2015年4月27日月曜日

神由来の愛 vs 人間由来の愛 (吉村博明)



 説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教(八王子教会)2015年4月26日 復活後第三主日

使徒言行録4章23-33節
ヨハネの第一の手紙3章1-2節
ヨハネによる福音書21章15-19節


説教題 「神由来の愛 vs 人間由来の愛」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

 今日は二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、本日の福音書の箇所でイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言していますが、この福音書の記者ヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。それでは、まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。

 キリスト教の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ2118節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだな、とわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわかりにくいものだったでしょう。福音書記者ヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。こうしてみると、ヨハネがいったん20章で書き終えた福音書にどうしても21章を付け加えたくなった理由が見えてきます。ペトロ殉教の報に接して、イエス様の預言を書き記さないではいられなくなったのであります。

さて、ペトロの殉教の死は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは、私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方であります。それならば、私たちが神の栄光を現す、というのはどういうことでしょうか?

それは、動かすことのできない神の真理を、私たちが自分の生き方を通して人前で証しし明らかにすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、その造り主が送られたひとり子イエス・キリストの身代わりの死によって罪と不従順の奴隷状態から解放された者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいる者である、以上のことを胸をはって答えることです。何も問われない時は、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。神の真理を取り下げないと命はないぞ、という時代だったら、この世の人生の終わり方は殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの死によって罪の奴隷状態から贖われたということをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は贖われた者として永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは自分の生きた時代状況のなかで、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるのに、それを貫いてこの世の人生を終えたのであります。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのであります。私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理を取り下げない生き方をしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?「イスラム国」のようなところでなければ、命を落とすことはないでしょうが、それでもいろいろ不自由を感じたり窮屈な思いをすることがあるのではないかと思います。でも、それが神の栄光を現わすことになるのです。

2.イエス様を愛するということ

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、ペトロがイエス様のことを人前で三度拒否したことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみていきます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロは、フィレオ―で答えます。ここで、この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背景に退きがちになるからです。あるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日本で中学生の女の子ばかりが集まる聖書の学びの会で、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちはみな顔を下に向けてくすくす笑い出したということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーφιλεωという動詞は、この兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様が聞く時に使った「愛する」アガパオーαγαπαωはどんな意味があるのでしょうか?ヨハネ福音書1334節と1512節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範として弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーαγαπαωです。それでは、イエス様が弟子たちを模範的に愛する愛とはどんな愛でしょうか?1513節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーαγαπαωも名詞のアガペーαγαπηも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そこで、自己犠牲をも厭わない愛の形という場合、それは誰による誰のための何のための犠牲かということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」410節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペーαγαπη、アガパオーαγαπαωです。ここから明らかなように、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、神の愛に特有な愛、神に由来する愛です。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪に陥ったために死ぬ存在となり、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるように、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が罪と不従順を背負い続けてしまったら、この世から死ぬ時にその重みで滅びの世界に落ちてしまいます。そこで、神はイエス様に人間の罪を全て請け負わせて、十字架の上で滅びの罰を全て人間に代わって受けさせました。それだけに終わらず、死んだイエス様を今度は復活させることで、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。永遠の滅びから救われるために人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて整えた救いをただ受け取ることだけです。イエス様を自分の救い主と信じて、洗礼を受けることで受け取りは完了となります。

さて、イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様は、ペトロに神由来の愛の形で「愛しているか」と聞きました。ペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛、つまり人間に由来する愛の形で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、と言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲などからほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。かと言って、主を愛してやまないことも偽りのない真実である。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神由来の愛を避けて人間由来の愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神由来の愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間由来の愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神由来の愛の形のアガパオーαγαπαωを使わず、ペトロと同じ人間由来の愛の形フィレオーφιλεωを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間由来の愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応と答えには彼が窮地に陥ったことが窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、イエス様ご自身が目撃者、証言者として働くべく選んだ者たちです。それゆえ、そんな使徒を信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト教信仰の基本です。)

 さて、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世を道を歩めるように彼らを守りかつ指導しなさい、つまり牧会しなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様からあずかって牧会するのですから、その責務ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責務を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。

それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様はペトロの愛を三度も確認させたのか?それは、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということを強調したかったからであります。それでは、イエス様に対する愛が牧会の土台を成すという場合、その肝心なイエス様を愛するというのはどんな愛なのでしょうか?

イエス様を愛するとは、神由来の愛、アガパオーαγαπαωアガペーαγαπηの愛で愛することですが、この愛は人間が自分の力で持つことはできません。これは、先にも申し上げたように、人間の自然に由来する愛の形とは異なる神由来の愛の形だからです。男女間の情愛・性愛、兄弟愛、同志愛、人間愛というものは、人間が自分は神に造られたということを知らなくても、またイエス様に罪の奴隷状態から贖ってもらったことを知らなくても、持つことができる愛の形です。人間に先天的に備わっているとも言えるし、また後天的に生まれ育った文化や伝統や国の中で形作られてくるものもあります。東日本大震災で何十万のボランティアが復興支援のために東北に赴きました。彼らの大部分はキリスト教徒でない人たちです。キリスト教徒でなくても、兄弟愛、同志愛、人間愛を持つと言うのは何の不思議もないことです。

しかしながら、そうした人間由来の愛は、造り主である神と造られた人間の壊れた結びつきを回復して、人間を神のもとに戻す力はありません。そのような力を持つのは神由来の愛しかありません。しかし、神由来の愛は、神からいただかないと持つことができません。人間に先天的に備わっていないし、国や文化や伝統がつくることもできません。どうすればそれを持つことができるのか?それは、先ほども申し上げましたように、神がひとり子イエス様を用いて人間の救いを整えられたということを聞いて、それが自分のためにもなされたのだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることを通してです。

イエス様は、こうして神由来の愛を受け取った私たちも同じアガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形で愛するよう命じられます(ヨハネ1334節、1512節)。ただしそうは言っても、これは、人間を罪の奴隷状態から贖ったイエス様と同じような犠牲の業をしろ、ということでは全くありません。それは既に神のひとり子が実現したので、新たな犠牲はもう必要ありませんし、そのような犠牲は私たち人間が出来ることではないのです。他方で、イエス様が払った犠牲と異なるレベルですが、私たちが払わねばならない犠牲もあります。それは隣人愛の実践においてです。もし隣人がキリスト信仰を持つ人である場合、その方が既に受け取った救いを失わないように助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、ということを肝に銘じておきましょう。それでは、隣人がキリスト信仰を持たない人の場合はどうでしょうか?それは、その方が私たちと同じ救いを受け取ることができるようにと助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、そのこともあわせて肝に銘じておきましょう。ルターは、そのような隣人愛の実践において、財産や命を失う可能性もあることを覚悟せよ、と言っています。

信仰と洗礼を通して私たちは、神由来の愛、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛を持って生きることになります。他方で、人間が自然に持っている愛の形も、私たちが肉をまとって生きる以上は残り続けます。人間由来の愛を打ち消して、全てを神由来の愛に置き換えることは不可能です。実はそれが問題なのではなく、問題は、人間由来の愛を神由来の愛がいかに方向付け秩序立てていくかということにあります。例えば、男女の情愛や性愛というものも、人間を男と女に造った神の創造の趣旨をしっかり踏まえれば、夫婦の絆を強めるという大切な役割を持っていることが明らかになります。逆に、神の創造の趣旨をわきまえなければ、情愛や性愛は方向性を失い無秩序になる危険があります。これは、この世で私たちがよく見聞きすることです。

さてイエス様は、彼を愛する人は彼の教えたことを守る人であると言います(ヨハネ142123節)。イエス様の教えを守ることが彼を愛することになるというのは、結局のところ、人間が神由来の愛を受け取って、それに基づいて人間に由来する愛を方向付け秩序立てていくということになるでしょう。

最後に、私たちは信仰と洗礼を通して神の愛を受け取ったとは言いますが、この世では私たちは肉をまとって生きていますから、神由来の愛の形をもって愛そうと思っても、またその愛で肉の欲するところを方向付けたり秩序立てたりしようとしても、いつも間に立たされて、失敗ばかりします。神を全身全霊で愛さなかったり、隣人を自分を愛するが如く愛さなかったりする自分に直面します。失敗の連続でしょう。しかし、そのような時はいつも、罪の奴隷状態からの解放が実現したゴルゴタの十字架に心の目を向けましょう。「罪の赦しの救い」はそこで完全に打ち立てられ、天地創造の神の後ろ盾の下、微動だにしていないのです。

加えて、私たちが洗礼を通して受け取った救いは、私たち個人の思いや感情や動向如何に全く関係なく、全く微動だにせず私たちをしっかり支えてくれるものであるということを、聖書の数多くの御言葉から体得しましょう。例えば、イザヤ書5410節で神は次のように言われます。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと」。私たちが微動だにしない神の「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれていることは、聖餐式で受ける主の血と肉を通して体得されます。このことも忘れずにこの世の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2015年4月22日水曜日

主は新しい日のために我らの疲れを癒し労をねぎらい給う (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年4月19日 復活後第二主日

使徒言行録4章5-12節
ヨハネの第一の手紙1章1-2章2節
ヨハネによる福音書21章1-14節

説教題 「主は新しい日のために我らの疲れを癒し労をねぎらい給う」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の主日礼拝の説教で、マルコ16920節は後世の付け足しと考えてはいけない、他の3つの福音書の記録同様に復活されたイエス様が弟子たちに現れたことを伝える大切な記録である、ということを強調して教えました。本日の福音書の箇所が収められているヨハネ21章も、マルコと同じ問題を抱えています。つまり、ヨハネ福音書は本当は20章で終わっていたはずなのに、21章は後で付け足されたのだ、と。どうしてこのように思われるかというと、20章の終わりを見ると、この福音書の結びとして書かれていることがわかるからです。

ヨハネ20章を概観しますと、まずイエス様が埋葬された墓が空であったことが記され、それから復活されたイエス様がマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちの前に二回続けて現れます。そして終わりの30節を見ると、イエス様はこの他にも弟子たちの前で多くの奇跡のしるしを行ったが本書では書かれていない、と断り書きがされます。それに続く最後の31節をみると、この福音書が書かれた目的について述べられます。どんな目的かと言うと、それは、読者がイエス様をメシア救世主、神の子であると信じるようになるためである、そして、そう信じることで読者がイエス様の名において永遠の命を持つことができるようになるためである、という目的です。私たちが、ヨハネ福音書を初めから通して読んで、イエス様をそのように信じることができるようになった時、この目的が達成されたことになるのです。誰がそのような目的を設けたのでしょうか?福音書の記者ヨハネというのは正しくありません。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられる神が、私たちの救いのためにイエス様を送られて、そのことが書物に記されたわけだから、目的の達成というのは、神が設けた目的の達成です。

 さて、20章でヨハネ福音書が完結するかと思いきや、「この後、イエスはまた弟子たちの前でご自身を現された」と言って21章が始まり出します。20章で復活したイエス様が現れたのはエルサレムでしたが、21章では場所を変えてガリラヤのティベリアス湖畔になります。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことです。この21章が誰の手による付け足しかということについて、学界でも議論がありますが、原文のギリシャ語の使い方や文体からみて、1章から20章までを書いた人と同一人物と見なしてよく、仮に異なる人だったとしても、福音書記者の直近の弟子が先生の残した証言録を正確に伝えて記したと言えるものです。ヨハネ福音書は一体誰の手によって書かれたかということについては、これも学界では諸説がありますが、本福音書は直接の目撃者が記したのだということが随所に言われているので、12弟子の一人であるのは間違いないでしょう。さらに加えて、あの裕福な漁業経営者(マルコ120節)ゼベダイの二人の息子の一人ヨハネであると言っても、何も問題ないという立場を本説教者はとる者です。

2.

 ヨハネ21章の文章は、20章までと同じように直接の目撃者の証言としての性格がよく出ている文章です。どうしてかというと、創作にしては隙だらけの文章で、むしろ目撃者の狭い視点で生き生きと直接的に語られているからです。以下にそうしたことを見てみましょう。

 ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。これらの弟子たちがエルサレムからガリラヤに戻ってきたことは、イエス様の復活を告げた天使が弟子たちにガリラヤに行くように指示したこと(マタイ287節、マルコ167節、マタイ2810節ではイエス様が直接指示)が背景にあると考えられます。さて、その夜は何も捕れませんでした。ガリラヤ湖の漁師にとって、夜は最適な漁の時間帯だったようです。ルカ5章でペトロはイエス様に、夜通し頑張ったが何もとれませんでした、と言います。最適な時間帯でもダメな時があるということです。

夜が明けた頃に、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、それがイエス様だとはまだわかりません(4節)。イエス様が復活直後に弟子たちに現れた時も、すぐにイエス様であるとはわかりませんでした。マグダラのマリアは最初、庭師かと思いました。名前を呼ばれて初めてイエス様だと気づきました(ヨハネ2015節)。エマオに向かう途中の二人の弟子は、一緒に話しながら歩いている男がイエス様であるとわからず、夕食の時、イエス様が賛美の祈りを唱えてパンを裂いた時に、「目が開かれて」イエス様だとわかりました(ルカ281332節)。なぜ、そこまで気づかなかったかと言うと、ルカによれば二人の目が「遮られて」いたからでした(2416節)。それは、彼らが、イエス様が以前預言していたこと、つまり、自分は処刑されても死から復活すると言っていたことを心に留めていなかったことを、また、死者の復活そのものをまだ信じていなかったことを意味するのでしょう。

イエス様だと気づかれなかった原因は、弟子たちの方だけでなく、イエス様の側にもあったと言えます。マルコ1613節によると、イエス様は二人の弟子たちに何か「別の姿かたち」(εν ετερα μορφη)で現れたと記されています。復活されたイエス様は、気づこうとすれば気づけるけれども、一見すぐには気づけない何か以前とは異なる姿かたちをしていたことが窺えます。ルカ福音書やヨハネ福音書では、復活したイエス様が鍵をしめた家の中に突然入って来られます。弟子たちは亡霊だと言ってパニックに陥りますが、イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言って、弟子たちに手足を見せたり(ルカ243940節)、わき腹に触れさせたりします(ヨハネ2027節)。亡霊とか人間とかいう範疇ではくくれない、想像を超えた姿かたちとして復活の体が存在するのであります。イエス様自身、マルコ1225節で、死者の中から復活する者は「天使のようになる」と言っています。空間を超えて移動する様は、さながら天使そのものです。使徒パウロは、復活した体は朽ち果てることのない輝きと力に満ちた体だ、と言っています(1コリント154243節)。ちなみに、私たちも復活の日に死者の中から復活させられる時は、そのような体を与えられるのです。

以上のように、気づこうとすれば気づけるのだけれども、見る方の不信仰も手伝って、すぐには気づけない何か以前と異なる姿かたちがある、そんな姿かたちを復活のイエス様はとっていた。それで、弟子たちは、すぐにイエス様とわからなかったのでした。それと同じことが、ガリラヤ湖でも起きました。弟子たちは、湖岸に現れた男をイエス様とはわかりませんでした。それが、イエス様とのやりとりを通して最後にわかるようになります。どんなやりとりがあったのかをみてみましょう。

イエス様は弟子たちに、「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞いていますが、ギリシャ語の原文で「子たちよ」というのは、実は複数の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、日本語訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語の原文の形は、「ありません」と否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。つまり、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。日本語では「そうすればとれるはずだ」ですが、正確には「見つかる」です。何が見つかるかというと、「食べる物」です。

このやりとりから推測するに、弟子たちは天使の指示通りにガリラヤに戻ってはきたものの、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の弟子であるとは公にしにくい状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。主は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

まさにこの時、かつてガリラヤ湖の湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が、ペトロの記憶に蘇ったでしょう。それは、ルカ5111節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には船が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと、同じことが今また起きた。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」 そう思うや否や、この福音書の記者であるヨハネが、同じ結論を真っ先に口にします。「主だ!」ペトロは、復活の主にまた相まみえるべく、湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペテロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れているところです。

ペテロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペテロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。もちろん、ヨハネが後日ペトロに、あの時どんなことを話していたのか、と聞き取りしていれば、それを加えることも出来たでしょうが、それはなかったのであります。ない以上は、書きようがなく、それでここは空白にならざるを得ないのです。こういうわけで、ヨハネ福音書に限らず、他の福音書や使徒言行録の目撃者の証言録はできる限り尊重しなければなりません。現代人の感覚にあわないものは、すぐ、これは創作だ、と決めてかかる態度は出来る限り、信仰者であればなおさら控えなければなりません。

こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主に今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。かつて、12弟子たちが宣教旅行から帰って来た時、イエス様がまっさきにしたことは、彼らを休ませることでした(マルコ631節)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ1128節)とはまさに主の御心なのです。

3.

 以上、本日の福音書の箇所は、福音書記者ヨハネの目撃したことに基づく出来事の生き生きした記述であることをみてきました。ここから先は、この箇所が読者である私たちの信仰にとって、どんな意味があるかをみてみたいと思います。

 本日の箇所の出来事は、イエス様を救い主と宣べ伝える者にとって大きな意味があります。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹が高まった時、主が助言して、それに従うと、予想を超えた成果を得ました。そして、主に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。主が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さったのです。網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しています。本日の箇所に出てくる153匹の魚の153という数字は、当時世界中の魚の種類は全部でそれだけあると考えられていたという説があります。それで、153匹の魚が網に入ると言うのは世界の全ての民族が福音を信じるようになったことを意味するのだと解釈する人もいます。この説の真偽はここでは吟味いたしませんが、いずれにしても、イエス様は漁師ペトロとアンデレを弟子にする時、「人間を捕る漁師にしてやろう」と言っているので(マルコ117節)、網を打って魚を捕ることは、福音の宣べ伝えを暗示しているのです。そのため、本日の箇所は、宣べ伝えで一生懸命労苦しても誰も福音に耳を傾けてくれず心も向けない、ひどい時は悪口を言われたり追い出されたり、昔なら迫害を受けてしまうこともある。ただただ疲労に疲労を重ねるだけの時期がある。場合によっては食に窮することもある。ところが、ある時、主の助言があり、それに従うと予想もしない成果が現れることがある。そして、主は疲れた心と体を癒しねぎらってくれて、再び宣べ伝えに出ていく力をつけてくれる。そういう福音の宣べ伝えの現場のサイクルが見事に暗示されています。このことを本日の箇所から学ぶことができます。

 さて、主の助言がある、と言う場合、私たちはいつどこでそれを聞くことができるのでしょうか?復活されてから天に上げられるまでの40日間、イエス様は弟子たちに現れて、彼らを教え、また強めました。私たちには同じような形で主は現れません。しかし、そのかわりに私たちには、主に助言を求める拠りどころとして聖書があります。聖書には、イエス様が教えたこと、なさったことが目撃者の証言をもとに収められています。さらに、イエス様をこの世に送られた天と地と人間の造り主である神の私たちに対する御心が明らかにされています。神は、堕罪の出来事で死ぬ存在となってしまった人間が、再びご自分のもとに永遠に戻ることが出来るようにと望まれました。そこで、その妨げになっている罪と不従順という私たちの汚点の重荷を全てイエス様に請け負わせて、その罰を全てイエス様に十字架上の上で受けさせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を「赦す」というやり方をとって、人間に新しい人生の道を開いて下さいました。このような神の愛と恵みを受け取った者の信仰と人生とはいかなるものか、ということについても聖書は詳しく教えています。このように聖書は、私たちにとっては主の助言の大切な源であります。

 それから、福音の宣べ伝えに携わる者というと、それは牧会者や宣教師にのみ関係すると考えられそうですが、これは異なる仕方で信徒にもかかわっています。イエス様は、彼を救い主と信じる者は、神を全身全霊で愛するように、と、また隣人を自分を愛するが如く愛するように、と教えられました。神を全身全霊で愛するというのはどういうことでしょうか?それは、人間が罪と死の囚われ状態から解放されて、神との永遠の結びつきをもって生きられるために、御自分のひとり子を犠牲にまでした神の愛と恵みにただ感謝して、その愛と恵みの中にしっかりとどまって生きようとすること、その結果、そのような神の意思に沿うようにするのが当然と志向することです。

隣人を自分を愛するが如く愛するというのは、神がこの救いようのない自分に対して多大な愛と恵みを持って接して下さったように、自分もまた、どうしようもないと見える隣人に対して愛と恵みを持って接するということです。接する際に、隣人にもなんとか神の愛と恵みが及ぶようにし、いつかはその中に入ることができるようにすることを目指すのが隣人愛です。もし隣人が同じキリスト信仰に生きる人であれば、その人が神の愛と恵みにしっかりとどまって、永遠の命に至る道を踏み外さないで歩めるように助けあい支え合うことです。もし隣人がキリスト信仰を持たない人であれば、神の愛と恵みの中にとどまる者としてその方に接しつつも、いつかは同じ道に歩みを共にすることができるようにと神に祈り願い、機会が与えられれば、聖霊の助けを得て神の愛と恵みを証すること、これが神の望まれる隣人愛です。こういうわけで、信徒も、牧会者や宣教師とは異なる仕方ではあっても、日常生活の場面で福音の宣べ伝えに深くかかわっているのです。

最後に、先ほど見た福音の宣べ伝えのサイクルでひとつ忘れてはならないことがあります。それは、主は、牧会者・宣教師であろうと信徒であろうと宣べ伝えに携わる者を見捨てないということです。残念ながら、困窮や苦難そのものは消滅しません。というのは、この世はその性質上、造り主を忘れさせる自分中心主義や、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義から抜け出ることができないからです。従って、この世を超える永遠と造り主に目を向けさせる福音に対して、この世が敵対するのは避けられません。しかし、私たちが困窮や苦難に陥っても、主はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、その時に現れました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さると本日の箇所は教えています。そのことを忘れないようにしましょう。本日の箇所以外にも聖書には、神は決して見捨てないとの教えが沢山あります。この世の人生の歩みで、神が果たして私のことを心に留めておられるのか、と心配になり弱気になることが多々あります。それでも、洗礼を通して神との間に絆が築かれたこと、その絆が聖餐式で受ける主の血と肉によって固く保たれること、これらは私たちの弱い感覚や感情がどう感じ、どう思おうが、神の目からみたら揺るぎのないものであります。そのことも忘れないようにしましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン