2012年11月12日月曜日

神を全身全霊で愛するとは?隣人を自分を愛するが如く愛するとは? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年11月11日聖霊降臨後第24主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
申命記6:1-9
ヘブライの信徒への手紙7:24-28
マルコによる福音書12:28-34

説教題 「神を全身全霊で愛するとは?隣人を自分を愛するが如く愛するとは?」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 本日の福音書の箇所の直前に、ユダヤ教社会のサドカイ派グループとイエス様の間で、死からの復活はあるのかという論争がありました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は打ち負かしました。その一部始終を見ていたある律法学者が、この方こそ神の御言葉を正しく理解する方だと確信して、聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」πρωτοςというのは、神の掟第1条は何ですか、と順番を聞いているのではありません。「一番重要な掟は何ですか?」と価値づけを聞いているのです。なぜ、こんな質問が出てくるのかというと、律法学者は職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を神の掟に基づいて解決する役割があり、神の掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟として、まず、私たちの旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法がありました。それだけでもずいぶんな量ですが、他にモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。(マルコ7章で、イエス様とファリサイ派グループの間で清めと汚れについての論争がありましたが、日本語訳で「先祖からの言い伝え」と訳されているものがそれです。正確には、「先祖から口承伝承された掟」です。ファリサイ派は、これを書かれた律法と同じ、ないし時にはそれ以上に重視しました。)そんなわけで、律法学者といえども、膨大な神の掟を適用したり、教えたりする時、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したでしょう。「どれが一番重要な掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきたのです。
 
 
2.

イエス様は「第一の掟は、これである」と述べて、教えていきます。「第一の掟」と言うのは、今申したように「一番重要な掟」という意味です。それは、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というものでした。これは、本日の旧約聖書の日課である申命記645節にある神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。掟というからには、命令です。すると、神が命じられていることは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛しなさい」ということになります。それでは、このように神を全身全霊で愛するということはどういうことなのでしょうか?全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいて身も心も捧げたような熱烈純愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。全知全能の神、天と地と人間を造られた神、そして御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
 
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、とは、実は、神が唯一の主であるように保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということなのであります。この神以外に願いをかけたり祈ったりしないということ。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えないこと。自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。また、もしこの神をないがしろにしたり、神の意思に反することをした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。これであります。
 
このような全身全霊を持ってする神への愛は、どのようにして私たちに生まれるのでしょうか?何もないところから自然には生まれません。それは、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれます。この神は今私たちが存在している場所である天と地を造られた。そして私たち人間を造られた。つまり、私たち一人一人に命を与えて下さった。人間が自ら引き起こした不従順と罪のために断ち切れてしまった神との繋がりを復興しようと、独り子イエスをこの世に送られ、私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その死に免じて私たちに赦しを与えて下さった。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを示され、私たち人間もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるならば、この永遠の命、復活の命に向かってこの世の人生を歩めるようになる。そして、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のものに戻ることができる。このように、私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。
 
少し脇道に逸れますが、「神」という日本語の言葉はとても紛らわしいものです。聖書には「神」と書いてあり、日本には「神々」がいると言われます。同じ言葉を使うため、両者が何かお互いに比べ合えるような気がします。そして、ここは違うがここは似ているというような議論が生まれ、聖書の神も数多くの神々の一つのようにされていきます。しかし、よく考えてみて下さい。天と地と人間を造り、人間との繋がりを取り戻すために独り子を犠牲として送られた神は聖書の神の他にいるのか。そもそも、この世に蔓延する霊的な存在はみな、造られたもの、被造物にすぎないのです(コロサイ116節)。聖書の神こそ全ての見えるものと見えないものの造り主なのであります。
  
 
3.

律法学者は、一番重要な掟についてだけ聞いたのに、イエス様は二番目に重要な掟についても付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し価値が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟はほかにない」と言われます。つまり、この二つは神の掟中の掟である、山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある、ということです。しかし、その頂点にも序列がある。まず、神を全身全霊で愛すること。これが一番重要な掟。それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてある。つまり、キリスト信仰においては、隣人愛というのは、神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないということであります。
 
隣人愛、特に苦難災難の中にある人を支援するという形の隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていたり、または無信仰者・無神論者にも出来るということは、東北の支援にも明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって、他の隣人愛にないものは、それが神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということであります。神への全身全霊の愛とは、先ほど申し上げましたように、神を唯一の主とする、それ以外にはない、と、そのように考え行動することです。それができるのは、これも申し上げたように、神がこの自分にどんなとてつもないことをして下さったか、をわかることにおいてです。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行為が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか、吟味する必要があります。もし即していない場合、例えば、別に神はいろいろあったっていいんだ、聖書の神は多数のうちの一つだ、という態度をとった場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということでは全くありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものです。このように言うと、お前は日本の社会の現実を知らないからそんなことが言えるのだと言われてしまうかも知れません。しかし、イエス様がこうおっしゃられる以上は、現実はどうあれ、そう言わざるを得ません。
 
隣人愛について、もう一言。隣人愛と聞くと、キリスト信仰者、特に余裕のある信仰者は、すぐ苦難災難にある人の支援を思い浮かべるでしょう。それは大事なことです。しかし、隣人愛は人道支援に尽きません。イエス様は、隣人愛を二番目に大事な掟だと教えた時、レビ記1918節から引用しました。皆様もお家で時間があればみていただきたいのですが、13節あたりから見ていくと、隣人愛というのは、人道支援の他にもいろんな形があるということです。隣人から悪を被っても復讐するなとか、何を言われても買い言葉になるなとか、これらは右の頬を打たれたら左を出せ、と言うイエス様の教えにつながるでしょう(マタイ539節)。また、パウロも、危害を受けたら仕返しだと騒ぎ立てるな、全てはいずれやってくる神の怒りにまかせなさい、今は自分を憎む者が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなさい、そうすることがその人の頭に燃え盛る炭火を置くことになるのだから、と教えています(ローマ121921節)。こういう隣人愛の形は、私たちには不可能に感じられるでしょう。しかし、行為に起こすのが困難でも、まず、心をそのように向けていくことはできます。ここでも、私たちの神が私たちにどんなとてつもないことをして下さったのかを思い起こし、日々心に留めて、それを日々新たにしていくことが大切です。そのために、各自がそれぞれ置かれた立場や課題にしっかり取り組み、そこでの人間関係に揉まれながらも、日々の聖書の日課、日々の祈り、そして毎週の礼拝と聖餐式を守ることは大切です。
 
神が私たちにどんなとてつもないことをして下さったか、それをわかることこそが神を全身全霊で愛する心を生み出し、その愛に基づいて隣人愛を持てるようになる、そういうことが本説教の中心的な教えになるのではないかと思います。このことに関して、ヨハネの第一の手紙4911節を朗読して本説教の締めとしたく思います。
 
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン