2012年10月29日月曜日

幸いな人とは誰か?何が幸いなことか? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年10月28日(宗教改革主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて

ヨシュア記24:14-24、
コリントの信徒への第一の手紙1:10-18、
マタイによる福音書5:1-6
 
説教題 「幸いな人とは誰か?何が幸いなことか?」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
 本日は、私たちの日本福音ルーテル(ルター)教会では、宗教改革主日と定められています。ドイツのヴィッテンベルグ大学の聖書学の教授、神学博士マルティン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に有名な95の論題を釘づけして、宗教改革の口火を切ったのは、15171031日のことでした。今度の水曜日がその日からちょうど495周年にあたります。宗教改革の歴史やルターの神学は、それ自体興味の尽きないテーマであり、説教の場を借りてお話しすることも記念日にふさわしいのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、説教は説教。講義や講演ではありませんので、ここは本日与えられた福音書の日課の解き明しに専念したく思います。もちろん、解き明しは、いつものようにルターの宗教改革の精神に基づいて行います。
 
 
1.

 本日の福音書の箇所は、イエス様の有名な山上の説教の初めの部分です。山上の説教は、マタイ福音書の5章から7章の終わりまであります。ガリレア湖付近の丘陵地帯が舞台です。イエス様がその一つの山に上がり腰を下ろす。弟子たちが彼の周りに陣取り、その下の方には群衆が取り巻いていてイエス様の教えに耳を傾ける、という情景です。この山上の説教を一部始終聞いた群衆は彼の教えに非常に驚いた、と記されています(マタイ728節)。なぜなら、イエス様が神の御心・意思について律法学者のようにではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたからでした(29節)。本日の箇所は、そのような驚くべき説教の出だしの部分です。中心的なテーマは、どのような人が「幸いな」人であるかということです。本日の箇所に定められているのは51節から6節までですが、「幸いな人」のテーマは11節まで続きます。
 
さて、「幸い」とはどんなことなのでしょうか?ギリシャ語の原文にあるμακαριοςマカリオスという単語がそう訳されているのですが、「幸せ」とも「幸福」とも訳さずに、「幸い」と訳されます。「幸せ」「幸福」を意味する言葉ではあるのだが、そう訳せない何かがある。それは、ここでマカリオスと言われている人が、心が貧しいとか悲しんでいるとか神の義に飢えているとか、さらに7節から11節までをみると、迫害を受ける人とか、どうみても幸せな状態にある人とは思えないからです。それで、普通に「幸せ」や「幸福」を意味する言葉は使えず、同じ意味でも何か別の言葉を見つけなければならなくなってしまったのだと思われます。しかし、イエス様は、こういう人の方が本当の「幸せ」を持っていることになる、と教えるのであります。つまり、「幸い」とは本当の幸せを意味する言葉になっていると言えます。それでは、この本当の幸せである「幸い」とはどんなことなのでしょうか?

 
2.

「幸い」の意味を知る鍵は旧約聖書にあります。詩編には、数多く「幸い」な人について述べられています。旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、אשריアシュレーという言葉が使われていますが、イエス様は旧約聖書の伝統の上に立って教えを述べていることを忘れてはなりません。
 
詩篇第一篇をみると、「幸いな人」とは、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」です。「主の教え」というのは、ヘブライ語ではתורהトーラーなのでまさに律法ないし十戒を指します。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われます。「繁栄する」と聞くと、別に「幸い」ではなく、「幸せ」とか「幸福」という普通の言葉を使ってもいいのではないかと思われます。しかし、注意しなければならないのは、「繁栄する」と訳されている言葉はもとのヘブライ語(יצליח)では、「成功する」とか「成功裏に終わる」というのが正確な意味です。詩篇の研究者の間でも、この箇所について、律法を守れば報酬として神から繁栄をいただけると理解してはいけないと指摘があります。ある研究者は、天と地と人間を造った神が定めた十戒を守る人はすくすく育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、それが必ずしも金持ちになるという意味ではなく、金持ちでなくてもいろんなすくすく育つ仕方や実の結び方がある、と言う人もいます。また、十戒を守る人のなすことは金持ちでない人がなすことであれ、すべて神の目から見てよいものである、そういうことを意味していると言う人もいます。いずれにしても、「その人のすることは全て、成功裏に終わる」というのは、単に金持ちになって財産を蓄えるというような意味ではないことは明らかです。それでは、どんな意味でしょうか?詩篇第一篇の終わりで、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」と言われます(6節)。人が人生の道を歩むとき、神がその歩みから目を離さずたえず目を注いで下さっている、というのであります。それゆえ、「成功裏に終わる」というのは、神の目からみてのことであり、人間の目からみてのことではありません。それは、その人がすること全てを神が御心に沿うものに変えて下さる、という意味であります。このように、十戒にある神の意思と御心を大事にしつつ、自分のなすことは神がよいように変えて下さる、そういう神への絶大な信頼を持って生きる人が「幸いな人」なのであります。
 
詩篇32篇をみると、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」、「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」、これが幸いな人であると言われます(12節)。「心に欺きがない」という以上、自分の罪と神への不従順をしっかり神に認めて神から赦しを受けた人が「幸い」なのであります。神から赦しを受けるというのは、神の裁きから免れているということであります。
 
詩篇40篇では、「主に信頼をおく人、ラハブを信じる者にくみせず、欺きの教えに従わない人」が幸いな人と言われます(5節)。ラハブというのは、イスラエルを苦しめたエジプトを指しますが(詩篇874節を参照)、ここでは複数形になっているので(רהבים)、偶像という意味です。つまり、偶像に助けを一切求めず、また神の御心に反する教えを宣べる者を遠ざけて、ただ主にのみ信頼をおく人が幸いなのであります。
 
詩篇には他にも幸いな人、幸いな民について歌う箇所がありますが(3312節、8456節、8916節、112110節)、以上からだけでも、幸いな人がどんな人かわかります。それは、神の意思と御心を何よりも重んじて、自分のする全ては神がよいと思うように変えて下さるのだと神に信頼して人生の道を歩む者、また神に対して御心に背いた罪と不従順を包み隠さずに認めて神から赦しを受ける人、そして神にのみ信頼し神にのみ助けを求める人、これが幸いな人なのであります。
 

3.

このようにみてまいりますと、「幸いな人」というのは、神との密接な関係の中で生きている人ということができます。人間一人一人を造り、一人一人に命を与えて下さった神との関係です。たとえ、人間の目から見て、金持ちでなくても、恵まれた境遇にいなくても、履歴や功績が立派でなくても、神との密接な関係が持てていれば、その人は幸いなのであります。逆に、神との密接な関係がない状態で、金持ちだったり、恵まれた境遇にいたり、履歴や功績が立派だったりすれば、それは「幸せな人」とか「幸福な人」ということになりましょうが、「幸いな人」ではないのであります。
 
イエス様は、山上の説教で「幸いな人」について教える時、このような神との密接な関係の中で生きる人は今現在どんな状態にあるか、それが将来どんな状態になるのか、ということについて教えます。
 
まず3節。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「心の貧しい人」というのは、少しやっかいな言葉です。というのは、原語のギリシャ語では「霊的に貧しい人」(οι πτωχοι τω πνευματι)と書いてあるからです。「心が貧しい人」と聞いて、それを「思いやりのない人」とか「冷たい人」とかに理解してしまったら、どうしてそのような人たちが天の国を持てるようになるのかわからなくなります。「霊的に貧しい人」というのは、まず、神との関係において自分には何か欠けているものがあると気づいてそれを認めることができる人、そしてそれを悲しいことだと自分でわかっている人という意味です。まさにこのマタイ53節の「霊的に貧しい人」について、ルターは次のように教えます。
 
「霊的に貧しい人々というのは、霊的な痛みを何も感じない鈍感な者たちではなく、神を畏れて人生の道を歩む者たちをいう。彼らは、この世がそうしているように風の吹く方向になびいて生きることはせず、自分の思いと行いと言葉をたえず神の御言葉に照らし合わせて、この世の人生の道を歩む。しかし、彼らは次のことを気づかずにはいられない。人間に宿る罪と不従順があまりにも人間の性質を歪めてしまっているので、神に正しく従うということはどうにも実現しないということを。実際、我々は自分で気づく前から、すでに憎しみ、逆らう心、嫉妬心、憤る心、そのほか神の御心に反するあらゆる惨めさに満ち満ちている。そして、神からの裁きは避けられないとわかると、心を騒がせたり嘆いたり悲しみに打ちひしがれたりし始めるのである。その時になって神から恩赦を望んだり、罪と罰から免れることを望むようになるのである。このような、自らの罪と不従順と神の裁きのゆえに夜も昼も心が落ち着かない者が、霊的に貧しい者なのである。そのような心には愉快さも笑いもない。それゆえ、この世はそのような心を悪いこと不幸なこととみなし、逆に試練や誘惑がなく悲しみなど感じないでいられるのが幸せだと思っている。しかしながら、キリスト信仰者の一番目の特徴は、霊的に貧しいこと、つまり神を畏れる心を持って生きるということである。彼らは、霊的に完璧な者でありたいと望みながら、いつも悪魔と自分の肉が行く手を遮っていることに気づくのである。それゆえ、彼らは霊的に敏感で、悲しむべきことは悲しむべきとわかって悲しむのである。しかし、キリストは言う。恐れてはならない、と。確かにお前たちは自分から見ても不幸な者たちで、昼も夜も心に惨めさと悲しみをもっているのだが、それでも私の言うことを信じなさい。お前たちは霊的に貧しい者たちである。天の国はまさにお前たちのものである、と。」
 
神は天の国をまさにそのような霊的に貧しい者たちのために準備して下さいました。ところで、「天の国」というのは、他の福音書では「神の国」と言われますが、両者は同じものを意味します。マタイ福音書では、「神」という言葉はあまりにも畏れ多いので、「天」という言葉に置き換えたのであります。「天の国」、「神の国」というのは、今の世が終わって新しい天と地にとってかわられる時(イザヤ6517節、6622節、601920節、ヘブライ122627節)、そして神が死者を復活させる時、復活の身体と永遠の命を持つことになった者たちが造り主である神のもとに戻るところであります。そこは、大きな祝宴のようであり(黙示録1979節)、またこの世で流さなければならなかった涙が全て拭われるところです(214節)。つまり、この世で受けた辛酸、不正義、苦痛でまだ償われていなかったものが全て最終的に清算されるというところです。それで、そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく、死さえないところであります(214節)。
 
そのような神の国に入れるためには、神聖な神から人間を切り離すもととなっている罪と不従順を人間から取り除かなければなりません。しかし、罪と不従順は堕罪の時に人間の性質の中に取り込まれてしまいました。そのために、人間は死する存在となってしまいました。しかし、人間の造り主である神は人間が死んでも再び造り主のもとに永遠に戻れるようにと、大きな取り計らいをしました。それが御子イエス・キリストをこの世に送り、本来人間が負うべき罪と不従順の罰を彼に十字架の上で受けさせて、その死に免じて人間を赦すということでした。神はさらに一度死んだイエスを死から復活させて、死を超える復活の身体と永遠の命が存在することを示されました。私たち人間は、これらのことが全て自分たちのためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この、神が整えて下さった救いを受け取って自分のものとすることができるのです。私たちの肉にはまだ罪と不従順が残っていますが、洗礼によってイエス様の神聖さを頭から衣のように被せられます。そして、私たちの内にあって肉に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていく人生を歩み始めることとなります。しかしながら、キリスト信仰者とはいえ、まだ罪と不従順は残存しています。それが神聖な神と人間を引き離すものであると知っています。自分でも注意して生きているにもかかわらず、突然お前は実はこんな人間なのだと言わんばかりに目の前に見せつけられることがあります。そのことが私たちの心を悲しませます。しかし、キリスト信仰者にあっては、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼の賜物のゆえに、神がこう言って下さるのです。「お前はまぎれもなくわたしの子である。お前は天の国に迎え入れられる。だから、心配しなくてもよい」と。
 
4節をみてみましょう。イエス様は「悲しんでいる者たちは幸いである。彼らは慰められる」と言います。「慰められる」という動詞は未来形ですので、「今は悲しんでいるが、将来は慰められる」という意味です。それから、「慰められる」という受け身の形ですが、新約聖書ギリシャ語の用法で、「誰それによって」と記されていない場合は、「神によって」という意味が含まれています。つまり、「現在悲しんでいる者は、幸いである。なぜなら彼らは将来神によって慰められるからである」という意味になります。神の意思と御心を大事と思いつつも、自分はそれからかけ離れていることを思い知らされてしまい悲しんでいる者がいる。それゆえ、イエス様の十字架の死と復活はそのような者たちにとって朗報、良い知らせまさに福音でした。そうして、神から大きな慰めを受けました。そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、この世の人生を歩みます。ところが、この世には、神の意思や御心とかけ離れたことが多く存在し、ある時は神の意思や御心に沿う解決を得ることが出来ても、別の時には私たちの力ではどうにもならないことも多くあり、私たちを悲しませます。また、私たち自身の内にも神の意思や御心に反するものがあることに気づかされ、私たちを悲しませます。しかし、今の世が終わる時、復活の日に全てが一変されます。その時、神の国に迎えられた者は最終的な慰めを神から受けることになります。
 
5節をみてみましょう。イエス様は、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われます。「柔和な」というのは、ギリシャ語の単語の基本的な意味は「穏やかな」とか「物腰静かな」ですが、どういう意味で「穏やか」、「物腰静か」かと言うと、例えば、他人を押しのけてまで自分を強く表に出すようなことをしない人であるとか、他人から何か不正義や不都合を被っても騒ぎ立てたり自分の手で復讐するようなことはせず、その者に対する最終的な処遇は神に委ねる人とか、「悪には悪を」には手を染めず、「悪に対しても善をもって」という態度を貫く人です。これは難しいです。仮に出来ても、すぐ馬鹿なお人好しとしてしか見られません。でも、それが「柔和な人」なのです。そのように神に決済を委ね、自分はただ神を信頼して、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛することに努めようとすること、このような者が「将来、地を受け継ぐことになる」と言うのであります。「地を受け継ぐ」というのは、約束の地を受け継ぐということ、つまり神がイスラエルの民に与えると約束したイスラエルの地を継承するということです。しかし、イエス様の時代になると、今の世が終わった後に新しい天と地が創造されるという信仰が明確になっていましたので、神の民が将来受け継ぐ地というものは、将来現れる神の国を指します。以上から、5節の意味は、神に全面的に信頼して、物事が最終的に行き着くところは神に任せて、自分は身を低くして神の意思と御心を心に留めて生きようとする者、これが将来神の国に迎えられる者であり幸いな者である、ということであります。
 
6節でイエス様は、「義に飢え乾く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と言います。「義」というのは、神の意思と御心が実現した状態を指します。神の意思と御心そのものとも言えます。人間はこの神の義を持てないと、この世から死んだ後に復活の身体と永遠の命を得て造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間に内在する罪と不従順が義を持てることを妨げています。それを持てるようにしたのが神ご自身の計らいでした。先ほど申しましたように、神は人間に代わって人間の救いを整えられ、人間は御子イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けることでこの救いを受け取って自分のものとすることができるようになったのであります。まさに、このような信仰のゆえに神から義を与えられ、それで「お前はもう義なる存在なのだ」と神に認められるのであります。まさに、信仰によって義と認められる、信仰義認であります。
 
イエス様は、「義に飢え渇く人々は、幸いである」と言った後で、こう言われます。「なぜなら、彼らは将来満たされるからである。」「満たされる」という動詞は未来形です。そして受け身の形の主語は神です。神が義に飢え渇く人たちを自ら満たして下さる。それは、神がこの世に遣わしたひとり子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現したのであります。

 
4.

 先ほど、人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられる、と申しました。人間は内側には罪と不従順を持ちながらも、神の側では、私たちに被さっている衣の方をご覧になって下さるので、私たちを義と認められる。私たちの側では、そのような恵みに満ちた取り計らいをして下さった神を畏れ愛し、イエス様の衣に相応しく生きようと志向する。ただし、内在する罪と不従順は残存するので、私たちの人生の歩みは、肉に結びつく古い人を日々死に引き渡し、霊に結びつく新しい人を日々育てていくというものになる。日々の引き渡しと日々の育てとはどういうことかと言うと、こういうことです。人がそれぞれ生きて活動している立場や場所にとどまって、そこでの課題に取り組み、そこでの人間関係に揉まれながら、日々御言葉を読み、神の意志と御心が行われるように祈り求めること。そして、聖餐で主の血と肉を受け、神との結びつきを絶やさずに強めるようにすることです。このことに関連して、聖書の箇所を4つほど引用して、本説教の締めにしたいと思います。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」ローマの信徒への手紙1314

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ガラテヤの信徒の手紙327

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」エフェソの信徒への手紙42224

「今は、そのすべてを、すなわち怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」コロサイの信徒への手紙2810

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン