2014年12月31日水曜日

奇跡を超える信仰 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年12月28日 降誕後主日

イザヤ書62章1節-5節
コロサイの信徒への手紙1章15-20節
ヨハネによる福音書2章1節-11節

説教題 「奇跡を超える信仰」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業について記していますが、福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴というものはイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ23メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を瞬く間にぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人たちを助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教の聖書の箇所としてもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新しい門出を旅立つ新郎新婦の心を和ませてくれるでしょう。

ところで、この箇所は、よく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に祝宴会場にはもう全然ぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、「この件に関して、私とあなたとの間にはなにがあるというのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいというのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けられます。

こうしてみると、マリアは祝宴からお祝いムードがどんどん冷めていくのを見るに耐えかねて、イエス様に、お前何かできないかね、と打診して、それに対してイエス様は母親に、あなたが私に頼む筋合いではない、私の時はまだ来ていないのだ、と答えたのであります。イエス様は、はい、わかりました。ひと肌脱ぎましょう、とは言わなかったのであります。イエス様の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離す内容に聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様はなんだかんだ言っても助けてくれると理解していたのであります。結果をみれば、その通りになって優しいイエス様の面目は保たれるのですが、それにしても最初のやりとりはわかりにくく、イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。

しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくな方でも、素直でない方でもなく、ちゃんと意味の通ることをおっしゃっているのです。「わたしの時はまだ来ていない」という言葉をちゃんと理解できれば、そのことがわかります。以下にそれについて見ていきましょう。

2.

「わたしの時はまだ来ていない。」「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはどんな時なのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教えて、ユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時、地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(1223節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(171節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げる時、その前に受ける拷問を含めて大いなる苦しみを受ける時、そしてその後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時であります。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪と神への不従順を神から赦していただくための神聖な犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのであります。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれたことになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味していたのです。地中海世界の各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのは、どんな意味かというと、それは、「まだ私が十字架の苦しみの道に足を踏み入れておまえたちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と計画について、また神の国というものについて正確に教え、さらに神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の段階の今は、私はこのミッションを続けなければならいのだ」という意味であります。

3.

 このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいて自分のミッションを続けなければならない時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様や彼を送った父なるみ神が優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられなかった、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様や父なるみ神は優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方の限られた地域だけでなくてもっと世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、ミッションを限られた地域にとどめ、さっさと十字架の苦しみの道に入られました。それは、イエス様と彼を送った父なるみ神にとって、十字架の死と死からの復活の出来事を起こして、そこから神と人間の結びつきを回復して、人間が永遠の命に至る道に置かれてその道を歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言います。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14911節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身も問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(626節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまではとらえるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのであります。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから、どうやって自分は神の意思に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という奇跡の中の奇跡が起きる前はなかなか難しいことなのであります。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とは、神の手に負えないしょうもない存在なのであります。それにもかかわらず、神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を用いてこの人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

4.

 以上から、イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいて自分のミッションを続ける立場にある、ということを意味したことが明らかになりました。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことはよくわかっている、というのであります。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、何にもしないよ、という意味ではなく、私がまだ人々の間にいる以上は何かするつもりでいるのは当たり前ではないかという意味であることが明らかになります。ただし、何かするにしても、それを行うのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということが含まれていることを忘れてはなりません。いずれにしても、マリアはイエス様の言葉を聞いて、ああ、イエスは何かをするつもりだなとわかったのであります。それで召使いたちに、言われた通りにしなさいと命じたのでした。イエス様は別にあまのじゃくでも、素直でない方でもなく、彼とマリアのコミュニケーションは、問題なく通じていたのであります。(私たちの新共同訳の聖書では、イエス様が問題の言葉を述べた後、マリアが召使いに言いつける際、「しかし、母は召使たちに」と「しかし」という言葉が入っています。ギリシャ語原文には「しかし」はありません。ここで逆接の接続詞を入れたから、イエス様の言葉があまのじゃくのようになってしまったと思われます。)

 これまで申し上げてきたことの中には、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味やリスクを考えるよい材料があったと思います。私たちの目の前には、当時の人たちと違って、奇跡の業を目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃりません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と思う人がいるかもしれません。しかし、当時の人たちと私たちの間にはひとつ決定的な違いがあります。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていた人たちでした。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでありました。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者ですから、イエス様の来た後の時代を生きていることになります。この違いは決定的です。

どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去り、自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の意思に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。私たちも実は、このように十字架と復活の出来事の後に、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に左右されない信仰です。私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年12月29日月曜日

人類の希望のクリスマス (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

降誕祭前夜礼拝説教 2014年12月24日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書9章1-6節
ルカによる福音書2章1-20節

説教題 「人類の希望のクリスマス」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

1.

クリスマスと言えば、一般には何か希望が叶う素敵な日というイメージが持たれていると思います。例えば、子供が欲しかったものをプレゼントにもらったりすると、クリスマスは希望が叶う素敵な日というイメージが定着します。また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れましたが、離れ離れになった親子がお互いを一生懸命に探し続けて、やっと再会を果たすのがクリスマスの日だったというような感動ものを見た記憶があります。クリスマスに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではないでしょうか?

どうして、クリスマスは希望が叶う素敵な日という意味を持っているのでしょうか?それは、世界史上最初のクリスマス、今から2000年プラス20年位前に起きた第一回目のクリスマスが、まさに希望が叶った日だったことに由来しています。それで、クリスマスは希望が叶う日という意味を持つようになったのです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所にある天使の言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ21011節)。

 「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである、待望のメシアがやっとこの世に来た、みんなの希望がやっと叶った、という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起こってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?ということがまずあります。それから、このメシアとやらは、あなたがたのための救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指すのか?さらに、メシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか?そういう疑問です。実を言えば、「メシア」の意味も、「あなたがた」が指している者も、「救い」の意味内容についても、当時の人たちには統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つ異なるものがありました。これから、それらについて見ていきたく思いますが、結論を先に申し上げると、三つの希望のうち二つは、ユダヤ民族が中心の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関わる希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

2.

三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他国支配から解放してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者と考える希望です。メシア、ヘブライ語のマーシーァハמשיחは、もともとは「油を頭に注がれた者」という意味がありました。「油を注ぐ」というのは、神が与える任務を遂行する者が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味を持ちました。実際には、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注がれたので、メシア「油注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前500年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました。世界史の教科書で「バビロン捕囚」と呼ばれる事件です。紀元前500年代後半になると今度は、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして古代オリエント世界の覇者になります。この時、ユダヤ民族は故国への帰還が認められて、エルサレムの町や神殿を復興させました。しかし、それからもずっとペルシャ帝国、それに続くアレクサンダー大王の帝国に支配され続けました。紀元前100年代に一時、ほぼ独立を回復しますが、ほどなくしてローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日を迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税のための登録を命じたというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だったのであります。

このようにバビロン捕囚以後、ダビデ王朝の王国は復活しなかったのですが、ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すようにしてやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を持ってくる、というような希望が生まれました。どうしてそんな希望が生まれたかと言うと、旧約聖書の中にそのような将来を意味すると思われる預言があるからです(例としてイザヤ2章)。先ほど読んでいただいたイザヤ書9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そうしますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するダビデ家系のヒーローの到来という希望の成就になります。この場合、メシア「油注がれた者」とは王様そのものを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」というのはユダヤ民族を指します。

しかしながら、ユダヤ民族の間で抱かれていた希望は、ダビデ王国復興よりも、もっとスケールの大きな希望もありました。これが二つ目の希望です。次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物は、古代オリエント世界の民族興亡や国家間関係の記録という側面もありますが、もっと歴史の時間と空間を超えた普遍的な側面を持っていることも忘れてはなりません。それは、今私たちの周りにある天と地の誕生から始まって、それらが終わりを告げる終末までを視野に含めているからです。例えば、イザヤ書の終わりの方の60章や65章をみると、かつて天と地と人間を造られた創造主の神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。さらにダニエル書をみると、今の世が終わりを告げる時に死んだ者たちの復活が起こり、天地創造の神に相応しい者は永遠の命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異なる運命をたどることが預言されています。

こうした終末的な預言を念頭に置いて、ダビデ家系の救い主メシアを考えるとどうなるでしょうか?メシアとは終末の時に神のもとから地上に送られて、神に相応しい者たちを集めて、彼らを新しく出現する神の国に迎え入れて君臨するという、そういう超越的な王として理解されるようになります。つまり、メシアとは、もはや現世的な王様ではなく、文字通り超越的な存在です。先週まで二回の主日で読まれた福音書は、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づいた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々は、ついに終末の日が来た、天からメシアが送られる、自分は神聖な神の意思に反して生きていた、罪を犯してきたことを素直に認めて赦しをいただこうと、こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら、ヨハネの洗礼は、まだ「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんでした。「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、終末的な預言と結びついたシアとは誰を何から救うのでしょうか?天地が入れ替わるという森羅万象の大変動の中で、神に相応しい者を集めるというのは、それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者というのは、ユダヤ民族、正確に言えば、ユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、この希望もユダヤ民族の観点に立つ希望です。

3.

 天使の言葉「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実は、ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味していました。この希望を理解できるためには、なぜ神のひとり子が、わざわざこの世に降って来なければならなかったのか、本来なら天の神の御国で全てに優越した場所にいてふんぞり返っていればいいものを、何を好き好んで、わざわざこの世に降ってこなければならなかったのか、しかも、神そのものの存在の形を捨てて限られた存在にしか過ぎない人間の形をとってこの世に生まれ来なければならなかったのか、こうしたことが希望を理解する鍵になります。もし、メシアも救い主も現世的な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女の結びつきから生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、もしメシアが、終末の時に神に相応しい者を守り集める超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始める必要はないのであって、そのまま神聖な恐るべき姿かたちをとって天使の軍勢を従えて天から下ってくればよかったのです。 

なぜ神そのものの存在であった神のひとり子が人間の形をもって、この世に来なければならなかったのでしょうか?神は人間を何から救おうとしたのでしょうか?

神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさに人間を救うためでした。一体人間を何から救うというのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されていますが、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在でした。それが、神の意思に背こうとする罪と不従順が人間に入り込んだために、人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」623節で述べているように、罪の報酬は死なのであります。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。結びつきが回復できるためには、人間から罪を除去しなければなりません。しかし、人間にはそれは不可能でした。それで、神はひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦すという手法をとったのです。

それでは、人間の方ではどうしたら罪を赦されて神との結びつきを回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの神がなさった全てのことはまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。洗礼を受けたと言っても人間はまだ肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させています。しかし、神はイエス様を救い主を信じる信仰を持つ者には、彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、神はイエス様を十字架の死に引き渡した時、罪と死をも一緒に滅ぼして両者から絶対的な力を消し去りました。それで、イエス様を救い主と信じる者には罪と死は最終的な力を持っていないのであります。

加えて、神は一度死んだイエス様を今度は復活させて、永遠の命への扉を人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつきを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手をもって引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのであります。このように、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持っていないのであります。

ここで、イエス様の身代わりの犠牲の質を考えてみましょう。神そのものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖なものはないと言えるくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはないと言えるくらい完璧な犠牲の生け贄です。このことを逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がこの世に送られたこと以上の贈り物を人間は持ちえないのであります。この神の贈り物を既に受け取っている方は、その大切さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、一日も早く受け取るようにして下さい。今からでも遅くはありません。

4.

 以上から、本日の福音書の箇所の天使の言葉「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつきを持って生きられるようにしてくれて、死を超えた永遠の命を持てる日まで共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「あなたがた」というのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全ての人を指します。このようにクリスマスというのは、過去の時代の特定の民族の希望の成就なのではなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書を、もっと広く深く読んでいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出くわします(イザヤ書53章)。ルターが、旧約聖書は救い主イエス様を見いだす書物であると言っているのは、誠にその通りであります。

最後に、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖いを実現するためにこの世に降ったのですが、人間の心と体を持つことで人間の喜びや痛み悲しみも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲しみを人間が味わうのと全く同じように味わうことになったのです!だから、神は私たちの悩みや苦しみも全てわかって下さる方です。天地を創造された全知全能の方ですから、私たち以上に私たちのことを痛みも含めてわかっておられるのです。そのような神は、全てに優る信頼を寄せるに相応しい方であることが、「ヘブライ人への手紙」41516節に記されていますので、その箇所を引用して本説教の締めと致します。

「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン