2012年11月26日月曜日

この世を去る時も、この世が終わる時も、キリスト信仰者はひるまない (吉村博明)


  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年11月25日聖霊降臨最終主日 横浜教会
  

ダニエル書7:9-10、
ヘブライの信徒への手紙13:20-21、
マルコによる福音書13:24-31
  
 
説教題 「この世を去る時も、この世が終わる時も、キリスト信仰者はひるまない」
   
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン
  
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
  
1.
  
本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神の御子が人となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス・キリストが再び、今度は栄光に包まれて天使の軍勢を携えてやって来ること、そして、私たちの信仰告白である使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨の主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に、私たちは、主の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスの時から遠ざかっていきますが、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、天の父なる神以外には誰にも知らされていないので(32節)、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日がいつなのかは誰もわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられます(3337節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分は復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、各自、自分の信仰生活を振り返る日、もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日であります。そういうわけで、本説教でも、そのような自省の心を持って、本日の福音書の箇所の解き明かしを行っていきたいと思います。


2.

 本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。預言の内容はとても複雑で、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きるであろう出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが入り交ざっています。

 13章の最初からみていくと、まず、一人の弟子がヘロデ大王によって大増改築されたエルサレムの神殿の壮大さを感嘆し、それに対しイエス様が、神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(12節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言がとても気になったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四弟子が、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、とイエス様に聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。
  
前兆として、自分がキリストであると名乗る者が多く現れ、多くの人々を誤った道に導く。また、国同士、民族同士で戦争が起きると聞くことになったり、実際に戦争が起きたりする、さらに各地で地震も起きる。しかし、それらはただの前触れで、産みの苦しみの段階にすぎない(58節)。そういう時に、キリスト信仰者に対する大々的な迫害も起こる。イエス・キリストこそ唯一の救い主であると教え伝えていけばいくほど、その先々で支配者権力者の反感を買い、裁判にかけられて申し開きをしなければならなくなる。しかし、弁明は自分で考えるな、聖霊が教えるように話せ、とイエス様は命じられます。信仰がもとで、家族内にも不和対立が生じ、憎しみさえ受ける。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰にしっかり立つ者は必ず救われる、と約束されます(914節)。「救われる」(13節)というのは、たとえ命を落とすことがあっても、復活の日に永遠の命と復活の体をもって、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるということであります。
  
その時、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」ことが起きる。そうなったら、ユダヤの地にいる者は山地地方に逃げよ、しかも、家財もなにも取りに戻らず、着の身着のままで逃げよ、とイエス様は忠告します(1417節)。「憎むべき破壊者」というのは、旧約聖書ダニエル書に登場します(「憎むべき荒廃をもたらす者」1131節、1211節、「荒廃をもたらす者」927節)。これは、イエス様の時代の200年程前に、当時のイスラエルの支配者でアンティオコス・エピファネスという異教の王がエルサレムの神殿にギリシャ神話のゼウスの像を掲げたことを指します。それが引き金となって、マカバイの反乱が起き、イスラエルの地は大動乱に見舞われました。イエス様は、これと同じような神殿に対する冒涜が起きると預言しているのですが、実際、イエス様の十字架と復活の後で、ローマ皇帝カリギュラがエルサレムの神殿に自分の像を掲げようとする事件が起きました。これは、ユダヤ人たちの外交努力もあって、すんでのところで回避されましたが、後にローマ帝国とユダヤ人の対立が深まっていき、ついにはエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったのであります。

イエス様は、ユダヤの地にいる者たちは着の身着のままで逃げよ、と忠告した後で、その理由を述べます。なぜなら、神が天地を創造して以来一度もなかったと言えるくらいの災いが起こるからだ、と言うのです(19節)。どんな災いかは具体的には述べられていません。ノアの大洪水を上回るような自然的な大災害なのか、それとも何か人為的に引き起こされた災難なのかはわかりません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいのものである。しかし、主は、選ばれた者たちのために、すでにその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、先ほども触れました、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。

そのような非常事態の最中にもかかわらず、と言うより、そのような事態にあるがゆえに、またしても偽キリストや偽預言者が大勢現れて、何か奇跡のような業を行って、選ばれた者たちでさえも道を誤らせようとするということが起きる(2122節)。
  
そうして、そういう非常事態の大災難の後に、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きる。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(2425節)」。まさにその時にイエス・キリストの再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に移されるのであります。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言を念頭に置いていると思われますが、天体の大変動というのは、実は、今あるものが新しいものにとってかわるということであります。同じイザヤ書の6517節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、6622節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」122628節に述べられています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」
  
  
3.

以上のようにみていくと、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動は起きませんでした。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありましたが、現代においても世界の地域によっては迫害が続いているところはちゃんとあります。そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。まず、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などし始めたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。50億年待たなくても、もっと以前に、例えば大きな隕石とか彗星などが現れて地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となりましょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象による大災難に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。近年よく言われる温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、1990年代に東西冷戦が終わって後は以前ほど大きく取り上げられなくなりましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのであります。

私が中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになり、それによると、人類は1999年に滅亡するということでした。ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者で、予言したことが的中するということで注目を集め、宮廷にも出入りしていたという人で、彼の書いた詩の形の予言が、その後の世界史の大事件を見事に言い当てていると言われてきました。もちろん、1999年人類滅亡説は当たらなかったのですが、本は私も買って読みました。読んで戦慄を覚えた後、何ともいいようのない無力感に襲われました。ちょうど読んだ時期が高校受験を控えた中学三年だったので折が悪く、どうせ滅亡してしまうのなら、何を一生懸命やっても意味がないのではないか、などと思ったのでした。それでも、結局は一生懸命に戻っていったのですが、それは、やはり世の中のシステムというか歯車は頑丈にできていて、いくらベストセラーが個々人の心に動揺をもたらしても、びくともせず、自分も含めて大人も学生も皆、そのシステムや歯車に乗ることで日常の生活を続けることができたのではないかと思います。しかし、そのようなシステムや歯車があらゆる衝撃に耐えうる完璧なものであるという保証はありません。イエス様の預言は、そこを突くものであると言うことができます。

そうすると、人類や地球の存亡にかかわる危機を視野においているキリスト信仰は人々を無力感に陥れるものなのでしょうか?キリスト信仰とは、全くそうならないものである、と私が感じたのは、まだキリスト教徒になる前の大学生の時、ルターが言ったという言葉を聞いた時でした。これはルター本人が言ったかどうか議論があるようですが、仮にルター本人の言葉でなくても、ルターの信仰を見事に言い表していると言われています。ルターはある人に「明日、世界が滅亡するとわかったら、今日どうしますか?」と聞かれ、次のように答えたということです。「それでも、私は今日リンゴの木を植えて育て始める」と。私は、これを聞いた時、ひょっとしたら自分の生きている時代にこの世の終わりが来るという可能性から目をそらさずに生きているにもかかわらず、無力感に陥らないで自分の置かれた境遇にしっかりとどまり、そこでの課題に取り組むことができるというのは、なんと素晴らしいことかと感動したのを今でも覚えています。キリスト信仰の何が人をしてそのような心意気にしていくのだろうか、と興味も持ちました。今、一人のキリスト教徒として、そのことについて述べてみたいと思います。

今、日本では、エンディングノートという言葉がよく聞かれます。高齢者の方が、自分が死亡した場合とか判断能力を失う病気にかかった場合に備えて、家族の人たちにどうしてほしいかと希望を書き留めるものです。実際に書いた方の感想などを新聞で見ますと、書いた後は一日一日を自覚的に生きるようになったというようなものを見受けました。ノートを書き留めること自体、近々自分には人生の終わりが来ると自分で認めることになりますから、自分で認めることができれば、残された時間も同じように自分でかじ取りする時間となり、それが残り少ないとわかれば、もうそれは貴重なものと自覚され、無駄にはできない大切に使おうということになるのではないかと思います。

キリスト信仰にも、少し似たようなところがあると思います。この世には、はじまりがあったように終わりがある、その終わりは自分の時代かその後かいつかはわからないがいつかは来る、その意味で今生きている時間は貴重な、無駄にはできない大切な時間になるということになります。しかし、キリスト信仰の心意気が、エンディングノートの効果と違う点は、ノートの場合は、残された時間を自覚的に生きるという時に、死んだ後のことは特に視野に入れないのではないかと思います。キリスト信仰では、それが生きている時にもう視野に入っているのであります。なぜそうなるかと言うと、キリスト信仰では、まず自分には造り主がいるということが大前提にあるからです。その造り主との関係は最初の人間の罪と不従順で壊れてしまい、人間は神のもとで永遠に暮らすことができなくなってしまいました。しかし、神はそれを再興しようとして、独り子イエス様をこの世に送られ、彼に十字架の上で人間の罪と不従順の罰を全て受けさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。またイエス様を死から復活させることで、死を超える永遠の命があることを示されました。人間は、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この世の人生において復活の命、永遠の命に至る道を歩み始め、この世から死んだ後は、永遠に造り主のもとに戻れるようになりました。このように、キリスト信仰では、自分が死んだ後で自分はどこに行くかがはっきりしていて、信仰者になることでそれがその人に確定されるのです。そうなると、この世の人生というものは、この世を生きなさいと命を与えて下さった造り主である神の御心を知ろう、そしてそれに沿うように生きていこうというものになっていきます。この世の人生の終わりの時を定められたからと言って、無力感に陥ったり投げやりになったりするなどというのは思いもよらないことです。自分に与えられたこの世の人生の期間がどれくらいの長さかはわからないが、長短は問題ではない。与えられた期間を、神に対して自覚的に生きる、永遠の命に心を向けて自覚的に生きる、ということであります。このことは、先に来るのがこの世の終わりであろうが、自分の人生の終わりであろうが、同じであります。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン