2023年10月23日月曜日

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に  - あなたはどの死生観に立って生きるか? (吉村博明)

説教 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日

 

イザヤ書45章1-7節

テサロニケの信徒への第一の手紙1章1-10節

マタイによる福音書22章15-22節

 

説教題 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に 

- あなたはどの死生観に立って生きるか?」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに  イエス様の言葉の歴史的背景

 

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。

 

 まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。

 

 それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。

 

 ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。

 

 まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。

 

 先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。

 

 さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。

 

 2.「神のもの」とは「神の国」に関わること

 

 イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。

 

 イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ212832節の二人の息子のたとえ、3341節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22114節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。

 

 少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。

 

 当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。

 

 さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。

 

 それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ2758節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。

 

以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。

 

「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。

 

 キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 

しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。

 

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。 

 

キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。

 

キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。

 

3.あなたはどの死生観に立って生きるか?

 

 そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。

 

 そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。

 

 ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書457節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。

 

このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。

 

この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録419節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。

 

信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。

 

この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。

 

キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2023年10月9日月曜日

キリスト信仰者は神の国を目指す (吉村博明)

                                                  日本福音ルーテル市ヶ谷教会


主日礼拝説教 2020年10月4日 聖霊降臨後第18主日

 

イザヤ書5章1-7節

フィリピの信徒への手紙3章4b-14節

マタイによる福音書21章33-44節

 

説教題 「キリスト信仰者は神の国を目指す」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イザヤ書5章の「ブドウ畑」のたとえ

 

 本日のイエス様のたとえの教えは、聖書を読んだことのある人なら理解しやすいのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 

これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らはモーセを介して神から律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の心は次第に神から離れていって、神の意思に反する生き方に走っていってしまった。社会秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。

 

そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様を贈ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?

 

指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書51~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていたという、これもたとえです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。

 

さて神は、イスラエルの民が良い実を実らせるように出来るだけのことをした。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は神の意思に反する生き方に走ってしまった。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、そういう当時の状況をよく言い表していました。さて、当時ユダヤ民族は南北二つの王国に分裂していましたが、北の王国は紀元前722年にアッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南の王国はその後130年近く持ちこたえますが、これも紀元前587年にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書556節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。イザヤが書き記した神の御言葉はまさに預言として実現してしまったのです。

 

2.イエス様の「ブドウ園と農夫たち」のたとえ

 

 イザヤの時代から700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と農夫のたとえを話しました。相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

 

実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が織り交ざっているという面もありました。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は農夫に畑を任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

 

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、バビロン捕囚の経験からして神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

 

それならば、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことなのか?たとえを聞いた指導者たちはそう思ったでしょう。そして思い当たりました。そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさかという感じになった、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

 

この答えの後でイエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇1182223節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てたというのは、価値あるものを理解できない者であるとわかります。それは、先ほどの農夫同様に邪悪な者を指しているとわかります。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνοςは、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて、ぶどう畑のたとえを話されました。それは、イザヤ書のたとえはバビロン捕囚に至るユダヤ民族の過去の歴史で完結していないことを教えているのです。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神が望むような実を結ばなければ社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されて500年以上も前にとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。

 

 ここまでイエス様の話を聞いていた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちとは旧約聖書に登場する預言者たちのことです。つまり、邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 

3.「神の国」とは?

 

 イエス様のたとえの中でまだ実現していなかったこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。そしてイエス様の復活後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じるユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったわけですが、このたとえも過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?

 

そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えているのです。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。現代の私たちの地点から見たら過ぎ去った過去のことを言っているにしか見えないかもしれませんが、今を生きる私たちにどう生きるべきか教えているのです。そのことがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくてずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族であるかどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族の指導者たちは取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の私たちは与えられて嬉しいものなのか?

 

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 

 神の国は今は私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

 

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録214節(717節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには、神との結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 

 この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。そこで今度は私たち人間の方が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見てもらえます。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 

 ところが、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(1314節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。神の国への迎え入れが賞として授与されるのです。

 

4.神の国の実を結ぶとは?

 

 最後に「神の国の実を結ぶ」とはどういうことか見てみます。イエス様は、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われました。先ほど述べたことからわかるように、罪の赦しという神のお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられます。ということは、罪の赦しのお恵みの中で生きて神の国への迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになります。つまり、こういうことになります。

 

 キリスト信仰者というのは、罪の赦しのお恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向する者です。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何かご褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが何かの手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。それともう一つ。罪の赦しのお恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願う、そしてイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2023年10月2日月曜日

過去の呪縛や祟りから解放されて新しく生きる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、牧師)

 

主日礼拝説教 2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日)スオミ教会

 

エゼキエル書18章1-4、25-32節

フィリピの信徒への手紙1章1-13節

マタイによる福音書21章23-32節

 

説教題 「過去の呪縛や祟りから解放されて新しく生きる」

 


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイの個所は全く異なる出来事が記されていますが、よく見ると共通するものが見えてきます。過去の呪縛から解放されて新しく生きるということです。

 

 エゼキエル書の個所は紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国は神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。

 

 ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても無駄、自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったのだと。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。

 

マタイ福音書の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は群衆の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。

 

これに対して民族の指導者たちは反発し、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、と尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか持ち出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神から来たと言えばよかったのになどと思ったりします。

 

その後に二人の息子のたとえが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが実際は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解放されて新しく生きることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。

 

2.エゼキエル18142532

 

 エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている521節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、事実に基づかないで裁きを行うこと等々、神の意思や掟に従わないことです。なんだか現代の日本の社会のことを言っているみたいですが、どうでしょうか?神は、こうしたことをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。

 

 この、死なないで生きるというのは深く考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史をモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。

 

 先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は先にも申しましたように、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味よりも大きな意味です。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。

 

 さて、罪の責任は先祖や他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖は神とどんな関係だったかは全く無関係になりました。日本風に言えば、先祖の祟りとか何かの祟りとか全く関係なくなったのです。だとすると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。

 

 聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の時には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。

 

3.マタイ212332

 

ユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただした時、もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ました。ただ、そうすると指導者たちは、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。

 

二人の息子のたとえに出てくる父親は神を指します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちがこれと同じだと言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。

 

ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる日について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。

 

娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪びとと見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。現代にもそういう態度の人はいますが、そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。

 

話が少し逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨハネのもとに行き洗礼を受けました。その中に徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まりません。人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だけだったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。

 

さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにする、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判が起こるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。それなので、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。

 

ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をヨハネからつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行いで罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。

 

まさにそこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。神が贈られたひとり子イエス様です。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?でも、そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うことになるのか?どうやって、それがわかるのか?口先だけではないのか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った人たちの中には罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立ってしまった人たちが多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。

 

イエス様が持つ罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにした、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。

 

イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることもあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。この世のふるさとよりも確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることと、神と自分の結びつきが揺るがずにあることを知ることが出来ます。

 

そして、いつの日か神のみ前に立つことになる時、父なるみ神よ、私はあなたが成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことがあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです。そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰者です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン