2022年2月28日月曜日

復活の日に神の栄光を映し出す者になれるという希望からこの世を生きる勇気を得る (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年2月27日 変容主日 スオミ教会

 

出エジプト記34章29-35節

コリントの信徒への第二の手紙3章12節-4章2節

ルカによる福音書9章28-36節

 

説教題 「復活の日に神の栄光を映し出す者になれるという希望からこの世を生きる勇気を得る」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節が終わって、この後イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 

 イエス様の山の上での変容の出来事は、これは、と言うか、これもですが、私たちの命は今のこの世とこの次にやって来る世の二つにまたがっていることを思い起こさせる出来事です。出来事の場所となった山は、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ827節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。

 

 この出来事は以前の説教でも説き明かしをしましたが、今日は旧約と使徒書の日課が以前と違うので角度を変えて迫ることができます。ただ、結論はいつもと同じになりますが。旧約の日課は出エジプト記34章でモーセがシナイ山で神の栄光を受けて顔が輝き出しそれを覆いで隠したという出来事です。使徒書は第二コリントでパウロがキリスト信仰者は神の栄光を映し出す者であると教える個所です。それで今日は、神の栄光を映し出す者になるというのはどういうことか、なぜそれは大事なことかをお教えすることになります。

 

2.モーセとエリアの出現

 

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?人によっては、聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも同じだと考える人もいるでしょう。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディアグレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという感じが伝わる言い方です。

 

 モーセとエリアの出現が現実に起きたことなら、彼らは幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えていることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来みんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 

 それなのでキリスト信仰の天国の考え方は他の宗教の天国とかそれに類する国の考え方と大きく異なっていると思います。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類する国と言うのは、この世の人生を終えた後すぐ、ないしは30何年間とか一定期間の後で到達できるという考え方ではないかと思います。つまり、今のこの世がまだ存在している時のことです。ところがキリスト信仰では、それは今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その日が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きると思います。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日よりも前に死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ539節、ヨハネ1111節、第一コリント151820節)。キリスト信仰では死は復活までの眠りで、その後に永遠の安寧か永遠の滅びかの振り分けがきます。

 

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記1931節、申命記1811節、サムエル記上216節、イザヤ書819節です。

 

3.不思議な雲

 

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(1823節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

 

4.イエス様の変容

 

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ932節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

 

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(67節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。また、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の天の御国での有り様を現わす出来事だったのです。

 

5.受難の道を選ばれたイエス様

 

 そうするとイエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなので、あの「雲」はお迎えの「雲」だったのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 

 それは、私たち人間も復活の日に神の栄光を映し出して輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするために受難の道を進んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。どうしてそういうふうにしなければならなかったのでしょうか?

 

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために守るものではない、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分ではない、兄弟を心の中で罵っても同罪と教えました(マタイ52122節)。「姦淫するなかれ」という掟も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同2728節)。詩篇51篇でダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、どうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のようなことです。

 

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、不問にするから自分との結びつきを持って新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは自分のためになされたとわかり、だからイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそこを神の守りと導きのうちに歩むことになるのです。

 

6.復活と神の栄光を映し出す希望とこの世を生きる勇気

 

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という神からの贈り物を受け取ることができるようにするためでした。私たちはこの贈り物を受け取って携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になっていることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそのことを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、37節辺りから見ていくとわかるようになります。

 

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現します。しかし、先に申しましたように、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。先にも申しましたように、十戒は人間が罪深いものであることを明らかにするからです。それで神聖で神の栄光を現す掟は人間を罰に定めてしまい、十戒だけでは人間は神聖な神の前に立たされて立ち行かなくなってしまうのです。

 

 しかし、神の御心は人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てるようにして神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。以前は十戒が現す栄光を目指せば人間は滅んでしまうだけでしたが、神は目指しても滅ばないで永遠の命に至ることができるように栄光を変えられたのです。

 

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがこの世は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって神から罪の赦しが与えられる時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままでこの真の栄光を見ようとしない人たちがいるとパウロは嘆きます。

 

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けるので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 

 12節に戻って、パウロが言う希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使えば、大体それは復活と神の栄光を映し出すことを指しています。キリスト信仰者にとってこの希望が勇気の源になると言っています。12節「確信に満ちあふれてふるまっており」というのは、この希望から大きな勇気が得られてそれを持って生きるという意味です。その勇気ある生き方の具体例が42節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について真理を人々に語る、そして、私たちは神のみ前ではこれ以上の者でもこれ以下の者でもないということを他の人たちにどうぞ良心で判断してみて下さい、と言う。復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われようと、人間は神ではないので恐くはありません。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年2月21日月曜日

復活の希望を携えて父なるみ神の守りと導きの中でこの世を生きていく (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日 スオミ教会

 

創世記45章3-11,15節

コリントの信徒への第一の手紙15章35-38、42-50

ルカによる福音書6章27-38節

 

説教題 「復活の希望を携えて父なるみ神の守りと導きの中でこの世を生きていく」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 

 これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 

2.神が与えた賜物にではなく与えて下さる神に固執せよ

 

 この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。

 

 さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。

 

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。

 

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる、導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。

 

 そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 

 人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。

 

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。

 

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 

 敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書1823節と3311節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 

 復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。

 

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何のことか意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

 

4.ヨセフの信仰の証し

 

 本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。

 

 ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼりつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。

 

神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。

 父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2022年2月14日月曜日

キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年2月13日顕現節第六主日 スオミ教会

 

エレミア書17章5-10節

コリントの信徒への第一の手紙15章12-20

ルカによる福音書6章17-26節

 

説教題 「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の聖書日課は、福音書がルカ6章のイエス様が群衆に教えを宣べるところです。内容的にマタイ5章の山上の説教と同じです。誰が「幸いな」かについて教えます。マタイでは「幸いな人」についてだけですが、ルカでは「不幸な人」についても教えます。使徒書の日課は第一コリント15章のパウロの教えです。キリスト信仰者の中に復活なんかないと主張する人がいて、それに対してパウロが、いや復活はある、と反論するところです。旧約の日課エレミヤ17章は誰が呪われた者で誰が祝福された者かについて述べています。

 

 これら3つは語られたり書かれたりした時代を見てもエレミヤからパウロまで500年以上の開きがあるものですが、何度も繰り返し読むと共通項が見えてきます。3つとも、キリスト信仰者にとって復活の視点を持ってこの世を生きることはとても大事であることを教えています。今日はそのことを見ていこうと思います。それで説教題は「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」になりました。

 

2.聖書とキリスト信仰の観点

 

 まず、ルカの日課を見てみますが、今申しましたように、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っています。しかし、内容が少し異なっています。4つの福音書の記述を見比べると同じ出来事なのに書き方が違っていることがよくあります。これはどう考えたら良いのでしょうか?以前にもお教えしましたが、簡単に復習します。次のようなことです。本日のマタイとルカの場合ですと、二人とも自分たちが入手した記録や資料を基にしています(それらは重複しているものもあれば、個別のものもあったでしょう)。特にマタイの場合はこれらの資料の他に直接自分の目で見、耳で聞いたこともあったでしょう。それに加えて自分が知らなかったこと見落としていたことについても資料が出てきたのです。さあ、それらをどうまとめるか?

 

 福音書の書き手が手にした資料というのは、手にするまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そうした伝承の流れの中で、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか逆に解説を施して長くしたということが起こります。そうすると書かれたことは史実を正確に反映していないのではという疑いが起きるかもしれません。

 

 しかし、ここで忘れてならない大事なことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、どんな観点に立ってそうしたかということです。伝えたり書き留めた人たちの観点はみんな共通しています。まず、イエス様というのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。そしてそのイエス様は死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。さらに、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めていったのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性には何の影響もありません。むしろ、いろんな記述があることで同じ出来事をいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあっても同じ信仰の観点で書かれていることを忘れず、それらを全部神の御言葉として扱い、総合して全体像を掴むことが大事です。

 

3.ルカ61726

 

 今日のルカの個所には、復活の視点がはっきり出ています。このことを見る前に「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係します。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。終末論とよく言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正確でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちを構成員とします。そこは、黙示録で言われるように、神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような神の国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道に置かれて歩む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。

 

 この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者の場合は、復活に至る道に置かれてそこを歩むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏していたことは満たされ、涙は全て拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。こうしたことがその通りになるというのは創造主の神の約束だ、だから今の境遇は「幸せ」でなくてもそれは陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われた快活な笑いを持つ自分が見えるのです。

 

 もちろん、復活の日を待たなくともこの世の段階で自分の努力や他人の手助けまたは社会がうまく機能して貧しさや空腹や涙から脱することも出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ空腹、涙と同じ陽炎です。この世的な幸せや不運はみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。

 

 「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。今裕福な人たち、満腹している人たち、笑っている人たちです。これらの人たちは今すでに満足を享受している、それなので将来飢えるようになり泣くようになると未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうのかと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。

 

 このように言うと、この世の段階で裕福になったりお腹一杯になったり笑ってはいけないみたいで、誰もイエス様の言うことなど聞きたくないでしょう。先ほど、この世で不運な境遇にあっても、またそこから運よく脱せられても、復活の「幸い」から見たら双方とも陽炎のようなものであると申しました。不運な境遇それ自体が「幸い」ではないのです。幸いとは、22節でも言われるように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにしていることが幸いなのです。それがあれば不運な境遇にあっても、またそこから脱せられた境遇でも幸いなのです。不幸な人たちにも同じことが当てはまります。裕福さ、お腹一杯、笑いそれ自体が人を「不幸」にして復活と神の国への迎え入れを不可能にしているのではないのです。裕福さ、お腹一杯、笑いの底に人を不幸にする何かがあって、それで裕福な人、お腹一杯の人、笑う人を不幸にするのです。底にあるものとは何でしょうか?

 

 26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことに耳を貸さず、偽預言者を賞賛してその言うことに耳を傾けた時代がありました。人間にちやほやされて裕福だったり満腹だったり笑ったりするのが不幸なのです。人間にちやほやされる人と言うのは、神を無視して神以上に人間に信頼を置いて頼る人です。しかし、復活の日が来たら、お前たちは神なんか頼りにならないと言って無視していたんだから今さら私のもとに来る必要はない、と言われて復活に与れなくなってしまいます。ここで、神に信頼することと人間に信頼することという問題が出てきました。まさに本日の旧約の日課のテーマです。

 

4.エレミヤ17510

 

 エレミヤ17510節は呪われる者と祝福される者の対比です。以前お教えしたことがありますが、聖書の中で「祝福」という言葉に出くわしたら、それは神が人間に御顔を向けて目を注いでくれて見守ってくれている状態だと思わないといけません。というのは、日本語の「祝福」とは、結婚式で新郎新婦をみんなで祝福しました、などと言うので、祝福はお祝いすることに関係すると考えられ、人間同士の事柄のように思われるからです。聖書の祝福は神から授かるもの、神を抜きにしては語れないものです。人間から授かるものではありません。これと正反対のものが「呪い」です。人間が神から顔をそむけられて背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。

 

 エレミヤ17章では誰が祝福される者で誰が呪われる者かがはっきり言われます。呪われる者とは、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人です。逆に、主に信頼し、主がその人の拠りどころになっている人が祝福される者です。こう言うと、人間を頼ってはいけないのか、友人も頼ってはいけないのか、天涯孤独でいなければならないのかと困惑する人が出てくるでしょう。しかし、これも先ほど申したことと同じです。貧しさ空腹さ涙それ自体が復活の日の幸いを保証しない、するのはイエス様を救い主と信じる信仰でした。また、裕福お腹一杯笑いそれ自体が復活に与れない原因ではない。神を無視して神以上に人間に信頼するような裕福満腹笑いが原因でした。つまり、人間を頼ること自体が問題なのではなく、神を無視して神以上に人間を信頼することが問題なのです。それなので、人間にも頼るが神への信頼が土台にあってそうすると言う場合は、人間への頼りは陽炎のようなものです。それを透かして見れば神への信頼が本当の信頼としてあります。神への信頼が土台にあれば、人間に頼る時も、こういう頼り方はいけないとわかって見境のない頼り方はしなくなります。

 

 神への信頼を土台にすると、どうして人間に頼ることが陽炎のように薄れるのかというと、9節と10節で明らかにされます。「人の心は狡猾で災難をもたらす。誰がそれを知り得ようか。」新共同訳では「とらえ難く病んでいる」ですが、ヘブライ語の辞書では「狡猾で災難をもたらす」もOKです。同じ節で誰も人間の心を知りえないと言っているのでこっちの訳がいいと思います。人間の心は狡猾で災難をもたらす、誰もそれをわからない、つかみどころがない、確かに日常生活の中で他人の力を借りることはあるが、完璧な他人など存在しない、それなのに完璧な神を無視して人間を完璧なように見て人間に信頼することは祝福の正反対になってしまうというのです。

 

 そこで神は言われます。人間は人間の心を知ることは出来ないが、私は知ることが出来る、と。10節の原文を直訳すると「私は人間の心の中を探知する主である、人間の奥深い部分もテストする主である」です。神は私たち人間の造り主で髪の毛の数まで知っておられる方なので、探知やテストなど当然出来ます。だからこそ「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」ことができ、神の下す判断はどんな優秀な裁判官もまねできない絶対正しい判断になるのです。「それぞれの道」の「道」というのは直訳でして、「生き方」という意味があります。神はそれぞれの生き方、業がどんな実を結んだかをことごとく見極めて復活の日に各々の行く先を決められるのです。いろんな生き方、いろんな実がありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きたかどうかが決定打になることは言うまでもありません。

 

 祝福される者が水辺の木に例えられていることについてひと言。この木は、熱波が来ようが来まいが葉は青々とし、干ばつがあろうがなかろうが関係なく実を実らせ続ける木です。そこで、自分は洗礼を受けてイエス様を救い主と信じているのに現実の姿はそんな状態からはほど遠い、私は葉が枯れて実も結ばない木のようで、自分はとても祝福されたなどと思えないと言う人がいるかもしれません。しかし、先ほど申しましたように、今の不運な境遇はこの世の段階で改善される可能性はあります。しかし、改善されたにしろ、されないにしろ不運な境遇、幸運な境遇それ自体が「幸い」ではありません。神が復活させて下さるので、それを信じてその日に向かって進んでいることが幸いなのです。その時、不運な境遇も改善された境遇も陽炎のようになって、それらを透かして見ると、復活の日の栄光の体を纏う自分が見えるのです。それと同じことです。この世では実を結ばない木であろうが結ぶようになった木であろうが、それらを透かして見ると、復活の日に永遠に青葉が茂り実をたわわに結ぶ木のようになった自分が見えるのです。これが復活の視点です。

 

5.第一コリント151220

 

 第一コリント15章は、聖書の中で復活の視点が最も集中的に現れる箇所です。ここで使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返して言います。そこで注意を引くのは、ギリシャ語原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)を用いていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌がれるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形は英語と結構違うので英語のことは忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の復活を繰り返して言う時、過去形(もちろんηγερθηアオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのです。ここが理解の鍵になります。今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書を見て気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですみます)。

 

 ギリシャ語の現在完了形は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているという意味です。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も効力を持って表面に現れているような感じです。パウロがイエス様の復活をこのように現在も続いているように言ったのには二つのことが考えられます。一つは、イエス様が復活されて今も生きておられることを意識したことです。使徒言行録にあるように、復活されたイエス様は40日間弟子たちと共に歩んだ後で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、父なるみ神の右に座して再臨の日まで信仰者を天から守り導き、その日が来たら再臨して眠りについている信仰者を目覚めさせて神の国に迎え入れます。パウロがイエス様の復活を現在も続いているように言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意識したことが考えられます。

 

 もう一つのことが考えられます。これは私たちが復活の視点を持てるかどうかに関わる大事なことです。それは、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、キリスト信仰に生きる私たちみんなの将来の復活を確実にした出来事であるということをパウロは言い表しているのです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、今を生きる私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今も表にあって私たちを引っ張る力であるということです。

 

 そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまってしまうと言っていることに注目します。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪の赦しを頂いた者です。赦しを頂いた後は自分の内に残る罪を自覚して、自覚と告白の度にゴルゴタの十字架のもとに立ち返って神から赦しがあることを確認して頂き、また前に進む、これを繰り返しながら残る罪を圧し潰していきます。もうそれをしなくても済むようになるのが復活です。その日もう自分には圧し潰す罪はありません。神の栄光に輝く復活の体を纏う者に罪などないからです。だから、復活を信じる者の内には罪が残っても罪にはその人が復活に向かう足取りを妨げる力はありません。それで復活を信じる人は内に罪が残っていても罪の中には留っていないのです。

 

 ところが復活を信じない人は様子が違います。その人は罪のない復活の体を目指すことはありません。復活を信じないのですから。そうすると、罪の自覚があっても罪を圧し潰すプロセスが起きません。復活の体を目指さないのですから。それでパウロは復活を信じない人は罪の中に留まると言うのです。罪を圧し潰すプロセスが起きないというのは、罪の赦しの確認が得られず前に進めないということです。そうなると、イエス様の十字架から罪の赦しを得られないことになってしまいます。これは恐るべきことです。十字架を持つキリスト信仰者が復活を信じないばかりに十字架から罪の赦しを得られなくなってしまうのです。この状態は、十字架を持たない非キリスト信仰者よりも悪いと言わざるを得ません。パウロが19節で言うこと、復活を信じない人はキリストに希望を置くと言ってもそれはこの世に関係することに限られてしまい、その人は全ての人間の中で最も惨めだと言うのは誠にその通りです。

 

 最後に20節をみます。キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」になったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げます。それが初穂と呼ばれます。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神への捧げものの意味もありますが、穀物だけではありません。動物もあります。それで「初穂」という訳は狭すぎます。ところで、イエス様は十字架の上で私たちのために私たちの罪を償って私たちを罪から贖い出すための犠牲となって神に捧げらました。まさに神への捧げものです。しかし、捧げものを意味する「初穂」という言葉を用いると、それと眠りについた人たちがどう関係するのかがはっきりしません。

 

 そこで、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあることに注目します。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになります。罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。それで「初穂」を捧げものでなく先駆者の意味で捉えると復活を詩のように描写することが出来ます。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。(今は冬ですが)秋の澄み渡った空の下、一番最初に穂になったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。兄弟姉妹の皆さん、復活の視点と言われてピンと来なくなったら、この秋の田園風景を思い描いて下さい。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン