2012年5月28日月曜日

聖霊 VS. 諸霊(副題 イエス・キリストについて、使徒の証言と共に正しく教える聖霊の働き) (吉村博明)


  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年5月27日 聖霊降臨祭 
日本福音ルーテル横浜教会にて
  
エゼキエル書37:1-14、
使徒言行録2:1-21、
ヨハネによる福音書15:26-16:4a
  
説教題 聖霊 VS. 諸霊(副題 イエス・キリストについて、使徒の証言と共に正しく教える聖霊の働き)
  
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  
  
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 復活祭から7週間たった本日は、聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日で、復活祭から50番目の日をギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと言うことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれています。聖霊降臨祭は、教会歴の中ではクリスマス、復活祭とならんでキリスト教会にとって重要な主日であります。クリスマスの時、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちを救うために人となられたことを喜び祝います。復活祭の時には、私たちのために苦しみを受け十字架の上で死なれた主が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちのために神のもとに至る道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束した通りに私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持て、神の真理に導かれるようになったことを喜び祝います。
 
 皆様もご存じのように、キリスト教会の復活祭は、ユダヤ教の伝統ではもともとは出エジプトを記念する過越祭でした。歴史的には、過越祭から7週間たった時に七週祭という、収穫の捧げものをする祭日が守られていました(出エジプト記342223節、申命記16910節)。そういうわけで、イエス様が十字架に架けられ復活した年、西暦30年ないしそれに近い年の七週祭の日には、普段から世界各地からやってきたユダヤ人でごった返ししていたエルサレムの町は、お祝いのためにもっと人が増えていたでしょう。世界各地、とは言っても、主に地中海世界と現在の中近東の地域ですが、どんな地域から来ていたかについては、先ほど日課朗読していただきました使徒言行録2章の中に詳しく列挙されています。
 
聖霊が下ってイエス様の弟子たちに注がれた時、天から激しい風が吹くような音が聞こえ、人々は音のする方へ集まってきました。そこで、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人々のいろいろな国の言葉で話をし出したのです。ギリシャ語、ラテン語、アラム語、ヘブライ語は言うに及ばず、世界各地の土着の言語を使って話を始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、突然できるようになったのです。使徒言行録24節によると、聖霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した、とあるので、聖霊が外国語能力を授けたのであります。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話し始めたのでしょうか?少なくとも、初級英会話のレベルではなかったようです。使徒言行録211節で、集まってきた人たちの驚きを誰かが代弁して言います。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
 
イエス様の弟子たちが世界各地の国々の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは、世界各地から来たとは言え、皆ユダヤ人でした。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても、出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を与えられ、神の民として約束の地カナンに自分たちの移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、バビロン捕囚からの帰還もあげられます。一度滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超えた歴史のかじ取りのおかげで、通常だったら考えられない祖国復帰が実現したという出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、神が万物を、そして私たち人間を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいかと思います。この他にも、ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解できる出来事はあるかと思いますが、以上の3つのものは代表的なものとして考えてよいでしょう。
 
ところが、イエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教の伝統的な出来事の他にもう一つ新しいものがありました。それは、彼らが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事でした。つまり、偉大な預言者の再来と目されたあの「ナザレ出身のイエス」は、実は神の子であり、十字架刑で処刑され埋葬されたにもかかわらず神の力で復活させられて、人々の前に再び現れ、つい10日程前に天に上げられた、という出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」であります。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエスの出来事とその意味することが語られたのです。
 
ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」であれば、ユダヤ人の誰もが理解できるものだったでしょう。しかしながら、イエス様の出来事の場合、多くの人にとってはただ聞いた噂とか断片的な話のつなぎ合わせだったでしょうから、出来事の全体像を把握していた人は弟子たちを除いてはいなかったでしょう。ましてや、イエス様の出来事が人間の命と救いにとってどんな意味があるのか、そんなことは理解の域を超える事柄だったでしょう。
 
 そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について二つの異なる解き明しをします。最初の解き明しは、この異国の言葉を話し出すという現象についてです(使徒21421節)。その次に、イエス様の出来事そのものとその意味について解き明しを始めます(2240節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。
 
 
2.

ペトロは、異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事は、旧約聖書ヨエル書315節の預言の成就であると解き明かしします。イエス様は、自分が天に上げられた後はお前たちが孤児みたいにならないために父なる神のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、1526節、164b15節、ルカ2449節、使徒18節)。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始りました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかるのであります。このように父なる神も御子イエス様も、私たちのために聖書の中で約束されていることは、必ず守り通し実現される方なのですから、私たちも、神は真に信頼するに値する方である、ということを忘れないようにしましょう。
 
ところで、ペテロが引用したヨエル書の箇所について、使徒言行録の文章では、ヘブライ語の旧約聖書の形でなくギリシャ語版の形です。ペテロが演説をした時に引用したヨエル書はヘブライ語かアラム語のものだったでしょうが(ひょっとしたらギリシャ語の可能性もなくはないのですが)、使徒言行録を記したルカはギリシャ語で書いたので、引用もギリシャ語版旧約聖書に依拠したと思われます。ヘブライ語のヨエル書31節は次のように言います。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻をみる」。使徒言行録にあるギリシャ語とほぼ同じですが、ギリシャ語では聖霊が降臨する時は、「その後」(אחרי־כן)ではなく、「終わりの日々に」(εν ταις εσχαταις ημεραις)となっています。「終わりの日々」とはどういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事によって神の人間救済計画が成就したので、それから後の人間の歴史はイエス様の再臨を待つ「終わりの日々」となるわけです(同じ考え方は「ヘブライ人への手紙」11節にあります)。もう2千年近くたちましたが、3千年かかろうとも、主の再臨を待つ以上、今は「終わりの日々」なのであります。
 
 
3.

以上、弟子たちが異国の言葉を使って「神の偉大な業」を語りだした現象は、旧約に預言された聖霊降臨の実現であるというペテロの解き明かしについて述べました。ペテロは、この後で、この「神の偉大な業」の中で最も新しくまだ人々が理解していないイエスの出来事とその意味について解き明かしをしていきます。この聖霊降臨の時に行った解き明し(使徒22240節)は、まだ序論です。その後もペテロは解き明しを続けます。神殿でイエス様の名において病人を癒したとき、驚く群衆の前でとても詳しく解き明ししますし(31126節)、議会で取り調べを受けた時も同様です(4812節)。これらの箇所は本日の日課には入らないので本説教では取り上げませんが、ペテロそして他の使徒たちが解き明かした「イエス様の出来事とその意味」について、その主旨をここで述べてみたく思います。(以下、本3章の残りは513日に日吉教会の礼拝説教で教えたことをベースにしています。)
 
イエス様の出来事とその意味についてわかろうとする時、私たちはまず、人間は造り主である神に造られた被造物であるということをわきまえておかなければなりません。人間は自分の力で自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い亀裂が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順と罪に陥り、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。そこで、神は人間が御自分と結びつきを回復できて、御自分のもとに戻ることができるようにと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間に張り付いている罪や不従順には、人間を造り主から永遠に引き裂かれた状態にとどめる力がある。まさに呪いの力です。その力を無力化するために、神は人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、それらがもたらす滅びの死を全部イエス様に叩きつけた。これがゴルガタの十字架の出来事です。このように神は、イエス様を人間の身代わりとして死なせて、その犠牲に免じて人間の罪と不従順を赦し、造り主と人間の結びつきを回復して、造り主のもとに永遠に戻れる道を整えられたのです。まさに罪の赦しによる救いを実現させたのであります。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命、復活の命への扉も開かれました。私たち人間は、神のひとり子の死が本当に私たちの身代わりのための死だったとわかり、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」の中に入ることができます。ところが、わからず、信ぜず、では、せっかく神が全ての人のために整えて下さった「罪の赦しの救い」の外側にとどまることになってしまいます。
 
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力を上回る命の力の下に置かれることになります。そして、この世にいながら永遠の命、復活の命に向かう道を歩み始め、この世から死んだ後は永遠に造り主とともにいることができるのです。
 
 
4.

人は洗礼を受ける時、神が送られる霊、聖霊を受けます。人がイエス・キリストを救い主とわかって信じることができるのは、聖霊の力が働いているからです。聖霊の力が働かなければ、誰もイエス様が自分の救い主だとはわかりません。いくら歴史の本をたくさん繙いたり、また歴史学・社会学的に「ナザレ出身のイエス」の思想と行動を分析しても、それではイエス様は、せいぜい歴史上数多くいた卓越した思想家、宗教家の一人としてしか捉えられません。単なる知識の集積だけでは、イエス様を「私の救い主」として捉えることはできません。つまり、この世を生きるこの私を永遠の命、復活の命に至る道に乗せて下った方、その道の日々の歩みを支えて下さり、そして、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠にいることができるように引っ張り上げて下さる方です。単なる歴史学、社会学の説明の中には聖霊は働きません。そもそも学術的研究というものは、本質上そういうものなのです。ところが、もし人が、知識の有無にかかわらず、ああ、あの2000年前のパレスチナで起きた出来事は実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった時、それは聖霊がその人に働き始めているのです。その人が洗礼を受けると、それからは100パーセント聖霊の働きのもとで生きることになります。他の霊は、その人に対して足場を失い、出て行かざるを得なくなります。「エフェソの信徒への手紙」113節に、聖霊を受けることは証印を押されることである、とありますが、まさに「この人は、神がイエス様を用いて整えられた救いを受け取って、その所有者になった」という証印であります。
 
ところで、「他の霊」と申しましたが、聖書にはいろいろな霊の存在について述べられています。「ヨハネの手紙一」4章には、霊が神の霊かそうでない霊かを見分ける基準として、イエス・キリストのことを、人間となってこの世に来た神の子であると言い表すかどうか、つまりイエス・キリストについての真理をしっかり言い表すか、それとも覆い隠してしまうか、それが決め手である、と言っています。本日の福音書の箇所にもあるように、聖霊が「真理の霊」と言われるのは(ヨハネ1526節、1417節もにある)、まさに、イエス・キリストは人となった神のひとり子であり、神はイエス様を用いて人間の救済計画を実現された、という真理を人に明らかにするからです。
 
旧約・新約を通して聖書は、いろいろな霊の存在は当たり前のことと見ています。いろいろな霊の存在は、この日本に住む私たちにも身近なことです。表の社会では、霊などというものは表立って取り上げられませんが、それでも大新聞のページの下の方によく載せられるいろんな宗教団体の出版物の広告をみると、どれもいろいろな霊とかかわりを持っていることを窺わせます。表の社会も一歩裏に入ると、いろいろな霊とかかわりを持って生きている人は多いのではないでしょうか?この世の人生の中で、さまざまな困難に遭遇して、その解決を得ようとして、または今の境遇よりももっと成功して繁栄しようとして、いろいろな霊に伺いをたてたり、仕えたりするということが、結構あるのではないでしょうか?
 
聖書の中で神は、霊媒や口寄せと一切の関係を持つことを禁じています(レビ記1931節、申命記1811節)。なぜなら、人間は、そのような者たちが呼び出す霊に依り頼み、自分の幸福や不幸、成功や失敗は霊のご機嫌次第ということになってしまい、自分で自分を霊に縛りつけていくことになるからです。私たちが依り頼むべきものは、私たちを造られた神のみでなければなりません。いろいろな霊というのも、実は造られた被造物にしかすぎません。被造物である私たちが依り頼むべきものは、造り主であって別の被造物であってはなりません。
 
いろいろな霊が被造物であるということは、「コロサイの信徒への手紙」116節の御言葉、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」によります。「王座」、「主権」、「支配」、「権威」と聞くと、この世の目に見える国の支配者やその権力を思い浮かべますが、実はギリシャ語のこれらの言葉(θρονοςκυριοτηςαρχηεξουσια)はみな目に見えない霊的な存在や支配を指しています。それでは、なぜ神は依り頼んではならないものをわざわざ造られたのか?もともと天地創造の時に神が造られたものは全て良いものでした(創世記14節、12節、18節、21節、25節、31節)。それが、堕罪によって被造物は神聖さを失い、神との関係が断ち切れて、「ローマの信徒への手紙」822節の言葉を借りれば、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」という状態に陥ったのです。神は、神聖さを失って神との関係が断ち切れ、死ねば永遠に造り主から切り離されて滅ぶしかない人間を深く憐み、再び関係を回復して神のもとに永遠にいることができるようにと、ひとり子を犠牲にして救いを私たちに整えて下さった、これは先に見た通りです。それほどまでして私たちに、この世と次の世の双方にまたがる愛と恵みを示して下さった造り主をさしおいて、この世限りの幸福や成功を求めて被造物である霊に依り頼む、これくらい天地創造の神を失望させ、悲しませ、また怒らせることはないのです。
 
被造物である霊のなかで最大のものは、聖書の中で悪魔サタンと呼ばれる霊です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味ですが、何を非難し告発するかというと、神の前で「この人はどうしようもない罪びとで憐れみをかけてはならない、極刑に値する」と告げ口をするのです。その働きぶりは、ヨブ記の最初のところで窺えます。このようにサタンの目的は、人を絶望に追いやり永遠に神と切り離された状態にとどめようとすることです。聖霊は、サタンに対抗します。サタンが「この人には義のかけらもない」と告発すると、聖霊は「この人は洗礼を通して、キリストの義という白い衣を頭から被せられている」と言って弁護するのです。本日の福音書の箇所でイエス様が言われるように聖霊が「弁護者」と呼ばれる所以です(ヨハネ1526節、1416節、167節)。
 
聖書に出てくる他の霊や日本の裏社会に跋扈する霊は一見サタンとは別もののように見えますが、イエス・キリストについて真理を言い表さず、それを覆い隠したりすることで、造り主と人との関係を回復させたり、人が造り主のもとに永遠にいられるようにするのを妨げるようとします。つまり、神から出たのではない霊はどれも、同じ目的を持っているのです。
 
 
5.

最後に、イエス・キリストについての真理を証するものは、聖霊と使徒の二人三脚である、ということを強調して本説教の結びとしたく思います。本日の福音書の箇所でイエス様は、「聖霊は私について証をする」と述べたすぐ後に続いて「お前たち弟子も私について証をする。なぜなら、お前たちは最初から私と共にいたからである」と述べられます。聖書の中でイエス様の言行録を扱っている書物はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書ですが、それらは、イエス様の出来事の直の目撃者たちである使徒たちが命をかけてまで行った証言が土台となって出来ています。当時は、イエス様の出来事の伝承にはいろいろなまがいものも出回っていました。しかし、ユダ福音書やトマス福音書のような使徒の伝承・教えと相いれない書物は、結局、聖書の中には入れられませんでした。つまり、聖書が形成される過程では聖霊のコントロールがしっかり働いていたのです。聖書を侮ってはいけません。弟子たちは初めからイエス様と行動を共にしていたので、イエス様の出来事の直の目撃者、証言者です。そして、神が送られる聖霊は、イエス様についての真理を明らかにすることができる唯一の霊です。その真理の霊が、目撃者・証言者たちに注がれたのです。このように聖霊と使徒の伝承・使徒の教えは切っても切れない関係にあります。そのどちらかが欠けても、聖書は成立しなかったでしょう。本当に聖書を侮ってはいけません。ルターは次のように教えます。「自分をへりくだった者とする心をもって祈りながら神のもとに立ち返り、絶えず聖書の御言葉を読み吟味し、それが自分の血と肉となるようにせよ」と。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン