2015年4月9日木曜日

あの墓を塞いでいた大石は今もわきに転がされたままか (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年4月5日 復活祭

イザヤ書25章6-9節
コリントの信徒への第一の手紙15章21-28節
マルコによる福音書16章1-8節

説教題 「あの墓を塞いでいた大石は今もわきに転がされたままか」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活

 「復活」という言葉は、死んだ人が生き返るというのが基本的な意味ですが、普通は「生き返り」に直接関係しなくて、もっと広い意味で使われます。例えば、もう回復の見込みがないとか、もう見つからないと観念していたものが回復したり見つかったりするような時に使われます。「敗者復活戦」という言葉は、一度チャンスや希望がなくなっても、それが新たに与えられることを意味しています。そのように、「復活」という言葉は、絶望や失望を超える大きな希望があることを教えてくれる言葉になっています。とても素晴らしい言葉だと思います。ところで、キリスト信仰でいう「復活」とは、これは文字通り本当に死んでしまった人が生き返ることを意味します。しかももっと大事なことは、「生き返る」とは言っても、それは、仮死状態から蘇生することとは全く違う現象を意味します。

 それでは、キリスト信仰の復活とはどんな現象かと言うと、まず私たちが存在する今のこの世がいずれ終わる時が来て、今ある天と地が新しい天と地に取ってかわる時が来る(イザヤ書6517節、6622節、黙示録211節、第二ペトロ313節)。その時、存在する被造物は全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かされず取り除かれない神の国が現れる(ヘブライ122728節)。まさにそのような天地大変動の時に死者の復活が起きて、神の目に適う者(本日の使徒書の日課の言葉では「キリストに属している者」第一コリント1523節)、これがこの世の時と異なる体と命、つまり復活の体と命を与えられて神の国に迎え入れられる、というものであります。神の国とは天の国、天国とも呼ばれますが、そこで復活した者はどうなるかと言うと、黙示録19章や21章それに本日の旧約の日課イザヤ書2569節にも記されているように、盛大な結婚式の祝宴にたとえられるお祝いの席に招かれて、全ての涙を拭われるのであります。それは、まさに、この世で背負った労苦が最終的に完全に労われ、またこの世で被った害悪も最終的に完全に償われるということです。こうして復活を遂げた者たちは、自分のもともとの造り主である神のもとで、神の義と正義と愛と恵みに包まれて永遠に過ごすことになるのであります。

そういうわけでキリスト信仰の復活とは、それがいつ起こるかは天の父なるみ神しか知らないという(マルコ1332節)、この世の終わりの時、次の新しい世が始まる時に起こるものであります。先ほど、復活は、仮死状態からの蘇生とは違うと申しました。蘇生の場合は、死んだ体がちゃんと残っていなければなりません。復活の場合は、体は土葬されて骨も肉も腐敗して干からびた状態、火葬ならば灰になった状態で跡形もありません。それにもかかわらず、使徒パウロが詳しく教えているように、復活の体と命が与えられて、もう朽ちない体、もう死なない存在に変えられるのです(第一コリント153553節)。仮死状態から蘇生した人は、いずれ本当に死ぬ時が来ます。しかし、復活の場合は、本日の旧約と使徒書の日課や他の聖書の箇所で「死が滅ぼされる」と言われているように(イザヤ258節、第一コリント15265455節、黙示録2014節、214節、ホセア1314節)、もう死ぬことのない永遠の命を持って生きることになるのです。キリスト教の葬儀では、亡くなった方と復活の日に再会できるという希望を集まった会衆同士が確認しあいます。復活の日の再会がどのような場所でどのような形で起きるかは、以上みたように聖書を繙けばかなり明らかになるのであります。

2.イエス様の復活

キリスト信仰で、復活というものが、今のこの世の終わりの時に起こるものとすれば、2000年近く前に起きたイエス様の復活は大きな例外となります。まだこの世の終わりが来ていないのに復活させられたからです。本日の使徒書の日課の中で、復活には順序があり、最初はキリスト、次はキリストが再臨する時にキリストに属する者が復活させられる、と言われています(第一コリント1523節)。この日課の一つ手前の節を見ると、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(同20節)と述べられています。使徒パウロの言葉です。「初穂」は、ギリシャ語のアパルケー(απαρχηの訳ですが、とても詩的で素晴らしい訳だと思います(注 23節の「最初はキリスト」の「最初」も同じギリシャ語の言葉ですが、訳しわけをしています)。イエス様の復活が起きてからもう2000年近く経っているので、初穂の次に穂が出てくるのは時間がかかっていますが、それは、一日は千年のごとく千年は一日のごとくという(第二ペトロ38節)父なるみ神の時間表ですから、神がよかれと思う、機が熟する時を忍耐して待つしかありません。いずれにしても、イエス様は、私たちの復活の先駆けになったのであります。ここで、なぜイエス様が一足先に死からの復活を成し遂げなければならなかったのかを見てみましょう。

このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかったわけですから、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

この間の聖金曜日礼拝の説教でも申しましたように、イエス様の十字架上での死というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが堕罪の出来事のゆえに罪と死に支配される存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(623節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも罪が強調されるので、外部からは訝しがられることがあります。人間には悪い人もいるが良い人もいるではないか、悪い人だっていつも悪いとは限らないではないか、と。しかし、死ぬということが、人間が最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死ぬ存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしてあげようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、イエス様の十字架上の死がまさに自分のために行われたのだと分かって、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神が与える罪の赦しがその人に対して効力を持ち始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復して、この世の人生を歩み始めることになるのです。

以上から明らかなように、一足早いイエス様の復活は、彼自身のために起こったのではありません。私たちが救われるために起こったのです。イエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命、そしてこの世的でない復活の体が実在することが示され、そこに通じる扉が開かれたのです。イエス様を救い主と信じる者は、この永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めたのです。父なるみ神にこれだけのことを取り計らってもらった以上は、これからは本当に神の御心に沿う生き方をしよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、そうするのが当然という心になります。しかし、実際の生活の中で神の御心から遠い自分の姿に気づかされます。そのような時はいつも、十字架上のイエス様の肩に全ての人間の罪が重くのしかかっていることに心の目を向けましょう。その中にあなたの罪も混じっているのです。このことが確認できれば、あなたは神から大いなる赦しを与えられていることを確かなものとすることができます。そして、再び神の御心を心に留めて歩み続けることができるのです。

キリスト信仰者が歩んでいる道、永遠の命、復活の体に至る道というのは、このようなことを繰り返しながら進む道です。この道を歩む者にとって、自分の中に残存している罪は、もはやその人を神の裁きや永遠の死に追いやるものではありません。逆にイエス様の十字架の下に立ち返えらせて神の赦しを再確認させるきっかけにしかすぎなくなります。しかしやがて、そうしたことが繰り返されなくなる時、ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になる時が来ます。この世に別れを告げ、肉は朽ち果てるにまかせて、神のみぞ知る場所にて復活の日まで安らかな眠りにつく時です。そして、本日の使徒書の箇所でパウロが述べるように、次はキリストに属する者たちが復活させられるのであります(第一コリント1523節)。この言葉を記したのは一使徒ではありますが、聖書の御言葉の一つとしてある以上は、これも神の言葉として神の約束を伝えるものです。

3.復活を信じるということ

 キリスト信仰の復活から私たちは、とてつもない希望を得ています。それは、今の私たちの命が、私たちの造り主である神のもとにある、死を超えた永遠の命に繋がれているという希望です。

ところが、キリスト信仰の復活は、キリスト信仰者でない人のみならず、実は信仰者の間でも最初は受け入れ難いものがあったようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の15章のはじめで使徒パウロが、イエス様は本当に復活された、そして死者の復活は本当に起こるということをコリントの信徒たちに一生懸命に弁明していますが、彼がそうしなければならないくらいに、復活を信じられない信徒がコリントにいたということであります。復活を信じられないキリスト信仰者は、それでは何を信じるのでしょうか?パウロは次のように述べています(151719節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」つまり、希望というものは全て、この世の生活に関係するものに限られてしまいます。また、この世と次の新しい世を合わせた広大な視野をもって、そこからこの世で遭遇するいろんな事柄や出来事を眺めたり意味づけたりすることができなくなってしまいます。本当に、視野も意味づけも全てこの世の範囲内にとどまってしまいます。

どうして、このようなことが起きるかと言うと、いろんな理由がありますが、一つには、人間はどうしても、自分の目で見て耳で聞いて手で触れて直接確かめられないと、また計算したり測定したりして明確に示せないと、信じることができない、ということがあります。復活にしろ、その他の奇跡にしろ、いくら他人が見たと言い張るのを聞いても、現場に居合わせて自分の目で見ないと信じられないというのが大方の考え方でしょう。当時はビデオもデジカメもスマートフォーンもなかったので撮影して記録することもできません。仮に撮影できたとしても、今はコンピューターの技術で合成できたりするので、信ぴょう性はますます疑われるでしょう。そうなるともう、見たと言う人たちの証言を信じるか、信じないかのどちらかしかなくなります。果たして、見たと言う人たちの証言は信用に値するのでしょうか?

ここで一つ考慮に入れてよいのは、ペトロをはじめとする弟子たちが、イエス様の復活後にとても変わったということです。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆、逃げてしまいました。イエス様が裁判にかけられた時、ペトロは群衆に混じって様子を窺っていましたが、周りの人から、お前もあの男の仲間ではなかったか、と気づかれてしまい、違う、あんな男は知らない、と嘘をついてしまいます。それくらい自分の身を守ることに精一杯だったのです。ところが、復活したイエス様に出会った後、ペトロはもう何も恐れるものがなくなりました。権力者側から、イエスの名を広めたら命はないと思え、と脅されても、ひるむことなく伝え続け、最後は迫害に遭って命を落としました。

もしイエス様の復活が起こらず、弟子たちが創り上げたデマだったとすると、果たして、嘘のためにここまで生涯をかけ命をかけることができるでしょうか?ここはやはり、復活したイエス様に出会った以上は、そうとしか言いようがないのであり、復活の主を通して死を超えた永遠の命があることを見せつけられた以上は、もう何をもおそれずに自分が見聞きしたことを正直に伝える他はなくなった、と理解する方が自然なのではないでしょうか?キリスト信仰がエルサレムを出発点として急速に広まったというのは、実は弟子たちの命を顧みない証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが信じたということがあります。そのような信仰を土台として、新約聖書の中に収められている書物が生まれたのです。旧約聖書の方も、使徒たちの目から見て、イエス様を用いて実現されることになる神の人間救済計画を明らかにする書物となりました。そういうわけで、今私たちが手にしている聖書は、こうした使徒たちの証言と信仰を当時と全く同じように現代の私たちにも伝える媒体になっているのです。

4.あの墓を塞いでいた大石は今もわきへ転がされたままか?

 最後に、本日の福音書の箇所で一つ注意を引かれる部分があるので、それについてお話ししたく思います。それは、マルコ164節で、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というところです。どこが注意を引くかと言うと、原文のギリシャ語の動詞「わきへ転がす」の使い方が少し奇妙なのです。日本語訳を見ると、「石は既にわきへ転がしてあった」とあります。つまり、女性たちがイエス様の墓に到着した時、墓を塞いでいた大石は彼女たちの到着前にわきに転がされて、到着の時までずっと転がされた状態であったということです。描写の仕方としては、この訳は何の問題もありません。しかし、奇妙なのは、ギリシャ語の表現では、大石がわきに転がされた状態は、女性が到着した時を超えて、福音書記者マルコがこれを書いている時、出来事から大体30年位経った後としておきますと、その時点でも転がされた状態が続いているという表現なのです(現在完了αποκεκυλισται)。もし、転がされた状態が続いていたのは女性たちが到着した時、というふうに、30年前の出来事として書けば、この「転がされた」という動詞はテキストにあるのとは違う形を取るべきではないか、と思うのです(過去完了απεκεκυλιστοないしην αποκεκυλισμενος)。マルコの書き方は、「わきに転がされた」状態が30年前の出来事としてではなく、現在もそのままであるという書き方なのです。

マルコがどういう意図でこのような動詞の形をとったのかは確実なことは言えませんが、読めば読むほど、直接の目撃者でなかった彼自身にとっても、墓の大石がわきに転がされた状態は彼の執筆の時にもそのままだった、ということが伝わってきます。つまり、墓は空のままということであり、あの時復活したイエス様は今も復活された状態でおられるという認識だったのです。(第一コリント1520節でパウロはイエス様の復活を現在完了形で書いていますが、同じ認識だったのでしょう。)

マルコがそのような動詞の形を使って書いた文ですが、読む側としても、読めば読むほど、墓の大石がわきに転がされた状態は、マルコの記述から1950年程経った今も同じで、つまり、墓は空のままで、イエス様は今も復活された状態でおられることが伝わってきます。キリスト信仰者にとって、あの墓を塞いでいた大石がわきに転がされたというのは、ただ単に過去に起きた事実ということだけにとどまらず、信仰者自身にとっても、転がされた状態が続いているのです。

主はまことに死から復活されました。ハレルヤΑλληλουια הללו-יה


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン