の言うことを信じられないでいる。本当に呆れかえった」ということです。

 これに対してアハズは恐れおののいてしまって、もうしるしなど求めません、しるしを見せてくれたら信じてやるなどと神を試すことももうしません。それに対してイザヤは、「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」と言います。ここでの「もどかしい思い」とはどういう思いか分かりにくいと思います。問題となっているヘブライ語の単語(לאה)は「~を無力だと思う」という意味もあると辞書に書いてあります。それでいくと、すっきりします。「お前たちは人間を無力だと思うことではもの足りないのか?神をも無力だと思うのか?」(後注2)。

 そこまで信じられないのなら思い知らせてやろう、ということで、神は次のように言います。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」先ほども申しましたように、インマヌエルとは「神が我々と共におられる」という意味です。この言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は大帝国アッシリアに滅ぼされ、二国の計画は頓挫すると述べます。このことは、古代オリエントの歴史の教科書にも記されている通り、紀元前8世紀にその通りになります。

 さて、このおとめから生まれるインマヌエルという子供は誰をさすのでしょうか?イエス様で良いでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王は歴代の王たちと違って神のもとに立ち返る生き方をし、預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王だったからです。そして、アッシリア帝国が大軍を引き連れて今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になりますが、ヒゼキヤ王は神の力で打開できると信じる姿勢を貫きます。アッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして185千の兵を失って総退却となります。列王記下193536節、イザヤ書373637節に記されています。(因みに、アッシリア側の年代記には退却したとは書かれず、生意気なユダヤ民族を十分懲らしめたから占領しないで帰還した、というような書き方をしているとのことです。昔の大本営発表みたいです。)

 このようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれました。それで、このインマヌエルはヒゼキヤ王をさすのだと考えられたのです。
 ところが、それではヒゼキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。実は、イザヤ書714節の預言の「おとめ」という言葉、へブライ語の「アルマーעלמהという言葉は、「若い女性」、特に子供を産む前の若い女性という意味があります(後注3)。はっきりと処女の意味は持ちません。それでヒゼキヤ王は、父親のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのです。

 そうなるとは、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」とキリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?

実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インマヌエル預言」はヒゼキヤ王で完結したとは考えられなくなったことも出てきました。神の民を苦境から救い出すインマヌエルはこれから出てくるのだ、ヒゼキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだ、という見解が出てくるのです。というのは、ヒゼキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国に今度はバビロン王国から使者が来ます。バビロンは約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を連行することになる国です。ヒゼキヤ王は使者たちに王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいます。しかし、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。そして、ヒゼキヤ王の次に即位したマナセ王は神の意志に背く宗教政策をとってしまいます。それは、列王記下2434節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまいました。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのです。

イザヤ書も終わりのほうになると、神が自分の民を最終的に救う日は新しい天と地が創造される日である(6617節、22節)と言われます。天と地が新しく創造し直されると言うのであれば、その時の救いの担い手も普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。生まれる男の子はちょっとやそっとの男の子ではない、と。まさにその時、「若い女性」と訳されたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味が深まりだします。単なる「若い女性」が子供を産むということではなく、「若い女性」が「子供が生まれる前」の状態を保ったまま子供を産むという、まさにおとめが産むという理解が生まれます。こうした理解の変化があったことを示す出来事があります。それは、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהがはっきり「おとめ」を意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたことです。

このように、インマヌエル預言は最初に語られたアハズ王のコンテクストを飛び越えて、イエス様の誕生を指すものになっていったのです。しかしながら、ヒゼキヤ王のことも意味したと言うのも、必ずしも間違いではないと思います。というのは、聖書の神の預言は、イエス様のこと終末のこと新しい世のことを預言をする時でも、預言が語られた時代に直接関係があるような言い方をします。そのため、もっと将来のことを言っているのが見えにくくなります。しかし、時代に直接関係あることは起こったように見えても、少し経つとそれは実現ではなかった、本当の実現はもっと後のことなのだとわからせるものばかりです。時代に直接関係あること、例えば、アッシリア帝国の撃退とかバビロン捕囚からの解放というものは、預言の本当の実現ではない。だけど、神は預言を実現する力がある方で、預言が口から言い出しっぱなしだけのものではないことを歴史のあちこちで示すものだったと言うことが出来ます。そういうわけで、旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という壮大な視点を併せもって理解する必要があります。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」にしてしまったものもあります。国名はあげませんが、ちょっと早まったかと思います。)

3.イエスの名

さて、ヨセフは婚約中のマリアが妊娠したことを知りました。これは普通だったらショックを受けて、裏切り行為として相手を公けに非難するに値するものだったでしょう。ところがヨセフは「表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。どうしてでしょうか?マリアが可哀そうだからでしょうか?そうだったら、ヨセフを「正しい人」とは言わず「憐れみ深い人」と言うべきだったではないでしょうか?

ルカ福音書1章を見ると、天使がマリアに聖霊の力が働いて妊娠して男の子を産むことになると告げます。まだ妊娠前のことです。そして妊娠しました。どうしてそうなったか、ヨセフに伝えたでしょう。男の人によっては、そんなのは言い逃れだ!相手は一体誰なんだ!と逆上して、事を表ざたにしたでしょう。ところがヨセフはそうしなかった。なぜでしょう?それは、マリアの言うことを信じたからでした。これは本当に神の意思によるもので、聖霊の力が働いたのだ、と。そうするとマリアは裏切ったのではないので一安心ですが、それでも生まれてくる子供は自分の子供ではない。自分の家系の一員に迎え入れられない。そうなると婚約破棄しかありません。しかし、表ざたになると、みんながみんなマリアの言うことを信じないだろう、無実なのに不倫の汚名を着せられてしまうだろう。それで事が表ざたにならないようにするしかない。兄弟姉妹の皆さん、このヨセフの行動をよく見て下さい。マリアの言うことを信じ、これは神の御心によるものと信じる。しかし、自分の子供でない以上は自分の家系に加えられない。ならば破断するしかない。しかし、マリアが無実の罪を着せられないようにしなければならない。本当に難しいかじ取りだったと思います。本当に正しく振舞ったと思います。

ヨセフが破断の結論に至った時でした。天使が現れて、マリアに言ったことと同じことを言って確認を与えます。この子供は聖霊の力が働いて宿った、と。加えて、破断の必要はない、と言いました。つまり、生まれてくる子供をヨセフの家系の一員にしなさいということです。ヨセフはダビデの末裔だったので、これでイエス様は、人間として見ればダビデの家系の出身になりました。本日の使徒書のローマ1章で言われている通りです。日本語訳で「肉によれば」と言うのは、「人間として見れば」ということです。同じ個所で、「霊として見れば」神の子であると言われています(後注4)。

天使はマリアに言ったのと同じようにヨセフにも生まれてくる子供にヨシュア/イエスという名前を付けなさいと言います。ヨセフにはその理由も言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。ヨシュアの名前の意味は先ほども申しましたように、「主が救って下さる」でした。主は何から救って下さるのか?たいていの場合は、敵国から守ってくれるとか侵略者から解放してくれるというようなことを考えます。その場合は、神が守り救うのはユダヤ民族ということになります。ところが旧約聖書という書物は、神の守りや救いは一民族に限定されない、普遍的なものであると明らかにしています。詩篇1308節に「主はイスラエルを全ての罪から贖う」という聖句があります。天使の言葉「この子は自分の民を罪から救う」とは、この聖句のことを言っているのです。人間を罪から贖うというのは、人間を罪に支配されている状態から解放するということです。「贖う」というのは、何か代償を払って買い戻すということです。生まれてくるイエス様が何か代償を払って人間を罪の支配下から買い戻して自由にしてくれるというのです。果たしてそんなことが起こったのでしょうか?

それは実際に起こりました。創世記3章に記されていますが、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で人間の内に罪が入り込み、人間は神聖な神から引き裂かれて死ぬ存在になってしまいました。全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっていて、そこから抜け出られないということの現れになっています。

そこで神は人間がこの世では自分との結びつきを回復して、それを持って生きられるようにしよう、この世を去ることになっても、復活の日に復活させて新しい体を与えて永遠に自分のもとにいられるようにしよう、と考えました。それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪の神罰を受けさせて人間の罪の償いをさせました。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命を打ち立てました。死は目の前に永遠の命を突き付けられて絶対的な力を失いました。人間をひたすら死に向かわせようとする罪もその力を失いました。あとは人間がこれらのことは本当に自分のためにも起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受けると、その人は罪の償いを受けた人となって、神から罪を赦された者と見てもらえて、神との結びつきを回復します。同時に永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。その道を歩む限り、死も罪もその人を支配する力を失っています。その人は本当に罪と死から贖われて神に買い戻されたのです。贖いの代償は何だったでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で流した血でした。神のひとり子の犠牲です。それ以上高価なものはないという位の神聖な犠牲です。私たちは、神の目から見てそれくらい価値のある者と見なされたのです。このことがわかると、この新しく頂いた命と人生を損なうような生き方も神に背を向けるような生き方もできなくなるでしょう。

イエス様は十字架と復活の業によって、人間を罪と死から救って下さいました。そこで、詩篇の聖句と天使の言葉を見ると、救うのはイスラエルと言っています。やはり、民族中心なのでしょうか?そうではありません。罪と死の問題は、創世記を見るまでもなく、民族の区別などまだない時に人類一般のこととして起こりました。だから、その解決も人類全てに及びます。新約聖書でも「イスラエル」はユダヤ民族ではなく、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者の集合体の呼び名になっていきます。

4.思い起こしの励まし

兄弟姉妹の皆さん、

イエス様は十字架と復活の業によって私たちを本当に罪と死の支配から贖って下さいました。まことにイエス様は、「ユホーシュアッ」יהושעです。

イエス様は、マタイ福音書の最後で言われます、世の終わりまで毎日私たちと共にいる、と。私たちが御言葉に聴き、それを繙く時、私たちはイエス様の声を聞きます。私たちが祈りを捧げる時、イエス様は私たちの声を聞いて下さいます。私たちが聖餐を受ける時、イエス様はそこに臨在しています。まことにイエス様は、「インマーヌーエル」אל עמנוです。

最後の審判の時、イエス様は、私たちが洗礼の時に被せられた罪の償いという白い衣を肌身離さず歩んできたことを覚えていて下さり、私たちに復活の体を与えて下さる「キリスト/メシア/マーシーァハ」משיחです。

イエス・キリスト・インマヌエル!
Ιησους Χριστος Εμμανουηλ!
יהושע  משיח  עמנו  אל
 
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



(後注1イザヤ714節のקראתは女性・三人称・単数です。マタイ123節ではギリシャ語に訳されたイザヤ書が引用され、そこではインマヌエルと呼ぶのは「人々」です。

(後注2)辞書(HolladyConcise”です)によれば、לאהは、「~を疲れさせる」という意味もあり、イザヤ713節がその例であると言われています。「~を無力だと思う」の例として、エレミア126節などが挙げられていますが、私としてはこの意味の方がイザヤ713節の意味がすっきりすると思います。

(後注3辞書HolladyConcise”にそう出ています。

(後注4その「霊」に「神聖」αγιωσυνηςという名詞の属格形がつくという形で限定しています。形容詞が使われていないのが面白いですが、これは「人間として見れば」に対比する形をとったのでこのような言い方になったと考えられます。

2019年12月10日火曜日

我々が目指す旗印 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年12月8日待降節第2主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書11章1-10節
ローマの信徒への手紙15章4-13節
マタイによる福音書3章1-12節

説教題 「我々が目指す旗印」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが活動を開始したことについて述べています。ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ32節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その治世の第15年ということです。彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。それで、西暦28年か29年の出来事いうことになります。いずれにしても、洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

2.洗礼者ヨハネのスローガン ‐「悔い改めなさい」と「神の国は近づいた」

洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の国は近づいたのだから」でした。まず、「天の国が近づいた」ということは何のことか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が天国と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地にいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章には次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされてしまわないものとして現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが預言されています。

 キリスト信仰に特徴的なこととして、この世には終わりがあるという立場をとります。しかし、この世が終わってもそれで終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が来るから今のは終わるという立場です。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。迎え入れられる者は「復活の体」という創造主の神の栄光を現わす体を与えられて迎え入れられる。この壮大な大変動の時にイエス様が再臨して最後の審判を執り行う。黙示録214節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。

 さて、そんな夢のような国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?そもそも神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?今私たちのまわりにある天と地は当時と全く同じではないか?新しい天と地などまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。

 実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の存在と活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、イエス様が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、生き方を方向転換して、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたはもともと自分の造り主である神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.洗礼と神の国への迎え入れについて

 ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書242122節、262021節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、人々は神の怒りと裁きから免れるために神への不従順と罪を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの洗礼の意図は別のところにありました。どういうことかと言うと、マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらない、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、復活させられて神の御国に迎え入れられません。この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に担わせて彼に罪の償いをさせる。その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いがその人のものになる。それでその人は罪を赦された者と神に見てもらえるようになる。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア327節、ローマ1314節、さらにエフェソ42324節とコロサイ3910節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。あとは、この白い衣を手放さないようにしっかり纏うことで内に残っている罪を押しつぶしていきます。パウロが言うように、洗礼を受けた者は聖霊を受けているので、その聖霊の支援を受けながら肉から生じる罪の思いや行いを日々死なせていく、そうすれば復活の日に復活させられて神の国に迎え入れられるのです(ローマ813節)。

ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物として与える罪の赦しはまだありません。ですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点にしかすぎません。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、先ほど申しました、イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ139節、イザヤ125節、マラキ323節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまって白い衣をしっかり纏う限り、罪は人間を神の国への迎え入れを邪魔する力を失っている。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ実現する罪の赦しの救いを受け取れる器になれる、ということでした。預言者イザヤが述べた、道を平らにする、まっすぐにする、というのはこのことでした。もし、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

4.神の国と完全な正義

こうして人間は、イエス様が罪を償って下さったおかげと、その彼を救い主と信じる信仰と洗礼によって神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになりました。死からの復活が起こる日に復活の体を与えられて神の国に迎え入れられるようになりました。

ところで、復活の体を与えられて神の国に迎え入れられると言われても、何かかけ離れすぎて縁遠い話に思われるかもしれません。クリスチャンが伝道する時によく口にする言い方に「イエス様を信じましょう、そうすれば天国に行けます!」というのがあります。もちろん正しいことを言っているのですが、天国つまり神の国がどうして素晴らしいのか、どのように素晴らしいところか、それを言わないと空しいスローガンになってしまわないでしょうか?「天国に行けます」というのは、聞きようによっては、イエスを信じたら死んでしまう、縁起でもない、と思われてしまうでしょう。

天国が素晴らしいところというのは、何か綺麗な花が一杯に咲いている楽園をイメージするというような感覚に訴えてわからせることがあると思います。最初の天地創造の時にエデンの園がありました。次に起こる天地創造の時はどうでしょうか?黙示録21章と22章をみると神の国は都市のように描かれています。光はもはや太陽の光ではなく神の栄光の輝きです。その国のなかを輝く川が流れ、岸には「命の木」なる木がありますが単数形なので1本です。神の国には今私たちが美しいと感じる自然に類する自然はあるのでしょうか?それとも、同じ自然ではないかもしれないが、今の自然から美しいと感じるその「美しい」がもっと完成された「美しい」になっている。それで、今感じる「美しい」はその完成された「美しい」の前触れのようなものということなのか?もし、そうならば、私たちは神が最初の天地創造の時に造って下さったものの中にある「美しい」をもっと見つけ出して大切にする、そうすることで天国が感覚的に身近になるのでと思います。

聖書の観点は、天国をこのように感覚的だけではなく認識的に捉えるということもあると思います。「認識的」というのは正確な言葉ではないかもしれません。どういうことかと言うと、本説教のはじめで、神の国というのは、この世の労苦が全て労われて無念の涙を含む全ての涙が拭われて死も心配も嘆きも苦しみもない国、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全にされる国と申しました。正義の問題については前回と前々回の説教でお話ししました。少し振り返りますと、正義というのは、この世の段階で人間同士の間で実現するのはとても難しい、一筋縄ではいかない。もちろん、損なわれたら回復しなければならない。そのために国や社会には法律や司法制度があり、国と国の間には国際機関がある。しかし、出来事を全て隅々まで100%詳細に正確に客観的に把握できる人はいません。それで、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるとか、逆に本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求められることが起こる。人間同士が行うことは不完全で不釣り合いなことばかりです。

聖書の立場は、全ての人間の全てのことを知っている全知全能の神とそのひとり子のイエス様が下す判決が釣り合いがとれた完全なものである。だから、私たちがこの世で正義の実現を努力するにしても、全ては最後の審判の時に決着がつけられるということに託さなければならない。このことがローマ12章のパウロの教えからわかります。最後の審判での正義の実現に全てを託すと、キリスト信仰者はこの世では次のような姿勢にならざるを得ない。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返すことはしない、迫害する者のために祝福を祈る、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、相手を自分より優れた者として敬意をもって接する、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐せずに神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、神の正義実現に全てを託すとこういう生き方になるとパウロは教えます。正義の回復や実現のために努力はしても自分自身は神にならないということです。そうならないのは、最後の審判で完全な正義が実現することに全てを託しているからです。

 そこで、神の国で完全に実現している正義とはどんなものなのか?「釣り合いが取れた」だの「完全」だの、言葉で飾らないでもっと具体的に言えないのか?具体的なことは天国がやって来ないとわかりません。それでも、本日の旧約の日課イザヤ書11章の預言を見ると、完全な正義が実現する神の国が垣間見ることが出来ます。本説教の締めとして、それを垣間見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡することを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒れ果てて民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できましたが、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、ダビデ家系から出てくるイエス様が登場したのです(後注)。

そのイエス様が最後の審判で裁きを下す時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も、助言も、力も、知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が正義を実現する判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い」というのは、ヘブライ語原文を直訳すると「立場の弱い人たちのために『正義をもって』(בצדק)判決を下す」です。「この地の貧しい人を公平に弁護する」も、「この世のへりくだった人たちのために『ストレートに』(במישור)判決を下す」です。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。王様が自分の決定を告げる時、杖で床を打つと臣下の者たちは「ははー」と畏まります。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、「口から吐かれる息(ברוח)が強風のようで有罪判決を受ける者たちを永遠の死に吹き飛ばす」という意味になります。「永遠の死」については、本日の福音書の洗礼者ヨハネが「永遠に消えない炎」と言っています(ヘブライ語の辞書はHollady”Concise”です)。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼性のある」という意味です。最後の審判者を見れば、そのいで立ちは文字通り正義を体現し、信頼しきって大丈夫な方だとわかるものということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩の美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。まさに神を知らないことが一掃されるので、正義に反することも一掃されています。正義が隅々まで行き渡っています。

10節「その日」というのは、旧約聖書では「その日」、「主の日」、「神の怒りの日」という言い方でよく出てきます。それはバビロン捕囚の前の時代なら、敵が攻めてきて国が亡びる日という理解がされましたが、バビロン帰還の後の時代は、私たちの今の時代も含めて、それは今の世が終わり新しい世が来る時、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時を指します。その日に、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、イエス様の出身民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。兄弟姉妹の皆さん、私たちが目指して進む旗印はこれではっきりしたでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)ただし、イザヤ111節の「切り株」はגזעで、613節のמצבתהとは違っています。

2019年12月2日月曜日

闇は深くても、夜明けは必ず来る (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会、宣教師)

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日
スオミ教会

イザヤ書2章1-5節
ローマの信徒への手紙13章11-14節
マタイによる福音書21章1-11節

説教題 「闇は深くても、夜明けは必ず来る」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第一主日の礼拝で必ず「ダビデの子、ホサナ」が歌われます。キリスト教会の新年の幕開けを元気に迎えるに相応しい歌だと思います。スオミ教会でも今皆さんと一緒に歌いました。フィンランド語やスウェーデン語では「ホサナ」は「ホシアンナ」ですが、この言葉は詩篇11825節にある言葉「主よ、どうか救って下さい」ヘブライ語のホーシィーアーンナァהושיעהנאに由来します。それで、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書でも本日の福音書の個所の群衆の歓呼は「ホシアンナ」になっています。どうして日本語の聖書と讃美歌では「ホサナ」になっているかと言うと、恐らくヘブライ語のホーシィアーンナァをアラム語に訳したホーシャーナהישע־נא 用いているのではと思います。アラム語というのは、イエス様の時代の現在のイスラエルの地域の主要言語です。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それなので、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語だった可能性が高いです。どっちの言葉にしても、もともとは「主よ、どうか救って下さい」の意味だったのが、古代イスラエルの伝統では群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉として用いられるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳!」になるでしょう。

 とすると、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

2.群衆の目に映ったロバに乗ったイエス様の凱旋

 このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事でした。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、今回は旧約の日課イザヤ書2章とローマ13章も用いて解き明かしを深めていこうと思います。

 まず、イエス様のこの行為は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。本日の旧約の日課イザヤ書2章でもそのような平和な世界が到来することが言われていました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。」これを読むと、本当に世界中の戦車や戦闘機や軍艦を一斉にスクラップにして、全世界の核兵器やミサイルも全部どこか、アリゾナの砂漠でもゴビ砂漠でもシベリアのツンドラ地帯でもどこでもいいから一ヵ所に集めて全世界の人たちが注視する実況中継の前で一斉に解体・分解したら、どんなにかせいせいすることか。そんなことされては困ると言う人もいるかもしれません。兵器の解体、スクラップ化を妨げる要因は何かを列挙して、それらを一つ一つを除去する手立てを考えるというのは、新兵器をどんどん開発することよりも難しいことなのでしょうか?

 話がそれました。旧約聖書の「世界の平和」についての預言に戻ります。そういう平和な世界を打ち立てる者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、ロバに乗ってやってくるという預言がありました。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。民衆の期待が高まったのは無理もありません。彼らが考えていた預言の実現というのは、ダビデ家系の者が王となって神の偉大な力を得てユダヤ民族を占領者ローマ帝国から解放してイスラエルの王国を再興するということでした。それが成就すると今度は、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムの神殿に上って来る。このような理解が預言に対して生まれたのは、先ほどのイザヤ2章の3節の預言「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」これがあることは言うまでもありません。

 後世の私たちから見たら、そんなことはイエス様のエルサレム入城の後に起きなかったと事後的にわかるので、預言は見事に外れたと言うでしょう。しかし、当時の人たちは預言をまさにユダヤ民族の解放と諸国民のエルサレム神殿参拝の日である理解していたので、ロバに乗って凱旋するイエス様を見て、ついにその日が来たと思ったのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?華々しい凱旋は、全くの期待外れの結果で終わってしまいました。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。まず、神殿から商人たちを追い出して、当時の神殿体制に真っ向から挑戦しました。また、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのに占領者の軍事介入を招いてしまう、そういう懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に預言されている終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と見なしている、これも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

3.イエス様の凱旋の本当の意味

イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、何か人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。それは、イエス様が神の力で死から復活させられたことです。これによって死を超えた永遠の命が打ち立てられたことが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活ということが本当に起こるものであることが明確になりました。死の力を上回る命があるということがはっきりしたのです。死の力を上回るものが現れた時、人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

どのようにして、そうしたことが起きたかと言うと以下の次第です。創世記に記されているように、最初の人間が創造主の神に対して不従順になり罪を自分の内に入り込ませてしまった。その結果、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまった。それを神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受けて死なれた。まさにイザヤ書53章にある、人間が神罰を受けないで済むようにするために神の僕が自分を犠牲にするという預言が実現したのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死は永遠の命を突き付けられて自分がもう絶対的な者ではないことを思い知らされました。人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

そこで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、死は絶対者でない、罪も存在する意味がない、という状況の中に置かれることになります。そこでは、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神からは罪を赦された者として認めてもらえます。罪を赦されたのですから、神との結びつきが回復しています。進むべき道として、死を超える永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むことになります。罪がキリスト信仰者に神罰が下るようにとそそのかしても、既に罪を償われて赦されてしまったので、神罰の下しようがありません。このようにして人間は罪の支配から脱することが出来るようになりました。永遠の命に向かうので、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、死もその人には何もなしえまえせん。

このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム凱旋は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあるということが明らかになりました。罪と死からの解放、造り主との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命の獲得、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

4.キリスト信仰者と平和の実現

 イエス様の十字架と復活の業によって全人類にとっての課題が解決されたと言うのなら、ゼカリア書9章やイザヤ書2章にある、世界の完全な平和についての預言はどうなるのでしょうか?十字架と復活の出来事が起きて、そのような世界が果たして実現したでしょうか?人類の歴史を見渡せば、戦争が起きて終わって、少し和平が続いて、また戦争が起きるという繰り返しでした。武器のスクラップ化ということも、弓矢や刀の時代なら簡単に考えることができますが、現代のように装備、技術、規模とも途方もないものになってしまっては、そう単純なことではないのではないか。そうなると、預言された完全な平和というのは、ますます実現困難に見えてしまいます。

 兄弟姉妹の皆さん、実は、聖書で言われる、武器が存在しない世界、誰も戦争の仕方を学ばない世界、それくらい完璧な平和というのは、これは今の世の次に来る新しい世での平和のことです。父なるみ神が今ある天と地に替えて、新しい天と地を創造し、そこに唯一揺るがない神の国が現れる。この神の国にある平和がゼカリア9章やイザヤ2章で言われている完全な平和です。聖書の立場に立つと、今の世が終わる終末というものがあります。その時、イエス様が再臨して、「生ける人と死んだ人を裁く」という最後の審判があります。審判の結果、神の国に迎え入れられる人たちは神の栄光に輝く復活の体を着せられて祝宴の席に着き、この世の全ての労苦の労いを受けます。イザヤ書2章を読むと、諸民族がエルサレムに向かって進むとか「ヤコブの家」とか、ユダヤ民族に結びつく言い方がされるので、どうしても同民族の解放について言っているという理解になりやすい。しかし、イザヤ書の預言を黙示録と重ね合わせて読むと、実は預言は終末と新しい世のことを先取りして言っているとわかります。黙示録の方でも神の国を「天のエルサレム」などと呼びますが、それは名称だけのことで、現在中東にある都市とは関係はありません。

このように聖書では武器が全く存在しない、戦争の知識もないという信じられない平和な世が預言されています。そこで、この平和は今の世の次に来る新しい世の状態であるというのが聖書の立場だとすると、今の世ではそういう完全な平和は無理ということなのか?そうしたら、この世で平和の実現を求め努力することは意味がないのか?どうせ次の世で実現するのなら、今は別に何もしなくてもいいという考えになってしまわないか?聖書はこの世の平和問題について消極的な態度なのか?等々、いろんな疑問や反論が出るでしょう。

 この問題については、先週の説教でお教えした、完全な正義の実現ということを重ね合わせて考えてみたらよいと思います。この世では完全な正義は実現しない。例えば、とても大きな悪や害を被ったのに、その解決を目指してどんなに頑張っても得られる償いは小さすぎるということがある。また、他人に与えてしまった害に対してあまりにも法外な補償や謝罪を要求されることもある。そうしたことは、日々のニュースからでも、また自分の身の回りからでも、よく起こるとわかるでしょう。このように、人間同士の間で実現しようとする正義はどうしても偏ったり、不釣り合いなものになってしまう。しかし、神は最後の審判の時、不完全で未解決だった正義の問題に決着をつけるので、神の国は完全な正義で覆いつくされる世界となる。黙示録214節で、神は「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる」と言われる時、その涙とは痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。文字通り「全ての」涙です。ギリシャ語原文でも「全ての」πανとついています。

神は最後の審判の時に無念の涙を含む全ての涙を拭って完全な正義を実現すると言われる。それじゃ、この世ではそういう正義は実現しないということなのか?もしそうなら、正義の実現のために努力するのは意味のないことになってしまうのか?実はそうならないということを先主日の説教でお教えしました。その時、ローマ12章でのパウロの教えが鍵になると申しました。もう一度みてみますとパウロは、悪を憎め、ただし悪に対して悪で返してはならい、迫害する者のために祝福を祈れ、相手を自分より優れた者として敬意を持って接しろ、高ぶらず身分の低い人たちと交われ、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣け、自分で復讐しないで神の怒りに任せろ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませろ等々、そういうふうに教えました。神が正義を完全に実現するということに全てを託すと、そういう生き方になるのです。次の世に実現するからと言って、この世で何もしないで手をこまねいているわけではありません。不正義や不正には当然対抗していく。しかし、その場合、正義を振りかざして逆に不幸をまき散らさないようにするための神の知恵がここにあります。

完全な平和の実現もこれと同じです。預言にあるような完全な平和は次の世に実現するものである。だから、今この世にいる間は、ローマ12章の神の知恵に従って、平和に反することに対抗していかなければならない。知恵に従えるのは、神が平和を完全に実現することに全てを託しているからです。さらにローマ12章の18節をみてみると、パウロは全ての人たちと平和な関係を持つことを勧めています。他の人たちとの平和な関係を持てるかどうか、それがあなたがた次第であるならば是非そうしなさい、と教えます。つまり、キリスト信仰者は少なくとも自分から平和を崩すようなことはしてはいけない。それじゃ、相手がどんな出方をしても、こっちは何もしないで言いなりか?と言うと、そうではない。最後の審判の時に全てが決せられるということに全てを託して、この世では神の知恵に従って不正や悪に対抗していくということです。

5.闇は深くても、夜明けは必ずやって来る

次の世での完全な正義と平和の実現に全てを託して、この世ではその正義と平和を遠くに見据えるようにして生き、神の知恵に従って不正や悪に対抗していく、これを本日の旧約の日課イザヤ2章は「主の光の中を歩く」ことと言います。使徒書の日課ローマ13章では、この光についてもう少し具体的に述べられています。

12節の「夜は更け、日は近づいた」。「日」とはお日様が出ている「日中」ですが、ここでは新しい天と地が創造されて復活の体を着せられた者たちが神の国に迎え入れられる日のことです。神の栄光の輝きに満ちた光の日中です。従って「夜」は、復活の栄光の前の時代なので、今のこの世の時代です。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」今はまだ新しい天と地の創造が起きていない「夜」の段階であるが、この「夜」はもうすぐ終わる。だから、キリスト信仰者は約束されているのだから疑わずに、今はもう復活させられて神の栄光を現わす者になっているかの如く、そのような者としてこの「夜」が終わりつつある最後の時代を生きようということです。

この「夜」が終わる時代にあって、「日中」の復活させられた者として生きるためには「光の武具」を身に着けることが必要である。この世というところは、神との結びつきを持つ者や将来復活させられる者を見つけたら、すぐ引き離そうとするからです。キリスト信仰者が身に着けるべき武具はエフェソ6章にリストがあります。帯として神の真理、胸当てして神の正義、履物として平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜として救い、剣としての霊がそれです。これらの武具は神がキリスト信仰者にちゃんと取り揃えて下さるものです。信仰者は自分が纏っているこれらの武具をいつも確認しなければなりません。そうすることで、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いない」ようになります。この文は、私なら意訳して「肉の言うことに耳を傾けたり聞き従うと欲望が欲望を生む状態となる」とするでしょう。これが闇の行いです。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみが言われています。肉の言うことに耳を傾けて聞き従ってしまうと、こうした闇の行いに走って行ってしまいます。夜が終わって明るくなったらその人は存在する場所がありません。しかし、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを白い衣のように被せてもらうことは、今からでも間に合います。夜は必ず終わります。急がないといけません。

夜の闇は深くても
夜明けは必ず来る。
だから今のこの闇の残りの時間は、
もう光の中にいるつもりで生きよう。
もう闇の行い、肉の思いへの従属はやめよう。
夜が明けた時に手遅れにならないために。
だから、今から光の中にいるつもりで生きよう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン