2012年12月10日月曜日

神のもとに立ち返る心を忘れずに、救い主の到来を待て (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 201212日待降節第二主日 日吉教会

マラキ書3:1-3、
フィリピの信徒への手紙1:3-11、
ルカによる福音書3:1-6
 
説教題 「神のもとに立ち返る心を忘れずに、救い主の到来を待て」

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン


私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間未満の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔にパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお送り下さった神に感謝と賛美の心を持って、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
 
 待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えますが、私たちキリスト信仰者は、そこには未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。主の再臨の日とは、この世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていない、と。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
 
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えたものという認識があります。それらは神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうし、改善が必要なものはそうし、また解決が必要な問題は解決に向けて努力していきます。そうした世話、改善、解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、絶えず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということを考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
 
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことがあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。
 
 
2.

 本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました(ルカ180節)。そして、その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の赦しに導くための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ福音書の記者は、その時がいつだったかについて、「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。
 
 少し歴史的事実を確認してみましょう。ティベリウスはアウグストゥスの次のローマ皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年といいますが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのか数えないのかは不明です。いずれにしても、第15年目は西暦28年か29年ということになります。イエス様がヨハネから洗礼を受けて公けに活動を開始してから十字架と復活の出来事までどれくらいの年月だったかは、諸説があり、最短説で1年位、普通は3年位だっただろうと見なされています。そうすると、イエス様の受難と復活は西暦29年から32年の間というふうに絞られてきます。ヘロデ、フィリポ、リサニアの3人の領主の名前が出てきますが、ヘロデ大王が紀元前4年に死ぬと、イスラエルの地は4つに分割され、ユダヤ地方は息子のアルケラオ、ガリラヤ地方はもう一人の息子ヘロデ・アンティパス、イトラヤとトラコン地方はさらなる息子フィリポが領主となりました。そういうわけで、本日の福音書の箇所でガリラヤの領主と言われるヘロデは、ヘロデ大王の息子のアンティパスのことで大王ではありません。時々混同する人もいるのですが、イエス様が誕生した頃のヘロデと大人のイエス様を迫害したヘロデは親子で別人です。ユダヤ地方はアルケラオがすぐ死んで、ローマ帝国の総督ピラトが支配することとなり、帝国の直轄支配を受けます。(アビレネの領主リサニアについては、家系は不明です。)
 
 このようにルカは神の業が行われたことを、いつどこでどのような歴史状況の下で行われたかを正確に記そうとします。イエス様が誕生する部分の描写も同じです(2章)。どうしてルカは局地的な出来事を大きな歴史に結びつけて記述するのかというと、それは、彼自身が福音書の巻頭言で言っています。つまり、自分は、キリスト教徒が信じている事柄が歴史的に本当に起こったものであるとはっきりさせるために、信頼できる目撃者・関係者の証言や断片的に書きとめられた記録を集めて、それらに基づいてしっかりした一大記録をまとめ上げる、という目標があるからです。
 
もちろんそういう目標だけでなく、ルカは、天地創造の神は人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰をしっかり受け継いでいます。旧約聖書、特に預言書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が預言者誰々に降った、という言い方が多く出てきます。神は、天地創造の後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよい、などと御国で隠居生活を送っているのではありません。神は堕罪に陥った人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けます。そして時が満ちた時、はじめからそうすると決めていたことを実行するに至りました。つまり、人間を堕罪状態から救い出すために自分のひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。
 
 
3.

さて、主の再臨を待ち望む者が心得るべきことは何かを見てみましょう。神の言葉が降ったヨハネが宣べ伝えたことは、「罪の赦しに導くための悔い改めの洗礼」でした。新共同訳では「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ギリシャ語の原文は、もちろん、そのようにも訳すことができます。しかし、ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させるものである、という理解には留保をつけましょう。なぜなら、神が与えるものとしての罪の赦しが実現するのは、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から贖うために十字架で死なれた時にはじめて実現したのでありますから、ヨハネの洗礼がすでに罪の赦しを与えたような表現は避けた方がよいでしょう。説明を付して訳するとこうなります。「やがて起こるイエス様の十字架と復活をもって罪の赦しは実現されるのであるが、今はまだそれが起こる前の段階なので、今は将来の罪の赦しに導かれるために悔い改めの洗礼を受ける。」これがヨハネの洗礼の趣旨であったと言うことができます。
 
それでは、その「悔い改めの洗礼」とはどんな洗礼なのでしょうか?「悔い改め」と言うと、何か悪いことや落ち度のあることをして悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、とても深い意味があります。どういう意味かといいますと、この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉、「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで神に背を向けて生きていた状態を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、という具合に、その意味内容が限定されるようになったのです。そういうわけで、「悔い改めの洗礼」とは、「神のもとに立ち返る洗礼」、「神のもとに立ち返ることを趣旨とする洗礼」という意味になるのであります。
 
この「神のもとに立ち返る洗礼」というのは、当時のユダヤ教の考え方からすれば、画期的だったと思われます。当時のユダヤ教にも水を用いた清めの儀式がありました。しかし、同じ水を用いた儀式でも、ヨハネの洗礼は全く次元の異なるものでした。皆様も覚えていらっしゃると思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζωβαπτισμοςが使われています(マルコ74節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので、神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます洗礼により、イエス様を衣のように着せられる、被せられるというのは、ガラテア327節やローマ1314節に言われています(さらにエフェソ42324節とコロサイ3910節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人です)。こうして人間は、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになるのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。
 
以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後になってはじめて、永遠の命を保証する「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、十戒を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。
  
 
4.

 ここで、ヨハネの洗礼、つまり「罪の赦しに導くための、神のもとに立ち返る洗礼」に戻りましょう。洗礼者ヨハネがこの洗礼を人々に宣べ伝えた時、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。つまり、神が与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。ヨハネが人々を自分の洗礼に呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。
  
ファリサイ派は、ユダヤ教の先祖伝来の掟である清めの儀式的行為で神の神聖さに与れると信じていました。洗礼者ヨハネは、まず汚れきっていることを認めよ、人間の造った掟で汚れがなくなると信じること自体から清められよ、そうすることが神の整える救いを全身全霊で受け取ることができるために必要なことだ、と教えるのであります。それができると、あとは救いがスムーズに入ってくる。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うならば、もう神が整えた救いはいらなくなってしまう。神が整えた救いがやってくることの障害になってしまう。道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。
 
ところで、本日の福音書の箇所にはイザヤ書403-5節が引用されているのですが、この引用は旧約聖書の記述と少し異なっていることに気づかされます。時間の制約上、細かい点には立ち入りませんが、新約聖書にある旧約の引用は元の言葉と違っているのが、よく見受けられます。イエス様も含めて引用した人たちは、旧約聖書を正確に覚えていなかったのでしょうか?そうではありません。本日の箇所の引用に限って言うと、実はこれは、旧約聖書のギリシャ語訳が背景にあります。旧約聖書は、紀元前4世紀から3世紀にかけて、今のエジプトのアレキサンドリアで大々的にヘブライ語からギリシャ語に訳されました。なぜ、ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の訳に違いがでてくるのか、また、なぜ新約聖書にある旧約の引用は、あるところはヘブライ語と同じで、あるところはギリシャ語と同じか、これも一回やそこらの説教や講義では語りつくせない壮大な背景があります。これだけをみても聖書というのは、とても深い書物であることがわかります。旧約新約のいろんな書物をたえずつきあわせながら、関連づけながら見ていく必要があります。そうすることで、神の私たち人間に対する計画や御心がわかっていくのであります。聖書はまさに神の御言葉なのであります。そういうわけで、安易に、聖書と関係のない人間の知識、神の計画や御心と関係のない知識をもって聖書の理解の手がかりにしようとすることは避けなければなりません。そんなことをすれば、本当の神から遠ざかってしまい、神の計画や御心がますますわからなくなってしまいます。聖書をあなどってはいけません。
 
 
5.

最後に、私たちは、神の救いの業が実現した十字架と復活の後の時代を生きています。三位一体の神と結びつけられて洗礼を受けたので、私たちは神の実現した救いを受け取り、イエス様の白い衣を着せられています。ヨハネの宣べ伝えた「神のもとに立ち返る洗礼」は必要ありません。しかし、先程も申しましたように、白い衣の中に残存している罪と不従順の古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく信仰人生を歩まなければなりません。そこでは、罪の告白と赦しの宣言は絶えず必要です。洗礼を受けて、もう神のもとに完全に立ち返ったと思ってはなりません。信仰人生自体が、「神のもとに立ち返る」ことを繰り返す人生であります。ルターは、キリスト信仰者が「神のもとに立ち返る」というのは、洗礼の時点に戻ることである、と教えています。そういうわけで、私たちはこの世の人生の歩みの中で何度も洗礼という原点に立ち帰り、何度もそこから再出発するのであります。私たちの命にこのような確固とした土台を与えて下さった神に感謝しましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン