2012年4月2日月曜日

イエス・キリストという光に照らされて (吉村博明)


説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士) 
  
主日礼拝説教 2012年3月25日 四旬節第五主日 
日本福音ルーテル横浜教会にて
  
「エレミア書」31:31-34、
「エフェソの信徒への手紙」3:14-21、
「ヨハネによる福音書」12:36b-50
  
説教題 イエス・キリストという光に照らされて
  
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 ヨハネ福音書では、イエス様が「光」であるということがよく言われます。本日の箇所や先週の箇所のようにイエス様が「自分はこの世に来た光である」(319節、1246節)とか「この世の光である」(812節、95節、123536節)と自分で言う場合もあるし、この福音書を記述したヨハネが、イエス様は光であったと総括する場合もあります(1459節)。イエス様が光であるとは、どんな意味でしょうか?
 
 ひとつには、闇の中を照らして、私たちが道を誤らず正しい道を歩めるようにするという意味があります。ヨハネ812節で、イエス様は「私は世の光である。私に従って来る者は闇の中を歩むことがなく、命の光を持つに至る」と言います。また、1235節では、「もう少しの間、光はあなたがたと共にいる。あなたがたが光を持っている間に歩みなさい。闇に捕らわれてしまわないように。闇の中を歩む者は、自分がどこへ向かっているかわからないのだ」と言います。
 
 それでは、イエス様という光を持った時、人はどこへ向かって歩むのでしょうか?何か目的地があって、そこへ道を誤らないで行けるようにとイエス様が光となって道を照らして下さっている。イエス様という光が照らされなければ、誰も道が見えず目的地に到達できない。その目的地とはどこなのでしょうか?
 
 その目的地とは、天国です。天国とは、私たちがこの世から死んだ後で、私たちを造られた天地創造の神のもとで永遠にいることができる場所であります。それがどんな場所か、聖書に沿ってもう少し具体的に述べてみましょう。黙示録2134節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」つまり天国とは、以前生きていた世で私たちの身に降りかかっていたことを神が全て清算されて、もう涙は流さなくてもいい、重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵がある世界です。「最初のものは過ぎ去った」というのは、以前生きていた世にあった天と地が消え去り、そこで苦しみや嘆きをもたらしていた原因も一緒に消え去って、全く新しい天と地にとってかわられたことを意味します。神と永遠に共にいられる天国はまた、黙示録1979節で、婚礼の祝宴にたとえられます。それは、新しい天と地のもとで、以前生きていた世の労苦を全てねぎらわれるとうことです。そして、神のもとに永遠にいるところは、死がもう襲ってこないところであります。
 
 このような天国に行けるためには、なぜイエス様という光がなければならないのでしょうか?それは、私たち人間の状態が、神と永遠に共にいられるような状態にないからです。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまいました。神聖な神と神に造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。人間は自分の力でこの断絶を埋めることはできません。なぜなら、そうするためには人間は神と同じくらい神聖な存在にならなければならないからです。人間は、この神との断絶をそのままにしておくと、この世から死んだ後で永遠に造り主から離れ離れになります。そうなると、天国にある完璧な安心安堵からも完全なねぎらいからも永遠に遠ざけられてしまいます。そればかりか、黙示録20章やマタイ25章に出てくる永遠の火に永遠に投げ込まれてしまうのかどうかという問題に直面します。
 
神は、人間が永遠に御自身のもとに戻ることができるように、つまり人間が救われるようにと、そのために人間にかわって手筈を全て整えて下さいました。ひとり子イエス様をこの世に送り、十字架の上で全人類分の罪と不従順の裁きを全て彼に負わせて、私たちの身代わりとして罰を彼に下し死なせました。私たちに向けられていた罪の裁きと呪いは、彼が消化してしまったので帳消しになりました。さらに、神は、死んだイエス様を復活させることで、永遠の命、復活の命に至る扉を私たちのために開いて下さいました。この福音を聞いた人が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとき、人はこの神の整えられた救いを自分のものとして所有できるのです。そして、この世にいながら、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることとなり、この世から死んだ後は永遠に神のもとで生きることが出来るようになるのです。
 
もし、イエス様という光がなければ、誰も目的地がどこにあるか見えません。そこに到達する道も見えません。全てが闇の中です。この世から死んだ後も闇の中です。ヨハネ146節で、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われますが、まさにその通りであります。
 
 
2.

以上、イエス様が光であると言う場合、それは私たちに目的地とそこへの道を照らしてくれる光という意味があることを明らかにしました。もう一つの意味があることも忘れてはなりません。それは、ヨハネ19節で言われるように、人間を照らし出す光という意味です。人間を照らし出してどうするのかと言うと、人間に宿る罪や神への不従順を白日の下に晒すということであります。
 
人間に宿る罪や不従順というものは、イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けたキリスト教徒と言えども免れていません。キリスト教徒とは、イエス様が有する神の義という純白な衣を頭から被せられた者なので、実はまだ内側に罪と不従順を宿しています。神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することが神の神聖な御心であると知っていながら、この内在する罪と不従順のためにそうしないことがよく起こります。けれども、そのたびに悔い改めの心を持って罪の告白をすれば、神は私たちに被せられているイエス・キリストの純白の衣を見て「この者は私が整えた救いを受け入れた者だ」と確認して、私たちに赦しを与えます。
 
このようにして私たちは、永遠の命、復活の命に至る道を歩みますが、これは、実に不断に続く内面の戦いです。かたや、肉に結びつく古い人が悪魔と組んで、「神を全身全霊で愛さなくてもいい。隣人を自分を愛するが如く愛さなくてもいい」とそそのかし、そうなってしまった時には、「それをわざわざ神に打ち明ける必要はない」とたぶらかし、私たちと造り主との関係をどんどん引き裂いていきます。この関係の引き裂きを通して、私たちが造り主である神から独立した存在のように見せかけ、やがてはさも造り主など存在しないかのように人間が自分を自分の主人であると錯覚させていきます。これに対して、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人は、「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することは、神が望んでおられることである」と知っており、もしそれに反してしまった場合には、すぐ神にもとに立ち返って赦しを乞わなければならないとわかっています。このように新しい人は、造り主である神に従属して、その絆の中で生きていくことを志向します。この内面の戦いは苦しい戦いですが、私たちには、十字架の贖いの死と死からの復活をもって全てに勝利した主イエス様が常についていて下さることを忘れないようにしましょう。
 
このように、イエス様の光が私たちを照らし出すというのは、人間の真の姿を晒しだしながら、私たちが神との絆の中で生きられるようにするためであることが明らかになりました。ヨハネ321節で、イエス様は「真理を行う者は光のもとに来る。それは、その人の行いが明るみに出て、それが神に導かれてなされたことが明らかになるためである」と言われます。ここで、「真理を行う」というのは、まさに、自分の罪と不従順を造り主である神の目の前に晒しだし、悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ることです。「ヘブライ人への手紙」415節をみると、罪の赦しという恵みの王座の前に勇気を持って進み出ることが、神から憐れみと恵みを受けて、時宜にかなった助けを頂けるために必要なことである、と言われています。キリスト教徒の生きる力の源は、こうした罪の赦しを土台とする神との絆にあると言えましょう。
 
 
3.

 以上みてきたように、私たちは、イエス・キリストという光に照らされて、天国への道を誤らずに進むことができ、さらに自分の真実の姿を明るみに出すことで神との絆、罪の赦しの絆を日々強めることができます。ヨハネ1247節で、イエス様は、自分の教えの言葉を聞いてそれを守れない人がいても、そのような人を裁くのではなく救うのだと言われます。私たちが、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようになるのは、そうしないと裁かれるからという恐怖心からそうするのではありません。救いと赦しを頂いたことによる感謝から、そうするのです。このように私たちは、イエス様の教えの言葉を受け取って、また神からも赦しを受け取って、日々イエス・キリストという光に照らされながら、この世を生きていくのであります。
 
ところが、こうした生き方と反対の生き方もあります。ヨハネ1248節で言われるように、イエス様という光自体を拒否し、彼の教えの言葉を受け取ろうとしない者がいます。その場合は、天国に行く道が照らされないので、そのような人にとって人生はただこの世だけで終わるか、または続きがあるとしてもそれは闇の世界です。また、自分の真実の姿を照らし出すこともしないので、自分の行い、思い、考え、発する言葉が造り主の御心とどれくらい離れているか知る由もないし、知りたくもない。そうなると、自分の主人は自分自身という自分中心の生き方になります。
 
 神が人間の救いを整えられ、そのためにイエス様を救い主としてお送りになったのに、なぜ人間は信じないで闇にとどまることを選ぶのでしょうか?本日の箇所の初めの方にある40節で、ヨハネ福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人がイエス様を信じなかったのは、神がそうさせなかったからだと言います。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」これは、イザヤ書610節にある神の言葉を少し変えた形の引用です。引用元をみると、裁きの調子はもっと強く、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」となっています。イザヤ書では、神は預言者イザヤに、これから出て行ってイスラエルの民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じます。ヨハネ福音書の引用では、心のかたくなさや目の見えなさは、もう実現されたことになっています。いずれにしても、人が神を信じないのは神がそうさせないようにするからだ、と言っているように見えます。もしそれが本当なら、イエス様を救い主と信じない人が出るのは神がそうさせないからということで、不信仰はその人のせいではなくて神のせいということになります。そうなれば、神が人を信じないようにさせておきながら、そういうふうになった人を裁いて、天国に行けないようにするというのはなんという理不尽なことかということになります。
 
しかしながら、イザヤ書の610節はそれだけ取り出してみるべきではなく、同書のもっと広い文脈と神のその言葉が出た歴史的状況とをあわせて理解する必要があります。預言者イザヤが神のこの厳しい裁きの託宣を受けたのは、紀元前700年代の後半ユダ王国の王ウジヤが死んだ年です(イザヤ61節)。ウジヤ王の次にヨタム王が即位します。列王記下によると、二人の王自身は神の目に正しいことを行ったとのことですが(列王記下1534節)、国民の方はどうかというと、200年程前にさかのぼるレハブアム王の時代に異教の神崇拝をまねて国内各地に高台が築かれてアシェラ像なる像に生け贄を捧げることが始められ、天地創造の神の怒りを招くこととなりました(列王記上142224節)。この高台での生け贄捧げはユダ王国の伝統となってしまったのです。イザヤの時代にもこれは続けられ、ウジヤ王もヨタム王も生け贄の高台は廃止できませんでした(列王記下1535節)。歴代誌下には、ヨタム王の時代の国民は「依然として堕落していた」と記されています(272節)。ヨタム王の次に即位したアハズ王はついに王自らこの高台の生け贄を推進する者となってしまいます(列王記下1634節)。
 
 このようにユダ王国の王と国民は、ダビデ・ソロモンの王国の南北分裂以後、若干の王を除いて天地創造の神の御心に背き続けていました。イザヤ書1章をみると、イザヤが活動し始めた頃のユダ王国の社会の混乱ぶり、道徳の退廃ぶり、そのくせ宗教的な行事や礼拝は外面的には守り続けている欺瞞性を糾弾する神の言葉が記されています。預言者イザヤが610節にある神の裁きの託宣を受けた時、彼はその目で神の姿を目撃してしまいます。彼はその時、汚れた唇を持つ民の中に住み自ら汚れた唇を持つ自分は神聖な神を見てしまった以上、自分は消滅してしまうと恐れおののきます(イザヤ65節)。つまり、神が民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じたのは、心が清い民の心をかたくなにすることでも、目が見える民の目を見えなくすることでもなかったのです。既に心がかたくなになっていて目が見えなくなっていた民に対して、もう何度言っても無駄だ、救いようがない、そんなに心をかたくなにしていたいのなら勝手にするがよい、そんなに目が見えないのが好きなら勝手にそうするがよい、と突き放したのであります。
 
神は、人間が再び造り主である御自分のもとに永遠に生きることができるようにと、イエス様を用いて人間のために救いを整えられました。人間に対して、さあ、この救いをどうぞと提供して下さっているのです。救われるために人間がすることと言えば、それを受け取るだけです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ受け取りは完了です。しかし、どうぞと提供されて、いりません、と背を向けて受け取りを拒否した場合は、神はそのままにされます。拒否した人が自分の道をそのまま行くのにまかせます。しかし、神は、拒否した人に対して、それならもう提供なんかしてやるもんか、というスケールの小さいことは言いません。その人が考え直して受け取りに来る日を待っているのです。本当に受け取りに戻ってきたら、あの時拒否したくせに、などと嫌味になることもありません。戻ってきてくれたことを本心から喜んで下さるのです。その時の神の本心からの喜びがどのようなものかわかるには、イエス様の有名な「放蕩息子」(ルカ151132節)のたとえに出てくる父親が息子の帰宅をどれほど喜んだかを思い出していただければ十分だと思います。私たちも、できるだけ多くの人が、神の整えられた救いを受け取ることができるように祈り、かつその受け取りを助けてあげることができるような知恵と力を、神に祈り求めていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン