2012年3月26日月曜日

不信仰から信仰へ (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士) 

主日礼拝説教 2012年3月18日 四旬節第四主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて

民数記21:4-9、
エフェソの信徒への手紙2:4-10、
ヨハネによる福音書3:13-21

説教題 不信仰から信仰へ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.        はじめに 

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという社会的にも高い地位の人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民としての神聖さを保てるようにしようと非常にこだわったグループで、当時のユダヤ教社会でも影響力を持っていました。モーセ律法に加えてそれから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に遵守することを唱え自ら実践していました。イエス様が歴史の舞台に登場し、数々の奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか、と。イエス様が律法や預言に依拠していることは明らかなのですが、何かが違う。イエス様にとって、神の前での清さ、神聖さというのは外面的なものではない。内面を含めた全人格的なものでなければならない。それゆえ、「殺すな」というモーセ十戒第五の戒律は、実際に殺人を犯さなくても、心で他人を憎んだり見下したりしたら、もう戒律を破ったことになる(マタイ522節)。「姦淫するな」という第六の戒律は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心にそれを描いただけで破ったことになる(同528節)。これは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているのではなく、十戒を人間に与えた神のもともとの意図とはそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を知らせているのであります。
 
全人格的に神の意図を満たしているかどうかということになると、人間はもはや本質上、神の前で清い神聖な存在になるのは不可能になります。それなのに、人間が自分で作った規則を守ればそれができると信じて自分にも他人にも課そうとするのは滑稽なことであります。イエス様は、ファリサイ派が重視してやまない清めの規則を次々に無視していきます。当然のごとくファリサイ派のイエス様に対する憎悪はどんどん高まっていきます。
 
とは言っても、ファリサイ運動のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には原点に立ち返って、神の前の清さ神聖さはこれで保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ヨハネ福音書3章に登場するニコデモは、そのような自省精神を持つファリサイ派であったと考えられます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派が日中にイエス様に向き合うとたいていは批判や非難を浴びせるだけでしたので、夜に一人で出かけるというのは意味深です。案の定、彼はイエス様から人間の霊的な生まれ変わりとか神の愛や人間の救いということについて教えを受けるのであります。その後、ニコデモはファリサイ派のイエス様に対する疑念・反感に距離を置き始めます(751節)。そして、イエス様が処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走したのであります(1939節)。
 
本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中の316節は特に大事な御言葉です。昨年6月の本横須賀教会での説教で、フィンランドのルター派国教会には献身礼教育なるものがあって、日本の中学2年にあたる子供たちが2週間くらいの合宿形式でルター派キリスト教の教理、信仰生活、教会生活等を学ぶことがあると申しました。そこでは、課題の一つとしていくつかの聖句を暗記できるようにしなければなりません。このヨハネ316節は暗記リスト・ナンバーワンと言ってもよいくらいフィンランドのルター派教会の中で重視されている聖句です。なぜかというと、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。そういうわけで、まず、このヨハネ316節を見ていきましょう。
 
 
2.        ヨハネ316

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
  
 この箇所を理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。「これを食べたら神のようになれるぞ」との悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は神から取ってはならないと言われていた実を食べてしまいます。人間は神に対して不従順な存在となり、罪が入り込み、死する存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間の間に断絶が生じてしまったのです。この断絶をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れの状態がどんなものかを理解するには、これと反対の神のもとに永遠にいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。
  
 黙示録2134節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」人が死んだ後で復活して、人間を造った天地創造の神のもとで永遠に生きることになるというのは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。「最初のものは過ぎ去った」というのは、以前生きていた世にあった天と地が消え去り、そこで苦しみや嘆きをもたらしていた原因も一緒に消え去って、全く新しい天と地にとってかわったということです。そこで復活の命に与る者たちは、黙示録の19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(79節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。
 
さて、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態とは、今言ったことと全く逆のことになります。まず、復活の命に与れないので、死んだ後は陰府の世界(αδης)にとどまります。以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べ、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれることになると教えています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。復活の命に与れなかった者は、「命の書」という神の記録に以前生きていた世での生き様が記されます。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていませんが、ひとつ確実なことは、この「命の書」に名前すら載せられないような輩がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたら昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。
 
以上みたように、人間は今の世から死んだ後、もし永遠に神から離れ離れになれば、このような悲惨が待っているということを聖書は教えています。堕罪の後の人間の運命はこのようなものとなりました。しかし、それは神の本意ではありませんでした。神は、堕罪で生じた人間との断絶を解消して、もう一度人間が神のもとで永遠に一緒にいられるようにとお望みになりました。しかし、人間は罪と不従順のゆえに死する存在となり、代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神聖な神との断絶をなくすためには、人間に宿る罪と不従順を無力化しなければなりません。しかし、初めに見たように人間は誰も神の御心を100%、全人格的に行うことはできません。この行き詰まりを打開するために、神はひとり子イエスをこの世に送られ、人間の罪と不従順がもたらす裁きと呪いを全て彼に背負わせて、彼に身代わりになってもらって罰を受けさせたのです。私たち人間が堕罪以来、神に負っていた莫大な負債が御子の尊い血を代価として帳消しにされたのであります。さらに神は、十字架で死んだイエス様を死から復活させることで、私たちに永遠の命、復活の命への扉を開かれました。
 
このように人間が永遠の滅びから永遠に神のもとにいられるようにする救いは、神の方で整えてしまったのです。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神の整えがこの私のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取ることであります。「エフェソの信徒への手紙」28節に、救いは人間の力によるのでなく「神の賜物」つまり神からの贈り物であると記されていますが、まさにその通りであります。
 
ヨハネ316節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた側の人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに至る存在になってしまいました。その断絶を解消し人間が永遠に神の御元にいられるようにと、神は独り子を用いて救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ316節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の趣旨、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。
 
 
3.        不信仰から信仰へ
 
 以上みてきたように神は、人間にかわって人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。神の整えられた救いを受け取るというのは、神がイエス様を用いて行ったことというのは、この私のためになさったのだとわかって、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いについて知らされても、それを受け取らない場合があります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えても聖書で教えるのと異なる考え方をする場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。こうして現世中心主義と異なる宗教では、かたや非宗教的、かたや宗教的と全く別物である反面、イエス・キリストを救い主と信じない不信仰という点では共通しています。本日の箇所の後半部分(1821節)で、イエス様はこの不信仰について教えます。
 
ヨハネ318節で、イエス様を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これなど、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これをキリスト教の独りよがりだと言って憤慨するでしょう。しかし、それは早合点です。先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいる。しかし、みんながみんな代々死んできたように、代々罪と不従順を受け継いでおり、この神との断絶は善人といえども免れない。みんながみんな、この世からも死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道にストップがかかり、永遠の命、復活の命へと軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じない者は何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。
 
319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。永遠に神から離れ離れになるという滅びの道を歩むしかなかった人間のために、神はイエス様を使って「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら強化してしまうことになってしまうのです。
 
320節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れと光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、これも早合点です。キリスト不信仰者は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。
 
キリスト信仰者の場合は、まさに逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて造り主である神から赦しをいただくというプロセスに入ります。ここで注意しなければならないのは、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れと光のもとに来る」などとは言っていません。321節で言われるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果も一緒に白日に晒すということです。全身全霊をもって造り主である神を愛しませんでした、自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、本当ならば以前と同じ滅びの道を進む者であるにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を造り主である神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。321節に、真理を行うことは「神に導かれてなされた」と言われていますが、まさにその通りです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。
 
ところで、キリスト不信仰者はそういうさらけ出すべき造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を持ってはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を歩むということであり、そこから人間を救い出したいがために神はイエス様をこの世に送られたのでした。それにもかかわらず、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。一度イエス様を救い主と信じてもそれがはっきりしなくなったり、またはそうではなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これは大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章にあるモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命に軌道修正するというのは、身近な緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大事態であります。どうしたら、このことを多くの人たちに気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者であり、神との間には断絶が生じてしまっているが、イエス・キリストを救い主と信じることで断絶は解消し、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとにいられるようになる、ということを。このことを多くの人たちに気づいてもらえるために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?
 
しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音を宣べ伝えること。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に、人の不信仰が信仰にかわることができるためには何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければなりません。特に、キリスト教または宗教そのものに疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。でも愛する肉親や隣人がそういう人なら、キリスト信仰者としては、気づいてほしいと思うのが本当だと思います。その場合は祈りで神に思いを打ち明けて助けをお願いすることから始めます。「天の父なる神様、どうか私にとって大事なあの人が、私同様、天地創造の神であるあなたに造られ、今あなたとの間に断絶が生じてしまっているが、御子イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって断絶が解消し、この世から死んだ後は永遠にあなたのもとにいられる、ということに気づくようにして下さい。そのために、もし私が対話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるように聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々の祈りに加えることから始めていくのが良いと思います。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン