2014年12月29日月曜日

人類の希望のクリスマス (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

降誕祭前夜礼拝説教 2014年12月24日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書9章1-6節
ルカによる福音書2章1-20節

説教題 「人類の希望のクリスマス」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

1.

クリスマスと言えば、一般には何か希望が叶う素敵な日というイメージが持たれていると思います。例えば、子供が欲しかったものをプレゼントにもらったりすると、クリスマスは希望が叶う素敵な日というイメージが定着します。また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れましたが、離れ離れになった親子がお互いを一生懸命に探し続けて、やっと再会を果たすのがクリスマスの日だったというような感動ものを見た記憶があります。クリスマスに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではないでしょうか?

どうして、クリスマスは希望が叶う素敵な日という意味を持っているのでしょうか?それは、世界史上最初のクリスマス、今から2000年プラス20年位前に起きた第一回目のクリスマスが、まさに希望が叶った日だったことに由来しています。それで、クリスマスは希望が叶う日という意味を持つようになったのです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所にある天使の言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ21011節)。

 「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである、待望のメシアがやっとこの世に来た、みんなの希望がやっと叶った、という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起こってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?ということがまずあります。それから、このメシアとやらは、あなたがたのための救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指すのか?さらに、メシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか?そういう疑問です。実を言えば、「メシア」の意味も、「あなたがた」が指している者も、「救い」の意味内容についても、当時の人たちには統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つ異なるものがありました。これから、それらについて見ていきたく思いますが、結論を先に申し上げると、三つの希望のうち二つは、ユダヤ民族が中心の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関わる希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

2.

三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他国支配から解放してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者と考える希望です。メシア、ヘブライ語のマーシーァハמשיחは、もともとは「油を頭に注がれた者」という意味がありました。「油を注ぐ」というのは、神が与える任務を遂行する者が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味を持ちました。実際には、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注がれたので、メシア「油注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前500年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました。世界史の教科書で「バビロン捕囚」と呼ばれる事件です。紀元前500年代後半になると今度は、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして古代オリエント世界の覇者になります。この時、ユダヤ民族は故国への帰還が認められて、エルサレムの町や神殿を復興させました。しかし、それからもずっとペルシャ帝国、それに続くアレクサンダー大王の帝国に支配され続けました。紀元前100年代に一時、ほぼ独立を回復しますが、ほどなくしてローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日を迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税のための登録を命じたというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だったのであります。

このようにバビロン捕囚以後、ダビデ王朝の王国は復活しなかったのですが、ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すようにしてやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を持ってくる、というような希望が生まれました。どうしてそんな希望が生まれたかと言うと、旧約聖書の中にそのような将来を意味すると思われる預言があるからです(例としてイザヤ2章)。先ほど読んでいただいたイザヤ書9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そうしますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するダビデ家系のヒーローの到来という希望の成就になります。この場合、メシア「油注がれた者」とは王様そのものを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」というのはユダヤ民族を指します。

しかしながら、ユダヤ民族の間で抱かれていた希望は、ダビデ王国復興よりも、もっとスケールの大きな希望もありました。これが二つ目の希望です。次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物は、古代オリエント世界の民族興亡や国家間関係の記録という側面もありますが、もっと歴史の時間と空間を超えた普遍的な側面を持っていることも忘れてはなりません。それは、今私たちの周りにある天と地の誕生から始まって、それらが終わりを告げる終末までを視野に含めているからです。例えば、イザヤ書の終わりの方の60章や65章をみると、かつて天と地と人間を造られた創造主の神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。さらにダニエル書をみると、今の世が終わりを告げる時に死んだ者たちの復活が起こり、天地創造の神に相応しい者は永遠の命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異なる運命をたどることが預言されています。

こうした終末的な預言を念頭に置いて、ダビデ家系の救い主メシアを考えるとどうなるでしょうか?メシアとは終末の時に神のもとから地上に送られて、神に相応しい者たちを集めて、彼らを新しく出現する神の国に迎え入れて君臨するという、そういう超越的な王として理解されるようになります。つまり、メシアとは、もはや現世的な王様ではなく、文字通り超越的な存在です。先週まで二回の主日で読まれた福音書は、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づいた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々は、ついに終末の日が来た、天からメシアが送られる、自分は神聖な神の意思に反して生きていた、罪を犯してきたことを素直に認めて赦しをいただこうと、こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら、ヨハネの洗礼は、まだ「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんでした。「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、終末的な預言と結びついたシアとは誰を何から救うのでしょうか?天地が入れ替わるという森羅万象の大変動の中で、神に相応しい者を集めるというのは、それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者というのは、ユダヤ民族、正確に言えば、ユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、この希望もユダヤ民族の観点に立つ希望です。

3.

 天使の言葉「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実は、ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味していました。この希望を理解できるためには、なぜ神のひとり子が、わざわざこの世に降って来なければならなかったのか、本来なら天の神の御国で全てに優越した場所にいてふんぞり返っていればいいものを、何を好き好んで、わざわざこの世に降ってこなければならなかったのか、しかも、神そのものの存在の形を捨てて限られた存在にしか過ぎない人間の形をとってこの世に生まれ来なければならなかったのか、こうしたことが希望を理解する鍵になります。もし、メシアも救い主も現世的な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女の結びつきから生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、もしメシアが、終末の時に神に相応しい者を守り集める超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始める必要はないのであって、そのまま神聖な恐るべき姿かたちをとって天使の軍勢を従えて天から下ってくればよかったのです。 

なぜ神そのものの存在であった神のひとり子が人間の形をもって、この世に来なければならなかったのでしょうか?神は人間を何から救おうとしたのでしょうか?

神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさに人間を救うためでした。一体人間を何から救うというのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されていますが、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在でした。それが、神の意思に背こうとする罪と不従順が人間に入り込んだために、人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」623節で述べているように、罪の報酬は死なのであります。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。結びつきが回復できるためには、人間から罪を除去しなければなりません。しかし、人間にはそれは不可能でした。それで、神はひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦すという手法をとったのです。

それでは、人間の方ではどうしたら罪を赦されて神との結びつきを回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの神がなさった全てのことはまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。洗礼を受けたと言っても人間はまだ肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させています。しかし、神はイエス様を救い主を信じる信仰を持つ者には、彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、神はイエス様を十字架の死に引き渡した時、罪と死をも一緒に滅ぼして両者から絶対的な力を消し去りました。それで、イエス様を救い主と信じる者には罪と死は最終的な力を持っていないのであります。

加えて、神は一度死んだイエス様を今度は復活させて、永遠の命への扉を人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつきを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手をもって引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのであります。このように、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持っていないのであります。

ここで、イエス様の身代わりの犠牲の質を考えてみましょう。神そのものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖なものはないと言えるくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはないと言えるくらい完璧な犠牲の生け贄です。このことを逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がこの世に送られたこと以上の贈り物を人間は持ちえないのであります。この神の贈り物を既に受け取っている方は、その大切さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、一日も早く受け取るようにして下さい。今からでも遅くはありません。

4.

 以上から、本日の福音書の箇所の天使の言葉「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつきを持って生きられるようにしてくれて、死を超えた永遠の命を持てる日まで共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「あなたがた」というのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全ての人を指します。このようにクリスマスというのは、過去の時代の特定の民族の希望の成就なのではなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書を、もっと広く深く読んでいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出くわします(イザヤ書53章)。ルターが、旧約聖書は救い主イエス様を見いだす書物であると言っているのは、誠にその通りであります。

最後に、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖いを実現するためにこの世に降ったのですが、人間の心と体を持つことで人間の喜びや痛み悲しみも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲しみを人間が味わうのと全く同じように味わうことになったのです!だから、神は私たちの悩みや苦しみも全てわかって下さる方です。天地を創造された全知全能の方ですから、私たち以上に私たちのことを痛みも含めてわかっておられるのです。そのような神は、全てに優る信頼を寄せるに相応しい方であることが、「ヘブライ人への手紙」41516節に記されていますので、その箇所を引用して本説教の締めと致します。

「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン