2012年4月20日金曜日

信じ、かつ洗礼を受ける者は救われる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2012年4月15日 復活後第一主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
「使徒言行録」3:11-26、
「ヨハネの第一の手紙」5:1-5、
「マルコによる福音書」16:9-18
  
説教題 信じ、かつ洗礼を受ける者は救われる


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様の復活は本当にあった出来事かどうかという問題は、それについての福音書の記述が信頼できるものかどうかという問題に結びつきます。そこで、復活についての福音書の記述そのものに問題があり、それがその信頼性を揺るがしていると見る人たちが大勢います。本日の福音書の箇所が入っているマルコ16920節も問題ありと見なされる記述の一つです。何が問題なのかというと、16920節は、もともとのマルコ福音書が168節で終わっていたのを、後で付け足して書いたと見なされるからです。つまり、マルコ11節から168節までが本当のオリジナルのマルコ福音書で、その後は誰かがイエス様の復活を本当のことのように見せたいために、空っぽの墓で終わっていたもともとのマルコ福音書に、姿をとって現われたイエス様のことを付け加えたのだ、と言うのであります。もっともらしく聞こえますが、事実は本当はそう単純ではありません。
 
まず、マルコ11節から168節までがオリジナルのマルコ福音書であったということがどうしてわかるのか、という問題があります。4つの福音書の中で一番古いと見なされるマルコ福音書が書かれたのは、西暦70年にローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した直前ないし直後である、というのが学界の多数派の見解です。なかには、西暦30ないし40年代に書かれたという研究者も若干います。ところが、いずれにしても、オリジナルのマルコ福音書は現存していません。私たちが目にすることができるのは、その手書きのコピーだけです。グーテンベルグの活版印刷術までは、本は手書きでコピーされ続けました。新約聖書の諸書物のコピーは地中海世界のあちこちで発掘され、今では主として欧米諸国の博物館や大学の図書館に保管されています。古代の手書きコピーはパピルスに記されたものですが、新約聖書のコピーで発見されたもので一番古いものは、西暦200年代のものです。マルコ福音書は、オリジナルは言うに及ばずコピーにしても、本が出現してから少なくとも150年位の間に出たものは発見されていません。マルコ福音書が記されている最古のコピーをみても、どれもが全体には程遠い一部分しか残されておらず、それらをつなぎ合わせるようにして、全体が「復元」されることになります。西暦300年代、400年代以後になるとより全体に近い形でコピーが出てくるようになり、「復元」作業はそれらも考慮に入れて進められました。現在、ギリシャ語の新約聖書としてよく用いられるNovum Testamentum Graecaeはそのような復元作業の上にできたテキストです。
 
今ここで問題となっているマルコ16920節は、これらの古いコピーには入っていませんでした。西暦700年代、800年代のコピーには入っているのが見つかりました。こうした年代の遅さが、この箇所が後世の付け足しであるという考えを強めていると思われます。しかしながら、西暦200年代のコピーになかったというのは根拠としてそんなに強くありません。なぜなら、その頃のコピーはどれを取っても福音書の一部分しか残していないからです。残っていない部分にどんなテキストがあったかはわかりません。それに忘れてはならないことが一つあります。それは、イレナエウスという西暦100年代後半に活躍したリヨンの教会の指導者・神学者がこのマルコ16920節を引用しているのです(この引用の事実は4世紀終わりに由来する引用のラテン語訳から知ることができるのですが)。そういうわけで、マルコ16920節の起源は、一気に西暦100年代後半に遡るのです。これで、200年代のコピーにはないのに700年代のコピーにでてくるのだから、というのは、付け足し説の根拠にはなりえないことがおわかりいただけたかと思います。それでは、付け足し説にもう少し付き合うとして、オリジナルのマルコ福音書は168節で終わって、920節は西暦100年代半ばに書き足された、としてみます。ところが、先ほど申し上げましたように、マルコ福音書はオリジナルは言うに及ばず、コピーも西暦100年代を通したものは発見されていません。付け足しかそうでないかは、そのようなものが発見されないと確実なことは言えないのです。
 
マルコ16920節がもともとのマルコ福音書になかったと疑う根拠に、その内容がマタイ、ルカ、ヨハネの三福音書の記述から要約したと見えることを挙げる人もいます。つまり、付け足しを書いた人は、マルコ福音書より後に出た三福音書を読んで、イエスが人々に姿を現した出来事を少しずつ取って要約してつなぎ合わせて、マルコ福音書の終わりにくっつけた、というのであります。例えば、マルコ16911節はイエス様がマグダラのマリアに現れた記述ですが、これはヨハネ201418節にある詳細な記述の要約、マルコ161213節にある移動中の二人の弟子に現れたという記述は、ルカ241335節にある有名な「エマオの道」の出来事の要約、マルコ1614節で、イエス様が11弟子に現れたと記述は、ルカ243643節とヨハネ2019232629節にある詳細な記述の要約、そしてマルコ161518節にあるイエス様の弟子たちに対する宣教命令は、マタイ281820節の要約である、という具合です。
 
これも、文章をよく見るとそう単純なことではありません。というのは、要約した内容は、要約のもとの内容と食い違いがあり、マルコの記述は必ずしも、三福音書の要約とは言い難い点があるからです。移動中の二人の弟子にイエス様が現れた出来事について、マルコでは他の弟子たちは二人を信じなかったことが強調されますが、ルカの「エマオの道」の出来事には他の弟子たちの不信仰は触れられません。イエス様の宣教命令をみても、要約元であるはずのマタイ福音書は、信仰を持つ者に伴う奇跡について何も言っていません。こうなると、マルコ16920節は、マタイ、ルカ、ヨハネの三福音書のつまみ食い的要約などとは言えず、三福音書の記述と並んで、ひとつの独立した伝承の流れに由来するものと見なすことができます。
 
このように、復活したイエス様が人々に現れた出来事について、4つの異なる伝承の流れがあるとすると、どれが本当の出来事を記しているのか、という疑問が出てくると思います。それについては、昨年8月の本横須賀教会の礼拝説教で、なぜ4つの福音書では同じ出来事の記述に違いがでるのか、という問題を取り上げた時に教えたところです。ごく簡単におさらいします。イエス様にまつわる出来事の目撃者である弟子たちの証言は、伝承されたり記憶にとどめられたりしていくうちに、そうする人たちの置かれた状況やものの見方も手伝って、強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということが起きる。それで、最初の目撃者の証言の伝承や記憶は、時間の経過とともに膨らんだり縮んだり、また記述される出来事の文脈が変わってきたりすることがある、ということでした。ただし、このような場合でも必ず忘れてはならないことは、記憶やものの見方に相違があると言っても、これらの目撃者、伝承者、福音書記者はすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちで、パウロを含む使徒たちの教えをしっかり守った人たちであるということです。このように大元のところは同じなのですから、記憶やものの見方に相違があっても、それは大元のものを覆すほどのものでは全くなく、許容範囲にとどまるものです。その意味で、伝承の過程において聖霊のコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。ただし当時は、聖霊のコントロールから外れる伝承、教え、見解も多く流布しておりました(トマス福音書とかユダ福音書とか)。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。聖霊の働きの結晶である聖書をあなどってはいけません。
 
そういうわけで、4つの福音書のイエス様の復活の記述にいろいろ相違があっても、(1)墓の前の大石が取り除かれ墓が空だったこと、(2)最初にそれを目撃したのは少なくともマグダラのマリアであったこと、(3)イエスが復活してすでに墓から出て行ったことを天使が告げたこと、(4)その後でイエス様は何人かの弟子たちに現れ、最後に11人の弟子に現れたこと、以上は、どれも中核として貫いています。本当に起きたことは、この中核に強く結びつくものだったのでしょう。
 
以上から、マルコ16920節は、後の付け足しであると結論を下すためにはクリアーしなければならない問題が多くあることがわかっていただけたかと思います。もちろん、以上の議論からすぐ同箇所がマルコ福音書のオリジナルにあったと結論づけられるかというと、それもまだ決定的なことは言えないというのも事実です。しかし、ひとつ確実な結論があります。それは、マルコ16920節は、マタイ、ルカ、ヨハネの記述に寄りかかってできたものでなく、それらと並んで、同じく聖霊のコントロールのもとに出てきた記述であるということです。それゆえ、聖書の他の箇所と同じく、人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉であるということです。
 
 
2.
 
 それでは、マルコ16920節も人に信仰を生み出す力を持つ神の御言葉という以上、本日の箇所である918節は私たちに何を教えているのでしょうか?本説教では、二つの大きな教えに絞って見ていきたいと思います。一つめは、イエス様の復活を信じることがキリスト教信仰の基本にあるということです。主の復活を信じるということは、どんなことかをみてみましょう。
 
イエス様は、まずマグダラのマリアの前に姿を現しました。マリアは弟子たちにイエス様を見たと言ったのに、彼らは信じませんでした。それから、イエス様は移動中の二人の弟子たちに現れ、彼らは他の弟子たちにそれを伝えましたが、これも信じてもらえませんでした。その後で、イエス様は、11弟子が集まっているところに直接現れて、彼らが信じなかったことを叱責されます。この時、イエス様が叱責したのは、彼らの「不信仰」と「心のかたくなさ」の二つですが、何が「不信仰」、「心のかたくなさ」の内容かというと、「イエス様が復活させられたのを目撃した者を信じなかった」ことと記されています。マルコ334節で、イエス様は御自分につき従って来た者たちを自分の母であり、兄弟姉妹である、と言われました。つき従った者たちはそれくらい一つの家族のようなものなのに、その同じ家族に属するマリアや二人の弟子たちが、復活した主を見た、と言っても信じないのは、救いがたい不信仰、心のかたくなさであります。この不信仰、心のかたくなさを打ち砕くためには、主が自ら現れる以外にありませんでした。自分の目で復活した主を見た弟子たちは、信じるもなにも、もう見たことを受け入れるほかはありません。こうして不信仰と心のかたくなさを打ち砕かれた弟子たちは、迫害や死をもおそれない福音の宣教者として生まれ変わるのであります。
 
 「イエス様が復活させられたのを目撃した者を信じるかどうか」ということは、弟子たちを超えて、実は私たちにもかかわってきます。「復活させられた」というのはギリシャ語の原文でεγηγερμενονですが、これは動詞の受動態の分詞形で、しかも現在完了形です。つまり、西暦30年頃ユダヤ教の過越祭の最中の金曜日にエルサレム郊外で処刑され、三日後の安息日に死から復活させられたイエス様は、今もなお復活させられた状態でおられるという意味です。つまり、「イエス様が復活させられたのを目撃した者を信じる」というのは、イエス様があの時あそこで復活したと信じますという歴史的事実の確認にとどまりません。今もなお復活させられた状態でおられる主を、まさにそのようなものとして受け入れることであります。そして、その今おられる主と共に人生の道を歩み始めるということであります。ここで、この復活の主を受け入れるということは、聖書なしにはありえないということを忘れてはいけません。というのは、私たちには主の復活を目撃した者が身近にいません。目撃者の証言やそれを聞いて信じた者たちの信仰がまとめられている聖書が、私たちにとって目撃者の役割を果たしているからです。それですので、日々聖書を身近なものとし、学びを怠らないようにしましょう。
 
 
3.

本日の福音書の箇所が私たちに教える二つめのことは、「信じ、かつ洗礼を受ける者が救われる」ということです。日本語の訳で「信じて洗礼を受ける者は救われる」というと、救われるためには、最初に信じることがあって、次に洗礼を受けることが来る、というような順番があるような印象を受けますが、そうではありません。これは双方が一緒にそろって、救われるという並列の関係にあります。つまり、イエス様が救い主であると信じても洗礼を受けていなければ、まだ救いに与っていない。洗礼を受けても信じていなければ、それも救いに与っていないことになる。両方がそろわないといけない。
  
そうなると、赤ちゃんは幼児洗礼によっては救われないのか、洗礼は子供が誰を救い主と信じるか自分でわかる年齢に達するまでは受けても意味がないのかという議論が起こります。ここで大切なことは、幼児洗礼には、人間の救いが神からの贈り物として与えられる、ということが最も強くあらわれるということです。つまり、人間は堕罪によって死という永遠の滅びに定められてしまいました。人間がそこから救われて復活の命を持って永遠に造り主の神のもとにいられるようにと、神はイエス様を十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、かつ死から復活させることで永遠の命に至る扉を開いて、この救いを実現して下さいました。救いは、神がイエス様を用いて全部整えて下さったのです。救われるために私たち人間の側ですることと言えば、イエス様を救い主と信じ、かつ洗礼を受けて、この救いを贈り物として受け取ることだけです。
 
無力で非力な赤ちゃんは、ただ受け取ることしかできませんが、大人は、どうしても自分はちゃんと聖書やキリスト教の教理を理解できているかとか、どこまで真人間になったかとか、ということが気になって、救いを受けるのにまずそれにふさわしい人間にならなければならないと考えてしまう。神の方では、罪と不従順に染まったままの人間がそこから助けて下さいと叫べば救いを受けられ、それで十分としているのに、人間の方で、あたかもそれでは不十分のようにしてしまう。もちろん、大人が洗礼を受ける時、洗礼が何をもたらすのか知らないでは受けられませんので、その意味で教理を学ぶことは必要です。しかし、その学びは、学べば学ぶほど自分は神の救いを赤子のように受け取らないと救われないと観念するような学びでなければなりません。その意味で赤ちゃんは、そのような学びが必要ないのです。
 
しかしながら、赤ちゃんが洗礼を受けたら、それで終わりということにはなりません。子供が育っていくにつれて、自分がどれほど大きな贈り物を受けているのかをわかるようになっていかなければなりません。そうなるために両親の責任は大きなものがあると言えましょう。つまるところ、幼児洗礼の場合、信仰とは、自分が受けた神の愛と恵みの深さ大きさを自覚するようになること、そうしたものを受けた者として自覚的に生きることと言い換えてもいいかもしれません。このように育てられた子供は、まさに「信じ、かつ洗礼を受ける者」となるわけです。ところで、欧米の伝統的なキリスト教国では大体そうなのでしょうが、私の居住していたフィンランドでも、幼児洗礼は形式的なものに堕してしまっています。子供が自分の受けた神からの贈り物がどれほどのものか、わからずに大きくなってしまうことが多くみられるようになりました。これでは、「信じ、かつ洗礼を受ける者」にはなれません。親の責任は重大です。人は神からの贈り物がわからなければ、心に神への感謝は生まれなくなります。神への感謝が生まれなければ、ものの見かたや考え方は造り主を忘れた人間中心に、また永遠の命を忘れたこの世中心なものとなってしまいます。
 
 それでは逆に、イエス様が救い主であると自覚して生きるから洗礼はいらない、と言った場合はどうでしょうか?それでも、やはり救いに与ることはできないと言わなければなりません。というのは、洗礼なくしてイエス様を救い主と信じて生き続けることは不可能だからです。ペトロがイエス様のことをメシア(救世主)、神の子と告白した時、イエス様はペトロにそれを言わせたのは人間の血と肉ではなく、天の神そのものであると言いました(マタイ1617節)。ヨハネは、イエス様をメシアと信じる者は神から生まれたのである、と言います(第一ヨハネ51節)。つまり、人間がイエス様を救世主と信じるのは、人間の力や能力から来るのではなく、神からの霊である聖霊の力によるのです。人間の力や能力だけでイエス様を評価しようとすれば、せいぜい歴史上の類まれな宗教家とか哲学者とかイデオローグという位置づけになるでしょう。歴史上の人物ですから死にますし、今も復活した状態でおられるなどととても考えられたりはしません。
 
洗礼を受ける前の段階の人がイエス様を救い主とか今も復活しておられると信じ始める時、それはその人が聖霊の影響を受け始めたことを意味します。ここまで来たらあとは洗礼を受けるのが自然の流れです。洗礼を受けるということは、また聖霊を受けることも意味します。洗礼を通して聖霊を受けることで、人は恒常的にイエス様を救い主と信じる信仰を持って生き始めることになります。このようにしても、「信じ、かつ洗礼を受ける者」となることができます。
 
 
4.

 以上、本日の福音書の箇所であるマルコ16918節は、これも人に信仰をもたらす神の御言葉であることをみて、その箇所が教えることとして二つの事柄をみてきました。一つは、イエス様の復活を信じることがキリスト教信仰の基本になっているということ、もう一つは、「信じ、かつ洗礼を受ける者」が救われるということでした。
 
 最後に、「信じる者に伴う」(167節)と言われる奇跡のしるしについて少しだけ触れておきましょう。本日の箇所で、そのようなしるしとして、悪霊を追い出すこと、異言を語ること、蛇をつかんだり毒を飲んでも傷つかないこと、病人を癒すことが数えられています。ここで注意しなければならないことは、これらのことが伴わなくても、それは信仰の弱さとか欠如を示すものではないということです。「伴う」παρακολουθησειというギリシャ語の未来形の動詞は「伴うことが可能である」と可能の意味に考えることもできます。いずれにしても、救われる大前提は「信じ、かつ洗礼を受ける」ことにあることは、先に見た通りです。他方で、自分に信仰があることを示してやろうと、こういう奇跡のしるしを追い求めることは本末転倒です。それは「神を試す」(マタイ27節)ことになります。ここにリストアップされている奇跡のしるしは、どれもが福音の宣べ伝えに際してあらわれたものであることにも注意しましょう。「毒を飲む」というしるしの事例は新約聖書には見つかりませんが、「蛇をつかむ」ことはパウロがローマに送られる途中のマルタ島で体験したことが使徒言行録に記されています(2836節)。そういうわけで、信じる者にどんな奇跡のしるしが伴うかを考えるよりも、私たちの隣人が「信じ、かつ洗礼を受け」て救いに与る者となれるようにと、祈り、働きかけることの方が本質的なことではないかと申し上げて、本説教の締めにしたいと思います。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン