説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2014年12月21日 待降節第四主日
ゼファニア書3章14節-17節
フィリピの信徒への手紙4章2-7節
ルカによる福音書1章67節-79節
説教題 「キリストは死の陰に座する者を平安に導く光」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でベネディクトゥスBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」の「称えられよ」の部分です。ちなみに、ルカ福音書1章47-55節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でマグニフィカトmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」の「大いに賛美する」の部分です。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でヌンク・ディミトゥスNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」の「今、去らせて下さいます」の部分です。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Magnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。従って、本日は朝の祈りの言葉が説教のテーマということになります。
本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。
1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。
この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神のご用のために捧げたということです。
アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記22章1節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサクが誕生する前にアブラハムに対して、「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに背くことはせず、全く忠実だったわけです。このような御自分の約束に忠実な神の御名は永遠に誉めたたえられますように。
洗礼者ヨハネについてみますと、彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ1章80節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、洗礼者ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ1章13-17節)知っていました。それで、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。
それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。
もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ1章6節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。
このような「奇跡が起きようが起きまいが同じ」ということがないと、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ信頼し、神の意思に従うということは、願いが成就するかしないかということに左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで今度は、それが神からいただいたものであるとか、神に属するものであるとか、神のご用に役立てられるものとか、そういう発想は起こらないでしょう。
願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従おうとする生き方は、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いついかなる場合でも高い価値のままにとどまる何かを用意してもらい、それを人間が持てる時にそのような生き方ができます。キリスト信仰では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架の死と死からの復活がそれです。
イエス様の十字架の死と死からの復活を不変不滅の価値として持っている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、たとえ外的な条件が悪くても、神が自分に与えてくれる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、どうなるか?その時は、これは神からいただいたものだ、神から預かったものだ、だからもともとは神に属するものだ、という考えなので、神のご用に役立てようという考えになります。自分の用のために役立てようとか、自分の欲のために消費しようとか、そういうことには執着しないのです。そういうわけで、もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事でしょう。
2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。
次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主メシアについて預言しているものではありますが、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点を反映しています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、74-75節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく、特定の民族にかかわるものと考えていたのでしょうか?
実は、神はメシア救世主を全世界的なものと考えていました。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいました。しかし、その直後、創世記3章15節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。ただし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。つまり、自分を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記12章3節で、神は後にアブラハムという名前にかわるアブラムに対して、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考える救いとは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のもののように言われるのでしょうか?
それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意思を人間に伝える時、意思を伝えられた人間の方は特定の具体的な歴史状況の中で生きていたという事情があります。それで、全世界的な観点と一民族的な観点のギャップが生まれる原因になったのです。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意思を告げる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるとは言え、その意思はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト信仰の観点では、これはイエス様を指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にいたユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けた、それで民族は赦しを得て再出発できるという、そういう理解になります。その場合、捕囚のユダヤ民族が神の僕になってしまいます。
神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意思が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出てくるのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史的なものは一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史書物として読む人が大勢います。そういう人は、旧約聖書の個々の書物の歴史状況やそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして、旧約聖書を繙くのです。しかしながら、もし、キリスト信仰者が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画というものを念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方は意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト信仰なのですから。
3.キリストは、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。
ザカリアの預言には、メシア救世主とその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申し上げました。しかしながら、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてしまってはっきり見えなかった全人類的な救済計画が頭をもたげてくる部分です。
まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、イザヤ書40章3章の預言の実現であることが言われます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われていますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入ると、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われて、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入ると、その光がやってくる目的が明らかにされます。それは、「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」。
天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする。これは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の内に罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたころから明らかなように、不従順と罪を代々受け継いできたのです。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪の支配の下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を神は採ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた支配力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開かれたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。
これから明らかなように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、焼き尽くしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが神は、先ほど申し上げたように戦争状態の原因であった人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、私たちの身代わりとして罰を受けさせて死なせたのです。「ガラテアの信徒への手紙」3章13節で使徒パウロが言うように、神のひとり子が私たち人間にかわって呪われた者にされて神の罰を受けたのです。まさに、私たちがその罰を受けないですむように。そこで私たち人間がイエス様こそ自分の真の救い主であると信じて洗礼を受けるならば、その人は、イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを得られます。人間は神から罪の赦しを受けると、神との戦争状態から脱して(エフェソ2章16-17節)、神との結びつきを回復します。こうして人間は、神との平和を永遠に享受することになるのです。「永遠に」というのは、神から「罪の赦しの救い」を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、さらに死を超えて永遠の命を持って生きるようになるまでの間ずっと、ということです。
だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている罪の赦しの恵みと憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト信仰においては、そんなことはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の呪いから解放されて永遠の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン